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2000/12/07町村信孝文部科学相は、今の若者について「昔は(若者を)鍛える儀式があった。滝つぼに飛び込むとか軍隊もあった。今はそういうわけにはいかないが、そのようなものがないまま大人になることの弊害がある」との見解を示した。増加する不登校の問題にも触れ、「(子供の)自己統制力をないがしろにして好き勝手にやらせてきた面がある。学校に行かなくていいと、はき違えた自由が不登校を増やしてきた側面もある」と持論を述べた。(毎日新聞2001年2月2日)
町村信孝文部科学相
町村氏見解には、学校現場が「すき勝手にやらせもらえない」からこそ不登校問題がおきているという現状認識が欠落している。基本的に出入り自由で、子どもが考えていることを自由に表現できる場として学校が機能しているのなら、子どもにストレスはおこらないし、当然。不登校も問題にならなかっただろう。
「学校に行かなくてもいい」という言葉が、どれだけの子どもを「自殺」や「他殺」から救ってきたことか。期せずして、本音がわかりやすい内容となった。軍靴の音がよほど懐かしいらしい。
自己統制力が発揮される場所に「軍隊」が表現されているので、思う教育改革の方向は、市民の声があげられないままにされるなら、確実にこの国は「徴兵制」むけて準備してきているといえる。
#ページの最初に戻る中央省庁再編にともなって、文部科学省の諮問機関として中央教育審議会が組まれた。
中央教育審議会
19日に内定した中教審委員は次の通り。(敬称略、50音順)(2001/01/19読売新聞報道)浅見俊雄(日体大教授)
荒木喜久子(東京都新宿区立津久戸小校長)
石倉洋子(一橋大大学院教授)
今井佐知子(日本PTA全国協議会長)
内永ゆか子(日本アイ・ビー・エム常務)
江上節子(産能大助教授)
奥島孝康(早稲田大総長)
梶田叡一(京都ノートルダム女子大学長)
岸本忠三(阪大学長)
木村孟(大学評価・学位授与機構長)
国分正明(日本芸術文化振興会理事長)
佐藤幸治(京大教授)
高木剛(ゼンセン同盟会長)
高倉翔(明海大学長)
田村哲夫(渋谷教育学園理事長)
千田捷煕(都立両国高校長)、寺島実郎(三井物産戦略研究所長)
鳥居泰彦(慶応義塾長)
永井多恵子(世田谷文化生活情報センター館長)
中嶋嶺雄(東京外大学長)
中村桂子(JT生命誌研究館副館長)
増田明美(スポーツジャーナリスト)
松下倶子(聖徳大教授)
茂木友三郎(キッコーマン社長)
森隆夫(お茶の水女子大名誉教授)
山下泰裕(東海大教授)
山本恒夫(筑波大教授)
横山英一(教職員共済生活協同組合顧問)
横山洋吉(都教育長)
吉川弘之(放送大学長)感想は特にない、学校関係者のいわば「身内」で固めらているとの印象が強い。
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いじめはなくならない笹川堯科学技術政策担当相は6日の記者会見で「いじめがなくなる世の中というの は絶対にあり得ない。いじめという言葉を競争に置き換えてもいい。競争して勝って いけば、いじめにあわないという可能性もある」などと述べた。学校などでのいじめの被害者や家族の気持ちを逆なでしかねない発言で、今後、波紋を広げる可能性がある。
学校にいじめはなくらない。その原因は競争原理が教育の中心に据えられているからであり、競争を教育原理においていながら、「いじめのない学校をめざす」こと自体が論理的に矛盾していたのだが、大臣の発言で、この二律背反の振り子は、大きく競争原理の肯定へとふれているように見える。しかし、振り子運動は、この発言への反発もあって、もう一度、「いじめ撲滅」のかけ声に振れるにちがいない。
実は、いじめ問題よりも学校関係者の頭を悩ませているのは、少子化現象なのである。
もはや、都心の学校は統廃合の時代を終わり、教育制度の維持そのものが怪しくなってきていると見えるのだ。巨大な学校制度は、内部崩壊するかに見えるが、崩壊の原因の主なるものは予想に反して、子どもの人口の減少ということだろう。
だから、教育内容は危機的に見えるかもしれないが、少子化によって、教育現場は塾産業をまき込んで子ども獲得あるいは、奪い合て「サービス向上」をめざす以外にその存続の道はないと思われる。結果として、不登校児やホームスクーラーに対して、寛容のふりを装わなければならなくなるに違いない。
笹川氏がこだわる「競争による排除」こそ、このような学校現場の現状に逆行していることになる。本音が出てやっと、牙が向き出てきたのかもしれないが、牙をむけようにも、その対象となるべき子どもがいなくなってきているというのが深刻な現状であろう。
だから、「学校でいじめがなくならない」ということをどんなに抽象的に論じても、学校に入学してくる子どもの減少という「もの言わぬ怪獣」をまえにして、競争などと言ってはいられなくなるのであり、学校は「サービス産業化」する以外に生き残るすべがなくなるだろう。毎日新聞のスクープ記事として、宮城県筑館町の上高森遺跡の調査団が、今年「70万年以前や約60万年以前の石器を発見」とされた新発見について、これがねつ造されていたことが報じられていた。1998年以降は教科書にも採用されたにもかかわらず、「遺跡そのものの信憑性が大きく揺らいだ」とも報じられている。上高森遺跡
2000年12月7日
学問が仮説と実証の繰り返しであり、実験中の「失敗」でさえ、新発見の糸口になるだろうと思うので、これから考古学の信憑性を回復する過程で、もしかしたら雨降って地固まる事件のようになるのかもしれないし、いや、そうならないかもしれないとも思う。
業績への期待というプレッシャーがあったと、「ねつ造」当事者のF氏は弁解した。
しかし、私にとって、「ねつ造」という記事は、目新しいものではなない。
進化論が形成されていく過程で、たとえば、猿と人間の中間状態が未発見であり、考古学の用語ではミッシング・リンクの謎と呼ばれている。「類人猿」発見が世界的な注目に値するということになり、その一方で、考古学の分野でおびただしいねつ造がおこなわれたとされる。
