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「諜報警察」というお仕事いわゆる、国家公安委員会という警察官僚組織の統括組織のなかには、今でも「諜報活動」がある。国民を対象とした国家組織によるスパイ活動は、戦前は国家総動員法のもと、「特別高等警察」が思想犯検挙のために暗躍した。そして、戦後も制服組以外の警察組織のなかには、諜報などによる情報収集を主な活動にする「役目」が脈々として存在している。
その内容は、すべて厳重な機密(秘密)扱いである。
それは近年の、いわゆる盗聴法成立によって「スパイ調査網」は一段と強化された筈である。
オウムへの取り締まり強化は、たてまえにすぎない。それまで、戦後一環して行われてきた国民一般市民へのスパイ活動の精度が研ぎ澄まされただけにすぎないからである。
何が「諜報活動の対象」とされてきたか。
言うまでもなく、歴史的にはGHQによる、レッドパージの時期に代表されるように、第一には共産党情報である。
警察組織内部には、共産党情報についてまちがいなく多額の「諜報料」が動いている。
つまり、警察官僚個人の立場からすると、たとえば、共産党の動向を調査し、党員や共産党のシンパとみられる人物の個人情報を収集し、それを報告することだけで「報酬」を受け取ることができたのである。自薦であれ他薦であれ、「非制服組」なら、誰でも「諜報部員」となることができた。
諜報係にとって、共産主義者になりきるなどして「敵を欺く」ことが、情報収集のための最大の策であることは古今東西不変の原則であることは言うまでもない。
情報料は、年間数億円ともいわれ、当初は共産党周辺の情報が対象とされた。だが、やがていわゆる「幻の靖国法案」が政治日程にあげられて以来、キリスト者を含めたいわゆる「平和団体情報」にも情報としての価値が認めれられるようになった。
当然、外からの机上で情報収集するには限界があり、戦前戦中、特高警察がそうだったように、完全にキリスト者になりきることによる内部調査や、「九条の会」など平和団体への積極的参加を隠れ蓑にした情報収集にまさるものはない。
できるだけ、情報網を広げるため、「市民団体への積極的参加」も有効な手段とみなされた。
仕事の目的は、国家公安警察存立の趣旨にそった、「公共の秩序維持」。
情報収集だけで金になるという「おいしい仕事」である。
かくして、海上保安庁組織などを含めた警察末端組織によって収集された情報は、現在「書類の山」として公安警察内部の倉庫深くに眠る。
しかし、政治状況によっては、いつでも戦前戦中のように検挙のための「ブラックリスト」ともなりうるだろう。ゆえに、オウム真理教事件は、諜報警察にとっては、願ってもなかった「業務拡大」のチャンスとなった筈である。
国歌・国旗法はすでに成立した。
盗聴法も効果を発動している。
総背番号制も成立を見たが、内実は1970年代後半、中央官庁への大型コンピューター導入以来、すでに事実上稼働済みであった。
公立学校の「儀式」での「君が世・日の丸」に消極的な国立市などは、諜報警察のターゲットであり続けるであろう。
これは、つくり話しではない。#ぺージの最初に戻る「小学校はともかく、中学になったら行きたくないやつは学校に行かなくてもいい」。東京都の石原慎太郎知事は10日、都内の公立学校長約2千人を集めた「教育施策連絡会」で、「石原流」の教育論を披露した。石原知事は「私の教育観は参考にならんでしょうけど」と前置きしたうえで、「無理に行かせるから、切れたり曲がったりする。子どもは行かなくていいというと、自分ですることを見つけてくる」と述べた。 また、石原知事は「人間にとっての最大の財産は個性」と訴え、「スタッフに言って欲しい。人間にとって本当の価値は個性しかない。それが一番分かるのは親で、ある時から子ども自身になる。それを信じて子どもを眺めないといけない」と語った。
行きたくないやつは
(01:07)………………………………………………………………………………
石原都知事の唐突な発言に、ホームスクーラーのなかには、「我が意を得たり」と思った方も多かったと思う。ただ、私個人としては、韓国や中国の人々の感情を逆撫でするように、「自らの判断で東京都知事、石原として(靖国)参拝する。遺族の方が、英霊が少しでも喜んでもらえるなら、当たり前のこと。何であそこに行っちゃいけないんだ、公人として。そろそろ、そういうわけのわからない名目は下げた方がいいんじゃないか、日本全体が」と昨年8月に発言しておられる方の意見として、どのように受け止めたらいいのか戸惑っている。
この方は、長いこと戸塚ヨットスクールの後援会長をやっていた筈である。ヨットが子どもにとっていか悪いかという問題ではなく、暴力と教育を混同したような戸塚さんの教育観に心から賛同できる方だと思っていた。自民党党首選挙の前夜、中曾根自民党最高顧問は、石原都知事を森前前首相といっしょに呼んで「今後の政治的協力」を相談しているくらいだから、教育については、あの「天皇を中心とした神の国」発言と大差ないと認識している。
一方、東京国立市の公立学校は、歴代卒・入学式に日の丸君が代をうたわない学校が多かったが、石原さんが就任してから今年にかけて、国家国旗法案も受けてであろうが、軒並み都からの締め付けに屈してきた。
また、酒席のネタとはいえ、非教育的な「お台場カジノ構想」をぶちあげて、あの自民党の龜井静香氏と意気投合したという本人でもある。そのような経過をふまえた上での、今回の「行きたくなければ行かなくていい」発言であると受け止めているものとしては、子どもが学校の外で「育つ」ことそのものに、肯定的なスタンスからでも、ホームスクーリングを視野に入れた、たとえば管直人氏などの国会発言とも違うのではないかとの印象を強く持つ。
ま、百歩譲って、「無理に行かせるから、切れたり曲がったりする。子どもは行かなくていいというと、自分ですることを見つけてくる」「人間にとって本当の価値は個性しかない。それが一番分かるのは親で、ある時から子ども自身になる。それを信じて子どもを眺めないといけない」などは、フリースクールのスタッフや、子どもの立場で教育を考えてきた人々の草の根運動のなかで「声無き声」として繰り返されてきた趣旨で、それ自体は全く間違いのない、いわば常識であるに過ぎない。
石原氏にこのような発言を誘導するような「良い風」がふき始めているのかもしれない。
けれども、これだけでは私はとても楽観的にはなれない。
歴史は、いわゆる明治憲法下でも「自由」があり、それは「大正」の時代に一気に開花したことを語る。ただしその「自由」が「天皇の寛容さの許す範囲における自由」であったので、政治状況が変化すると、直ちに長い蜜月は終わり、やがて国家総動員法による思想統制によって、完全に国民の自由に幕が引かれたのではなかったか。空気のように「通念」と思われていた「自由」の本質が露呈した歴史はなかったか。
「自由」の反対語とは、「不自由」ではなく「制限された自由」なのではないかとさえ思う。
この国は、こと教育については、民の声が全く届かない状態なので、とうとうくるところまできて、「ろば(動物)さえもの言う」時代になってしまったのかもしれない。
社会が危機的になると、ただの野心的俗物の政治的発言にさえ「人間味」を帯びて聞こえてくるという現象は、独裁者ヒットラーを産んだかつてのドイツにもみられた。
蛇足ながら、「ヒトラー最後の日」(トレヴァ・ローバ著)という本を読んでいる。
今の日本を見ているようであり、非常におもしろい。参考まで。
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2001/4/24
政治のはなし。「自民党の、自民党による、自民党のための」総裁選挙が終わった。
