茶話会の時間

吉井春人ホームページへ




 #【読むこと】と【書くこと】
 #【成功】と【失敗】
 #消極的な文化のなかでの禁止
 #「住基ネット」渦
 #どこまでいくのかな
 #「東洋のエルサレム」
 #「スットコドッコイ」と「ヒョウロクダマ」
 #人が関心を払おうとしないこと
 #出る杭
 #一つの道・まっすぐ
 #入学金訴訟
 #カーネギーホール
 #紅茶とコーヒー


紅茶とコーヒー

 ホームスクーリングには全く関係ない、嗜好のはなしで恐縮である。
 郷里の北海道で少年時代、英国人宣教師夫妻に昼食に招かれたことがあった。私は高校生。そこで伺った「紅茶の話」は、実に印象的だった。「イギリス人の紅茶好きは、ほとんど病気のようなものです。」一日2リットルは少ないほうなのだそうだ。
 最初、かならず食器は暖める。
 実は紅茶の時間は「食器」の話から始まっていたのだ。食器の皿は、実は熱いのを醒ますためだとか、取っ手がついているのは、実はそれも、あれこれ工夫されたものだのだとか。お茶とは、飲み物であるけれど「それは器(うつわ)を堪能して飲むもの」だとかおっしゃっていた。あたためる時間とは、お湯に入れてかれこれ5分はおく。それから、紅茶の葉。これは、ポットにカップ一杯について小さじ一杯と決まっていて、必ず紅茶ポットのためにもう一杯いれる。次に、ティーハットという毛糸の帽子みたいなものをかぶせる。そして、必ず3分の経過を待つこと。早すぎても遅すぎてもいけない。その間に、カップに入れるためのミルクを暖めておく。「日本では、レモンティーなどがありますが、イギリスではどうですか」と尋ねると、初老の宣教師は、ややまゆをひそめた。「本国では、紅茶にはミルク以外いれません。」ここで、私は、紅茶にレモンを入れるのは本場の飲み方ではないということを知った。ティーの葉が完全に開いた頃、カップ4分の1くらいのところまでミルクを入れる。ミルクとは、いわゆる「凝縮ミルク」ではなく、必ず普通の牛乳をつかう。砂糖は入れないほうがおいしいのだそうだ。カップに注いだ後は、勿論ただ飲めばいいのだが、「必ず」食器の感想を言う。「紅茶を飲みましょう」から、食器の感想までたっぷり30分はかけていた。このようなティータイムが一日3回。これが英国式。優雅というか、面倒というか。…。紅茶そのものというより、このような時間の流れと会話を楽しんでおられたようだ。いやもちろんうまい紅茶だったけれど。
 異国の地にあって、なおも「紅茶」か。
 私がもし宣教師になって海外に出かけたとすると、蕎麦とか寿司は好きだが、別にどうしてもというわけではないし、ましてや「日本茶」などにはこだわらないだろう。米やみそ汁が好きだが、でも、それがなくても暮らしていける。納豆も好きだが、これもどうしてもというわけではない。
 英国人が信仰上の教師だった時代がしばらくあったので、読書三昧がほとんどだった学生時代、机の左側には、その影響からか「いつもポットと紅茶」の暮らしだった。(私のカップは、紅茶のシブがひどくこびりついていたのを知る人は知る)その後、長老教会のメンバーになって、生活が紅茶からコーヒーに完全に入れ替わるまで、数年はかかった。米国人のコーヒーにも、こだわりがあるにはあるのだろうが、英国人の紅茶へのこだわりと愛着にはかなわないだろうと思う。なにせ、あの英国人紳士は、日本まで自分用にマイカップを持参しておられたのだ。その点コーヒーは、こだわりがなくていい。こだわる人もいるかもしれないが、私の場合、インスタントコーヒーは苦手だが、あとは熱いお湯と、マグカップだけ、レギュラーコーヒーがあれば満足、これといったスタイルが浮かばないのがいい。それでも、水と無漂白濾紙には妙にこだわっているけれど。ま。話を戻そう、たとえば私が宣教師になったとして…。そうならないと思うが、
いやまてよ、今コーヒーがないままだと何日もつかな?
 #頁の最初に戻る
 
 
 
 
 
 

カーネギーホール

 テナー歌手として、今や時の人になりつつある新垣勉(あらかきつとむ)さんは、ついに近々米国あのカーネギーホールで公演することが決まったと知人にうかがった。まだ、確認はしていないが、昨今の活躍からすると「ガセネタ」ではないと思う。
 私が東京キリスト教学園在学の時、勉さんは2学年ほど下級生に在学で、部屋は別であったが一年ほど同寮生活をしたことがあり、そんなこともあってか、今回の躍進ぶりが何か誇らしくもうれしい。
 敗戦後、米軍基地の島沖縄。米兵を父とし、琉球の人を母とする。生まれてすぐ父は所在が知れず、生後数ヶ月後、目の治療で誤って劇薬を投与され失明した。敗戦時、沖縄が背負った苦難の歴史そして失明。2重苦。いや、彼にとっては、3重でも4重にも増幅された苦難だったのだろう。
 そんな内訳話をきいて、「よくこれまで生きてこれたな」と誰が思わないだろうか。

 それで、彼は目の見えていた頃の記憶がわずかながらあると言っていた。私も時々だが、英語朗読で勉強のお手伝いをさせていただいた。「生まれつきの遺伝子」といういい方を私はあまり好まないが、勉くんは英語の音を非常によく聞き分けた。私の発音は今でも悪いが、それでも、あの時、彼に相当なおしていただいたと思う。
 そして、当然、歌がうまかった。クワイヤのテナーの端くれに私はいたのだが、ソロ部門はいつも彼が担当していた。
 近くの銭湯に同行を求められて、下駄ならぬ杖をカラコロ鳴らして、短い「弥次喜多道中」をやったこともある。あの時の銭湯談義は終始、軽妙なダジャレで笑わせられる側にまわったのだが、そんななか、会話のとぎれる合間に、ふと過去の記憶が蘇って、ぽつぽつと語り始める場面があった。それが、自分を捨てた父や、母と離れて盲学校で過ごした辛い日々についての、「恨み節」でなかったといえば嘘になる。ニフェーデービル(ありがとう)とかメンソーレ(いらっしゃい)とかいくつかの沖縄方言を教えてくれたなかで、ヤマトでは「あらがき」と濁音で通称されれるが、ウチナンチューでは「アラカキ」と清音で発音されるのだとか。遠くから聞こえる足音だけで、どんな人かがわかる特殊能力があるだとか、あとは食べ物のはなしなど、ま、いろいろ。内面の葛藤を乗り越えるものがあったからこそ、今の勉さんがあるともいえる。
 
