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高校2年 日本縦断旅行 続々編

 実は、大阪から南の旅は、「ぞくぞく」とはいかなかった。いくつか、こまかなエピソードはあるが、どれもたいしたことない。高松の栗林(りくりん)公園、小豆島、広島の平和記念公園など。いわゆる原爆資料館に行ったことは、これだけでも今回の旅の最大の収穫だと思った。原爆が実戦で使用された唯一の国家なのだという意味の重みが理解できたと思う。
 ボクは、京都と大阪が居心地が良くて、長居しすぎたことに、途中でようやく気づいた。それで、九州には、ほとんど滞在できないと思ったので、一通り、鈍行列車を乗り継いで、文字通り、九州を一回りすることにした。宮崎のサボテン公園にも行った。後日、宮崎出身の牧師の方がおられて、宮崎にも行ったことがあるとお伝えしたものの、「伝道旅行でしたか?」と尋ねられた。3年になったら、高校の学内で「聖書研究会」というかたちで伝道したいと思っていただけで、この旅行ではとくに伝道を意識せず、日本の地図をめくりながら、地形と県庁所在地の場所を確認し、その風土にふれることだけを考えていた。いや、そんなとってつけたような理由づけも後からで、単に冒険心を満足させたかっただけなのかもしれない。確かに、この旅行を通じて、伝道したことはなかったが、今「ホームスクーリング祈祷会」で各地に向かわせていただくのに、何の抵抗もないのは、たぶんこの時の“訓練”が生きているのだと思う。無駄なことは、少しもない。地図は、非常に正確にできている。とても役にたった。ほぼ地図の実寸通りに地名と距離(場所)が存在していると確認できたのも、私にとっては有益な経験だった。
 “最南端”の「桜島ユースホステル」に私はいた。バルコニーからとった写真は、実家においてあるので、いつかご紹介できるかもしれない。桜島の火山岩のむこう、あの海のむこうに沖縄がある。夕日が落ちて、赤く染まる景色は、実にすばらしかった。
 「実は、沖縄にも行きたかったんですけど、パスポートが必要(当時)と伺ったので、今回は行けないんですよ」と、バルコニーにたまたま涼んでいて、南の空を鑑賞していた青年と話し込んでいた。
 その後は、「日本海鈍行列車の旅」長崎、山口、高松、そして、敦賀、福井を経て、新潟に入ったころは、ほぼ24時間電車にゆられていた。そして、実家の両親から「秋田に着いたら、男鹿半島脇本の母の実家でとめてもらうように。」と言われて、連絡先もきいていたので、秋田で電車をのりかえ、いつか祖母のお葬式で行ったことがある男鹿半島の農家を見つけだして、扉をたたいた。しかし、そこで私は仰天した。
 秋田の男鹿半島、脇本の実家に、北海道から両親が来ていたのだ。
 きくと「こんな旅行は危険だし、もしかしたらハルトは、帰って来ないかもしれない」と話し合ったのだそうだ。「心配でならないので、秋田に着く予定の日に間に合わせて春人を迎えに行こう」ということになったらしい。「戻って来なかったら、あきらめようと思っていた」とか言って母は笑った。エ〜。マジかよ〜。
 実は、ボクは鈍行列車とはいえ、お金をすっかり使い果たしていたので、秋田の「T」さんで、お金を借りようかと思っていた。(あの地域は、「T」という姓がやたらに多かった。もしかしたら、狭い地域なら、ほとんどが同姓なのかもしれない。親戚の絆が強い。いや、それだけに母の入信がどれだけ反対を受けたことかとも思った。)
 秋田の実家で長居はしなかったものの、とれたての海産物は、非常においしかった。ん?食べ物?高校時代のボクはあまり食べ物に興味なかったので、旅先で何を食べたのか覚えていない。おいしいかおいしくないかくらいだったけど、実は、後日、牧師に再就職する数年前、(チアのマガジンでは、彼がクリスチャンになったことを書いた。今どうしてるかな。)家庭教師の「修学旅行」をその子どもの親が企画してくださり、京都と九州の“5日間超グルメ旅行”をした。これは特筆する価値があまりない。漫画にはなるかもしれないけど・・・。
 とにかく、両親の安心した様子に連れられて、青森から函館を経由し、新学期が始まる前の日に、実家にたどり着いたのだった。
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高校2年 日本縦断旅行 続編

 東京から、私ははじめてうわさの新幹線に乗った。オリンピックの前に開業していて、世界に知られていた。宣教師が子どもを連れて、「bullet rain (直訳すると弾丸列車)」に乗らせてあげたという話をきいていた。ボクは、楽しみにしていた筈だけど、ずいぶん疲れいて、眠っていたので、新幹線から景色を楽しむどころではなかった。到着した京都には、私のおばといとこのご夫婦がボクの到着を待っておられた。おばさん(父の兄弟)と京都のいとこは、京都のいろいろなところに連れていってくださった。清水寺、その沿道の「七味唐辛子」の赤が目に焼き付いた。それに二条城、圧巻だったのは苔寺の美しさだ。緑の落ち着きと、竹林が本当に美しかった。北海道には竹は生息していなかったため、竹林のすべてが作り物にみえてしまうような印象がいまでもある。
 そして、「はるとちゃん。あとは、どこに行きたい?行きたいとこ、どこでも行かせてあげる」とおっしゃったので、社交辞令を知らないボクは相手の犠牲も考えず、無謀にも、「金閣寺と、比叡山に行ってみたい」とお伝えしてしまったのだ。 
 いとこのHさんは、お子さんが2人いてお忙しい奥さんであったにもかかわらず、ボクのわがままにつきあうために、たぶん金閣寺と比叡山に一日をついやしてくださったのだと思う。「地元の人は、ふだんこないところよう来ヤしません。」と。いや、ほんマにご迷惑さんだったやもしれないな。えらいことしてしもうたナぁ。 
 それにしても、京都のお寺の数々は、実に洗練され、どれも驚くほど美しかった。日本の美意識をだれかが文章にしておられたが、京都の美意識と、それが日本人につきまとう、「美意識至上主義」というか、内実より形式を追い求める精神風土に関係しているのかもしれない。(いや、当時そんなことを考えたわけではなかったのだけれど。)
 銭湯にも入らせていただいたが、今はどうだかわからないが、あの頃はりっぱな社交場だ。とにかく、ある人が半身でお湯につかり、30分くらいだらだらとはなした。心地よい京都弁が湯船に響いていた。祇園のことも伺った。実は、その時、祇園の舞妓さんがどんな意味があるのかをはじめて伝えられた。おじさんから、京都の伝統では“おんなあそび”が“文化”と結びつけられるのだともうかがった。“これは文化やさかい(だから)”とおっしゃっていた。日本の世俗の伝統文化には、キリスト教倫理と鋭く対立するものがあるというのも、ずいぶん後からわかったことだ。
 当然、祇園には行かなかった。
 京都での4日間の後、私は、次に大阪に行って、父の兄弟にあたるおじさんの家にお世話になった。おじさんは(すでに亡くなっておられるが)某企業の管理職。息子は阪大卒で、当時シャープの幹部候補だった。
 おじさんは会社を休んで、私とつきあってくださったらしい。「大阪は、京都と違ってあんまり見ることないさかい、“大阪の食い倒れ”ちゅうから、ひとつうまいもん食わせてあげよか」ということで、とにかくいろいろなものを食べさせていただいたけれど、食傷気味で、何を食べたか覚えていない。たこ焼き、それにラーメンがおもしろい味だったな。おじさんはボクとつきあうばかりで、あまり食べなかった。「ふだんぎょうさんくうとるから、ワシはいまくわんでもええ」とか言っておられたな。
 神戸のポートタワーで、おじさんは“せんべつ”をくださったが、おばさんも送りにきてくださった。“ほな、きイつけてな。げんきでな。”と、船で四国にむかう私を桟橋から見送っていてくださった。
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高校2年 (日本縦断旅行のこと)
 