そして、何も変わらない。自衛隊は、軍隊。靖国神社参拝は当然。国のために命を捨てることに対して、敬意をあらわすような憲法が望ましい。そのように公言する小泉氏は、外向きはどうあれ、中身は森前首相と変わらない。いや、人気が高いだけに、もっと危険かもしれない。
中曾根自民党最高顧問は、森氏との会談の際に、石原慎太郎現東京都知事を招き、自民党がたとえ四分五裂したとしても、内実を維持できるように、影の見取り図を描き始めた。後継者を、石原氏とにらんだ駆け引きがおこなわれているのかもしれない。だとすれば、小泉氏は、国民を自民党に引き寄せるために担がれた
「張り子の寅」に過ぎないのかもしれない。だが、影の帝王の威力もそこまでであろう。
長野、千葉で吹いた無党派層の思いを読み切れていない。
#ぺージの最初に戻る今朝、皇太子の妻が、「ご出産の兆候」とかいう見出しが、なんと第一面に。出産の兆候
よくわからないのは、どうして、たかだか兆候の状態で「おめでとう」だの「お祝い」だのと喧しいのだろう。子どもが生まれるということは、百歩譲って「大変喜ばしい」のには違いないだろうけれど、まだ兆候の段階なのに、これほどの騒ぎになるのは、たとえ皇室愛好家の視点に立ったとしても、やはり異常としかいいようがない。もし「人間扱い」を前提としているなら、しばらくは「そっと見守ってさしあげる」のが最低限の人権的配慮というものだろうにと思う。普通の国民の間なら、それが出産予定者への愛をもった配慮であり、人権感覚というものであり、最低限の幸せだろうにと思う。
おそらく、普通の一般国民に与えられているような「最低限の幸せ」は、皇室関係者には許されていないのだ。だから、プラーバシーだのへったくれだのがないのはあたりまえといえるだろうか。
しかし、何故このような公然とした人権への威圧が問題にされないのだろうかとも思う。
もしかしたら「天皇は人間ではない」という認識が底流にあるので、「尊ぶ」としても人間への尊敬とは区別されなければならないから、結果としてひどく卑下したような歪んだ報道になるのかもしれない。
まさか、今後寝室の秘事までもが、すべて秒単位で全国民に配信されはしないだろう。
いや、あの不潔きわまりない過去の「放屁(ほうひ)・下血(げけつ)報道」から想起するなら、その可能性も否定できない。
皇室に対して国民的な関心を引き留めておかなければ仕事を失うような方々の思惑が、すべてに超越して優先され、すべては曖昧で、霧のむこうに包まれる。
多分、皇室の取り巻きの官僚たちは、天皇を人間的に扱うことに、慣れていないのかもしれない。「神格化」されていた過去へのアナクロニズムがあまりに強いので、常軌を逸してしまうのだろう。実は敗戦前後のいわゆる人間宣言のプロセスはすべてカムフラージュだったのかもしれないとさえ思われる。
いや、「日本は、天皇を中心とした神の国」発言からすれば、本当に「現人神」として崇めている群が現存しているのだと想像させられる。
晩春闌、葉桜見物のなかに「酒もってこい」で盛り上がっている「幸せな輩」が、乾杯のネタにするのにはいいのかもしれないが、酒を嗜まず、祝う気にもなれない私のような一般市民にとっては、はなはだ迷惑なおはなしである。そういえば、前回も似たようなことがあって、「オオハズレ」だったな。
あのころ誰が責められたのか。「皇太子妃殿下は、ご懐妊あそばされないご様子」などと言われて。
春の嵐のように、沈殿した過去の堆積物がこの国をまた支配しはじめているようだ。
私は、皇室家がいわゆる「由緒ある旧家」として存続するのは、それはそれで悪いこととは思わない。
だがこの一族は、人間としての当たり前の「幸福」からはあまりに遠い。
(2001/04/17)
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ポケモン禁止令サウジアラビアのカタールでは、このほどイスラム社会に強い影響力を持つ宗教指導者がポケモン禁止のファトア(宗教令)を出した。(毎日新聞2001/04/08)
指導者の名は、ユーセフ・カラダウィ。「子どもを守り、信仰を守り、モラルと財産を守るためにポケモンを禁止する」とし、その理由は「カードゲームにギャンブル性がある」からであるとし、この動きは、同じイスラム圏であるアラブ首長国連合でも広がりを見せているともされている。イランなど、宗教と政治が一体となっている社会では、宗教的な理由で禁止令が発令されている。一方アメリカなど、一方宗教と政治の分離(政教分離の原則)を憲法で規定している国では、このような強い宗教的背景を持つ禁止令はない。
では、たとえばキリスト教勢力が強い欧州で「政教一致」の時代がなかったかというと、そうではない。事実上の政教一致の歴史があったことは、「王権神授説」(つまり、王の権威は神から付与されているという考え方)にも見ることができる。もし、国王が神であるとみなされるようなことでもあるなら、王の命令がすなわち「神の声」とされるだろうが、一応の区別が意識されていた。いいかえれば、宗教勢力が大きいきいことを利用(悪用)して、権力者たちが「神」の名において、民の上に横暴をふるうことはありえただろう。イスラム教のように宗教が「国教化」されるところでも、権力者が宗教の名のもとに民の上に横暴を振るうことがありえる。
特筆しておきたいことは、政治という強制手段が宗教的勢力と結びつくことを「願望」している考え方はアメリカ社会にもある。たとえば、セオノミー神学の影響下にある「再建運動(リコンストラクション)」によれば、キリストの再臨前には地上はほとんどがキリスト教勢力で占められているだろうから、そのような時代には国家権力として、キリスト教以外の宗教の活動を制限することもありうるとされる。公開死刑の復活、旧約の倫理規定を法制化、たとえば同性愛など性的な放縦ばかりでなく、旧約律法のように「不倫罪」は死刑にされるべきであるととなえる。
(この神学への批判書として「Theonomy A Refomed Critique」zondervan 1990などがある)
「宗教」がたとえキリスト教であれ、政治権力などと結びつくことにはろくなことがなかった。あのM・ルターによる「ユダヤ人迫害肯定論」は、やがてナチスのホロコーストの発火点になった。いうまでもなく、天皇制はかつて、天皇の神格化をともなう「御前会議」として、戦前戦中の日本およびアジア諸国に暴力をふるい、それは「象徴天皇制」に名を変えてしぶとく日本の教育界を影のように覆っている。
「宗教が正しいなら政教一致も受け容れられる」と考えるのは誤りである。「キリスト」を名のった第二第三のヒットラーを生み出す温床に道を開くことになる。ゆえに、政教分離の原則こそが、長い歴史の教訓を経ながらも、主イエスの「カイザルのものはカイザルへ、神のものは神へかえしなさい」という言葉から学んだもっともキリスト教的な考え方といえる。分離関係をもちながらも、教会は、時の権力が民に横暴を振るうことなく「僕として仕え」ているかどうかを意識しているという関係にあることを求めた現行の日本国憲法は、天皇条項をのぞいて人権条項や権利条項をはじめ政教分離原則などはむしろ「キリスト教的」と呼ばれる。
ポケモンの是非が問題なのではない。個人や教会の自律的判断に委ねられるべき事柄に、政治権力が介入することを問題にしたいのだ。
米国のセオノミー神学の学徒たちは、これまで最も熱心にホームスクーリング運動を支援してきた。しかし、政教一致のためのイデオロギー化をめざしていることをはじめいくつかの批判されるべきカルトにも似た問題性を含む。キリスト教リフォームド(改革主義キリスト教会)の主流にもなっていない。それは、キリスト教による政治権力の絶対主義化をめざしているからであるともいわれる。