 数ヶ月前、あきるの市のキララホールでおこなわれたコンサートに妻と出かけ、楽屋に出向いて挨拶。20年以上の時間の壁は、すぐに越えられた。(ま、個人的にじっくり話するなどという余裕はこれからのことを思うと、ないだろうなァと思う。)
 「おしゃべりコンサート」の中で、日本の教育の現状について的を得た発言があった。差別的な視線を受けた側にあったからこそ、勘所を踏まえた内容だったかもしれない。
 しばらく前にテレビでドキメンタリー番組として、彼の半生がとりあげられ反響を呼んだ。
 キリスト教教職の資格(按手)を受けた。ただし、勉さんがいくつかのメディアで述べておられた、「キリスト教以外の異なった宗教でも、大元はみな同じ」という意見は、宗旨・宗派を越えた活動を支え得るとしても、これは、近代的な自由主義であり、伝統的聖書主義キリスト教の立場ではない。
 勉さんの内面にも、さまざまな紆余曲折があったのかもしれないと思いつつ、私にとっては、複雑な思いだった。もっとはっきり言えば、これは背教とまでは言えないにせよ、伝統的キリスト教教義からのあきらかな離脱を意味しているからである。
 
 いつか私のそのような“本音”も、個人的に伝える機会があればとは思うが、これほど人に知られるようになった今となっては、そのような道さえも閉ざされてしまいそうだ。
 #頁の最初に戻る
 

 
 

入学金訴訟

 
  
 大阪地裁に提訴されている内容の背景には、いわゆる「すべりどめ」で受験し、結果として入学を辞退した大学に支払納入金は、受験料だけでなく施設使用料や、場合によっては同窓会費までも含まれているということがある。進学先が決まった場合でも、使わない施設の費用まで含まれていて、入学していないのに、返還されないのはおかしいというもの。つまり、受験にかかる費用は膨大で、親に対する理不尽な負担となっているのではないかというのが今回の提訴で浮かび上がっている現状らしい。
 受験に成功しても、いわゆる“スベリドメ”であれば、「お受験」の名のもとに、実際に使わない費用まで払わせられていて「あたりまえ」だったらしい。教育にお金がかかることそれ自体やむおえないが、昨今のように、不況のなか、不要と思われる費用までも払わせられるのは、やはり問題なので、いわば程度問題では済まされないということだ。
 事の本質は、ムダや利権構造と切っても切れな公共事業と大変よく似ている。違うところは、今回の提訴が示しているテーマが、家族の交流や、家族の教育力にかかわる深刻な内容を含んでいるということだ。
 日本では、教育にお金がかかりすぎる。
 しかし、これは、ただ日本の問題だけに留まらない。
 一般的には、幼稚園からして、教育費は家計経済にとって重圧となっていて、それがあたりまえという風潮は、ホームスクーラーとしても見過ごしにできないと思った。
 母親が、「一家の団欒」をそこそこに学費捻出のために、外に働きに出る。父親も残業を強いられて、晩餐は家族が揃ったことがないという家庭がざらにあるというのも異常なのではないだろうか。この点、ホームスクーリングにおいては、晩餐の団欒こそが教育の場となる。親と食事を共にするなかで子どもと会話をかわせる時間は、どんな他の教育施設にもかえられないことだろう。
 「文具」や「体育用品」さえ異常に高いといわれる。学校の指定業者から買わせられるので、ジャージ一つとっても量販店などの3倍から4倍の値段で強制的に買わせるシステムなので、たとえば、1000円程度の品物なのに、学校指定では4000円のジャージを買わなければならない、そんなこんなの指定業者ばかりなので、やれ学生服だのランドセルだのと、子どもが数人いて学校にやると、家計は火の車だとうかがっている。
 てまえ味噌だが、ホームスクーリングにおいては、そのような出費がない。これだけではなく、親が吟味した教材を大切に使えていると思う。我が家の国語辞典は、すでに10年以上使いに使ってぼろぼろだ。スポーツ用品にお金をかけたことはない。
 教育費があまりに多額なので、たとえば、ある家庭の長男は全日制進学を断念し、昼間働いて弟や妹の学費を捻出しているなんていうこともざらにあるとも伺っている。「美談」を通り越して、教育の目的から大きくずれた珍事が日常茶飯事になっている。
 我が家には先日、なぜか長女の「振り袖」のレンタルの案内がきた。一日数時間借りただけでなんと、4〜5万円。卒業式に費用がかかるのはあたりまえという風潮なのだ。「買うと御覧の通り高価。だったらね。ねェ、やっぱり借りるっきゃないでしょう!」というわけだ。こう考えてくると、大阪の提訴は、氷山の一角に拘ったにすぎないと思われてくる。
 もしかしたら、ホームスクーリングにおいては、幼稚園から大学まで、ほとんんどお金をかけずに過ごせるかもしれない。たとえば、教育に全くお金をかけなくても、りっぱに社会人になれることを誰か証明してくれないかなと思う。
 それは、ホームスクーリングにおいては可能なのかもしれない。
 いずれにせよ、「教育にお金がかかるのは、あたりまえ」という風潮をなんとかしたい。
 無駄をなくして、もっと有効に家計経済を考えたいからである。
 #頁の最初に戻る
 
 
 

一つの道をまっすぐ

 