たとえば、いわゆる「類人猿」の発見とされる「北京原人」や教科書でも事実上の定説として紹介されることの多い「ピテカントロプス・エレクトウス発見」などは、猿の頭蓋骨を削ってそれらしく見せたねつ造ではないかと指摘されていた。フィールドは違うだけで、方法論は同じだと思う。考古学のなかでは議論の中にあったにもかかわらず、「事実上の定説」として情報がひとり歩きして広がり、日本では何のてらいもなく、歴史/理科/科学の教科書に例外なく登場して、恥じることもない。
たまたま、今回は、ビデオカメラに収録され、当事者もこの事実を認めたとされる。
この後に注目したいと思う。
考古学界の自己保全機能が悪く働いて、さらなる隠蔽工作や情報の買収がおこなわれたり、いつのまにか「あのビデオは嘘だ」みたいな事態にならなければいいがなと思う。
しかし、根源的に問題なのは、70万年前とか、あるいは、数千万年とか数億年という時間軸がてらいもなく使われるという哲学的前提である。
私は、創造論者なのでそう思うのかもしれないが、数千年とか数億年とか、考古学や科学の分野で人間の思考を越えたとてつもなく長い時間軸がもちいられることに、もっと懐疑的であっていいのではないかと思う。
古代遺跡物に残存している炭素の量によって、年代は数億年単位で測定できるという。
しかし、物体における炭素の残存率でさえ、素人考えに思うだけでも、太陽光の強さや、湿度・温度・堆積物・地殻変動、火事などの人的災害の有無などによって多様な変化を受けるかもしれないと思うのは当然ではないか。
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米国で話題になっている「ADHD」とは、Attention Deficit Hyperactive Disorder の頭文字による略号である。日本語では、「注意欠陥多動性障害」と訳される。
ADHD
2000年10月26日
米国では、学校での授業態度がよくない子どもにこの診断が下されると、クラスが再編成される。そして、授業の開始直前に毎日、リタリンという軽い向精神薬の服用が強要されることになる。子どもに「障害名」が確定するには、半年の臨床経過観察が求められる。
要するに何時間もおとなしく座っていて、教師のいうことに素直に順応し、人間関係もそこそこにこなしている限りは問題がないのであり、言い換えればそれ以外の子どもは、「注意欠陥多動性障害」の診断網の中におかれるということである。
子どもを見る視点が、集団への適応、教師への順応など、教師の側にあり、客観を装いながら限りなく主観的要素が紛れ込む可能性があろう。
米国でさえ、大統領が「薬害」としての調査を始めたにもかかわらず、学習障害児とかアスペルガー症候群などで盛り上がっている日本に導入されるとしたら、学校サイドでどのようなスタンスをとられるのだろうか想像に難くない。
学級崩壊や、教師にたいする暴力問題などを根拠に、精神科医師が直接関与できるような体制づくりがすすんでいる一方で、子どものなかに自発的な言動や質問が抑制され、教師の指示を待つなど、上目使いが「ひながた」とされるような事態が予想される。
ゴリアテのような巨人がゆっくり倒れるように、学校崩壊は広範囲ですでに浸潤してきている。
学校現場では、すでに子どもの側に視点がおかれなくなって久しい。
「disabilities(障害)」とは、むしろ、認識力さえ麻痺しはじめた学校の側にあるといっていい。その結果、教育/医療官僚の職場確保のためだけに「先端医療」が導入されようとしている。
子どものためなどという言葉に、だまされてはいけない。
具体例に枚挙のいとまがないいじめ報道だけでも、「注意欠陥多動性障害」の症状が顕著なのは学校の側なのだと認知されよう。
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学校に行く義務はない
2000/09/29管氏は「不登校は増えたのは、学校があるからだ。学校はあるのが当然で、子どもが義務を負っているのか。今の学校が子どもを縛り付けるのにふさわしい場か」とも述べたと報じられている。
「義務教育が、子どもが学校へ行き、親は子どもを学校へ行かせる義務だと考えているのは根本的に誤っている」と9月28日衆議院予算委員会における管直人民主党幹事長の発言が報道されている。(9/29毎日)
ホームスクール運動を含めた、子どもの生活空間の柔軟化を願う陣営から、やっと公の場で議論が始められるのかとみなされるかもしれない。
「国民会議」の干からびた中身にうんざりしているなかで、この発言は国会にある種の新規な風を送り込んでいるのかもしれない。
与党3党による組織的「民主党おろし」策謀が渦巻くなかで、全く党利党略を意識されていないということはないだろうとは思うが、一方で管直人氏のこれまでの政治姿勢からして、この考え方が奇をてらったものとも思えない。しかし、管氏は特別なことを言ったのでも、これが「独自の教育論」(記者の言葉)なのでもない。「あたりまえのこと」を言ったにすぎないのだ。
むしろ、ここにきてこのような発言が登場するまでに、あまりにも多くの時間が経過した。学校に関していえば、すでにブレーキの効かなくなった車が坂道を転げ落ち、だれも止められない状態に等しい。カウンセラーの増加やましてや「奉仕活動の義務化」など、火事場に油をそそぐようなものだ。事態がもっと深刻な局面を迎えないと、今般の貴重な発言も形而上的な花火だけで終わることになるだろう。
今は、学校をめぐり、「どんなことがおきてもおかしくない」といった危機的状況なのにもかかわらず、教育官僚は自己保全のみに奔走し、まさに「どこふく風」だ。
ゆえに、私は全然楽観的になれない。
学校制度そのものがなくならない以上、「児童の学校在籍義務そのものの撤廃」といったラジカルな制度改革がなされないかぎり、不本意に学校を選ばされた子どもたちの環境に明るい未来はない。
もはや「不登校」という表現ではなまぬるい。子どもたちには、噴火中の三宅島から「疎開」するのと同じ意味で、「学校からの疎開」が必要なのである。
あの「ロト」のように。
#ページの最初に戻る多摩大学は、2002年をめどに「暫定入学制」導入の方針を固めた。
(毎日新聞 2000/09/12) 「暫定入学制」とは、入試で合格できなかった受験生のうち合格ラインに近い順に定員の2割程度を、「暫定的入学者」として受け入れ、翌年成績などを考慮して、正式入学者となるかどうかを決めるというもの。