それと昨今のホームスクーリング運動とは、明確に峻別されていなければならない。
#ぺージの最初に戻るBBCを見ることが多くなった。
「ゲイの権利」など
「ゲイの社会的権利」ということが報じられていたので、その内容と関連して、以下のことを考えた。
いわゆる「性同一性障害」との認識に基づく、性転換手術を耳にするようになってきた。
男性と女性の決定は、神の領域とされていたのであり、特に西欧社会では、人が立ち入るべきではないとされてきたものが、「医学の治療」の遡上におかれ、たとえば、試験管ベビーなどにみられる医学の世界において、間接的に「新い家族像」が遡上にあげられてきた。つまり、「性」は先験的に神によって定められているものではなく、後験的に社会によってつくられた相対的なものであるという考え方であり、実は「性差認識」そのものを問題にしていて、フェミニストたちは「後験的なジェンダー差別が問題」などと言い換えるなどして、表むき論点を社会的弱者立場に立っているように見せているにもかかわらず、実は「性差そのもの」を攻撃対象としなければならなくなってきたことを露呈してきている。論理を一環させるならそうなる。男女の性差そのものが「問題」とされうるのだ。
これまでの結婚や家庭の概念、特に古典的なキリスト教倫理に対して、ここでは紹介しきれないが、たとえばPCA(アメリカ長老教会)などでも、判断を迫られ、立場が表明されてきた。
たとえば、「ゲイの夫婦」が戸籍上夫婦として受けいれはじめているのではないかとされる問いについては、私には、判断材料は極めて少ない。いや逆に、聖書によれば、たとえばローマ書などにあまりに明確に断罪されていて、ほとんど議論の余地がなかったし、おそらくこれからもないと思う。
もちろん聖書に対して解釈学上自由(リベラル)な立場をとる教会がなくもない。あるいは、(おかしないい方)だが、聖書を信じていない教会なら、「性」をめぐる理解そのものについて、きわめて寛容なはずだ。ただ、それにもかかわらず欧米の世論全体が、完全な自由化に向かうかというと、そうではなく、古典的な立場が強く維持されていくだろうと思う。それは、旧ソ連などに見られるように社会全体が、一度キリスト教に背を向けて共産化した社会を経験し、その退廃と崩壊を経て、キリスト教倫理の再発見をしはじめているからである。
ホームスクーリングを考える上で、家族の課題は多い。たとえば、ゲイの家族がホームスクーリングで養子を育てることについてとか、女性の社会的権利を促進するフェミニズム運動とホームスクーリングの関係と問題点、いわゆる「シングル」の親と、ホームスクーリングの関係、あるいは、結婚の概念そのものを相対化する思潮とホームスクーリングなど、この分野では考えるべき課題が多い。
現在調査中といたいところだが、今のところ到達しているのは、たとえば、権利という面からは、誰にでも市民権が認められるべきと思う。だだ、731部隊が存在した20世紀を経た現在において、これからも医学はバベルの塔のように「人間賛歌」に覆われた営利主義を貫き通していくだろうと予想され、それはたとえばクローン人間さえもやがて登場させるかもしれない。ただ、キリスト教倫理にひたすら背を向けてきたような医学は、人に非常に深刻な「被害」と崩壊をもたらすかもしれないと予感している。
答えは、使徒パウロが古代ローマの退廃について言った言葉の通りに、空理空論ではなく、現代でも峻厳に実存の世界において示されるだろう。
#ぺージの最初に戻るhttp://www.asahi.com/0201/past/ppolitics01014.html
インド地震報道
最近、英国BBCテレビ報道を見ることが多くなった。
インド地震の被災地の生情報について、連日救出の状態や各国の救援の模様が、現地の視点から、手に取るように詳細に報じられている。「今最も必要としているのは、医療器具や薬品ではなく、遺体を火葬するための木材である」と報じられていて、心がいたんだ。
ひるがえって、日本では、最近インド地震についてあまり報じられなくなった。いや、報じられていたことは、先週、派遣される自衛隊に初めて「女性隊員」が組まれることになった。という知らせだった。なにやら自慢げで、いやな報道だと思っていた。救援活動に、女性が入ろうとはいるまいとどうでもいいのであって、問題は今日明日にでも救助を必要としているインドの市民がいるということだろうにと思っていた。ところがそうこうしているうちに、出発が遅れたために今回の救援プロジェクトが中止になったと昨日報道された。しかも、政府からの正式の要請がないという言い訳じみた口上まであった。問題点は何か。日本政府には、インド市民救出の意図は欠落しているということである。もともと、人の命を救うという発想がないところに、やれ女性隊員の参加だの、政府の正式の要請だのという実に、「便乗型」とも、「寄生虫型」ともとれる対応があるのだ。心がないところに、行動もない。政府の正式要請にいたっては、ほとんど噴飯ものだ。「国境無き医師団」が阪神大震災のときに、日本政府の要請を待ったか。すべて手弁当で、しかも正式の要請などなしに入国してきたのを見た筈ではなかったか。
私は、もしや本当に「悲しい国」に生まれてきたのかもしれない。(2001/2/4)
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フリーター増加
文部科学省は、フリーターの増加を問題視して、学校における就職指導を強めるつもりである。
一方で、中高年の自殺者が3万5千人を越えているという現実がある、中高熟年層が、毎日自殺しているという現状と、フリーター増加の間に、「会社人間になるのは、かなりやばい」という相関関係が働いているとみるのは想像しすぎか。ほぼ毎日10人未満の労働者が自殺しているという異常事態に際して、人生は会社だけではないと判断している若者が増えているとみることはできないか?中高年の自殺増加にたいして、何かの対策がなされてきたとは、うかがっていない。これまで、政府行政は、一億総「サラリーマン化」の音頭をとってきたにもかかわらず、過労や心労で死んだ人については自業自得と思っているのではないか。まさか?でもないか。
これまで、会社就職がすべてだと思わせられてきたため、農業や職人業が軽視されてきたのではないかとも思う。これからも、サラリーマン人口は減らないとは思う。けれども、人生を会社組織に委ねることをしないで、もっと自分流にアレンジしたいと思う青年が増えてきたというだけであって、問題視することもなかろう。政治の世界でも、政党離れが進んでいることだし、硬直化して役に立たなかったり、巨大化して一部エリート官僚だけが潤うといった制度そのものに見切りをつけるべき時期にきたということにそろそろ気がついたらどうか。2000/10/24
屋根裏ねずみの談。
最初は、巨人とダイエーのどちらが勝っても、さして問題はない。2対1でもまだ問題ない。「巨人崖っぷち〜」とか「これで決まるか」とか言っておればいい。
でも、3対1ともなるとこれは単なる娯楽の問題ではなくなる。あまりに一方的に決まってしまうことになって面白みがなくなるし、第一試合回数が少なくなり興業成績にも億単位で影響する。
だから、2対1の段階で、「崖っぷちからのリベンジ」を演出しなければならない。試合を2対2の振り出しに戻し、力の拮抗を演出して、両監督の「第五戦への意気込み」インタビューを演出しなければならない。
問題は、第五戦である、まあ、どちらが勝っても双方に「経済効果」がみこまれるが、昨今の巨人批判によって、ここらで「常勝巨人」のイメージを払拭し、ダイエーさんに勝ってもらうことにしてはどうか。
長島さんの口上はどうするのかって?