「かわいい子には旅」というけれど、ボクが“かわいい”かどうか別にして、高校生の頃の旅を許してくれた両親に感謝している。これで、学校で学ぶことに勝る、さまざまな経験と知識が得られたと思う。一枚の名刺(裏面のメモ)を紹介したい。個人情報の部分は削除したが、今からおよそ35年前のものだ。ホームスクーリングのなかで、「子どもに旅をさせるための知恵」みたいな研究があってもいいと思った。
 
 高校2年生のとき、私は少し新聞配達のアルバイトをして、九州まで(当時はまだ沖縄は返還前だった)ヒッチハイクをした。学内に数名これに挑戦したのがいて、それならボクだってと、アルバイトで2万円ほどため、ジーパン姿にリュックを背負い、旅程を決めた。当日まで、父母は本当に思っていなかったみたいで、これがマジだとわかると、非常に心配した。直前に、なぜか「“センベツ”だ」とかなんとか言って、3万円ほどくれて、「京都と大阪の親戚に連絡しておくから、寄りなさい」とか言った。私は、函館まで行く長距離トラックに乗てもらい、青函連絡船(トンネルはまだなかったので)で青森へ。海峡は、“洞爺丸事件”を彷彿とさせるほど、波が荒かった。それでも、デッキから青森港の風景が見えると始めて自分の足で踏み入れる“内地”に感動した。その夜は、公園野宿の眠れぬ夜。翌日、タクシー(なぜか、タダで乗せてくれた)で十和田湖、八幡平(はちまんたい)のユースホステルで休むまで、数台の自家用車のお世話になった。そんな旅行は、今は危険で勧められないけれど、あの頃は、ものめずらしさもあってか、止まってくれた車が多かった。そのユースに、外見が大学生ともみえた男性がいて、親しく会話をはずませ、ボクが高校生だということをきいて驚いていた。よっぽど、年上にみられたみたいだ。聞けば高校教師をしているとのことで、ボクがはじめて東京に行くことを伝えると、「東京は物騒なところもあるので、困ったことがあったら連絡して。自分の家で良ければ泊めてあげるよ」とのことで、一枚の名刺をいただいた。ボクは自分がクリスチャンであることを伝えなかった。彼と信仰上のことを話さなかった。その2日後、ボクを乗せた鈍行列車は、上野についた。田舎で生まれ育った者が東京についた印象は、とにかく人が多いこと「あか抜け」した雰囲気は、あこがれより、警戒感だった。ボクはついに、山手線をぐるぐる回るようになって、行き先を見失った。確かユースをめざしていたんだけどな〜。

 そこで、八幡平で知り合った例の教師にSOS。場所を電話で確認。その後、本人が迎えにきてくれた。ところが、泊めてもらうためにご実家におじゃました私は、ほんとうに驚いた。この方のご実家は「創価学会の幹部」だったのだ。
 それに、この方が創価学会系の高校教師だったということもわかった。お世話になるのだからと、信仰上のことには、最後までふれなかったけど、あとから手紙で自分の信仰のことを告白。でも、不思議なほど違和感をもっておられなかった。おそらく、彼はキリスト教への批判を観念的な教えの中できいていただけだったようで、むしろ、実像にふれたことを感謝しておられたようだった。クリスチャンである私は、創価学会というとそれだけで敬遠したくなるけれど、いろいろな先入観をはずして、「人対人」の交流をもつことができたら、きっともしかしたら伝道の道も開かれるかもしれない。上の名刺は、ボクが東京を離れ、やがて九州をめざしているときいたあとで、彼が「東京であったことが九州でもあるかもしれない」と、迷った時にと、かの名刺の裏に紹介状を書いてくださったものだ。“創価学会”という看板だけで、身を引かされるけれど、やさしさ、真剣な生き方、同情心の豊かさや、心からの親切な行い、それに真剣な求道の心についてだけでいうと、クリスチャンより豊かな人がいるかもしれない。救いは、ただ十字架の恵みによることをあらためて思った。実は、修学旅行の時、東京で彼に再会した。学生服をきていたので、あらためて高校生だとわかったみたいだった。その時、「実は、ボクのクラスで君のこと話したら、是非その人と文通したいということになっちゃってね。勝手なことだと思うけど、君のところに文通の願いがいって、迷惑だとは思うけど、言った手前、返事を書いてやってくれないか」と言われた。ボクは、気分が良かったので、いい返事をしたはいいものの、家にかえって、40通の手紙が来ていたのには驚いた。なんとか10枚だけ返事を書いて、今とても忙しくて返事書けないと書いて返事を送った。そうか、女子高だったみたいだとわかった。そのあと、「クラスの10人だけ返事をもらって、自分に返事来ないのはなぜ」だの「便せん2枚で、2枚目に文字がないのは、縁起悪い」だのさんざんな展開になった。もちろん、かの教師には、丁寧にお詫びを書いたが。「クラスには、なんとか説明したので、申し訳ない。お騒がせしました。」という返事がきて沙汰(さた)止みに。あー・・・。やれやれ。 
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高校3年生 聖書研究会のこと