外野の声として気になるのは、「入学で合格できなかった」者を対象にしているという点であり、「正規組」と「暫定組」という差別のようなものが生まれないかという懸念がある。それに、学校経営という観点から「入学定員割れ」をくい止めることがさしあたりの優先課題なので、どこまで学生本意であるか、つまり学びたい学生に本当に学びたい機会を提供しているのかどうかと意地悪な問いもさなれることだろう。
けれども、不登校などで入試学力に問題があっても、学びたい意志のある学生に大学教育の可能性が開かれいることは好ましいのではないかと思った。
多摩大学学長のクラーク氏は、教育改革国民会議の委員であるが、記事録を見るかぎり委員会で提案されている氏のユニークで貴重な発言がまともにとりあげられているような様子はない。でも、足場ともいえる多摩大学では、英語の能力試験を廃止し大学で語学教育を引き受けると言われれているし、今回も大学制度の根幹にかかわる有益で思い切った提案がなされていると思われる。「営利目的」とだけは言えない。
ペーパー試験以外の受け入れ枠があり、偏差値中心の判断基準の趨勢に風穴をあけていると思われる上、学びたい子どもが、偏差値/登校日数/ペーパー試験結果などの結果に縛られて入学を達成できない状態が少しでも改善されるなかで、たとえばホームスクーラーが「大学教育」を希望する場合、選択できる道が模索されていくのかもしれない。
もっとも、どんな大義名分を掲げようとも、少子化現象加速がはなはだしく、大学がその門を広くしなければ、経営破綻せざるを得ないという大潮流があるのだが。
米国では、大学側が「ホームスクーラー捜し」をしてまで、学力平均値をあげようとしているらしい。こちらも、学びたい意欲溢れるホームスクーラーには喜ばしいといえるのかもしれないが、ホームスクールの可能性が、「学力」にだけ絞られているような報道なので、不本意な面もある。
せっかくホームスクーリングを始めるなら、アンスクーリングなどが提案されているように「学歴観」「能力観」やそれに「職業観」の見直しをしないでおくのはソンなのでは?
#ページの最初に戻る「ひきこもり」を問う 2000/09/05
朝日新聞を購読する友人から、「論壇」に掲載された一文の切り抜き記事を紹介され、溜飲を下ろす思いで読んだ。9月1日、精神科医の斉藤環(たまき)氏の曰く「ひきこもりを疎外する解説で、最近最も象徴的だったのはニュースステーションが5月30日に放送した『ひきこもり』特集におけるコメンテータ氏の『ひきこもりは贅沢』という趣旨の発言である。この発言は私の周辺でも多大な反響を呼んだ。」
問題の解説委員発言に、疑問を感じ、ニュースステーションあてに何度もメールを送ったが、なしのつぶてだったことを思うと、違和感を感じた市民の一人として、今回の投稿はなんと励みであることか!
氏はこのようにも言う。「性急な価値判断による『ひきこもり』の否定は、もはやまったく無効である。むしろ『ひきこもり』を疎外しようとする姿勢そのものの中に、われわれ自身の『病理』が投影されている可能性を疑ってみよう」
巷には、不登校周辺で否定的にか、あるいは「ひきももりを受容しているように」見えながら、実は特殊化し異常な精神行動の一種とみなしているような書物も多いのである。(たとえば富田氏の著作やため氏にもみられる)
私は一貫して、ひきこもり行動は、現代社会で真剣に生きとうとする青少年にとって必要不可欠であると思ってきた。
とりわけ、不登校を選択した子どもにとっては、絶対に欠かしてはならない「必要行動」とみなされると思うので、氏の以下の言葉に心から賛成である。
「その(ひきこもりの)増加は、わが国の青年層における犯罪率を低下させる一大要因となっているのではないか。」#ページの最初に戻る「多発する少年事件を受けて、文部省は2001年度から、全国の都道府県などに精神科の医師を配置し、学校や家庭だけでは対処しにくい子供たちの『心の病』の相談に当たらせる方針を固めた」(毎日2000/08/17)と報じられた。精神科医が学校現場に入ることで、薬害などへの懸念からこれまで良心的に精神科診療への紹介を避けていた教師の立場が一層弱くなると思われる。
カウンセラーの立場が医療に比べて、「功罪と呼ばれる程度」とみられ子どもにとっていくらか救いになる道が指し示されていたかもしれないが、医師が「心の権威」として学校現場に君臨することで、学校は問題行動の解決策として、これまで以上に「薬」への期待を高めることになる。ゆえに、今般の施策の有害性を否定し得ない。不登校や校内暴力の結果、教師から勧められて精神科医療の轍(わだち)にはまり、成人後も副作用による薬害を被り続けている少年少女たちの悲惨きわまりない現状はあまりにも隠蔽されているからである。
不登校の結果ではなく、不登校治療を理由にした向精神薬(トランキライザー)の後遺症に悩む20代30代の数は《はなはだ多く》、隠蔽されこそすれ、明るみに出されることはなかった。
このような医療こそ、なんと罪深いことであることか。
言葉も失せるが、硬直した学級制度や、受験対策主体の学習システムなどに全く手がつけられていなままなので、学校現場がこれによって改善されるなどというようなことは絵空事にしか過ぎない。
#ページの最初に戻る7月26〜27日、フリースクールの知己と合宿の引率で安曇野に行き、その代表的風景の誉高い碌山美術館を尋ね、本館の建物が教会風であることに興味を覚えた。
私はロダンの影響を受けたと言われる彫刻群の鑑賞について何事かを言うものを持っていないが、本館内部の解説文などをたよりに、萩原碌山が持ったであろう思想的背景に心を引かれた。周知のように、萩原碌山こと萩原守衛(もりえ)は、キリスト者であり新宿中村屋創始者でもある相馬愛蔵との親好深く、早くからキリスト教の影響下にあって、後に渡米した際に洗礼を受け、解説文によれば一時は神学校入学さえ志したようだ。(本館建造の銘には新宿中村屋の名が刻まれている。)
渡米前、国内においては信州にて行われていた内村鑑三の「夏期聖書講座」にも参加し、先代日本の代表的プロテスタント指導者植村正久の説教にも触れていたといわれる。掲示されていた日記の一文にかの「相馬兄」宅にて日曜学校が開かれる経緯が見えた。相馬氏は、内村鑑三の影響下にあって、その著書「救安録」を朗読しつつ、日曜学校の開所式に臨み、萩原守衛も陪席していたと記されている。日記のなかで、その時語られた挨拶が次のように簡単にまとめられていた。