「ソウですねェ。けっこう我々もガンバッたんデスけれどネ。ワンちゃんの采配は、やはりすばらシイという一言でショウネ」ということで?#ぺージの最初に戻るパレスチナ問題を考える時、米国の覇権主義が背後に暗い影を落としている。
2000/10/04
「宗教をめぐる醜いあらそい」と問題を単純化してはいけないともいわれる一方で、しかし、問題の背景には宗教そのものが明確に横たわる。
ルーツは、旧約聖書においてパレスチナ地方は「約束の地」とされ、カナン侵攻は「神のみ心」という根拠を与えている。考慮しなければならないのは、政治問題ばかりでなく聖書理解にも及ぶ。
イスラエルが何を根拠にするにせよ、平穏な暮らしに土足で踏み込んできた上に、奪い、殺し、占拠したこの国の汚点は拭えないと思う。先の大戦で日本軍が近隣諸国におこなってきた蛮行とどこが違うのか。
一貫して、暴力主義を貫いているのはイスラエルなのであり、せっかくの国連調停を骨抜きにさせているのは、他でもないそのイスラエルを思想的軍事的に支援してやまない米国なのである。米国がイスラエル問題でこのような「ひいき」を見せて、「二重基準」と呼ばれる行動をとるのには、二つの背景がある。一つはシカゴやフロリダやニューヨークなどの主要な都市を拠点としたユダヤ人勢力。彼らのロビー活動により、武器を輸出を含めた支援のもとに、聖地奪回のための一連の侵略戦争が実現したと言っていい。
もう一つは、世俗に「キリスト教右派」と呼ばれる再臨待望を主要教義に持つファンタメンタルプロテスタント勢力。少し古いが「核戦争を待望する人々」という本で、「だから宗教はダメ」みたいなシニカルな論客越智道夫氏などから揶揄されたような人々でもあり、中東が和平であるうちは再臨が来ないと信じているのはその教義ゆえである。
「何の罪もない」パレスチナ人親子に背後から「銃口」を向け殺傷したのは、それゆえにイスラエル軍ばかりではない。
私はイスラム宗教を信じてはいないし、そして背後の黒幕を演じる大国アメリカはいつでも、尊敬し憧れる国だ。
でも、「聖地ツアー」には、(もし行けたとしても)心が痛んでとてもいけそうにない。
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オリンピックがおもしろい。
オリンピック
2000/09/24
おもしろい理由は、巨人が一党独裁のように制覇していることですっかり興醒めのプロ野球界の様子と対峙したところにある。
つまり、だれも試合結果を予想できないし、予想がいかにはずれ、いかにあたるかというところで、どんな試合でも時間の浪費と知っていながらみているのである。プロ野球の松坂投手が打たれ、サッカーの中田選手がミスをする一方で、全く無名の(でも強化選手であるにはあるのだが)選手が活躍を見せる意外さもまた、たまらないのである。
目標に向かって一心な姿は美しく、また慕わしくもある。
一芸に秀でるというのはいいと思いながら、しかし、私にはオリンピックのように「人々があこがれられ、ほめたたえられることに」対して単純に同調できない部分がある。それは、おそらく私が素朴なキリスト信者だから思うことなので、ただの「冷笑趣味」でも「ひがみ」でも「あまのじゃく」なのでもない。
聖書に「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ福音書6章)とある。この場合の「父」とは、三位一体の神のことなのだが、人々が、「多くの人の賞賛」とか「栄誉」の渦中にある時、私の神は(「あなたの」…ギリシヤ語では 単数形 SU が使われている)、どこを見ておられるのかというと、そのような「褒めそやし」には一瞥もされず、ご自分の名において行われている「隠れた行い」や「隠れた祈り」に耳をそばだて、心を傾けていらしゃるというのである。
このような神に心を開かれ、神の意志を知った本当のキリスト者は、人に認知されることもましてや、「誉められること」さえも気に留めないばかりか、どんな良いおこないでもひたすら神にのみ知られることを望み、たとえばアッシジの聖フランシスのように、むしろ人から褒めそやされることそのものを嫌う。聖書によって、世界の歴史の本当の支配者である神の「隠れた視線」に気づかせられた人々は誰でもこのように思うにちがいない。歴史的な大事業をしたと思われている韓国の現キム・デジュン大統領についても、個人的に存じ上げないので何ということもできないが、獄中で何度もこのような隠れた祈りをささげたことだろう。
キム大統領は、南北の融和が自分の功績であるとも何とも思っていないことだろう。
(1998年、私は韓国釜山市内の、ある中規模のプロテスタント長老教会で早朝5時から300名を越える人々が集っている「朝天祈祷会」に参加し、「南北統一」のためにささげられている熱烈な祈りを聴いた)2000/09/10
プロ野球のはなし
全く俗なはなしで恐縮なのだが、今年のペナントレース開始の早いうちから、「2000年ON対決が見たい」というテロップは新聞におおっぴらに流れていた。
巨人ファンが、願ってやまない「夢の球宴」にむかって、現プロ野界は、まっしくぐらである。
強いチームが勝つのは当然である。
ジャイアンツが勝ちまくって、なにも悪いことなどない。
でも、舞台裏を何も知らない「おじさんの一人」としては、すでに他の球団の雰囲気に、覇気は感じられず、「あきらめ」ともつかない弛緩した空気を読んでしまうのである。巨人戦で、明らかに巨人に有利な判定が見られる時にも、監督の《抗議シーン》さえ「しつらえている」ように見えてしまう。
勝つために、選手の買収をしまくったチームが勝っても、巨人ファン以外なら何の興味もわかない。王さんのダイエーが勝ってもしかり。仮に、本当に、何の不正や買収や賄賂が全くない、つまり、やましさがないクリーンなゲームなのだとしても、ださい小説と同じで、全てが筋書き通り決められているようなのには興味がわかない。
だから、今野球はつまらないので見ないし、聞かない。
蛇足だが、今週決まった「巨人優勝」は教育上はなはだ良くない。
巨人優勝を「喜ぶものとともに、喜びなさい」といえないのは何故か。
その理由の筆頭は、「すべては金」という日本の悪い体質を具現していることにある。「なんだカンダ言っても、すべてはネ。やっぱり金、金ですよ。」「最後はね、金とコネがものを言うんだ。アンタ! 組織と現実というものをわかっていないねェ…」「きれいごとなんて、犬に食われてしまえ」かくして、「勝つという目的のためにはネ、あえて手段を選ばないンデス(長島監督)」という風潮が蔓延している。そこには、涙も感動もおもしろみも教訓もなにもない。巨人とともに、日本も沈没するのか?たかがスポーツなのに、やたらキレまくっているなァ…私は。
巨人の選手一人一人については? それはもう凄すぎる。やはり「スター」揃いでしょうね。
さて、オリンピックは…。
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石原公式参拝
2000/08/11
石原知事は「自らの判断で東京都知事、石原として参拝する。遺族の方が、英霊が少しでも喜んでもらえるなら、当たり前のこと。何であそこに行っちゃいけないんだ、公人として。そろそろ、そういうわけのわからない名目は下げた方がいいんじゃないか、日本全体が」と述べた。[時事通信社 2000年 8月11日 ]芸人のテリー伊籐やビートたけしなどが「お囃子」を始めたので、この人はますますのぼせ上がっているらしい。
この人の発言が問題なのは、個人の信条云々ではなく、都知事として「心の教育」を掲げて公教育の場に、精神の在り方を権力にものを言わせて指南しようとしていることにある。すくなくとも、東京都内における公教育が今どこに行こうとしているのかがここに見事に象徴されているではないか。
近隣諸国の感情や、友好的関係を逆撫でするような公式参拝をすると公言してはばからない傲慢さよ。戦没者を「英霊」と呼ぶ時代錯誤と無知よ。
もう、いかげんにしてほしい!!