 ノーベル化学賞の詳しい内容はわからないが、田中耕一さんが管理職への可能性を遠ざけて、研究に没頭したいというのが庶民感覚としてはうれしい。一方の小柴昌俊東京大学名誉教授にしても「ニュートリノ」に着目し、「何のために」といわれかねない巨大なニュートリノ受信機であるカミオカンデ建設に億単位の国家予算を引き出させたという要素のほうがなにかしか愉快だ。すぐに役に立たなくても、目先のことではなく、研究者の幻を実現できる体質がまだ日本に残っている。「東大では、最下位で卒業した」と強調されていたのが印象的であったし、(なぜ強調なさっていたのかに興味があるにはある)東大名誉教授の受賞に、ある新聞記事が意地悪く「事前工作があったかなかったか」などと論じられていたことが印象に残った。すぐれた研究に対して与えられるのだから、それが民間であれ、半官製のものであれ、すぐれたものはやはりすぐれているのだろう。ごく単純な基準が読みとれるのがうれしい。人脈や営利や力関係をこえた「基準」が、日本では、なぜか新鮮にみえる。…としておこう。
 嶋津工作所では、ここにきてそそくさと田中さんへの報償を検討していると伝えられているが、ユーモラスな会社の情景が目に浮かぶ。田中さんは「研究に没頭できないので、賞のことは早く忘れたい」とおっしゃっているとも伝えられているので、「何でもドンチャン騒ぎのネタにしたがるのはわかるが、今の田中さんにとっては、騒ぎがかえって迷惑になるので、今後の活動に差し障りがないように酒席の数を控えよう」と思う人がきっといるに違いないと想像した。
 おめにかかったことはないが、きっと田中さんはイチローみたいに、偉ぶらずひたすら「使命に没頭したい」という、現代感覚において、「最もスマートな人」の一人に加えらるのだろう。企業の営業中心ベースで埋もれてしまいそうな、日本の普通の研究者が世界に通じる優れた研究をなさっている方がいて、なかなか周囲が評価できなかったというのがおもしろい。
 すぐれたものに対する周囲からの評価は、きわめて遅くて当然と思う。真理の探求者は、きっと「自分の死後、人が評価するかもしれない」と思うに違いない。韓国のキリスト教指導者で、殉教した牧師もそのように思ったに違いない。
 本当の賞は、天国でいただこうと思う。
 でも、「地上で」賞をいただくのは、いつでも悪いことなのではないと思うようになっている。本当に世界に通用するすぐれたものであって、普段無視されて誰の評価も受けていないが、長年にわたる地道な仕事や奉仕活動に対して光があてられるようなのがあれば。
 そんなのなんか、ないか。
 「人から誉められても貶されても、一つの道をまっすぐ」というのは実は非常に難しい狭い道だからからだ。いや、それはあってもおかしくはないのではないかと、田中さんの記事を読むと素朴に思う。
 #頁の最初に戻る
 
 

出る杭

 「出る杭になってください」と伝えられたことがある。 
 「出る杭は打たれる」のことわざを引用したもので、「ホームスクーリングはどこでも、大変ですが、けれどもこの日本国にとって必要なビジョンです。みんなと(周囲と)変わったことをすると、きっと嫌われるでしょう。でも、出る釘になってください。あなたの業はこの国に必要とされているのです。」
 日本で「ホームスクーリングを始める」などというと、当然今でも困難や勇気が伴うだろうし、たとえ意気揚々と始めたところで、周囲からやっかみどころか、迫害のような場面さえある。これは、日本に限ったことではない。
 発祥の地といわれる米国でさえ部分的に、そしてとりわけ欧州(ヨーロッパ)において、いくつかの国で、決してホームスクーラーが平坦な道を歩んできたわけではないことが知られる。教材や教育哲学の不備など内的環境困難もさることながら、主なる困難の要因は、国家の教育及び思想統制の強制ゆえに生じるものである。
 だから、ホームスクーリングにおいては、日本人ホームスクーラーだけが困難を感じているということはなく、たとえば現代でもドイツやイタリアなどにおいては、ホームスクーラーは法廷闘争の渦中にさえある。
 それでも、日本の場合、もし教育行政だけに目をやって、そこだけを教育や子育ての情報源としていることが続くなら、教育はまさに「学校教育」以外に絶対にありえないとさえ言い切れてしまうだろう。家庭が自律的に教育権をもつなどという概念は、教育行政からはきこえてこないのであり、本当は学校教育そのものに限界が見えてきたのに、そうなったのは家庭の教育力が落ちたためと言いたげである。つまり、教育行政からみると、家庭は教育力をもっと持たなければならない。ただし、学校教育を補いそれを完成に導く限りにおいての教育力という意味でということになっているのだ。
 「家庭教育」という用語でさえ、ホームスクーリングとは全く別の概念であり、そのあまりの隔たりの大きさに驚く。
 このように、日本人は、学校教育の枠組みから自由ではない。いや、むしろ教育はかつてイスラエルが大国バビロニアに幽閉されていたような「幽閉状態」におかれ、きわめて不自由なのである。その傾向は、一旦学校から分離されたはずの、フリースクールにもさることながら、それ以外の学校外教育機関、居場所においてさえみられる。
 出る杭は打たれるという、その「打っている側」は、いまや行政サイドばかりではない。「家庭を含めて、子どもは学校以外の環境では健全に育たない」と信じられているところ、その意味では、個人であれどんな居場所からであれ、そのすべてにとって、ホームスクーラーとは打たれるべき杭であると言って過言ではない。確かに、ホームスクーリングを始めるのは、かつてのように困難がなくなったと思う。けれども、ある程度(と言っておこう)打たれる覚悟が必要である。周囲の無理解や、やっかみのようなものを避けながらホームスクーリングするということは、事実上不可能だということも、もう一方で確かなことだからである。
 親の覚悟とは、子どものためにするかもしれない。キリスト者なら、福音継承のためでもある。いや、その両方だからこそ、打たれる覚悟が必要ともなるのである。
 いじめはどこでも実際に打たれていなかったとしても、事実上打たれているのと同じことだ。つまり、非常に親しくしてきた人にホームスクーリングのことを打ち明けるとしよう。あなたは、友人が急に疎遠になってシカトするようになるのに気づくだろう。もしかしたら、あなたはホームスクーリングを始めることで、この世の「栄典」「名声」「保障」、そのすべてを失うかもしれない。
 だれでもホームスクーリングができるのであって、私は、日本で平和のうちにホームスクーリングを始めた人、そして現在ホームスクーリングを続けているファミリーに、冷や水をかけたいのではない。
 それでも、この日本でホームスクーリングをするとき、ローマ帝国下迫害に耐えたキリスト者のように、「ホームスクーリングですべてを失うかもしれない」などという決死の覚悟など全く不必要な時代が、早く来ないかと思う。
 #頁の最初に戻る
 
 
 