「学校は知識をさづけ、日曜学校は道徳を教う」
この説が内村の「救安録」からのものか否かは、今後裏をとらなければならないが、少なくとも相馬氏のこの言葉からは、当時すでに、学校では「一般学」を学び、教会学校では学校の知識のカテゴリにはいれられない「道徳」が教えられるべきという、ある種の二元論が見える。
この考え方には二つの意味があるだろう。
一つは、日曜学校がその「道徳を教える」ことに社会的役割が認識されているということから、当時すでにキリスト教信仰が「倫理的規範」の範疇に閉じこめられていたということだ。つまり、この時「倫理の主体」は、必ずしもキリスト教である必要はなくなり、儒教でも国家神道でもかまわなくなるというあやうさが秘められていた。いま一つは、日曜学校は道徳を教えていればいいのであって、学校が教える知識が、進化論であれ宮城遙拝であれ何を教えられてようと、キリスト教信仰との何の脈絡を問う努力も必要もなくなるということ。
子どもたちは学校での「学」と日曜学校の「聖書信仰」の間の溝から、二率背反をおこし、やがて圧倒的な世俗化の波にもまれ、背教の憂き目に苛まれることだろう。
この一事で萩原碌山のすべてを説明するのはあまりに乏しいとはいえ、このような初期のナイーヴなキリスト教理解はパリでの遊学を経、やがて在邦の身にあった時、仏像・仏教への傾斜に道を開くことになったのではないか。
日本の芸術界からすると、「キリスト教の狭さ」にとどまらなかったのは幸運なのだと言われそうなのだが、芸術界においてみならず、一般の「学」にかかわる日本文化や政治などを含め、社会全般においてキリスト者の発言力が微弱なままに留まってきたという経緯があり、その病根の深部を解く鍵の一つがここにある。
#ページの最初に戻る下請け業、特に搾乳業の方々のご労を思うと、本当に心が痛む。しかし、今般の雪印食中毒事件には、企業が巨大化した時に、どのような問題がおこりうるかが典型的に示された。この点は、東海村原発事故についても全く同じことがいえる。電力であれ食品であれ、企業の「巨大化」は、リスクを生み出す。たとえば蜂の針の一刺が像のような巨体を頓挫させるように、大企業のストラクチャー全部が、バケツ一個の管理とか連結パイプ一本の管理とかいう最小の単位に翻弄されるのだ。(ちなみに、インターネットは、軍事戦略上、敵の攻撃による味方の被害を最小限にくい止めるための危機管理という観点から、中央集権的な巨大化のもたらす被害を最小限にくい止めるという発想から生まれた。)
食品の場合、巨大組織になればなるほど、消費者の側に、どんな生産者が関わっているのか、どんな素材が使われているのかがみえてこなくなる。
学校組織にかかわる「給食」も同じで、これはセンター方式か自校方式かという問題ではない。自分の子どもの口に入るものについて、親が全く他人まかせであるということの問題点を自覚しなければならないのだ。雪印製品は、ただちに給食から排除された地域もあるようだが、このアクションは、たまたま世間で騒がれていることに起因するのではないのか。数百数千単位で毎日大量に、しかも数分の誤差もなく準備するためには、名の知れない小売店でまかないきれる筈もなく、どこの誰がつくったかも知られないような大量生産(大企業)依存や流通網の巨大化は避けられまい。
だから、栄養士さんたちの努力にもかかわらず学校給食現場においては、原料生産や流通ラインでの「えたいの知れない異物の混入」や「遺伝子組み替え食品混在」の危険を含めて、絶対にリスクが避けられないと思う。
それゆえに、学校給食の問題は、ホームスクーリングを始めるための重要な動機の一つに数えられる。母親(当然父親も)が自覚的でありさえすれば、それほど高価ではなく、無農薬食品や、より安全な「乳製品」を手に入れることができるようになってきているからである。
大企業の台頭によって、生産者と消費者の結びつきが希薄になっていることの問題を自覚して、「食と農を結ぶ」草の根運動も各地でさかんになりつつある。
以下あまりにも単純化し過ぎるかもしれないが、ありうるチャート。
@塾や教育費の増加→子どものための共稼ぎ→母親の不在→コンビニ食品・給食依存→不健康
→医療費などさらなる出費
Aホームスクーリング→教育費のリストラ→在宅の母親→充分な栄養管理→健康→出費の抑制
どうです? ホームスクーリングを始めてもいいと思われましたか。
#ページの最初に戻る朝まで生テレビ〜少年法
2000/07/01ビデオ録画で少年法を巡る議論を見聞きした。
アメリカが少年犯罪への罰則を強めても、犯罪減少に結びつかず、抑止力になっていないのではないかと思われるということで、罰則を厳しくするような改正への慎重論があった。私は、根元的には、日本で閉塞的で犯罪の温床のような学校文化に手がつけられないまま、罰則を強化することだけに抑止力を期待するのは、スケープゴートのようであるという意見に賛成である。
けれども、何を犯罪と呼ぶのかという点で、実際の件数のデーターがあやしいと思った。つまり、出来事を正確に認識しようとするよりも、昨今の警察のやる気のない怠慢体質から推測して「事実のもみけし」や「格下げ」から漏れた結果が報道関係に引っかかっているだけなのではないかと思う。もしそうだとすると日本での少年犯罪の発生件数とされる内容はかなりあやしい。数字のトリックだと思う。
番組は中立の立場というより、少年犯罪の被害当事者の家族の声を色濃く反映したものとなって、少年法改正論を世に問うたと見受けられる。これまで、被害者の権利という点が法的にも社会的にもあまりにも見過ごしにされてきたからだと思う。番組では、当事者の方々がきわめて冷静で、客観的な発言をしようとされていたのが痛ましくもあり、また説得力ともなっていたと思う。
犯罪を犯した少年が、「犯した自分の罪の重さ」と「つぐないの心」を認識できないまま社会に出てしまうような制度は見直されるべきだと思う。
それは、「あだうち社会の到来」を是とするものではなく、第一に情報公開の促進と、第二に日本でもまがりなりにも社会正義が生きている(「与えられている」私はキリスト者なのでそう思う)との希望に基づく。よしんば、制度が見直されたとしても、それで犯罪発生率が改善されていくほど現状は甘くないとの認識も一方でおおありなのだが。
最近「殺人や強姦を含む少年犯罪への社会的制裁は軽い」との認識に基づく少年の犯罪を耳にすることが多い。なんとふてぶてしきこと哉!!