登校児たちは今、「なべの水に心地よい暖かさを感じているが、徐々に熱せられているのを知らず、やがて飛び出す力も失せ、煮えて死ぬのを待つばかりの蛙」のように悲惨だ。
石原さんの無骨な暴言を漫才でも聴くように気持ちよく聴き飛ばしているうちに、やがて滅亡を迎えるような輩になりたくない。
無視することは賛成しているとみなされると考えるので、あとで後悔しないように、積極的に苦言を言っておきたい。迷惑きわまりない都知事としての公式参拝は、やめていただきたい。
第二の「ロバ」よ! ものいわぬ動物らよ、今声を発してでもこの暴挙を阻んでくれないか。
この国の人間はもう言葉をなくしたのかもしれない。
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同性愛
2000/07/24
24日のニュースステーションで、バーモント州が、同性愛者を「家族」として公認する法律を可決したと報道された。
アメリカ社会はおしなべて、同性愛に対して寛容であり、それに対して、日本の社会は遅れているのだといいたげな報道のありかたに抵抗を感じた。
その理由は、現在読んでいるアメリカ長老教会の「公式見解書(Position papers)」のなかでは、同性愛を罪と宣言し、会員籍を与えることも許されていないという立場をとっているのを読んだばかりだからである。(p398)
PCAは米国の最も保守的な教会の一つであり、どちらかというと30万人ほどの少数派に属すること。聖書解釈の現代化を促進しようとするカトリック教会や、聖書からもはやメッセージを受けられないほどにリベラル化したプロテスタント教会に、同性愛容認論が根強くあることを認めた上で、アメリカ社会がこの点に関して「一枚岩」であるかのように報道されてはいけないと思った。
日本でのこのての報道は意図的であり、時には有害ではないかとさえ思う。
歴史書として聖書を読めば、たとえばすでにローマ時代、同性愛や少年愛好が公然のものであった背景をふまえたパウロの言葉の次の言葉は、今日の保守的キリスト教の立場でもあるといえる。
「神は、彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに変え、同じように、男も、女との自然な用を捨てて男同士で情欲に燃え、男が男と恥ずべきことをおこなうようになりました。こうして、その誤りにたいする当然の報いを自分の身に受けているのです」(ローマ1:26,27)
脱キリスト教化したといわれる欧米社会は、価値観が多元化しているとはいえ、言い換えれば決して一枚岩ではなく、同性愛など性の自由化にたいしては、強力に倫理的に不寛容な部分を持つことを銘記したい。
滅亡したローマのように、同性愛を含めた男女の性的擾乱は、文明滅亡の兆候であるという認識がここにある。
日本は、滅びるのか?
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2000/06/29
「21世紀の日本を担う教会の伝道−和解の福音をともに生きる」と銘打たれた会議が、沖縄を会場に6月27日〜30日おこなわれている。
ここに、案内書がある。
「時代のうめき、人々の渇きへの唯一の解決が福音」と会議の基本理念が掲げられているので、一つ問題提起しておきたい。
分科会のアウトラインが紹介されているが、その分科会17の「社会的ハンディキャップをもった人々とともに生きる」の説明文には、このように書かれていた。短いので全文を引用したい。
「ここでは、被差別(同和)問題、在日外国人の問題、受刑者の問題、性差・性的モラルの問題、非行・暴力(家庭、校内)・不登校などの教育問題、インターネットなどの情報氾濫の問題、金融、経済の破綻による雇用の問題を取り扱う。福音をともに生きる社会の実現のためにともに考える」
(強調部分は筆者による)
キリストの福音は、カトリック教会のマザーテレサにも典型的にみられるように、「社会的弱者」への無条件な自己犠牲という模範を生み出してきた。
教会論においては、「Ministry of Mercy」と呼ばれて、伝統的に執事職の属性に組み込まれてきた。(例えば、CLOWNEY「THE CHRUCH」P201〜 IVP を見よ)
問題は、どうして「不登校」を「社会的ハンディキャップ」と認識したのかである。もし、全国7000人以上の読者がいるといわれる「不登校新聞」の記者などがこの事実をかぎつけるなら、同紙はおそらくキリスト者の根源にある学校信仰の根深さを糾弾することにとどまらず、日本のキリスト教それ自体への不信感をつのらせるに記事を書くに違いない。世界のキリスト教全体からすると、欧米のキリスト教(特に米国)はホームスクーリングの台頭以前から、このような学校信仰などをもっていない。今日のキリスト教会における学校信仰はきわめて日本独特の現象なのである。
すでに、文部省でさえ1992年頃から「不登校は誰にでもおこりうる」との認識を示し、12年間ホームスクーリングを続けてきた我が家でも、社会全体の不登校に対する認識の大きな変化を感じ取ってきた。しかし、少なくとも今般の伝道会議では、そこだけ時間が12年間止まっていたかのように「不登校」が「非行・暴力」と同列に置かれた。
「情報の温度差」はやむおえないし、時代に迎合しない保守的体質を割り引いたとしても、キリスト教界は社会の一般的通念からあまりに遅れている。
しかし、教育について、このような時代錯誤が温存されていることについて日本ではキリスト教宣教上の最大のつまずきとなっているという事実さえ見向きもされていないのだ。疑いもなく、キリスト礼拝は学校エリート崇拝とすり替えられているのに。
私は1998年秋、全国自治体の教育委員会・教育長や一部警察組織などで構成される第三機関である「全国青少年非行防止全国会議」の講師の一人として(遊々舎を窓口に)お招きをいただいたが、日本のキリスト教界の教育問題を見る視点は、この時の不登校現象を非行問題と同一視してはばからない官僚的体質と実に瓜二つであると感じた。キリスト教会は、「教育行政官僚の旗持ちである」と呼ばれても何ひとつ弁明できまい。それと、蛇足かもしれないが、「社会的ハンディキャップを負う」とされる人々の声に聴く耳はなかったのか。それは「大きな叫び」ではない。
それこそが「うめく声」なのだ。
国家の事業に対する弱者として、日常的に放射能に曝されるなど劣悪な労働を強いられる数10万人の原発従業員や、〜ハウスなどの大企業に対する弱者として「シックハウス症候群」に悩む数百万人の化学物質過敏症患者とその家族のうめき声である。
弱者を心底から理解し愛して具体的に手をさしのべるキリストの心はなく、もともと「教会の評判を良くしたい」とか「みんなに(行政に?)良く思われたい」などの上目使いの心が、たまたま偽善的表現として露呈しているだけなのだろうとしては言い過ぎか。(私は、医師会や建設省・住宅業界からの反発や、自らの立場が糾弾されることを予想しながらも患者さんたちの「うめき声」に誠実に答えようとしていた厚生省担当官僚の真摯な姿を、キリスト教会の中にも見たいと何度か願ったのだが…。)
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韓国大統領
韓国の現大統領キム・デジュン(金大中)氏は、1973年における日本での拉致事件後、1980年から1981年まで死刑を宣告され獄中にいた。
罪名は内乱陰謀。その後特赦され、自由を得て大統領となった。
日本の報道機関は、拉致事件の時も、そして出獄後の大統領選のときもきわめて冷ややかだった。落選を重ねても再挑戦する姿に対して曰く、「大統領選に憑かれた男」「野心家」等。日本では、おしなべてこの調子だった。
金大中氏は「金大中獄中書簡」(岩波書店)において、苦悩に満ちた獄中生活にもかかわらず、研ぎ澄まされていた内面をかいま見ることができる。
最近、夫人のイ・ヒホ(李姫鎬)著「茨の道の向こうに」創童社を読み、獄中にあった金氏が「支えられていた」という一面を読みとることができた。
ところで、私は、数年前牧師の研修ツアーで韓国釜山に行き、日本の占領時代に天皇礼拝拒否により迫害され、獄死した「チュキッチョル(朱基徹)」牧師に学び、その精神的遺産が現代韓国キリスト者の誇りであることを覚えた。
一方で、キム・デジュン氏夫妻はそのカトリック信仰ゆえ、プロテスタントキリスト者のなかで特に軽んじているわけではないだろうが、だからといってあえて話題にされることもない。しかし、宗派をとわず、過去と現在の韓国人キリスト者からもっと多くを学ぶべきだと思う。話題は変わる。
吉井家がホームスクールを始めて約12年を経、想像だにしていなかった冷ややかな周囲の対応に苦悩した最初の数年間を思い出す。
「単なる親の理想主義的なエゴ」
「ホームスクールは信徒ならゆるされるが、牧師職では許されない」など。
この感想は現在でも、本質的には変化しているとはいえないのだが、私は牧師の立場にあってホームスクールを始めたことを悔やんではいない。
ある時「今後ホームスクールを始めるファミリーが、吉井さんと同じようにいやな目に会っては困る」という《意味不明の示唆》を受けたことがある。
