主に、ジャズやポップ系音楽からご紹介します。
 いい音とのいい出会いを!!

 
#坂本龍一「エナジー・フロー」
#J・ウイリアムズ「シンドラーのリスト」
#ビル・エヴァンス・トリオ「ワルツ・フォー・デビイ」
#ピーター・ポール&マリー(PPM) 「風にふかれて」
#松山千春「起承転結」
#ビートルズ「エリナー・リグビー」
#ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビーム
#エリック・クラプトン 「Tears in heaven」
 #今田 勝「トロピカル サンセット」 
今田 勝「トロピカル サンセット」(2005.2.26Renewal)
 「アンダルシアの風」は、一度だけFM放送で聴いてテープ録音したにすぎないが、この時聴いたセッションの特にギターの音から、私はジャズに開眼し、しかもミュージシャンとしての渡辺香津美のファンになった。
 この曲が入っているCDがないかと捜している。 →「トロピカル サンセット」今田勝 に収録されていました。 
 渡辺香津美氏は、最近福田進一などの競演など、いわゆるクラシックコンサートにも参入して、楽しいジョイントを聴かせてくれているようだ。
 ジャズギターの面白みは、コード進行で考えられる音の動きの限界までピックアップしてくれるアドリヴにあるだろう。和声でもアルペジオでもない、リードギターのこのような魅力には、リー・リトナーにも見られるように気まぐれに引いているようで、実にすべてに緻密な計算があるという面白みによって引き出されている。
 この意味で、ギターの音色をクラシック奏法だけに求めるのは、ややもったいないと思う。渡辺氏のジャズのほか、バーデンパウエルや小野リサなどのボサノバギターにも、きっと「はまる」に違いない。
 最近(といっても、はじめてきいてから25年くらいになって、ジャズピアノの魅力にひかれはじめて、今度は今田勝の演奏にはまりはじめた。50歳を過ぎて、やっとピアノの音に心が動かされるようになったということかなぁ。)
 スペインアンダルシア風の曲に乗せて、渡辺香津美氏のギターは実に軽快なスイングを聴かせる。スペインの民族音楽にも、ジャズのアドリヴのような性格があるのかもしれないと思うほどカスタネットをいれたセッションはスペインの雰囲気そのまま。
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坂本龍一「エナジー・フロー」
  私は、坂本龍一のファンである。
 イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の時代を経た後、渡米し、ラストエンペラー、戦場のメリークリスマスなどの映画音楽での知名度も高く、米国を拠点に今や国際的に活躍するミュージシャンSAKAMOTOの活動をおもしろいと思っていた。
 「エナジー・フロー」が大ヒットした年、子どもたちが、それを知って、父の日にこのCDをプレゼントしてくれた。
 いつ聴いてもあきのこない、いい音楽をつくる人だと思う。
 ミュージシャンとしての音楽への造詣の深さと同時に、ライフスタイルとして「共生とは何か」とか「癒やしとは何か」を真摯に求道している姿が感じられてそのどこかしらの真面目さが、このCDにもあらわれて好感できる。
 始めて聴いただれもが「クラシック」と呼ぶかもしれないが、CM音楽から生まれた流行音楽であることが愉快だ。
 ラベル、サティ、ガーシュインあたりの音楽はどこまでクラシックに分類できるのかとも思うし、レイ・ブライアントのピアノ演奏によるジャズのスタンダード「ANGEL EYES」などは、ジャズに分類されているのが不思議なくらいである。音楽の分類は便宜上の相対的なものではないかとも思う。
 
 坂本氏の音楽をつくるスタンスがその音楽と連続していて興味深い。
「癒やし系」と呼ばれることについての坂本氏のコメント。
「『癒やし』なんていう言葉がひとり歩きしていること自体がおかしいね。だた音楽を聴いて、熱くなったり楽しんだり喜んだりしていればいいだけのことで。そういうことがあまりにない人が多いんでしょうね」
(毎日2000/05/25夕刊)
 音楽は楽しい。だが「癒やしについて」なら、この音楽とて「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は私のもとに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)という方には替えられないとも思う。これは蛇足ではない。
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J・ウイリアムズ「シンドラーのリスト」サウンドトラック版
 