人が関心を払おうとしないこと

 米国のようにホームスクーラーが公的に認知され、認知されるどころか活躍するようになるのは、喜ばしいことだと思う。これから、日本も確実にホームスクーラーが社会的な地歩を占めていくようになるということは疑わない。
 米国におけるこのような「誉れある情報」は、ネット上にほとんど毎日のようにあって、今や、とてもすべてを紹介しきれるような量ではない。
 最近ジョージ・ブッシュ米国大統領のホームスクーラーへの厚い期待を込めたの演説を読むにつれて、アメリカ社会では、ホームスクーリングはすでに一種の「希望の星」にすらなりつつあるようだと思う。社会が認めるようになるだとろうという点は、たとえば日本のコンテキストに置き換えても、私自身、全く異存がない。アメリカが発信するホームスクーリング情報は、いつも最先端であり、本当に苦難の歴史が積み重ねらた優れたものがあるのであり、米国の子どもたちがたくさんの誉れを受けても、それはそれで全く当然なことのように思う。
 一方で、10数年前日本のローカルなホームスクーラーのたまり場で「ホームスクーラーの子どもを、報道によるプライバシー侵害から守る運動をしよう」という声がホームスクーラー数名から持ち上がったことがある。つまり、ホームスクーラーが社会的認知をされる局面で、いつも世俗の価値判断というバイアスがかかった報道がなされてしまうのだ。つまり、いつでも「何かができる」「〜を受賞した」「競争に勝った」という局面を評価基準にすることや、場合よっては、親としては誇りに感じていたとしても、子ども自身としては人に知られたくないと思われるような事までもが、親の意志のもとに不本意に好奇心の目にさらされるということもありえたのである。
 それでも、ある時までマイナーな評価を受けてきた身ゆえ、“一矢報いたい”という気持ちは、わからなくもない。前段に述べた「反マスコミ運動」の構想は、結局は実現をみなかったとはいえ、ホームスクーリングが一般に知られるようになればなるほど、子どもたちをそのような外部から受ける好奇の目から守りたいというのは、親御さんたちの願いとなっていたのである。
 そのように考えてくると、ホームスクーラーたちの活躍を紹介する側にも一定の躊躇や、慎重さのようなものが生まれて当然の筈である。
 しかしながら、それさえも、ある時期には、世の人々からみてある程度強力に説得力になるような場面は、マスコミ報道を含めて必要であるし、またホームスクーリングが結果として、優れていることを自覚させてくれるかもしれない。誤解を招くかもしれないが、あえて言うと、ホームスクーラーは、何かがよくできてあたりまえ、ホームスクーラーへの社会的評価が、学校の子どもよりもあらゆる面で優れているのは「あたりまえ」だからである。
 だが、社会がホームスクーリングへの理解を深めるということと、ホームスクーリングが真価を発揮しはじめることには、実は逆方向にあるように思っている。
 子どもが、本や映画などの作品に感動を覚えることは、それ自体は誰も注目しないものであるし、人目につかないことだと思う。よい行い(慈善行為)ならなおさらのことである。
 その上、キリスト者なら、その神がクリスチャンの「人目に隠れた業」を評価されることを知っている上に、人生の目標さえ地上にではなく「天に宝をつむ」ことにおかれる筈であるから、人に評価されようが評価されないままで無視されようが、そのような価値観にとらわれなくなる。ただ、結果として、人の評価を受けることはあるだろうが、キリスト者からすると、実はそれは傲慢や不遜という罪に「餌」をやって、神を敵にまわすような心の温床となるかもしれないという「危機」に子どもが曝されていることを意味するのだ。
 本当に普遍的で優れたものは、実は、人目にはつかない日常の中にある。
 それは、クリスチャンホームスクーラーたちにとっては、一層真実である筈である。
 #頁の最初に戻る
 
 
 
「スットコドッコイ」と「ヒョウロクダマ」

  残念なことだが、「誰かがそしられている」のを楽しみにしている人は多い。
  落語や漫才の世界ではない。
  「ここだけのはなし、あの人はね…」とかいう。
  ひそひそばなしの、あれである。
   たとえば、私にはあまり覚えたくない古典的日本語の悪口が聞くともなく聞こえる。
●スットコドッコイ
 「あの、すっとこどっこい(私のこと)は、まだホームスクーリングとか、なんだかんだって言ってるのか」 “ すっとこどっこい ”とは、辞書には、1 馬鹿囃子(ばかばやし)の囃子詞。2 相手をののしるときの語。馬鹿野郎とある。
  「なァ〜にガァ、ホームスクーリングだァー!? 馬鹿野郎!!」という意味。
●ヒョウロクダマ
 「あのひょうろくだま(これも私のこと)、まだ生きてるか」“ ひょうろくだま”とは、花火で、別方向に飛んでいく失策の火玉のこと、転じて、まぬけな こと。また、まぬけな人。おろか者。「みんなと違う、変わったことをやって、目立ちたがる猿回し趣味のまぬけ野郎」
 という意味。
  このような言葉は、決して音声として空気を伝わってくるのではない。
  心に響いてくるのだ。
 あえて固有名詞をつかわない、隠語として気の通じ合う仲間言葉として使われているはずである。こんな誹謗中傷が聞こえてくるたびに、私は立ち止まって、主を見上げ、このように祈る。
 「どうか、天のあなたの書物に、今の言葉をすべて記録しておいてください。決して、消えないように。」

 そんな陰口を誰が言えたかって?
 あなたの身に覚えがなければ、それはそれで幸いだ。
 なにせ、立ち止まった先からは、神が直接み手を下される世界なのだから。
「いや、早く死んでもらっては困る。自分たちの言動がいかに恥さらしで罪深いのものであったかを思い知らせ、恥の中で生きていてもらはなければならない」かつて東京裁判直前に、自殺を企てた東条に死を遂げさせないため、輸血支援をした米国兵士のこのような言葉に自分の思いを重ねていた。

 そんなことを思っていると、民主党の人事問題が報道され、続いて与党自由民主党の「結束した人事」が報道されていた。マスコミが操作されているのかと思ったくらいに「与党は野党とは違う」という誰かの発言がクローズアップされていた。
 思うに、民主党は、すべてがオープンになっている政党、すくなくともそうしようと決めているので、ごたごたがかえって「透明度」を示していると読む。与党は肝心なことは、すべて夜の会議で大筋が決められてた後に、どんな反対意見さえ、威嚇もしくは恫喝に似た対応のもとにサラされるので落ち着いてしまうため、表面に出てくるのは静粛な「笑顔と拍手」になる。この点は、共産圏でも同じ。表向きは“ きれい ”だが、日のもとにないところでは、どんなことが行われているかさえわからないのだ。そのような「本音と建前の世界」から早く解放されなければ、この国の明日はない。
 「個人の陰口と政治状況とに、何の関係があるのか」って?
 関係はない。
 関係はないが、ただ、人間のやっていることには、どこかで類似性がある。
 #頁の最初に戻る
 