だが、この示唆によって、私はキリスト者は勿論のこと、キリスト者ではなくとも、今後ホームスクールを始めることを決めたヤング・ファミリーが、少しでも困難を回避できて、楽しく始められる日が来るようにと願うようになった。問題は、日本で不登校などではなく、しかも周囲と何の緊張関係も経験しないでホームスクーリングを続けることができるのだろうかということ。
時には「いじめ」「しかと」などの日本的色彩において、おそらく迫害的状況はここしばらく続く。悪口雑言が一見沈静化しているは、現在の学校の荒廃があまりに凄まじいので、ホームスクーリングに対して《公の非難は、しにくくなった》というだけにすぎない。
前大統領だったキム・ヨンサム氏も獄中にいたことがあり、
彼の曰く(どこかの文の引用だろうけれど)「朝の来ない夜はない」。
あの日曜訴訟の故澤正彦氏が、チュキッチョル伝「神の栄光のみ」(すぐ書房)の翻訳者のひとりであることは偶然ではないだろう。
澤氏のかつての祈りが天に通じ、日本のホームスクーリングにも朝が来るのだろうか。
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2000/06/07
聖書の神は、たとえば雅歌に描写されているように、創造の始めから男女の性の交わりに喜びを与えられたが、それは堕落の結果ではないとされる。
聖書は、結婚以外の性的関係を容認していない。
それゆえ、結婚以外の性的な関係には、神からの祝福は得られず、むしろ呪詛の対象とされているのであり、男女の乱脈への神の強い遺棄の意志が、人類への警告あるいは「みせしめ」としてあのドソムとゴモラに示された。
聖書には、特に男女の性にまとわりつく罪の「様」が描かれて容赦ない。
重婚(サラとハガルの確執)、近親相姦(ロトと娘)、隣人の妻の略奪(ダビデとバテシバ)、虐殺による略奪強制結婚(ベニヤミン族)、ハーレム(ソロモン)そのどれもが人に与えられている「男女の幸福」とはほど遠い。性の放縦が「家族の破壊」と連携しているからだと思う。これが最近の幸せ薄い日本の「援助交際」や「不倫」の風紀などへの聖書の答えだと思う。
多言を弄するのはやめよう。
ただ、ヘブル書13章4節だけは是非引用しておきたい。
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはなりません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。」
家族が教育のベースなのだ。2000/05/20
話題になった『買ってはいけない』を私も読みました。この2年ほどの間で、わが家から姿を消していった物ばかりが紹介されているので驚きました。
家族が大学病院で「化学物質過敏症」と診断され、学問的な検証だの、実証だのと言う暇もなく、即座に原因物質をわが家から遠ざけなければなりませんでした。「化学物質過敏症」あるいは「シックハウス症候群」では、ある化学物質に「反応している」と判定された途端、原因となる物は、食品であれ、日用品であれ、身近に置いておくことはできなくなるのです。わが家の食べられない/触れられない/使えないリストは、『買ってはいけない』のリストに、みごとに重なっています。
たとえば雑菌が飛散している空気でも、健康な人にはまったく平気で何の問題がなくても、免疫機能が極端に低下して雑菌への抵抗力が低下している人の場合、「有害」になるのと同じ原理です。
『買ってはいけない』については、企業サイドから、重箱の隅を突つくように「科学的根拠を示せ」とか「論拠が甘い」とか言われている箇所があるようですが、確かに事実誤認や科学的根拠の提示に粗雑さがあったのかもしれないと私も思います。
しかし、化学物質過敏症のように、何らかの理由で、免疫機能障害や解毒機能の低下などを起こし、いつも食べていた食品や日常の生活環境から潜在的に取り込んできた「毒」が明らかに認識できるようになると、この本のメッセージが何なのか、どんな人にも理解できるようになるのではないか、と思っています。
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学生時代、その「三位一体論」と同時に耽溺した、アウグスチヌスの「神の国」を思い出した。
言うまでもなく、森総理の神の国発言は、徹底的に宗教的である。多分素朴な日本人なのだと思う。おそらく森氏は諸外国から激しく非難され冷笑されている意味を全く理解できないのだろうと思う。天皇を神と信じたければ、この国で信教の自由は妨げられないだろうし、迫害されない。
ところが、この国はその人物に教育を始め全権を委ねているのだ。普通の日本人が、海外に行ったとする。海外ではプラカードを持たない限り「私は森さんと考えが違います」では通用しないのである。例外なく、森氏のような考え方を持つ人物を選んだ日本国民の一人とみなされるのだ。
ひんしゅくをかっているのは、公人一人ではなく、日本国全体に対してなのである。だから、石原さんの発言と同様に、責任は選んだ側にあり、ゆえにその発言の不利益の結果もすべて選んだ側に問われるだろう。
「オレを選んだのはあんたたちだ、あんたたちが悪いんだ」なんて、誰か言ってたよね。誰でしたっけ?
この国を心から愛していないであろう自己中心で冗談半分のような人々を指導者にもたなければならないことが、私はひどく悲しい。
これまで、公然と語られてこなかったものが、明るみに出されているだけでもマシなのかもしれない。
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2000/05/15
少年の凶悪事件増加に伴い、処罰の強化を含む少年法改正を巡る議論を多く目にするようになった。
少年法の改正議論が一種のスケープゴートにされていると思う。
つまり、法律改正議論は子どもが育つ環境として学校教育が絶対的な位置を占めていることから派生している諸問題から目をそらさせようとしているだけなのであって、そのような膏薬を貼ったような小手先の「少年法改正」などで問題が解決するほど十代の現状は楽観的ではない。
少年の狂暴化現象は、古く江戸時代農民は幕府の圧制に耐えかねて徒党を組み、農具を武器として蜂起した「一揆」のそれに似ている。
少年たちは、「反抗」としてであれ「抗議」としてであれ刃物を振り回したい衝動にかられてしょうがないのだ。現行少年法の「ゆるやかさ」を十分認識した上での確信犯による反乱はすでに抑制の臨界点を越えていると認識されるので、おそらくここしばらくは、無関係な市民が巻き添えになる事態が多発すると思う。(心から外れてほしいと願う)残念な予測だが、このままだと何の関係もない市民に対する無差別殺人の暴徒テロと化した十代を「射殺」する以外に打破できないというような惨憺たる事態が常態化することになるだろう。最近の東海村原発事故の場合、発電所はエネルギー問題の一環として抽象的に議論している段階にはなかったのであり、すでに有害な核融合反応が臨界にまで達し、外部に放射能被爆が広がり、周囲住民に半強制的な避難命令が避けられなくなった。十代の現状はこれによく似ている。
違うところは、JCOは核反応の臨界現象を止めるために必死に「水抜き」をおこなったが、文部省学校サイドは、何の反省もなく、かえってこの機に乗じるかのように学校カウンセラーの数ばかりの増加を図って、暴徒蜂起の原因を増やしているところ。
市民感覚やコモンセンスに信頼する気風が廃れ、行政が公儀の名のもとに法律の力で教育に介入してくる社会が好ましくないことは言うまでもない。
病院があったからといって、疾病がなくなるわけではない。かえって誤診や「病気診断」によって件数が増えるかもしれない。同じように、現状では少年法改正による犯罪抑止効果は、ほとんど期待できない自己満足に終わるだろう。法改正は、より複雑かつ巧妙な犯罪を産むだけなのではないか。
子どもをめぐる教育環境が何故息苦しいのかという問題の掘り下げが必要ということは何年も前から言われてきたのに、首相の口から時代錯誤の教育勅語擁護発言まで飛び出しているのだ。
この国は、一体どこに行こうとしているのだろうか。
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2000/05/13
「事件記者は事件のなかで、報道価値の判断をしてニュースとして提示しようとする。だから、報道は事実の断片を伝えるだけで、必ずしも真実が伝えられているわけではない」…。ある報道関係者がこのように発言していた。
オウム事件で、河野さんを真犯人と誤報したマスコミの脆弱さが指摘されていた。それゆえに、「現時点では」とか「現在確認されている資料の限りは」とかいう一歩引いた謙虚な態度が万人に求められているのだろうと思う。
驚いたことに、あのサカキバラ・神戸殺人事件で、「あの事件の真犯人は、少年ではなく、別にいる」ということを熱心に説いていた人々に出会った。