 ボクが高校3年生になったころ、すでに、将来伝道者になる道を進むことを決めていたこともあり、高校の中で「聖書研究会」を立ち上げた。それには経緯があった。
 あの頃、OMF宣教師たちが、札幌都心のビルの一角を借りて、「ユースセンター」の集いをおこなっていて、ボクはたまに誘われた。山内修一さんのゴスペルがさかんにうたわれ、宣教師は流ちょうな日本語で、メッセージを語る。それだけの集会だったけど、多くの大学生が集っていた。特に、医大生及び医大志望の学生が多数入信。その中に、医大志望のK君がいた。
 K君とはすぐ親しくなり、彼が「今いるところで、可能な限り最善をすることが、主のためになると思う」という言葉が印象に残った。K君は医学部の受験を控えていたにもかかわらず、受験校の環境で、聖書研究会をおこなった。ボクは、その志に感銘を受けて、自分の高校でも「まね」をしたいと思ったというわけ。でも一番の要因は、ちょうど、あの時期に在籍していた教会に、その高校の教師が2人いたので、「顧問」になってくれるという話がすぐにまとまって、話があれよあれよという間に進んでいたこともある。 公立学校でも、直接伝道といわなくても、顧問が2人いて、「聖書研究会」ということで、学生会で“認可”された。聖書を学ぶ時間をとったけど、2人くらいは常連はいたけど、あまり盛んになったとはいえない。自分の心を内省できるような余裕がなかったからかもしれない。でも、この働きで、ボクが学生の時、一人が入信して洗礼を受けた。そして、卒業してから、教会学校に通っていた姉妹たちが「後継者」になってくれて、数名が入信したとうかがった。この姉妹たちは、高校在籍の時、ゴスペルバンドをつくり、札幌でおこなわれたミクタムのオーディションに合格し、自作のゴスペルで、ミクタムからテープも出されていたことを後日うかがった。ボクは、東京での神学生生活が多忙だったこともあり、卒業後はあまり彼らをフォローしなかったのが気がかりだった。あの時、ボクに「今主のために何かできることがあるなら、ためらわずすぐ実行したほうがいい」とアドバイスしてくれた医大志望の浪人生は、その後、札幌市内で開業医をなさっている。
 「今、主のために何かできることが見つかるなら、ためらわずすぐ実行したほうがいい」という言葉は、ともすると優柔不断なボクが、信仰を、生活の中の行動と結びつける聖書の読み方に導いてくれたのだと思う。
 学園祭があった。その時、「聖書研究会」もなにかのアピールをしたかったが、アイデアが浮かばなかった。ただ、一部屋あてがわれただけ。ボクは、模造紙をつなげて巻物のようにし、そこに、びっしりと「キリスト教」の説明を書くことにした。あまり、伝達のことを考えたわけではなかったけれど、すぐに神学校に行くことにしていたので、その準備とも思ったからだ。模造紙およそ10枚。創造や聖書、それに主の業と教会、終末にまで及び、簡単な“組織神学”みたいだった。ボクは、この「研究発表」をつくるために、はじめて部室で徹夜した。
 文化祭当日、ボクは、OMF宣教師マーチンさんにお願いして、その部屋で「講演会」も企画した。10名くらいの“物好き”が集まってくれたけれど、その中には、たぶん本当に求道してくださった方もあっただろうと思う。徹夜でぼけていた頭には、それさえ認識できなかったかもしれない。 普段、気にくわないとおもっていた教師も、数名真剣に読んでくれて、講演会にも出てくださっていた。正直、これほど人心を集めたことに内心意外であり、正直驚いた。不信仰だったなと思う。
 確かに、やっつけ仕事だったけど、それでも、主は今おかれている場所で最善をなそうとする思いを受け止めてくださるのだと思った。
 学園祭が終わったとき、いよいよ卒業まで2ヶ月となった冬のこと、顧問の教師がやや興奮して、「実は、北海道のギデオン協会から、三笠高校の学生300名に、英対訳付新訳聖書をプレゼントしたいと申し出があった」という言葉を伺った。
 一週間後、急遽、体育館に「300名限定で、聖書を贈呈するセレモニー」をおこなうことになり、あの高校で主は1972年の冬、ボクが考えてもいなかった方法で、高校学内に聖書を配布してくださったのだ。ボクは、一応「聖書研究会」の部長ということになっていたので、なんとかマイクの前で挨拶。とても落ち着いてはなせるような雰囲気ではなかった。ただ、主をあがめた。あの300冊を受けた高校生の中で、誰か信じた人がいる。いつかその聖書をひらいて、入信し、どこかで教会の奉仕者として召されている。そう思うと、わくわくする。
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高校生のころ(1)
 