やはり、私はこのことに怒りを禁じえない。「学習障碍」とは学校で生み出された言葉であるが、むしろ学校によって学習や社会性に、重要な障碍がもたらされている。
以下のような臨床的症状および合併症として確認されている。(1)他人との比較でしか、自分の能力を認識できない上に、試験結果を「能力結果」と誤認する認識障碍を発症。
(2)試験結果を「知能の高さ」と誤認。重度になると、合併症として「指示待ち症候群」が観察される。
(3)集団での居心地の良さを「社会性」と誤認する「公共性感覚障碍」を発症。「公共感覚」の極端な低下がみなれる。
重度の集団依存症では、単独での意志決定が困難になる。この段階では集団行動における暴力性が観察される。
(4)文法など、リアリティを疎外した「形」を学習結果と誤認する「ヴァーチャルリアリティ依存症候群」の発症。
(5)学校でうまくやれないと、社会に出てもうまくやれないのではないかと誤認する「不安障碍」。
教師やカウンセラーの言葉が原因になる場合が多い。
(6)登校拒否不能症候群。特に、登校依存症に陥ると、親子に発症がみられる。
特徴は、登校への強迫神経症を伴ったこだわり。
重症の場合、合併症として薬物依存を併発し、しばしば自殺や殺傷事件に及ぶ症例もある。なお、以上の学校依存症候群は、実在してはいるが、公式/正式な病名ではない。
#ページの最初に戻る2000/06/06
凶悪な少年犯罪が激増し、毎日のように報道されている。
こんなことが続いても、学校を少しも悪くいわないのが摩訶不思議だ。
オウム信者が麻原を信じていて悪く言えないのと、どこが違うのか?
事件はすべて、警察ざたになってしかもマスコミが関心を払っただけの、氷山の一画にすぎない。神戸の「サカキバラ」事件によってあけられた、「パンドラの箱」は、簡単に閉じられることはない。何の関係もない民間人が犠牲になる集団殺人を含め、これから何がおきるのかと思うと心身寒からしむ。
沈没寸前のタイタニックのようだ。
特に、子どもの心をまともに受け止めることをしない、再登校だけを目標としたカウンセリングがもたらす被害の実態が全く無視されている。
ここでも、くどいように繰り返すが、イソップ童話のように、少年たちの心を照らす「太陽のような」受け止め方を大人社会がしないで、「北風」のように外から少年たちを強制(矯正)しようとする対応を続けているかぎり、凶悪事件は絶対に減らない。しかし、少年たちが理解できるような気がする一方で、現行の法律が「罪への無感覚」を与え、責任を自覚させていないのも事実だと思う。少年たちには、被害者自身の無念さや被害者を失った家族の苦しみを自覚させ、その行動を社会が絶対に容認していないということを知らせるべきあり、それがあっての社会復帰であり更正だと思う。
これから坂道を転がるように少年の暴徒化が促進され、「日本では現行少年法が抑止力となっているので、米国のような少年犯罪発生率はない」という声は、残念ながら一層説得力を失うだろう。森総理に典型的に見られるような「うけねらいの上目使い」だけがあって、「倫理」の支柱がない日本社会には、「法改正により刑罰を強化」するか「少年保護法を信頼して事実上判断停止」をするかの両極端しかみえていないので、世論は、二つの間を揺れながら結局少年たちをとりまく問題の本質である学校統制と学校文化の破綻に全く手をつけることができないまま、具体的には自浄能力がない教育官僚の言いなりにつくられた作文の「提示と承認」におちつくのであろう。かくして、実際には何も変わらない。
昨日(6月5日)、千葉で、パイロットの父親と元スチュワーデスの母親が子の狂暴化を恐れ「事前殺害」するという事件まで起こった。もはやここまできたか? いや、これは序の口にすぎない。(以下は30日の「ひきこもり」特番についての、私の意見メールです)
………………………………………………………………………………
前略
家族でいつも楽しくニュースステーションを見させていただいています。さて30日の「ひきこもり」の特集で、「ひきこもりの原因は本人のわがままにあり」と表現されていた解説員のご意見にいささか疑念がありましたのでメールさせていただきます。たとえば、点数主義やいじめ問題などで閉塞的な状況を生み出している学校の環境が、「17才の反乱」と表現されるような雰囲気を生み出しているのに、まるでスケープゴートのように、粗製濫造ともいえるようなカウンセラーの配備や、一方的に法律を厳しくするだけの対応が多く見られるように思います。このような、学校・社会環境を問題にしないで、本人のなかだけに責任を負わせようとするのは大きな問題です。
イソップ童話の「北風と太陽」でいうと、今回の解説員のお考えは北風のように、外からの強制や「わがまま」「社会のきびしさを知らない」などという決めつけによって、罪の意識が植え付けられ、青年や親御さんは、ますます「ひきもり」に追いやられることでしょう。数年たっても、癒えないほどの傷を持つ青少年には、「ひきこもり」という手段しかなかったと何故思えないのでしょうか。そのような青少年は「自分が死ぬか、それとも他人を殺すしかない」という深刻な状態にあるのです。
きびしい言い方をお許しいただきたいと思います。
解説員はいじめれたり劣等感にさいなまれたことがなく、他人の痛みや苦しみがわからないばかりか、学校で競争相手をけ落とすことしか学んでいないエリート育ちなのではありませんか?内側から外套をはなさそうとしない青年の痛んだ心の必要に届いて、青年が自発的に外套を脱ぐような「太陽のような報道を」心からお願いします。
………………………………………………………………………………
(2000/06/02現在 「テレビ朝日」からの返事はない)
#ページの最初に戻る進化論&創造論・論争第1回教育改革国民会議以下に掲載されている第1回教育改革国民会議議事録の全記録を読んだ。
http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/dai3/3gaiyou.html
学校が子どもの成長の場として絶対的に君臨している状態を疑わない議論なので、当然ホームスクールは話題になっていない。ホームスクールは今のところ国の教育統制の外に置かれているらしい。せめて、民間に、子どもの育つ「空間」として学校以外の新しい選択肢が育っているくらいの紹介があるといいと思った。この種の会議に、最も馴染まないのがホームスクールであるともいえる。