現時点では、私には、あの神戸の少年が真犯人であることを疑うスタンスはない。しかし、どこかで「報道の虚偽」とか「報道の作為的工作」があるのではないかという醒めた視点が養われていると、報道されていない隠されていることほうがはるかに多くの真実を語るのではないかと思ってしまう。
何が報道されたかよりも、何が報道されなかったかのほうが重要だといつも思う。
たとえば、今回のバスジャック事件で、被害者になった男性のなかに、窓から逃げた人がいた。限界状況のなかで、現場から闘争したことへの理解を示す声は多いだろうと思うが、それだけかとも思う。最後まで現場を離れなかった運転手の忠実さと比較されて、自他共に「女子どもをおいて逃げた卑怯な男」という烙印がおされるようなことがなればいいがなと思う。
それと、問題性は違うが、入院中の小淵さんの報道のこと。どうして、主治医の公式見解が全然紹介されないのだろうか。
巷では、実はすでに小淵さんは亡くなっているのではないかとの噂があり、自民党筋は選挙で最大限に「同情票」を獲得できるタイミングを計るために、死の報道時期についてマスコミ統制してるのではないかとの声もある。
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バスジャック その2
2000/05/11
バスジャクした17男は、「学校でいじめられた時、何もしてくれなかった」と供述しはじめているらしい。佐賀市では臨時教育委員会が開かれ、当時の校長や担任から、「中学の時の非常階段飛び降り事件は、いじめによるものではなかった」との報告を受けた。「少年は仲の良い友人3人と一緒に遊んでいて、3人の後に飛び降りたが着地に失敗した」ということだそうな。
教育委員会は、ふりかかってきた火の粉を払い落として、「はためいわくな」17男に責任を転嫁したいらしい。私も小学時代、一種のいじめに会った。
当時は流行し始めたキックボクシングの「足蹴り遊び」に乗じて、私への良くない感情の持ち主が、いつも私をターゲットに足蹴りをしはじめたのだ。もし、相手にしなければ仲間はずれにされ、ねらわれると思われたので、こちらも身をまもるために「やられる」ふりをつくろっていた。しかし、傍目からどんなに仲のいい友達に見えても内面は「生き地獄」だった。
だから私には17男の内面も少しは理解できるような気がする。
ただし、私は刃物を振り回すことはしなかったが、いじめから逃れるために腹痛の仮病を使ったところ、たまたま担当医が私を「虫垂炎」と誤診して、腹を切られるはめになった。小学5年の2学期のころだ。それゆえに「ただの遊び」は、周囲にも担任にも、ましてや校長にもいじめだと認識できるはずもない。だから、「当時はいじめかどうかの判断が及ばなかった」と率直に表現すればいいのにと思う。
佐賀県教育委員会は、状況判断と教育力の「無能さ」をさらけだした。
学校サイドが子ども全生活を把握するのは、あきらかに限界がある。
けれども、自分たちの立場と「メンツ」を守るための自己保身で固まってしまうことくらい非教育的なことはない。
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バスジャック
2000/05/06
バスジャックして、1人を殺し、5人もの乗客を傷つけた佐賀市の17才男がいた。
次のことで怒りの感情を押さえることができない。
バスジャックで被害を被られた被害者の方々は、実名報道され顔写真も公開され、はては家族関係親戚関係まで暴力的に「さらしもの」にされ、社会的に二重・三重の災難を被る。ところが、加害者は、「少年」であるゆえに、顔も名も明かされず、注意深くプライバシーが保護される。
これはおかしいと思う。
殺人者は、年齢のゆえに殺人を含む凶悪行動を事実上「保護」され、おそらく、精神科治療歴ゆえ無罪にされるであろうばかりか、数年後やがて社会的な名誉までも保護されたまま社会復帰の道が示される。
理不尽なものだ。
狙撃は日本ではやや性急だとしてもせめて男の顔写真くらいは、そのおぞましい行為と共に「さらしもの」にしたらどうか。
そして、次のことが悲しい。
17男は、学校から受けた被害を昇華できないまま、加害者になった。
第一の被害は、中学の時に受けたいじめの被害。
私は、同じような境遇にあって、家庭内暴力をふるっていた高校生の「家庭教師」をしていたことがある。(ワルに染まらず、協調性が薄いと見られて、いじめられていたのだ)高校入学前後の不登校に至るプロセスは、この17才男とよく似ている。ただ、バスジャックの17才男と違うところは、10年ほど前に比べて、今の学校では不登校対策について強力な引き締めがおこなわれ、それゆえ専門カウンセラーの配備や「不登校を問題にしない教師」を現場からの締め出すことが徹底されてきたこと。
17才男が高校不登校の時期に心の中に受けた「カウンセラーからの被害」は周囲の想像以上に大きかったのだろうと思う。これが第二の被害だ。殺された元教師が、現役時代「不登校対策」に熱心だったとされることは,
偶然とはいえ不幸な巡り合わせだった。(複数乗客の証言により、制止行動などによる殺意の誘発はなかったとのこと。毎日夕刊 2000.5.6)
結果だけを追いかけるような学校の不登校撲滅作戦が全く変わらないので、同じような事件は起こり得るだろうし、必ず激増するだろう。
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2000/04/12
現石原都知事が発言して、注目を集めている言葉で、「温故知新」が可能となり学ばせてもらった。報道は、歴史を学ぶための最良の動機づけとなる。1923年(大正12年)の関東大地震による、死者・行方不明者は10万人を数えた。
震災は数年後金融恐慌をひきおこしたが、時の山本内閣は大震災による社会不安を解消するためにいわゆる「ガス抜き」のための強圧策をとり、軍による戒厳令のもと「不逞(ふてい)朝鮮人が暴動をあおっている」との虚偽の噂を流した。このため各地で自警団が組織され、多数の朝鮮人虐殺事件が発生。この時、流言飛語をたれ流した主体は時の政府であり、行政組織は政府の意を体して悪知恵を総動員し世論を操作したことは歴史的事実である。石原都知事の真意は、この時の山本内閣の認識となんら変わらない。
不思議なことは、メールで「石原支持が6割を越えた」と報じられていること、それに、この発言をめぐり近隣諸国でただならない事態になっていることにテレビがあまりに醒めていること。これは自然のなりゆきとは思われない。
都民の6割が発言を支持しているとはとても思われない上に、去年いわゆるサッチー事件にしろ、今春長島さんがユニフォームを脱ぐのにしろ、あれだけ狂乱状態に陥ったテレビメディアは、どうしてこのような国の信用を失墜させるような大きな事態をこともなげに静観できるのか。実は、本当はテレビメディアは狂っていないのだろう。基本的には、戦時中の特高警察のように時の政府にきわめて忠実なのだろうと思う。戦時前夜、戦争に突入しようとしていた政府が、歌舞音曲をもって庶民の心を踊らせて世論攻撃をかわすための手段としたのと同じ行動パターンが繰り返されているのかもしれない。かくして、情報は操作され、長島さんはメディアの花形となる。銀行課税で多数の支持を得た石原氏は、独裁者の顔にさらに一歩近づいた。
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春の選抜高校野球 2000/03/18
プロ野球のペナントレースが始まる時期である。野球ファンである私は、他のおじさんたちと全く同じにこの季節を楽しみにしている。
同時に春の高校野球のシーズンに入り、高校野球で今年はどんな名選手が生まれるのかという話題が報道されるようになってきた。高校野球のおもしろいところの一つは、素人野球がもたらすプロ野球にはない身近な感覚であり、もう一つは、松坂やイチローのように、町で見かける普通の高校生が、多くの観衆を湧かす器に変身することにある。いつも思うことで、最近気になるのは、高校野球がプロ野球への登竜門として事実上機能していて、優秀な選手をほしがるプロ球団側も、青田買いの現場であることを最初から否定していないことである。
昔、富国強兵を大義名分に明治政府が学校に期待したことは、国のためにいかんなく能力を発揮してくれる軍人の排出だったといわれる。それが、当時学校にあたられた使命のようなものであった。戦後新憲法ではそれが消えたことになっているが、組織への適応力が期待されている体質はあまり変わっていなのではないかと思う。軍人排出が、企業戦士排出への期待と代わり、高校球児の場合は、球団組織のため役に立つプロ選手となることが期待されているということなのだろう。ホームスクーリングの子どもたちがある集団や組織のなかで、やがて能力を発揮し始める日が来ないかぎり、「学校に行かなければ集団生活への適応力が養われない」という非難は崩れないのかもしれない。米国で近日、「アメリカの将来」を討議するホームスクーリングの子どもたちを中心としたのカンファレンスが行われるといわれる。もしかしたら、いつか海の向こうでは「ホームスクール党」などという政党組織が誕生するかもしれない。
ところで、球児たちの組織への順応力は学校による訓練の賜物なのか?