  道内の公立高校に入った私は、高校の3年間を有効に使うことに決めていた。いや、誰かに「高校時代勉強しすぎて、北大に合格した翌年に、亡くなったのもいる。無理しないように」とうかがってたこともあって、“受験生ブルース”の「サイン・コサインなんになる。こんな受験生に誰がした」みたいな高校生は絶対に避けようと考えた。
 それで、高校入学直後、学年ごとに、目標を設定することにした。高校一年で、米山正夫訳「ドストエフスキー全集」を読破すること。高校二年で、日本横断のヒッチハイクをすること。高校3年には、校内で「聖書研究会」を実現することであった。
 結果としては、この予定はもくろみ通り、すべて実現した。2年の時のヒッチハイク旅行記と、「聖書研究会日誌」は、別に紹介できると思う。それで、高校一年の時は、学校ではほとんど勉強らしい勉強もせず、赤点すれすれで通ることをよしとした。
自分の時間は、ほとんど、「ドストエフスキー」に費やした。中学の時、「罪と罰」に引き込まれてからは、引き寄せられるように、ドストエフスキー三昧の日々だった。夏休みには、ほとんど食事もあまり食べなかったので、極端に痩せていたし、ひたすら暗い顔をして読書にいそしんでいたので、両親がずいぶん心配した。結局、読破とはいかず、“作家の日記”は読まなかった。結婚に導かれて子どもが生まれたころ、作家森有正氏がドストエフスキー論を書いておられる文章に接し、高校生の頃のボクの捉え方が間違えてはいなかったことが確認できたので、うれしくなり、(森さんとは何の面識もないけれど)生まれた長男の名前を“有光”とつけ、森有正氏から一字を頂戴した。中学生の頃からめがねのお世話になっていたが、あの半年あまりの乱読で、かなり視力を落としたと思う。乱読とはいえ、副産物は、キリスト教信仰についての確信を深めることができたということ。特に、「カラマーゾフの兄弟」では、キリスト教が真理であることの意味を確信できたと思う。もう一つは、私は3年の時、なぜか「卒業文集」の編集を頼まれ、私は、最期の手記に「罪と罰」の感想文を書かせていただいたこと。特に、信仰のあかしと思ったことで、非常に難儀な仕事を引き受ける決心をしたのだった。(私は、唯一赤点だった授業は、「世界史」だったとどこかに書いたが、それは暗記中心のコンテンツを拒否したからだったが、あの赤さんがこの文集をみて、何かごちゃごちゃ言ってたが、彼(高校教師)の奥さんがミッションを出てどうのこうのと言っていた。でも、「赤点の恨み」はずいぶん深かったみたいで、今でもそのことを覚えている。)
 あまりいい生徒ではなかった。小林秀雄さんの「ドストエフスキー」を道しるべにしつつ、彼の著作を通じて、信仰とは、気分がいいとか悪いとかの感情に左右されるのではないこと、人生に人格的な首尾一貫性を与えるのだということがわかった。
  獄中での異常な体験は「地下生活者の記録」、そして、死刑判決を受けて、死刑数分前で特赦を受け、受刑者たちが狂気した様子を描写している「地下生活者の記録」「悪霊」、ゾシマ長老に内面の信仰を語らせ、その一方で悪魔の言い分がどんなものであるのかを書き記した「カラマーゾフの兄弟」そして「未成年(未完)」。興味深かったのは、彼が晩年に、作家としての活動の集大成として「偉大なる生涯」という仮題で、キリストの生涯を描こうとしていたが、実際には果たせなかったといわれていることだった。獄中で、新訳聖書を渡され、読みあさることで、求道が始まったともいわれる。そのような文豪ドストエフスキーには、賭博癖という生涯の“罪”が存在していたということを知らせてくれるのが「賭博者」。心理描写は、空想ではなく、実体験の作品。すれ違いの恋いを表現した異色作品の「白夜」。正義と不正義の間を揺れ動きながら、老婆殺しの機会に、傲慢な心を砕かれる「罪と罰」。何度でも、読み返してみたい作品が並ぶなか、ひときわ心に止まったのは、「キリストのヨルカに召された子どものはなし」という小品。これは、「作家の日記」にみられる。クリスマスの夜、餓死しなければならなかった少年の様子を切なく描いた、すぐれた小品。文学によって、どれだけ心がキリストの視点に近づいただろうと思った。
 評論家の小林秀雄氏、哲学者の森有正氏のほかに、あの政治学者の丸山眞男さんが評論を書いておられたと思う。
 文壇のみならず、ロシアキリスト教の影響を各界に与えた文学者だったと思う。
 それで、期末試験はついに世界史が赤点だったわけだ。・・・いいや、断じてそれはないけどね。
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中学のとき級友になぐられたこと

 北海道の田舎、全く普通の公立中学校。ボクは自覚が全くなかたんだけど、クラスで目立つほうだった。
 家は普通に貧乏な家だった。でも、それだけに、母がいちいち「我が家自慢の息子」と指折り数えていたらしい。中1の時、クラスで選ばれて弁論大会に出た。最優秀賞だった。翌年、ブラスバンドの部長となり、学園祭でトランペットのソロの出番があった。いつも成績トップだったわけじゃないけど、いくつかの科目でいい成績だったので、目立つことが多かったらしい。
 中学3年のある日、教室に入ったとたん、待ち伏せていた輩(やから)が「このやろう、むかつくんだよテメー!!」と叫ぶなり詰め寄ってきた。ボクはいきなり胸ぐらを捕まれ、左頬をなぐられた。めがねがすっ飛んだ。あの瞬間の耳がビーンとなっている音とか、頬がしびれた感覚は今も覚えている。いや、あいつの名前はMといった。学生服の下にシャツも下着もなにもつけていなかった。記憶の中に焼き付いて、やたら覚えているなぁ。被害を与えた側は、すぐ忘れてしまうけど、被害を受けた側はそのことを忘れない。それは、中国や近隣アジア諸国の「ヤスクニ」に対する感情もそれに近いのものがあると思う。
 あのとき、ボクはやりかえすとかも、抵抗も全くしなかったけど、ただ無性に涙がでてきた。ただ、後から職員室で彼が弁解のように言っていたのでは、「ヨシイクンも殴りかかってくると思ったんだけど、殴り返さないし、泣き始めたので悪いと思った」だった。殴ったのは、クラスのいわゆる「不良」といわれてマークされていたやつで、家庭環境があったかもしれないが風呂に入らないので、いつも浅黒く、体臭がしていた。彼は、サッカー部だったから、いつもブラバンだけに「部活の予算」が特別枠でまわるのを快く思わなかったのかもしれない。(楽器は、当時でも一台3万〜20万円した)
 ボクが殴られるのを現場で見ていたクラスの女子が、担任に言いつけたみたいで、彼は職員室に呼ばれ、こっぴどくしかられてたみたいだけど、後から実はボクも呼ばれて、「なぐられたおまえも、なぐられるような(なにかの)態度があったんだろから反省しなさい。」といわれ、何を反省していいんだかわからなかったけど、職員室で『喧嘩両成敗』とかいって、あいつと握手させられたのさ。この時が一番くやしかった。だって喧嘩をふっかけてきたのはあいつだし、ほんとうは殴り返してやりたかったんだけど、殴りかえす勇気もなかったし、やり合って負けた時のかっこわるさが気になっていて、やりかえせない自分に腹が立って悔しくて泣いただけだから。
 でも、この時から、いつも教会できいていた「自分が罪深い」という意味がわかるようになったので、その年の冬、ボクは悔い改めてイエス様を生涯の主として受け入れ、某教会で洗礼(銭湯で浸礼)を受けた。
 いい気になっていたとは思わなかったけど、やはり、知らぬ間に「ねたまれるような」言動をしていたんだと後から気がついた。傲慢さは、いつのまにか、心の中にしみこんでいたらしい。
 主にあって行った言動だとしても、それが他人からねたまれずに済んだらなら、それはそれで幸いだ。
 でも、主にあった言動を示した時、それでも、隣人から妬まれるようなことでもあるなら、むしろ主にあって光栄なことなのだと、今ではそう思う。
 

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吉井家小史
(敬称略)

  コンベンションでの奉仕の後、私は札幌の実家に行き、父の家族のことを伺ってみようと思った。これまで、断片的に聴いていたこともあったが、「家」がもつ意味をもう一度考えていたからでもあった。

 「とうさん。とうさんの兄弟のことをきかせてもらえんだろうか。」と隠居して、まだそれぼどボケも進んでいない父に、今のうちにきいいておきたいと思って、私は父をそばにおいて、聞き耳をたてるように、メモ用紙を用意した。
 父は老齢のため、今は補聴器が必需品となった。
 あまり意識しなかったが、北海道にいながら、ゆっくりした言い方は、完全に大阪の言葉だ。
 子どもの頃、「あのな、早い話がなぁ…」といいながらなかなか本論に入らないという、ただそれだけのことで、妙におかしくて笑いに誘われたものだった。それもそのはず、父は20くらいまで大阪で、大工手伝いをしていた。建築物の必要に応じて大工道具を加工する何とかという仕事〜、これはメモしなかったな。
 