ただ、唯一、学校制度についての、いちばん本質にかかわる提案がなされていると思われるのはGクラーク氏の発言。「高校卒業試験が必要ではないか」「六・三・三制はやめて四・四・四制、6年間の小学校はおかしい」「(大学は)定員の4分の1程度を暫定入学にする」「いまの英語教育は早くやめてください、受験英語の。だから日本人は英語をしゃべれないんです」「これから日本にとって中国語も非常に大事」「修学旅行もやめてください。京都とか奈良への旅行は。あとで自分の時間で、自分の両親たちと一緒にやってもいいんです。むしろ自然の中で2、3日キャンプさせればどうです」本質をついた意見だと思われるが?
問題は、会議のなかにどれだけ聴く耳はあるかということだろう。
話題は変わるが、イタリアで、森首相はサッカーの中田氏にツーショットの面会を申し入れて拒否された。中田氏は、政治宣伝の道具にされるかもしれないと読んだのかもしれない。中田さんが国民会議で発言を許されたなら、さぞおもしろい。数学の森毅氏にサッカーの中田氏、それにあの立花隆氏などが加わったら、本当におもしろいと思うけどね。
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ユニクロの社長さん
2000/05/01
「日本の教育の最大の欠点は、受け身であることです。正解はただ一つだと教え、独創的な解答を認めていない。だから学校で勉強してもほとんど役にたたない。学校は、特に大学は即戦力の人材をつくることに徹するべきだと思う。即戦力と言っても、資格を取得していることではなく、自分で考え、自分の結論を出すことができ、人を動かせる人材のことです。」
「これからは自分でこういう仕事をしようという意志を持ち、自分の生涯設計をした人が勝つ。新しいことをやろうと思ったら、一人の人間が手を挙げて、自分を中心に会社を作り変えなければならない。個人の時代なのです。社会もそのような人を求めているし、我々の会社もそういう人を求めている。」ユニクロ社長・柳井(やない)正氏 毎日夕刊2000/5/01
一般企業が求めている能力が何であるのかを示す例と思う。このような「脱学校・脱学歴」意識が日本社会でも確実に広がっている。
#ページの最初に戻るオウム就学拒否 その3 2000/04/11
オウムが「アレフ」と改名したのは松本被告であったにもかわらず、教団はその事実を隠してきたと報じられた。一方で、都幾川村が「元オウム」の子どもを部分的に受け入れたと報じられている。オウムの言うことは、限りなく嘘であるという懸念は、「公」の名のもとにねじ伏せられた。学校が地域に対して、特に不登校児などに対して就学義務を要求してきたその同じ剣が、今回のケースでは諸刃の剣のように、自分たちに対しオウムを拒否できない状況を生み出させた。
今回の処置で、オウム側の弁護士たちに「勝利宣言」を与えた基盤には、学校への地域の縛りの強さが隠れているのだろう。正義がおこなわれることに対して、この国は非常に疎(うと)い。
その認識は、アメリカ映画と邦画を鑑賞し比べてみるだけで容易に得られるだろう。それゆえ「殺された坂本弁護士のようになりたくない」と表だった非難・批判を避ける風潮と、「自分たちの庭を通り過ぎて見えないところに行ってくれればいい」という利己的な精神的伝統、そして、犯罪者の社会的更生が優先されて、むしろ被害者の人権が疎外され社会的弱者に甘んじなければならないなどの逆転的風潮がほぼ連動しているので、オウムが息を吹き返す土壌はかぎりなく整ってきたといえる。オウムがその基本的教義を全く変えていないと確認されているのに、同じ新宗教カルトに属する創価学会のようにオウムも「社会化できるのではないか」との楽観論があるが、現状ではそれはあまりにも甘すぎる。今回の就学の事例は、一般のオウムへの警戒感を弱めるばかりか、都幾川村教育委員会の対応が「利己的」とさえ言わせる風潮を生み出した。同じような事態に接している各地域でも「オウム受け入れ」の判例として示されるだろう。
2000/03/04
進化論が既成事実のようにしか紹介されない日本からは、米国の事情は奇異に写るのではあるまいか。宗教者のエゴのように報道されているのは不本意なので、創造論の側から少しだけ弁護しておきたい。
公教育が特定の宗教的真理を前提としない「中立性」を維持しなければならないことは創造論者たちも認識しているのだと思う。どんなに保守的な聖書主義者でも公教育に宗教教育まで期待しているのではないのだ。進化論の問題を簡単にまとめると、第一に、進化論が教えられる時、暗黙のうちに唯物史観が絶対的な前提とされること。物質があるときに「生物」へと変化するのだというテーゼを説明できていないのにあたかもすべてが語り尽くされたように扱われていること。第二には、人間と動植物の境界線あるいは「種同士の断絶」が不可逆的に存在していることの説明が曖昧であり、たとえば何故現在動物と「婚姻関係」を結べないのかについて何の解答もみられていないこと。人間と動物の区別がつけられていないので、より「人間らしい人間」が「より動物に近い人間」を支配できるという優生思想とのリンクを否定できないこと。これらの疑問は元祖なるダーウインの「種の起源」でもとりあげられ、数億年といった長い時間の経過がそれを可能にしたかのような説明がなされていて、その解答のしかたは、今日も大きく変わっているとはいえない。数十億年という時間軸が何の疑いもなく使われる。
ものごとには、原因と結果が存在していていると考えるのが創造論の立場。全ては因果律に支配されているのではなく、決め手は偶然と考えるのが進化論。だから進化論においては、偶然性は神である。進化論を否定することが罪。発展や進化は進化論における救済論とされている。ゆえに、「創造論者」と呼ばれる人々は、公教育で、進化論があたかも宗教のような絶対的信条の位置におかれることに反対しているのである。
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教育改革国民会議 委員名簿2000/03/16
浅利 慶太 66 劇団四季代表
石原多賀子 53 金沢市教育長
今井佐知子 41 山口県PTA連合会長
上島 一秦 39 日本青年会議所会頭
牛尾 治郎 69 ウシオ電気会長