「東洋のエルサレム」

 1997年アジア大会が終了した直後、私は牧師研修会のため、釜山(プサン)にいた。
 「東洋のエルサレム」というのは、現在の平壌(ピョンヤン)の別名であったことを、南端の半島に位置する高神・神学大学で知らされた。(ちなみに、「高神」は、日本統治時代に神社参拝を拒否し、獄中にいた教職者を中心に形成された高麗教会が母体。優秀な医学部が併設されていることで知られている。朝鮮戦争時、傷ついて南下した兵士を敵味方の区別なく治療をするためにキリスト者医師によって建てられた「野営テント」があった。透徹した聖書主義とキリスト教精神の実践、つまり徹底した「知行一致」が神学大学に医学部が加えられた経緯であった。なお、キリスト者のみ入学可。生物学の前提は創造科学。進化論はとらない。)
 かつて、朝鮮半島が一つの国であった時、平壌のキリスト教宣教は目にみえて成果をあげていたのであり、平壌には神学校さえつくられていた。ところが、かつての「大日本帝国」の侵略は、創氏改名を命じられるなど、朝鮮民族にとっては苛酷を極め、抗日運動が地下運動として隆生しはじめたその渦中、多くの抗日パルチザンたちは、北部に活動の拠点をうつすことになり、様々な背景があったのだが、共産主義に抗日戦線の理論的支柱を求めたのだ。当時ソ連から支援を受けた北部抗日勢力は、なぜかあっさりとキリスト教信仰を捨て、共産主義国家を建設することに何も躊躇することがなかった。
 事柄の核心は、第一に、キリスト教が抗日運動の論理的支柱として、はなはだ頼りなく思われたこと。彼らのキリスト教理解に問題もあろうが、やはり日帝を権力として受容するという口実で、「体制的」になびいている教会は朝鮮内部にも多く(殉教者が出たにもかかわらず)、私は、純粋な青年たちを納得させる「塩気」を失っていたと読む。
 いや、それほどに、当時の我が日本側でも、キリスト教会さえ、「朝鮮平定」などと事態を狂喜するような“ていたらく”だったということも一因だ。もう一方は、キリスト教、とりわけプロテスタントが一部の例外を除いて、政治哲学構築という視野を神学的にどう捉えるかという事に関して、いつでも、無関心であった…、いや敵対心さえもっていたという体質があったことは否めない。
 昨今の「拉致事件の報道」に触れて、ご家族のことを思うと、悔しさと、涙を禁じ得なかった。家族の本音は、政府はなぜ今までこの事実を知っていながら放置してきたのかということ。日本政府が、被害にあった側ではなく、外交正常化交渉という政治戦略を優先させているのかということにあった。それにしても、横田めぐみさんのように、10代で拉致され、そして隣国で死の時を迎えなければならないというのは、(もし事実であるとすれば)あまりに悲しすぎる。
 横田夫人がクリスチャンであるという背景があることは、会見の一言一言から確かめられるだろう。このような事態のなかで、りっぱな態度を示しておられたと思う。
 「もし、死亡が文字通り事実であれば、自然死はありえない」ともいわれていたが、私も同感である。拉致された人々には、二者択一が示され、共産主義への洗脳教育を受け入れるのか拒否するかが提示された“筈”である、そして、思想に順応する者は優遇され、頑なに拒否し受け入れない者は、収監され拷問された“筈”である。
 もし、それでもなお従わないものは、公開銃殺された“筈”である。
 抗日パルチザンは、日本軍のそのような残忍なやりかたに反感を覚えたからこそ、運動に加わったはずなのだが、抗日の末裔たちは、知ってか知らでか旧日本軍と同じ行動に出た。
 とにかく、不明で不確実なことが多すぎる。まだ、推測でしかものがいえないくらい先方の公的発表は「大本営発表」のようにしかきこえない。
 違うのは、日本軍は、「八紘一宇」として一途の天皇支配に突き進んでいたのに対して、北鮮は「共産主義」や「指導者への個人崇拝」がそれに置き換えられていることくらいである。
 いや、それしか違わない。
 かつて、キリスト教に一度心開いたとして、もし、そこから堕落してしまうなら、その状態は始めの状態よりも、さらに悪くなるという聖書の一句を思い出す。(ヘブル書6章)
 キリストへの反抗の辿る道は、それが天皇制であれ共産主義であれ、人間に対する残忍さに行き着く。これは、国家のレベルでも個人のレベルでも同じである。
  #頁の最初に戻る
 
 


どこまでいくのかな
 
 

 私には、いまいちよく理解できない判決である。
 一塊の音楽ファンとして、そのように思う。
 似た曲など、世間に溢れている。ジブリの映画曲だって、クラシック音楽を一瞥すれば、類似品はいくらでもある。シュッツの作品をほとんど真似たのではないかと思われるようなJSバッハの作品は多い。モーツアルトのミサ曲は、バッハの受難曲の「剽窃だ」と言われるかもしれない。演歌がわからないせいか、どれを聴いても同じように聞こえる。これは、「沖縄旋法」には、独特の心地よさがあるのに似て、和声の心地よさにかかわるのではないかと思う。メージャーセブンコードをはやらせたのは、映画音楽家のフランシスレイかもしれないが、あの独特なコード進行ひとつをとってみても、その後区別ができないくらいの類似した曲が巷に流れた。作品としてのオリジナリティが高いといわれるビートルズに至っては、和声ポップスの中に類似作品が山ほどあるだろう。
 曲が似ているというだけで訴えに出るのもどうかとは思うが、「ヒットソングの節回しを盗用したので、賠償命令」という判決がよくわからない。私は服部氏が盗用したとは思わないのだが、いや、百歩譲って、仮に意識下に当時のヒットソングが意識されていたとしても、それは「どこまでも行こう」が「真似されるほど、いい曲だった」ということで名誉なことと思えばいいのであって、はたして賠償命令などに馴染むものかどうか。
 いや、そればかりではない。似ている音楽があるということは、かえって本来音楽を楽しむことそのものにつながる。似ているところを捜すのを楽しむ番組だってFMラジオにあったと思う。あれは、実に知的でおもしろい番組だ。
 著作権法が、知的私有財産を守る法律だという面はわかる。
 明確な盗作が悪いのもわかる。それは、わかるんだけどもね。
 ただ、今回の判決は、「音楽は人の心を癒やしに導くかもしれない心地よい文化である」という一面を完全に損なったのは否めない。だから、ここで賠償命令を出してしまう法律の適応の仕方、そしてその「芸術への感覚」が、はなはだ“お寒い” 。(「記念樹」の全128音のうち92音で「どこまでも行こう」と同じ高さの音が使われていると分析。とも報じられているらしい。同じ高さ…〜ったく。何ィ言うてんねン。)服部さんは上告するとも伝えられているから、もしかして最高裁判決にこの判断が踏襲されたりして。
 ほんまかいな。
 でも、まア。「ふしぎな、にほんのおんがくかい」にはありえるかも。
 似ている、いや、似ていない。俺の曲だ。いや、アンタが盗んだンチャウかという議論は、ほとんど三文落語や漫才のネタに丁度いいでェ。文字通りの意味での“音楽”や、正義の社たる法曹の世界には馴染まンと思うんやけどな、ホンマにィ。
 そんなことは、職業的音楽家に任せて、早く裁判が「沙汰止み」になってほしいものだとどこかの普通のオジサンは素朴におもう。ボソボソボソ。
 #頁の最初に戻る
 