 私の祖父は、順次郎といい、生まれも育ちも和歌山県十津川村、いわゆる「いも侍」の末裔として少年時代を過ごした。しかし、かの十津川村洪水事件で、明治政治は天皇の名において北海道開拓を指示し、十津川村住民は故郷を捨て、開拓農民として、北海道未開の地に新天新地をもとめたのである。しかし、もともと、「臨時雇い」みたいな侍だったので、北海道には屯田兵として出き、要請に応じて、戦地に赴くこともあった。棄民政策だったというみかたもあるが、あまり的を得てはいないと思う。
 新十津川住民は、困難にもかかわらず、むしろ荒れ地の開墾を誇りにしていたからである。
開拓生活は、後に「新十津川米」として荒れ地に豊作をもたらし、やがて「内地」の人々にも知られるようになった。
 私の中にも、どこかしら祖父の頃の開拓者精神が流れているのかもしれない。
 祖父順次郎は、新十津川開拓に向いたものの、子どもたちが幼少の頃、新十津川村の開拓農民としての初期の苦労からか、私が生まれた頃にはずいぶん前に亡くなっていた。そのあたりのいきさつは定かではないが、新十津川開拓は、もともと泥炭の地であったことから、農作用は過酷をきわめ、作物の不作が続き、過労死したとしてもおかしくはなかった。NHKで放映された「新十津川物語」は、そのあたりのいきさつをリアルに描いた名作だった。でも、あのドラマはつくりものではない。すべて史実の検証に裏付けられている。

 順次郎の妻、つまり私の祖母フサは、食べ盛りの大家族を構成していた子どもたちを、女手一つで育て上げた強者であった。
 92歳にいたるまで、老衰の影もみせず元気だったのは、その頃の気合いにも似た波乱に満ちた生涯にもよるのだと思う。きわめて熱心な浄土真宗の信者。90になって、私の母の葬式(キリスト教式)で姿をみたが、その3年後、つまり93歳でなくなるまで、矍鑠たるものだった。こちこちの仏教徒。でも、幼少の私は祖母のところに行くのが、心底楽しみだった。
 あのころはクリスチャンホームではなかったので、いわゆる法事で出向くこともあったが、「新十津川のおばあちゃんに会いにいく」というだけで、よく三笠から新十津川まで遊びに行っては好きなことをして、迷惑をかけたものだった。
 あの村には、電気はあったが、電話とか、水道はまだなかった。

 長女正子(まさこ)は、幼少の頃なくなった。次女八重子(やえこ)は、現在でも90も近くになって、京都にて健在である。
 次は長男の明(あきら)。早くに亡くなった。
 次に次男の清(きよし)が生まれた。
 清は、大阪のとある大企業の重役にまでなったが、病に倒れてすでに亡くなっている。
 3男の忠(ただし)は、唯一新十津川の家を守っているが、長年農家をし、現在は事実上隠居、悠々自適に暮らしている。
 それから次女の三代子、
 次にヤス子が生まれた。生きておられるかすらも定かではないが、なくなられたのかもしれない。
 次に、4男の隆(たかし)が生まれた。戦死したと伝えられている。
 それから5男が、我が父の勝(まさる)。73歳になったが、今元気を回復した。
 そして、6男勉(つとむ)。7男の保(たもつ)が生まれたとき、フサは11人の子どもを生み育てることになった。
 
 昔は子どもが多い家族が多かった。
 それに、北海道がおしなべて「官主導」の気風が健在である。札幌農学校も、そして新十津川開拓もしかり、もちろん、ホームスクーリングについて、北海道民がどのように考える傾向にあるのかということも、この背景と無関係ではない。

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三笠時代
 
 三笠市は、京都の「三笠山」を市の名前にいただいた炭坑の町である。最近、北朝鮮のスポーツ選手が試合に負けると「炭坑送りになる」と報じられていて、我が身の育った環境のことを思うと不思議な気がする。
 私は、ブルーカラーもしくは第三階級ともいわれる炭坑の町で生まれそして育った。その地域の住民の「地位は高くなく」知識人が多かったわけでもなかった。
 父が札幌での公務員の仕事を離れて、なぜしがない一塊の炭坑夫になったのかは定かではない。ただ、生まれたところは炭坑の町であったことや、抗夫の家である「炭住」の町は、雪が降ってもすすで煙って薄墨を蒔いたような町並みが懐かしくも私の幼少から少年期のイメージが残像のように焼き付けられている。
 父は新十津川出身のプライドをもっていたが、その一方で炭坑暮らしを家族のために忍んでいたともいえる。「底辺」という言葉をしばしばきいた。けれども、底辺と呼べるような生活にはむしろ遠く、労働組合のような組織化がされていたために、もはや古語にもなろうとしているが「左翼的」な環境にあったとはいえる。そんなわけで、高校生時代には、一度、左翼的と呼ばれる政治的集会に誘われたこともあったのだが、言葉にあらわせない違和感があって、二度とは行かなかった。それは、キリスト者の自覚が生まれていた当時の私にとって、政治の話題は、妨げになるとずっと思っていたからでもある。(あの集会では、「階級闘争」「革命」がさかんに熱っぽく語られ、当時わけがわかる筈もないが「トロ…」なる言葉が、反感と憎悪とともに語られていたのが印象的だった。)
 ただ、炭住には、いわゆる底辺意識の暗さでは全くなく、気兼ねしない労働者たちのコミニティーがあったといって良い。どこもかしこも、炭坑景気の時代。家は狭かったが、ただし、貧しかったという印象はない。
 少年時代の私にとって、忘れられない記憶がある。父が「メーデー」の日に東京に行くことが決まっていて、父から「東京のおみあげ」を買ってきてもらうことになっていたのだった。弟たちは、望遠鏡。私は「顕微鏡」がほしいということになった。
 およそ、一週間後、父は「あめよこ」で手に入れたという望遠鏡と顕微鏡をおみあげとして買ってくれた。
 私は顕微鏡に、ずいぶんはまった。何を見たかって。そりゃもう。
 弟たちと私は、まず昆虫をつかまえては、拡大して驚喜した。とくにはえの拡大版はものすごい。モンンスターなんてもんじゃなかった。それに飽き足らなくて、今度は「蜘蛛」「蚊」。ついに、髪の毛や、鼻毛まで拡大してみた。いや、はまりにはまったもんだね。レンズを保護するための、プレパラートという小さなガラス板は、あっというまになくなった。
 (未完)
 