江崎玲於奈 75 茨城県科学技術振興財団理事長
大宅 映子 59 ジャーナリスト
梶田吉太郎 58 京都ノートルダム女子大学長
勝田吉太郎 71 鈴鹿国際大学長
金子 郁容 51 慶應義塾幼稚舎長
河合 隼雄 71 国際日本文化研究センター長
河上 亮一 56 川越市立城南中教諭
木村 孟 62 学位授与機構長
草野 忠義 56 連合副会長
グレゴリー・クラーク 63 多摩大学長
黒田 玲子 52 東京大学教授
河野 俊二 72 東京海上火災保険会長
曽野 紋子 68 日本財団会長
田中 成明 58 京都大学教授
田村 哲夫 64 渋谷教育学園幕張中・高校長
枕 寿官 73 薩摩焼宗家代14代
浜田 広 66 リコー会長
藤田 英典 55 東京大学教授
森 隆夫 68 お茶の水大学名誉教授
山折 哲雄 68 京都造形美術大学院教授
山下 泰裕 42 東海大学教授
覚え書きとして掲載した。 (毎日新聞 2000/3/16参照)
20〜30代前半、それとフリースクールのスタッフは当然いない。オウム就学拒否 その2
2000/03/10強い行政指導を受けて、オウムの元信者の子弟を都幾川村は受け入れ方向で動き始めた。実際に児童を学校に送っている親御さん側では、拒否の態度を崩さない。それゆえ、現在も行政との駆け引きが続いている。2000/03/04
この問題には、義務教育でいわれる「義務」が、国が希望する児童に教育システムを解放する義務を意味するとの認識が強く表されている。「オウム脱会声明」とは、反対住民を説得するための隠れ蓑なのではないかとの疑いが払拭されない限り、不安に対して最大限の配慮があればと思う。
地域の方々の不安を遠目で見るだけで「受け入れ義務がある」と左団扇で評論するとか、カルトのもつ業(ごう)の深さを若者の携帯電話への逃避の論理と同じ地平で軽くせせら笑うのも、認識不足。こと教育に関してこの地域では、子どもには学校しか選択肢がないこと。地域社会への参加は、学校参加とほぼ軌を一にしていることをあわらにした。
国内でこの状況は、地域差があまりない。どこでも同じ問題がおこりうる。
だが、もし、行政が学校以外に「ホームスクーリング」というカードをもって提案できていたとすれば、これほどの軋轢にはならなかったかもしれない?
そうなると「ホームスクーリング認知」という面が強くなって、ホームスクールを始めようとしている他のファミリーに行政から足かせがかけられるようになるのかもしれない。それは迷惑なはなしだ。
一度社会に刃を向けたカルト教団が、その基本的教義を放棄しないまま社会的に「認知される」などということがありうるのだろうか。
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国旗・国歌法施行後最初の卒業入学シーズンに際し、文部省は昨年9月と今年1,2月に掲揚・斉唱率の悪い自治体の担当者を呼びつけて「適切な指導」を要望した。
国による公教育への思想強制は、法的根拠を帯びるに至り、ここにきて顕在化している。もともと潜在していた「教育統制」が、公然とおこなわれるようになったにすぎない。そのやりかたは、戦前戦中と少しも変わらない。
思想統制とは何か。
それは、すでに「君が代」の「君」とは、象徴天皇を意味する−と明快な正式見解が出されているゆえに、「天皇の地位と名誉が苔のむすまで続くように」という願いに基づいた世界観と人生観を、名目は指導であれなんであれ、教育現場に事実上強制することである。
それゆえに、学校には「教育の自由」はない。
すべてがあるように見えて、実はすべてがない。
学校空間で語られるすべての言語は、この思想によって焼き直され、翻訳され、言い換えられなければならないからである。
「この思想を侵害しな限りにおいての《自由》」。
「この思想に抵触しない限りにおいての《権利》」。以前ぼやけていた世界が、霧が晴れたように見えるようになった。
言い換えれば、ホームスクーリングをしようかすまいかと決断しかねていたファミリーに、一つの判断材料を提供していると言えるのかもしれない。
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オウム真理教の元信者が入学を希望している地元の小学校が、就学拒否を決定し、このことで中曾根文部大臣など政府筋も動いている。地域住民に対して全員就学の門が開かれているはずの義務教育は、オウムの元信者の子に対しては例外的に閉さざれたのである。
仮に、心から過去の罪を反省していて、オウムに入ったことを悔やんでいても、一度はった世間の「レッテル」をはがそうとしない精神風土が入学を阻んだのかもしれない。でも、それを割り引いたとしても、目的のために手段を選ばす、殺人をまで許容できるという教義が「封印された」だけという魔の教義を持つ集団への住民の恐怖は理解できる。
しかし、仮にもし元信者の「オウム離れ」は本当だとしたうえで、住民に不安を与え、政府の強制力にたのんでさえも「就学」にこだわる意味があるかと不思議に思う。例外はあるかもしれないが、教師や子どもを含めた学校環境が、元信者の子どもにたいして寛容とは思えない。エホバの証人のように子どもを「宣伝用」に利用したカルトもみられる以上、就学は、実は子どものためではなく、失地を失ったオウムが社会的認知を得るための足がかりとみなしているのではなかろうかと思うのは勘ぐりすぎか。
それにしても、学校へのこだわりは異常なほど強い。もし、名目ではなく本当に心を入れかえた元オウム信者ファミリーがホームスクーリングを始めるなら、さしあたりそれもいいのかもしれない。本当に心の内面を理解してくれる知己や友人との連絡の中で、すこしづつ社会復帰へ道を模索できるのかもしれないと思うので。
高学歴の信者を含むオウムは、実は戦後の「学校信仰」が生み出した鬼子ではないかとも思う。いわゆる「日本的学校・学歴信仰」から離れるのは、非常に困難であり、特に戦前戦中の軍事教育によって植え付けられた学校観から離れるのは難しい。「不登校」への差別観・排斥観を糺してほしいのと同じような意味で、ホームスクーリングなどを理解してもらう努力をしたいのだが、時々なかなか理解されなくて、諦めかけることもある。
それと同じように元オウム信者の「脱オウム」も相当難しいに違いない。
いや! 学校信仰ほどではないが…!