「住基ネット」渦
 
 

    住基ネットのねらいは、国家による国民情報の管理にある。しかも、個人の人権保護ではなく、個人情報の中央集権的統制管理に目的があった。ゆえに、最初から反民主的正確を帯びていたのである。つまり、住基ネット法は主権者である国民の自由な情報アクセス権を守るというような制度ではなく、国家によって個人がより管理され統制されやすくすることに主なる目的があるのである。
 たとえば、原発事故後の地域住民の苦悩にあらわれているように、のっぴきならない問題があった場合、今のシステムの現状は住民優先にはなっていない。〜を守るためには、国民には最終的には泣いてもらう。「有事法安」が雄弁に示すように、「一旦緩急の時あらば」私有財産や人権が制限されることはやむおえないとされるのであり、最悪の場合民の「玉砕」さえやむなしという体質は、戦前と何ら変わっていないからである。
 ただし「住民基本台帳」の流用そのものは、就学通知などのがその存在をおぼろげながら庶民にも知らせてくれるように、たとえば「学校教育法施行令」(1953年)において、すでに当然のことのように稼働していた。「個人情報が第3者に漏れることが心配」などといわれているが、たとえば、子どもの就学時期が近づくと、なぜかタイミングにあわせて「塾」の案内とかが送られてきている。どこで情報を得たのだろうかと疑う。
 教育官僚が「住民基本台帳」を使えるようになっているシステムそのもののなかに、始めから私用できるような「風穴」があけらえていたのではないかと疑われるダイレクトメールが届く。 男子なら「子どもの日」にあわせて「兜」の宣伝まで入ってくるのをみると、住民の個人情報リストは私的リストの売買対象として、長いこと公然と流用されてきたのではないかと疑われる。それは、すでに40年以上前から日常茶飯事だったはずだ。こと教育の分野においては、この国はとっくの昔に個人の選択権が通用しない国になっていたのである。
 何を今更という思いがなくもないが、今回は、管理の規模が地方自治の範囲から国家管理の規模にまで押し広げられことに危機感をもっている一般市民が多いということだろう。ただ、国の今回のような動きさえ、準備は今に始まったことではなく、長年の蓄積を踏まえてのことに違いない。「住基ネット」に拒否を表明している自治体や個人、横浜市のように「選択制」を取り入れる場合もあると報道されている。ただ、人権にかかわる事が、個人の自由な選択に馴染むのかどうかと思う。「人権」は、水とか空気などと同じように、市民生活の最低条件として守るべきものだという感覚が、この国にはあまりにも薄い。
 これは、ホームスクーリングとも無縁の話ではない。
 子どもの学齢期の過ごし方について、「選択制」を早く実現させたいものだ。
 こちらの「選択制」は、さらに緊急性を要するだろう。
 一方では、かつての徴兵制度時代の「アカガミ」への復活さえ予感させられる。
「あなたのお子さんの就学年齢が近づきました。@地域の公立学校 A私立学校 Bホームスクーリング いずれかを選択してください。」などという通知がくるのか早いか、
 いや、それよりも「子どもへの就学義務違反の容疑で、〜まで出頭を求める」というのがくるのがもっと早いかもしれない。
 この国には、そのどちらもありうる。
 #頁の最初に戻る
  
 


消極的な文化のなかでの禁止

 ときに、電車を利用すると倫理広告が目につく。
 電車利用者のマナーが、よほど悪いらしい。
 今日は、禁煙の時間帯であるはずなのに、ホームで堂々と煙草をくゆらしている姿を見たりすると、そのような姿を注意できないこちら側に問題があるのかなど、よけいなことを考えたりする。この段階はもはや、「煙草が嗜好品であるかどうか」などというレベルではない。すでに欧米社会がそうなっているようにTPOがわからない人と判断されてもやむおえまい。「禁煙時間帯を守っていただきありがとうございます」と書かれた吸い殻入れの蓋の入口辺りは、すでに押し込まれた燃えさしで、もうもうと煙っていいた。
 紳士姿をした彼氏は、周囲の目をよそに、煙草を吸いながら携帯電話で話していたのだが、電車が来てもそのまま携帯電話を続けることはなかった。
 車内での度重なる注意が功を奏しているということか。
 何でもかんでも、くどくどく言えば効果があると思われる所以である。
 マナーの悪さを川柳にして紹介している“つるし”があった。
 座席を占領する。大声で話をする。塗れた傘を振り回す。遠慮ない携帯電話やカセット音。
 川柳の名作どれもが、消極的な「〜してはならない」という提案にみえた。暇つぶしにそこで、目に留まったことを英訳してみる。
 すべて、「Don't」「Never」「Shouln't」という否定形になってしまうではないか。そのまま英語圏にもっていってもとても使える代物ではない。勿論、私の英語力の問題もあろうが、たとえば、お年寄りに席を譲ってほしいという場合、米国アトランタでは「ここは、体の弱い人の優先席です」ではなく「ここにあなたの親切を必要としている人がいます」という表現が使われていた。つまり、「してはならないこと」をいきなりぶつけるのではなく、「できること」を示し、「相手がより望ましい行動に気付いて、それが引き出されるような提案」となっているのではないかと思う。英語表現がわかりはじめると、この点は英語力を超えた文化の違いとして事ごと顕著に見えてくることだろう。
 禁止事項が主体として構成された「校則」で埋め尽くされた学校文化に馴染んでしまうと、英語学習のそんなところが見えてこないのではないか。
 英語能力が向上しない筈だ。いや、逆に言うと、聖書の世界とりわけ、創造者と隣人への愛を育てることが、たとえば英語学習一つとっても、そのの根本に据えられていなければならないと思う。だから、語学力の欠如が本質的な問題なのではない。
 隣人愛の欠如が問題なのだ。
 それゆえに学習環境は、非常に大切だと思う。否定的な言葉が、ある程度はマナーの向上に役立てられているのだろうか。でも「マナーの向上」というより、周囲の目を気にしてのアクションが助長されているように思えてならない。私は、マナー違反をしている当事者ばかりでなく、そのような人を見る周囲の人の態度がよほど気になっている。「白眼視する」という言葉があるが、周囲には軽蔑の心とか、そればかりがあの川柳には、時には憎悪の心さえ感じられた。「悪いのはどっちだ」ではない。
 教育そのものがこの国では、自分の中にある可能性が引き出されるようにではなく、カメレオンのような周囲への適応力のみを唯一の「社会性」として目標にされているところによるのだろう。
 だから、電車から降りて、人目につかないところでは、ほとんど何でもできてしまうのだろう。
 #頁の最初に戻る
 