私には彼らが、純粋に野球が大好きなだけなのだとしか思えないのだが。
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「アスペルガー症候群」
2000/03/11
「アスペルガー」
まるでエイリアン映画のヒーローのような響きである。
アスペルガー症候群とは、限りなく正常に近い自閉症の一種とされ、精神医療の現場ではその用語の普及に熱心な専門家がおられるそうな。
医学界でもさぞかし議論が多かろう。この用語は「自閉傾向が強いというだけで、『おまえは学習障害児だ』などといわれてレッテルをはられると、その子は正常な自己イメージを獲得していくうえでも有害」というわけで、医療関係者がより正常に近い子どもたちを差別と偏見から救うために正義の使者として生まれた。
「発見者」の名前から命名されたらしい。
新しい「治療対象」を作り出したマーケッティングリサーチの能力は相当なものだが、学習障害のレッテルが差別と偏見を生み出すことをよくご存知の上に、さらにきわめて正常と異常の区別がつきにきくい差別概念を新たに導入しようとしていることはさらに罪深い。学習障害児へのサポートを看板にしている民間の塾にとってもかなり「おいしい」はなしであろう。教室で、教師から少しでもその存在に違和感を認められた子どもは、薬物療養を含めた治療対象とされてきた。当然教師が治療するのではない。学校現場には精神医療サイドとの奇妙なリンクができあがっていて、精神科行きをすすめられるのだ。知能という面から、活溌でよく発言し、授業中静止していることができない子どもは「多動児」とよばれ学習障害に分類された。今度は、社会性という面で、表面的におとなしく、他の子どもたちとスムーズなコミニケーションができそうに見えない子どもたちを、アスペルガー症候群と呼ぶのだろう。一体誰が「正常」の範囲にとどまるというのだろうか。
先ず教師たちがアスペルガー症候群なのではないかと疑ったほうがいい。「最初に訴えるものは、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える」(箴言18:18)と賢者ソロモン王も言っている。
知的にも情緒的にも普通の子どもたちよ!
もう学校に行かない方がいい。
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石原都知事人気
2000/03/05
石原慎太郎氏が、都知事になって、銀行への課税や都心へのジーゼル車規制などで支持を集め、人気がやや加熱気味である。
二つの政策とも、少数の市民団体や少数政党が何年ものあいだうるさく言ってきた事柄なのだが、都はこれまで大企業に遠慮してなにもしてこなかった。
ここきて下された「判断」が評価されているのは、今まで大気汚染や企業利益に向けてほとんど実効ある施策がなされてこなかったからであり、大きな闇中に「線香」のような光と見えたからである。優秀な都知事ブレーンが強面の現都知事傘下にあって「懸案」を実行しているのかもしれない。
しかし、石原氏が、かつて「南京虐殺はなかった」と公言していたことを忘れてはなるまい。その意見を現在は撤回したとは聴いていないゆえに、氏は中国の視点からすると「極右」とみなされよう。
(http://www.bekkoame.ne.jp/~ymasaki/ishihara.htm参照のこと)
それに、氏はあの「戸塚ヨットスクール」後援会の強力なメンバーであることも忘れてはなるまい。塾の子どもの死亡事故を巡って訴訟にまでなり、落ち込んでいた戸塚氏を石原氏は熱心に応援した。死に至るほどの暴力を「入魂」の名のもとに肯定するその教育観に、石原氏は心から共鳴できるのだ。
そして、本当にこわいのは、このように「石原氏を非難する意見」を、うとましいと思う風潮である。
かつてヒットラーも「大衆の人気」なしにはあの蛮行を行使できなかった。
そして、すでに石原氏の提案するどんな意見も受け入れてしまうような気風が増殖を始めている。
公立学校が「戸塚ヨットスクール化」する日が来るのか。もしかして…。
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登校依存症候群
2000/02/27
「登校拒否症」があるなら、「登校依存症候群」もあっていいという意見を、絵本作家の五味太郎さんが言っておられた。
「学校に登校できないようだと、成人してからまともな仕事につけない」とか「不登校は100%、本人か家庭に原因があり、いじめは、動機になったとしても原因ではない」などという意見に対して、親御さんにも少なからずの共感者がおられるという現状に気づく。
大学受験資格のための大検の門戸はすでに広がり、入社試験の際の学歴コード(就職時審査の条件に一定の学歴を要求する)も外す企業や行政機関は今のところ「少数の風穴」にすぎないが、その風潮はやがて加速するに違いない。 このところ、偶然だが「東大に落ち、受かったW大に入学したものの、親から東大への再試験を求められ、以来親子断絶の状態になった。青春を奪った親への恨みを消せない」という30代前半の男女に続けて出会った。
学歴への固執が、家族を断絶に追い込んだ例である。
苦渋に満ちた灰色の受験戦争に閉じこめてもなお、「東大」に固執する親に、もう「正気」は見えない。話は変わるが、これから先は私のフィクション。
「学校崩壊」「学級崩壊」と言われる昨今、学校フリーメーソン(仮にそう呼んでおこう)は、現職学校教師、PTAの父母、養護教員、学校カウンセラーなどが、ホームスクーリングなどの脱学校的な思想に染まって「身内の反乱」をおこされるような事態を抑止するために、熟慮の末、やがて一つの妙案が編み出される。
参考にされたのが江戸時代初期、カトリック隠れ切支丹を発見・処罰するために使われた「踏み絵」であった。
そして、学校教師、PTAの父母、擁護教師、学校カウンセラーのなどに対し、「不登校はこうしてなおす」(吉岡康男著・出版文化社)という書物への反応が、学校への忠誠心を試すための形而上の「踏み絵」とみなされた。
そして、かつて不登校経験を克服し、林竹二などの脱学校・脱学歴思想を経て、今は小役人根性に甘んじ「ころび」となっている現職校長が、わけあって闇の調査の特命を帯びた。
この書に曰く「学校に登校できないような子どもは、成人しても社会に出ることは難しい」
この意見に、賛同するか賛同しないかが判断基準とされた。
やがて、本の主旨に賛同しない現職教師、PTAの父母、養護教員、学校カウンセラーのなどの「ブラックリスト」が作成され、うわさによる流言飛語・悪評・シカト(無視)など手段のかぎりを駆使して、公職・公務から葬り去るための秘密組織「学校のゲシュタポ」がうち立てたられたのである。
なお、これはありえるかもしれないが、あくまで私の作り話である。
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