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今日は都立高校の入学試験日にあたり、毎年になることだが、気が沈む。
これまで家庭教師先で、数名の高校の受験生と向き合ってきた日々を思い出すごとに、「なんとかならないものか」と思うことがある。結論から言うと、幼児期から少なくとも18未満の子ども達には入学試験は良いことと思わない。
その一つが、まず時期のこと。春の時期は、寒波や雪害で交通機関が使えなくなることが多い、おまけにインフルエンザ流行などが何故か重なり、受験生にとってことさら重圧であるにちがいない。もし、入学時期が秋であれば、少なくとも、子どもたちをこのような外的困難に曝すことは避けられよう。それから、受験科目の実際の内容である。数学にせよ英語にせよ、「入学を許可するために最低限の知識を試すのではなく、ふるい落とすための試験問題」が出題されている。やがて明日にでも「平均点」なるものがあがってくるであろうが、いわゆる「過去問」に直接あたって思うことは、受験生のおそらく半数は、半分以下しか正解できないだろうと思うことだ。1時間に満たない時間に何パーセントできたかということに「身を委ねなければならない」ということがどれだけ青少年の心に暗い影を落とすことか…。それは、高石友也の歌に尾崎豊の歌に、表現されてきた。
たとえば、必ずしも適切な例といえないが、自動車運転の知識を確かめるための試験なら、最低限の安全を守るための技術上の知識なので、ある程度、精度を要求される意味があろうと思う。米国とかカナダに比べて、免許取得が難し過ぎるといわれるのだけれど、狭い国土なのだから…とこれも許容範囲に入れていい。
しかし、高校受験だけは本当に将来全廃を含めて、真剣に考えてほしいと思う。これは、「何の意味もない」というしろものではなく、「有害」なのである。「高校志願者全員入学」という計画もあるそうなことも風の便りに聞いているが、できるだけ早く実現したほうがいいと思う。
入学受験はホームスクーリングに無縁である。それで、知的レベルは低下しているどころか、どの時期どの試験をとっても、ホームスクーリングで育てられた子どもの成績(学習成果)が悪かったということをいまだ聴いたことがない。
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1997年、「両親らによる児童虐待が増え続け、深刻化している状況を重視した厚生省児童家庭局は、児童福祉施設長らが虐待防止に向け、保護者に対し強い姿勢で臨む措置を盛り込む通達を都道府県などに通知した。」とされます。「虐待があれば、児童の監護権が保護者より児童福祉施設長らに優先することを明記したのが最大の特徴。現場を最も悩ませていた保護者による親権をたてにした保護児童の強引な引き取りにも、応じる必要はなくなるような防止措置の充実が図られている。」とも報じられました。さらに最近、親権剥奪を含めた法律改正を厚生省に答申したとも報じられています。親による虐待の事実に際し、「強権発動」を含めた介入をしなければならない深刻な事態が存在することを憂うものです。同時に「児童相談所」に「諸刃の剣」を与えることになるのかもしれないと、こちらの方も同様に憂いを覚えます。何を「虐待」と呼ぶのかによって、不登校やホームスクーリングまでをも射程に入れて、「幼児虐待」を足がかりにして、「親権剥奪」を命令できる根拠を与えることにならないともかぎらないからです。たとえば、ホームスクーリングの場合、子どもの意志ではなく親の意志によって就学拒否させているとみなされて、親のいないところで子どもに「学校に行きたい?」と尋ねてみて、もし「行ってみたい」と答えたとすると、「ホームスクーリングは子どもの就学意志を無視して、親が就学の権利を奪っている」と判断され、児童相談所は子どもの「権利」を守るために、親の意志に反して子どもを「保護」(事実上拉致?)し、法的に親権剥奪を宣言し、現在の「教護院」がそうであるように、所長が「親権」を代行し、収容先から強制的に就学させるなどということが、全く架空のこととは言い切れないような危惧を感じます。
最近の児童相談所の動きは、大いに気にかかります。
もし、あなたが本気で児童相談所で働きたいと考えたら、不登校の子どもについて「学校に行くか行かないかは、本人の自由にまかせる」という考えに立っていると、少数派に甘んじなければならないでしょう。いいえ、働き以前に児童相談所での働きそのものが許されないかもしれません。余談ですが、「日本を離れて、東南アジアに行った。現地の子どもたちの瞳の輝きの美しさが忘れられない。『瞳』という漢字が子どもの目と表記される意味がよく分かった」とある児童相談所のベテラン職員がじみじみ語っておられました。
日本の子どもの教育事情の一端が子ども達の「瞳の輝き」に反映しているのかもしれません。このような良心的な児童相談所職員を多忙にさせないためにも、親が自覚的に始めるホームスクールが各地で盛んになるのが望ましいと思う日々です。