【成功】と【失敗】
 
 〜と〜みたいなテーマが続くが、これも雑感みたいにしばらく考えてきたこと。
 不登校関係の情報に少しでも触れると、日本では「成功を評価」できるが「失敗を評価」することが非常に苦手な風潮があるということがわかる。この傾向は、学校ばかりではなく、会社組織や社会通念ともなっていて、あまり問題として意識されてこなかったと思われる。
 私は、不登校=失敗という立場にはいない。
 私も、最初は一事そのように考えてきたが、これまで登校を拒否するたくさんの子どもをみてきて、考え方が変わった。今の学校で、登校を拒否できるような子どもは、実にすばらしい。すばらしい感性と、自主性と、決断力に富む「宝」だと思う。キリスト教的にいえば、「不登校という神様からのギフト」ということになるのだとおもう。
 そのテーマではなく、不登校にまつわる「挫折感」を話題にしたいのである。
 たとえば、人生で一度も失敗したことがないという人、つまり、何をやってもそれなりの評価を受けて「そこそこに無難な成功した人生が与えられたとしても、当然それは他人からとやかくいわれる筋合いではない。嫉みやねたみをもつなら、その「罪」の責めは、嫉みをもつ当人達の頭上に帰されることになる。
 ただ、失敗を評価できない風土が、どこかで変革されなければ、この国の将来がないのではないかという指摘を最近多く耳にするようになった。本人が自覚できないまま病状が死の病となることが一番危険なことであろうから、もしかして、この国は病気を自覚できない状態にあるのかもしれない。
 そんな事を考えながら、学校は、「完全に近い人間」というバーチャルリアリティを一番産みだしやすいかもしれないと思った。
 仮に、学校時代ほとんど100%完璧に近い学生生活を送ったという場合、心配なことがいくつかある。キリスト教の視点からすると、創造者の前でカインやバベルの人々が示したような傲慢を増長させてしまうという恐れがある。
 傲慢は、実に滅びの兄弟なのである。
 しかしだからといって、「それゆえ、学校の評価は、みな無効なのだ」という意見には賛成しかねる。学校での点数は、それなりの努力や、資質があっての「点数」かもしれないとはいえるからだ。限られた意味で、評価の基準とされうるかもしれない。
 ただ、問題は人が人を評価することが、実は非常に難しいということにある。人の本当の能力は、ペーパー試験の点数がいいか悪いかなどでは決して推し量れないのだ。
 最近、ある教会キャンプのカウンセラーとして奉仕させていただいた。そこで、注目すべき子どもがいた。 私が担当させていただいた小学2年生の彼は、自分の荷物の片づけが苦手、時間通りに動けない、それから、自分の世界が確立していて、「集団になじむ」ことが苦手。そんな子どもがいた。
 おそらく、この子は、学校などからの評価はきわめて低いに違いない。けれども、虫のことや動物について本当に敬服するくらいの知識と洞察力をもっていた。この子にとって、今の学校は、息苦しい場所であるというばかりではない。それどころか、もしかしたら学校は、この子のいいところを、「何一つ理解できないだろう」と本気で思った。
 私は、ホームスクーリングを絶対視するつもりはないが、思う存分考えること・一つでもあるテーマに没頭できるというのは、どんな子どもにとっても珠玉の時間であるに違いない。だから、子どもの本当の能力を受け入れることのできるホームスクーリングなら、それはそれで、どんな子どもにとっても必要なのではないかと思う。
 学校では失敗が許されない。
 だから、失敗から学ぶことさえできない。
 そして、失敗から学べないシステムを変更すらできないので、「どのようにしたら失敗を減らせるか」とか「成功を増やすための秘訣」ということしかやってくれない。だから、どんなに教師が評価してくれるといっても、子どもの本当の能力とは別の「的外れ、見当はずれ 」がたくさん生み出される。成功がいつも悪いと言いたいのではない。成功は、それはそれでありがたいものであり、傲慢への道ばかりでなく、神への賛美へと結びつくことになる。だが、失敗を恐れずに、さらに失敗を真摯に分析できて、そこから真剣に学ぶことができれば、学習者にとって、どんな有益な学習材料よりも有力な糧になるだろうと思う。
 失敗を恐れず、将来の成功をより完全なものにするための材料となることを知ったものは、やはり有益なアドバイスを、弱さの中にいる他人にも与えることもできるだろうと思う。
 私は、弱さや失敗、それに挫折を知らない人が、医者や弁護士、政治家など指導者になってはいけないと思う。他人をけ落とすことに剛気なばかりで、きれいごとばかりで、本音では地位名誉に執着する成り上がり主義の気風が変革されなければならないと思う。特に、医者や教師と呼ばれる人は、ただの「挫折経験があればいい」だけではなく、挫折や弱さからも学ぶ術を知った人がなるべきだと思う。
 「いつまで学んでいても、悟りがひらかれない人」という意味ではなく、いつでも結果に満足しながらも、失敗の意味から学んで、「人生の学校」にいることを自覚して、ひたすら完成をめざず学習者でありつづけられるかどうかなのではないかと思う。
  #頁の最初に戻る
 
 