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雪のこと

 今年の11月に、「チアにっぽん」いうクリスチャン系のネットワークが主催するホームスクーリング・セミナーがあって軽井沢へ行った。
 青梅インターから軽井沢インターまで、ひた走った。そこは、東京にはない紺碧の空。そして、いつか展覧会でみた紅葉の本物がまぶしく目に写った。
 かなり快適なドライブは、エンジン音だけをバックグランドミュージックにして、ひたすら走った祈りの時間。やがて、昼過ぎになると、雲が濃くなり、やがて、初冬を思わせる雪がちらほら降ってきた。
 私の生まれ郷里の雪にも、この雪のような特別な静けさがあった。
 少年の頃、私は夜の帳(とばり)が降りたころに出会ったこの雪の静けさがひどく気に入っていた。昼間降った雪は、1メートルほど積もっていた根雪の上に、うっすらと綿のようにかぶさり、夜がふけても、静かに降り続いていたので、街路灯に照らされてたボタン雪は、漆黒(しっこく)の空中から降りてきて、家の光に曝されるやいなや、光の境界線から湧いてきているようにも見えた。
 少年の頃の私の家には、テレビがなかったこともあり、退屈しのぎにその様子が気に入って、ポツンとひとりで夜中、外に出たものだ。
北海道の外は寒く、零下10度以下。それでも、一人で、外套やアノラックなど着けずに外に出た。寒さを我慢しながらポケットに手を入れて、しばらく見ていた雪は、街路灯の光の境界線からわき出て、それから大きくなるようにも見えた。
 不思議な不思議な別世界。
 しばらく、私は、しばらく雪を見上げていたが、全く何も考えないで、空にむかって口を大きくあけた。「綿雪(わたゆき)」という言葉を知っていたので、「綿菓子(わたがし)」みたいに降ってくる雪を味見(あじみ)してみたいと思ったからである。
 もちろん、味などなかった。もちろん、都会の汚れた雪ではなかったからできたこと。
それもそうだ。でも、いやその雪には味があるように思えるくらい冷たく、口のなかで瞬時に消えた。そして、自分の黒い袖を出して見ていると、雪は何と結晶の形をしたまま、
 蝶のように親しげにそこに止まって、しばらくするとゆっくり消えた。
 見事な芸術品。創造者のみ業。

 あの頃の雪を、軽井沢で思い出した。
 少年の頃には、テレビがなかったので、
 いろいろなものが、かえって今よりよく見えていたのかなァ。
                (遊々舎 月刊カレンダーより転載)
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盲腸が流行っていた

 私が学校ぎらいになったのは、実は、いじめが原因だった。
 小学校時代、キックボクシングなるものが流行って、休み時間にもなると、廊下や教室では「跳び蹴り」の真似がみられていた。最初は、遊びだった筈である。当時のだれもがそう思ったし、学校での子どもの「じゃれ会い」など、傍目には仲の良いことのあかしであれ、全くのいじめだなどという認識はなかったに違いない。でも、確かに最初は遊び半分だったのだ。ところが、あるとき私を蹴り上げる相手として私を「ターゲット」に絞る者があらわれた。
 私としては、蹴られたあとで、大げさに倒れるふりをしなければ、蹴り上げる強さがさらに強くなったのだ。だから、いやでも、おおげさに痛がってたおれるふりをしなければならなかった。でも、見た目には、教師にも級友達にも楽しく遊んでいるだけにしか見えなかっただろう。
 その翌日、学校を休む口実をみつけようとしていた。「楽しそうにしているのを演ずる」のがひどく耐えられなく、そして辛く、内面はズタズタだったからである。
 ただ「お腹が痛いことにしよう」といえば、万事がうまくいくし、いやな学校を公然と休めるし、ぜ〜ンブうまくいく筈であった。
 ところが、私の「お腹痛い」をまともにうけた真面目な父は「これは、盲腸かもしれん。このところ死にはぐったひともいたようだしなァ。ひとつ、専門医にみてもらうとするかァ」とさっそく病院行きを決めてしまって、事態はあれよあれよというまに勝手に思わぬ方向に展開を始めたのだった。

 やや恰幅のいい白衣姿、町医者は、黒ぶちのメガネをかけて「お茶の水博士に似ている」と思った。私は、一週間後、レントゲン撮影の結果をききに病院で医師の前にいた。「盲腸ではない」といってほしいという思いを内に秘めて…。そこであの“お茶の水博士”は、しばらくレントゲン写真を見ながら、「ウーン。これは虫垂炎みたいですね。ベッドが空き次第、すぐ手術しましょう。」と意外とあっけなかった。
 父はレントゲンを見ながら「そうですか、どれがその場所でしょう。」と言ったのだけは覚えていて、医者が説明をしていたが、何を言っていたか覚えていない。あとは、頭の中が真っ白だったからである。お腹いたくないのに…。今更嘘だともいえないしとかなんとか思って。

 「お医者さんは、来週手術だって言っておったぞ!」
 私はその予想もしない父の言葉に青くなっていた。台所で聴いていた母が、神妙な面もちで「じゃ、来週切腹(虫垂炎手術のことを当時そのように言った)だね。」と言った。
 私は、ただ、学校に行きたくない一心で、父に「お腹が痛い」と言っただけなのに…。
 私は、その言葉通り、一週間後「虫垂炎手術」を受けていたのである。
 2週間の入院。
 いやな思い出。でも、もしかしたら「嘘から出たまこと」だったのかもしれない。
 けれども、あの時の「お腹痛い」はホントにマジに嘘だった。 
 私の手術の後、近所のA子さんも、弟もなぜか同じ「虫垂炎」で入院していた。
 流行っていたのかもしれない。
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 英国人宣教師のこと
 