【読むこと】と【書くこと】

 このテーマは、質問コーナのほうがふさわしいのかもしれませんが、各ホームスクーラーにとって「個人差」のようなものが大きいと思われるので、本当に参考の端に加えていただけることがあるかもしれないと思いました。それに、数名のホームスクーラーから同じような質問を受けたことのあるテーマでしたので、「我が家の一つの例」として紹介させていただきます。
 ホームスクーリングを始めたころ、「退屈」な時間がしばらく続き、やがて、「退屈な時間を親に解決してもらおうとしても、無理だ」ということに気がつき、そして子どもたちはやがて「読書がおもしろい」ということにたどり着きました。聖書を読むことは、特別としても、この場合、読書に関しては、漫画であろうと一般書であろうと、「年齢にふさわしくない」とか親の立場であれこれいわないようにして、好きな本を、しかし、できるだけ地域の図書館を利用するように奨めました。地域の図書館のメリットは、ある程度健全な視点で選別されていることと、自分で検索して、予約もできること、どんなに高価な本でもほとんどリクエストに応じてくれること、それに自分の紹介した本が「共有財産」になることなど、ホームスクーラーにとって、多くの点で有効な手段になると思ったからです。
 子どもたちは、図書館でパソコン操作による検索、本のリクエスト方法などを習い、かなりの冊数の本を読むことになりました。午前中毎日、図書館の本を借りてきては読んでいました。
 私たちは、3才までの幼児期には「絵本の読み聴かせ」に多くの時間を費やしました。
 けれども、自分の力で読めるようになってからは、聖書以外に親が作為的にある本を「読ませた」という記憶はありません。ニュースの時間以外、夕方までテレビのスイッチは原則的に入れない約束でしたので、結果として、午前中はほとんどが読書でした。それで、学校に行っている子どもよりもたくさんの量の本をすすんで読むことになりました。「漫画」も当然りっぱな「本」だと考えました。たとえば、現代のような食を巡ってトラブルがあまりに多い時代に、子どもにとって「美味しんぼ」が言おうとしてる食についてのテーマを知ることの重要度は、二次関数やピタゴラスの定理の概念を覚えることの重要度とは、比べることができないくらいにはるかに大きなことでしょう。ジャンルは、さまざまです。手塚治虫さんや千葉てつやさんの漫画、シャーロック・ホームズの探偵物、Mエンデの作品、中国や西洋の古典、料理や科学、クイズの本、あの「頭の体操」(全部読んだ)、宇宙科学の本、生物学の本などなど、興味にまかせて読んでいました。「そこに読みたい本がある」それが、読書のための一番のエネルギーになると思いました。
 長女は、ケーキづくりに興味をもちました。その分野のほとんどの本を読んでしまったので、地域図書室よりも、もっと本の冊数がある「中央図書館」に、“アッシー”よろしくつきあわされたものです。
 長男は何故か「ビートルズ」。時代背景や、レコードのことなども徹底的に調べて、最近は英語の歌詞のほうがおもしろいことにきがついて、英語そのものに興味をもつようになりました。私は音楽が好きなほうですが、息子に教えたことといえば、ギターの基本的なコードだけ。細かな楽典などは、自分で図書館で借りてきた本で楽譜の読み方を独学したようです。親の願いをよそに「ビートルズを卒業する」にはまだ早いのかもしれません。次男は、「動物」に興味があって、時々、冗談のように生態学のような難しい本を借りてきますが、なんとか理解できているようです。当然進化論的解釈と創造科学との区別は、説明しました。
 問題は、読む力はかなり早くからつくのですが、書く力は学校に行って強制的に「書き取り」をさせられていたり、感想文を書かせられる同世代の子どもよりも、遅れれているのではないかと思われることです。
 ただ、私は「文字は読むことのできると、やがて書くことにも抵抗がなくなる」と思っています。それに、私事にわたりますが、少年の頃、父親からの「漢字書取り教室」を数年受けて、本当に懲りたこともあり、(あの時の父の熱意には感謝していますが)、子どもにはあのような「苦痛」を味わわせたくないという思いがありました。
 けれども、最近は「読むこと」に比べて「書くこと」については、ある程度の学習とか、文字どおりの意味で訓練が必要であると思うようになっています。
 読むことは楽器の調べを聴くことに似ています。最初に、楽器を聴くことの楽しみを知らなければ、楽器を奏でる楽しみがつながらないのです。音楽の楽しさが理解できることが最初です。 けれども、次に、楽器を使うためには「訓練」が必要なのです。
 さらに、楽器を自在に使って、他人に感動を与えるためには、それこそ「修練」が必要になるでしょう。我が家の子どもたちの場合、「アルバイト」や「ホームページ作成」や「メールの文章作成」がその訓練になりました。つまり、本人がどうしても書く必要に迫られるなら、苦手である「書くこと」をそこから克服しようとし始めたともいえます。ですから、私たちは、親の側で、恣意的に「書き方教室」などとして教えることはしませんでした。あえて、教えないことについて、全く不安がなかったわけではありませんでしたが、どこかで、とても楽観的でした。子どもたちは、たくさんのいい文章を鑑賞することを通じて、「良い文章とは、必ずしも修辞学的に整った文章ではない」ということも学ぶようになるでしょう。
 「暇を感じる」とか「わからなくて困ること」が有力な教師です。 
 どのように書くのかとか「文法」さえも、学習者が必要に応じて学ぶほうがいいと思うこともあり、子どもたちの自主性に任せるのをどれほどの幅で許容するのかは、それぞれの家庭ごとに違いがあるのが当然なのかもしれませんが、かなり自主性に任せてきた我が家の子どもたちは現在、表現力の未熟はあって不得手であったとしても、今は書くことそれ自体にに大きな抵抗を感じていないようです。それはこれからの課題です。
 ただ、読むことと書くことが同時進行であることが望ましいとしても、読む楽しさがかなり先行して「書くことの楽しさ」を覚えるのは、年齢がある程度進んでからでもいいのではいかと思います。
 書ける(表現できる)能力は、言葉の世界でも応用に属するのではないかということ。それに、学校が提供してきた「読書感想文」が読書そのものへの意欲を削いできたのとおなじような過ちを、書く能力の開発に親があまりにもこだわりをもつあまり、最終的に子どもの読書そのものへの意欲が損なわれないとはいえないからです。子どもの読書意欲を削ぐほどに、「無理に書かせる」ことで親が勇み足にならないともいえません。何よりも、図書館など子どもに好きなだけ読書ができる環境を与えていただきたいのです。書くことは必ず必要だとしても、かなり後でもいいのではないかと思っています。
 私の、これはお薦めではありません。 
 「自慢話みたいにもなりかねない、勝手な経験談」以上にでるものではありません。

 #頁の最初に戻る