 人生を変えた出会いは、きっと誰にでもあるだろう。 
 私にはその一つに、英国人老宣教師との出会いがある。
 吉井家は、父の仕事の関係で、当時北海道三笠市に在住していた。三笠は私の生まれた街でもある。
 私が中学生だった頃、三笠の小さなホーリネス教会に、訪れた英国人宣教師がいた。
 それが、「老フィッシャー」その人である。
 当時、「フィッシャー」という名は数多く宣教師にもみられ、英国人宣教師たちのなかで、老齢なので「Old」をつけて他のフィッシャーさんと区別するというただ便宜的なものではなく、やはりこの方に対して尊敬を込めた称号のようなものだったらしい。
 当時OMF宣教師の重鎮ともいわれていた老フィッシャー先生は、実はほとんど日本語が片言だった。
 それには、歴史がある。
  宣教母体であったOMF(OverseasMissonariesFellowship)は、かつて創始者ハドソンテーラーによる創設から数年後には、中国奥地伝道団CIN(China Inland Misson)と呼ばれ、英国人宣教師は、中国を宣教地としていたのであり、老フィッシャー師は中国語を母国語のように話せた方だったと、後にどなたかから伺った。テーラーなどの活躍が実を結び、中国内地においては、北朝鮮がかつてそうだったように、キリスト教が非常に盛んな時期があったのである。
 しかし、いわゆる毛沢東を指導者とした共産党による一党独裁下に吹き荒れたいわゆる「文化大革命」(1949年)の結果、キリスト教は徹底して迫害され、すべての宣教師が事実上「国外追放」される憂き目にあった。
 多くの宣教師たちは東北の青森や、北海道に新しい宣教地をもとめ、教会開拓をはじめたのである。札幌を中心とした都市ばかりでなく、いわゆる炭坑地帯を含めた田舎伝道がなされた。フィッシャー先生が、あえて通訳を介さずに、覚え立ての片言の日本語をつかって説教されたのには、それ自体に、ハドソンテーラー以来のいわば「現地同化」という宣教手法があったということを後で知らされることとなる。
 ハドソンテーラーは、中国人伝道のために、たとえば、頭髪の前を剃り、後部にいわゆる「おさげ」をぶらさげた「弁髪」の姿をとったといわれる。それは、聖書に「より多くの人を獲得するために、より多くの人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです」(第一コリント9:19〜20)とあるからである。この伝道手法をそのまま文字どおり実践して、中国人になりきった上で宣教活動を続けて成果をあげたのであった。この伝統は、テーラー意志を嗣ぐ宣教師たちにも、徹底した日本語学習システム(たとえば、ミッチェル方式)という内容で継承されたのであった。
 能書きが過ぎたが、いずれにせよ、白髪の老宣教師は、ヨハネの福音書から「私はまことの葡萄の木」(15章)の箇所を、言葉をおぎなうために図示しまでして、メッセージを語られたのである。
 「キリストを信じることを決めた」というより、このメッセージからキリストが心の中に入ったような思いがした。知性的ではなく、当時は情緒的であったといえなくもない。しかし、聖書の福音がわかるというのは、「目から鱗が落ちる」(パウロ)という表現が適切である。しばらく考えてわかるとか、「正解が解ける」とかいうものでもなかった。覆われていた膜が、剥がれるという感覚に近いものである。
 説教とは、雄弁や人間的な説得力ではない。少なくとも当時、もし、通訳を介された理路整然とした説教だったなら、心に届かなかったかもしれない。聖書を順々に講解していく、理路整然とした説教をスタンダードなスタイルであるという確信は変わらないが、みことばが人の心に届くという範囲は広く、一つの形式に捕らわれないのだと思う。小説でわずかに引用されたに過ぎない聖書引用が、やがてある人の心を動かすようになるかもしれない。
 宣教とは、そのようなダイナミックさをもつのであろうと思う。
 13才の時にきいた説教であった。その時から、キリスト教徒としての自覚が生まれた。
 老フィッシャー宣教師は、母国英国に帰り引退。そして、いわゆる老人ホームで余生を過ごされたと伝えきいた。。
 そして90才の齢に恵まれた後、天に召されたが、眠るように平穏な最期であったとのことだ。
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器用のなんのって
 
 父は、自分で畑をやるばかりではなかった。
 自分で、和箪笥をつくった。兎小屋もつくった。日用の小物ばかりでなく、小屋や、戸建の家も、建てたのは一軒や二軒ではない。まだ信じられないのであるが、新十津川の家は、父が木材を切り出して、独力で建て上げたという。5年ほど前に久しぶりに見てきたのだが、約50年も経ようとする現在も、木造の家は、健在である。訳有りで、父は好きな大工仕事を、「片手間」にしかできなかたのだが、仕事の片手間におこなっていた筈の大工仕事はまさに玄人芸のそれであった。どうして、本職にしなかったのかは今だに不明である。
 刃物は危険だということで、子どもたちには触れることは許されなかったが、幼少の私は、「日曜大工」の域をはるかに越えた、鋸(のこ)、鉋(かんな)、げんのう、墨壺、錐(きり)、金尺(かなじゃく)、釘(くぎ)、鑢などの「名人芸」に心から魅せられていた。
 ある日、父は何故か上機嫌であり、子どもたちに、はじめて「金鋏(かなばさみ)」の使い方を見せてれるという。私と弟たちは、鉄板を前に、金鋏をもって、「さー。おまえら、よーく見ておれよ。」とかいって分厚い鉄板を切り始めたのである。私は多分7才頃、私は、父が「よーくみておれよ」と言ったので、座り込んで父の様子を見ていた。
 鉄板は2.5ミリほどの厚さで切るのに難儀していたようであった。
 
 ところが、注目していた私は妙なことに気がついたのである。
 父は、ねじり鉢巻きよろしく懸命に金鋏を動かすのだが、容易に切れてくれなかった。少し力を入れ始めた父の口が、鋏の動きに連動して、「開いては閉じる」を繰り返し始めたではないか。鋏と同時に動く口の動きが妙におもしろくて、私は手元ではなく、開いては閉じる父の口元に「注目」していた。どうして、口が動くのかなとか考えながら。

 父は、玄人を目差して、建築士の試験に挑戦した。ところが、田舎大工の知識は技術面では他を凌駕するものの、新建材の「化学的性質」の知識に追いつかず、断念したのだった。当時、建築業はすでに無垢材を使う大工の領域ではなく、合板や接着剤などの化学物質を扱う、化学の専門領域に変化していたものと思われる。

 続く…。
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「仏壇」があった

 和歌山県の十津川地方の浄土真宗は、北海道新十津川村に生き残っていた。
 本家の居間には、巨大な仏壇が陣取っていたし、分家である私の生家にも大きな仏壇があった。盆暮れの時期には、扉が開かれて、抹香くさい雰囲気が漂うのが恒例という当時どこにでもある家であった。
 
 とにかく、どっかりと異常に大きな仏壇が部屋を占領していた。
 幼少の記憶は生々しい。
 詳しい理由はいまだに不明なのだが、あまりに大きな仏壇を「小さなもの」に変えようという話しがもちあがったのである。
 ただ、大きな仏壇を小さな仏壇に入れ替えるなどとはいかなかったらしく、それなりに夫婦の「議論」、というか「騒動」が持ち上がっていたらしい。
 結局「ばちがあたらないように」ということになり、市議会議員であり僧侶ででもあった「名和」という坊さんに、一日がかりで供養をやってもらうということになった。

 私と弟たちには何の説明もされなかった。
 ただ、「おとなしく座っていなさい」とだけ命をじられて、正座をさせられていた。
 そのうち、青々と頭をまるめた太った和尚さんがやって来て、両親となにやら二言三言をかわした後、ムニャムニャと念仏をとなえ始めたのである。かくして、1時間半ほど、非常に退屈で、苦痛に満ちた時間が過ぎた。
 結局、両親は、仏壇を小さくするというただそれだけのために、多大な時間と費用をかけたことに理不尽さを感じていたようだった。
 やがて、それから数年のうちに、家は二回引っ越しをするのだが、仏壇もついてきた。ただし、引っ越しの度ごとに、規模が小さくなっていき、やがて、洋服タンスくらいの大きさになった。そして札幌に越した頃には、ついにはやや大きめのオーデオスピーカーほどになりはてていた。
 大きさを変える都度に、あの「たいくつな儀式」はしなかったと思う。
 熱心な門徒(浄土真宗)であった祖母のてまえ、まがりなりにも仏壇の存在にこだわっていた父母であった。
 しかし、高校生の頃、すでにキリスト者になっていて、「偶像礼拝につながる」という理由で「仏壇」の存在そのものにはげしくこだわっていた私は、ずいぶん「やっかましい」存在だったにちがいないと思う。
 ところが、祖母が93才で亡くなり、母が病に倒れ入院した頃、父はある日突然仏壇の処分を許可してくれたのであった。

 私は、すぐ下の弟を駆り出して「粗大ゴミ」などでは迷惑がられるだろうし、どのようにしたらいいものかと二人で処分方法について頭をかかえた。おりしも、時は真冬でストーブをフル回転していたのに気づき、「ここで燃やそう」ということになった。
 いざ燃やすとなると、非常に難儀なものだった。全てが燃え尽きて灰になる頃は朝6時をまわり、うっすらと明るくなっていた。まさに「新しい朝」の到来を知らされるように感じた。
 仏壇は、火のなかに消滅する最後の最後まで、魔物のようにその存在を誇示していたのである。
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大やけど事件

 
 私の幼少時代、父は様々なわけありで数年務めた公務員をやめ、しがない炭住(炭坑住宅)の長屋暮らしをしていた。
 小さな2Kの部屋に、親子5人が川の字になって寝るのはそれほど苦ではなかった。いや、むしろ床につくのが楽しみでもあった。そのわけは、定番の「枕投げ」。それに父が酒が入って機嫌のいいときに、あれこれと虚実あいまじえた「おとぎ話」をしてくれるのを楽しみにしていたからである。父の枕話は、仏教講話に漫画のような関西風のギャグで脚色を加え、孫悟空が活躍する西遊記などが中心だった。
 あの日の夜も、外は寒く、深い雪が周囲をつつんでいた。
 ひとしきり、話をきくと、私たちはやっと眠くなる予定であった。
 悪夢のようなその日も、外は深い雪だったと思う。
 ストーブの火は、やかんの白い蒸気を伴って、赤く燃えていた。
 当時子どもたちは、早くから「寝間着(ねまき)」に着替えた、父がいつもの同じ「寝る前の話」をしてくれるときいていたからである。
 私は、妙にテンションがあがって有頂天になっていた。それで、寝間着のひもをはずして、「孫悟空のにょいぼう」とかいって、頭の上でぐるぐる回し始めたのであった。狭い家のなか、大きく回した紐は壁や障子にもぶつかりはじめていたのに、私はやめなかった。
 事件は、その矢先におこったのである。
 やがて、回転したひもの先端が、ストーブの上にあった煮えたやかんの柄を直撃したのである。躍り上がったやかんは、白い煙をあげ、飛び上がったと見るやいなや、ストーブの側に暖をとりながら、寝そべって漫画本を読んでいた弟の背中を“ 煮え湯 ”となって直撃したのである。あの時の瞬間のことは、時間が止まったように、著しい記憶として脳裏に刻まれている。
 白い蒸気の中、弟の激しい叫び声があがる。
 父の険しい顔。父は、ただちに、弟の上着を引きちぎり、その場で背中に水道水をかけた。
 母の甲高い声が響き、水道の水が直接ジャバジャバと弟めがけて音をたてていた。
 騒ぎをきいて、近所のおばさんが不安そうな顔をして玄関先に立っていた。当時家に電話などはなかったので、町の医者にはかろうじて連絡がとれたものの、診察は「明朝すぐ」ということになった。
 夜中、一晩中、弟は痛みに堪えかねて、泣き叫んでいた。
 母がおろおろとする。
 両親は私を何故か責めなかったが、それがそれでまたかえって私を苛(さいな)むことになった。私の時間は、あの時に止まった。一晩痛みで泣き叫び続けた弟の声は、37年以上たった今でも、トラウマのように鮮明に耳の奥に残っている。
 「自分のせいで、弟がこんなことになった」という思いで、引き裂かれるようだった。
  翌朝、父は仕事を休み、母を伴って病院にむかった。
  診断は、全治3ヶ月の重火傷。札幌の大学病院に転院しての治療も、半年に及んだ。
  1年以上の経過をみた後、弟は背中に大きな傷跡を残しながらも、普段の生活を取り戻したのだが、少年だったあの頃は、加害者意識からくる罪の感覚から自由にされるどころか、ますます内向するようになり、やがて言葉を失うようになっていった。読書に慰めを求め、クラシック音楽に癒やしをもとめたが、得られなかった。他人と言葉をかわすことが、苦痛になっていたのである。いや、生きていることそのものも…。

 そのような悶々とした日々が続く中、町のホーリネス系の教会が主催した家庭集会の案内を母が受けることになり、「教育的配慮」を強く意識させられた母は、私や弟たちをつれて家庭集会に行った。その中で示されていた「十字架上のキリスト」に私の心は引きつけられた。やがて、母は、ある事情から教会に行くことを止めたのだが、私だけが教会(日曜学校)に通うようになり、中学のとき受洗。教理の理解もなにもあったものではない、魂の慰め(ハイデルベルグ信仰問答書)をひたすら求めた結果だった。
 やがて、札幌に転居してから、母が信仰を復興。そしてあのやけどを負わせた弟もやがてキャンプに参加したある医学生によって主を信じた。
 私のすぐ下一歳違いの弟も、さまざまな経過のなかで、やがて洗礼を受けるようになり、現在2家族とも不思議なことに、熱心なクリスチャンホームに導かれている。
 母が亡くなり、父が洗礼を受けてから、数えて18年も経過している。
 すべては、あの「やけど事件」からだった。
 主のご計画とは、なんとすごいものだろうかと思う。
 「神を愛する人々、すなわち神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださるということを私たちは知っています。」(ロマ8:28)とある。
 それゆえ、私にとって、信仰とは抽象的な思考の世界ではない。
 現実そのものである。
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