    サウンドトラック音楽は、かつて、歌劇の序曲が独立して演奏されたようにこの「シンドラーのリスト」のようにクラシック音楽と呼べるものがある。同様なことはゲーム音楽で、たとえば、ファイナルファンタジーや、ドラゴンクエストなどのバックミュージックについても言えると思う。この映画では、ジョーズや未知との遭遇の音楽を担当したJ・ウイリアムズの音楽が冴えて極めて印象的。ギターの貴公子とは、同姓同名の別人である。

 その魅力の一つは、ユダヤ音楽を思わせるテーマ音楽の情感の豊かさにある。ユダヤ音楽の魅力といえば、日本では、「マイムマイム(水よ、水よ)」のダンスが有名だが、陰りのあるマイナーの伝統的な調べは極めて魅力的であり(たとえばシャローム・ベハニムなど)心を引きつけてやまない。
 もう一つは車椅子のバイオリニスト、リチャーク・パールマンの演奏の見事さ。監督のスピルバーグと同様に、パールマンもユダヤの血を引くといわれ、映画の説得力と共に、音楽の説得力ともなっているのだろう。
 かつて小沢政爾が在籍していて有名になったボストンポップスがオーケストラを担当している。アメリカと言えばジャズを思うが、いわゆる「クラシック音楽」の層も相当厚そうである。日本で、クラシック音楽を好む人は、ジャズを軽い音楽とみなす傾向があるかもしれないし(確かに《軽さ》を特色としているが)、逆に日本でポップス系のファンといえば「クラシック音楽」というだけで、堅苦しいと言って毛嫌いするかもしれない。
 これはどちらも不幸なことだと思う。
 特に学校ではクラシック音楽だけが「正当な音楽」のように扱われるので、その反動からかクラシック嫌いになっている方々が多いかもしれないと思うと、ここにも学校化されている文化の問題点があろう。クラシック音楽とジャズ音楽を含めた近代音楽との境界線などは本来存在しない。パールマンによるジャズ演奏もあるそうで、こちらのほうも是非聴きたいものだ。
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ビル・エヴァンス・トリオ「ワルツ・フォー・デビイ」

  ジャズを特に好んで聴くわけではないが、ジャズの良さはわかるつもりなので紹介したくなった。また、「理屈っぽい」になるが、ジャズの源泉はアメリカの南北戦争当時、軍楽隊の残していった中古楽器をブラックたちがストリートで奏で始めたのが最初とされるが、本質的には「黒人霊歌」と呼ばれる讃美歌に源泉があり、クラシック音楽が教会音楽を源泉に持つのと同じである。
 それゆえに、たとえばある神学の立場でブラックのジヤズ音楽がブードゥ教に源泉を持つゆえに、悪霊的とされるのはいかがなものか。
 日本では「ジャズなどの下品」に比べてクラシック音楽の方が音楽として「高級」という偏見が植え付けられている。これは、好みの問題というよりも日本でのクラシック音楽の導入のされかたに問題がありそうである。
 日本に西洋音楽が導入された頃の歴史も調べたことがあるので、別のところで紹介したい。日本で、ギター音楽は言わずもがな、ましてや電気ギターを礼拝音楽のなかで取り入れるのには、かなり勇気がいるにちがいない。

 創始期のデキシーランドジャズからニューオリンズにかけての陽気さに比べて、「ビル・エヴァンスのピアノは暗い」というのは、一つの偏見だろう。たとえば、「WALTS FOR DEBBY」などは、楽天的な調子に溢れている。1800年代から「スイングする」ことが好まれ、やがて、1900年代に入るとシカゴよりニューヨークに流行し始めると、よりクールな響きへとジャズ表現は多様化し、ビル・エヴァンスなどは、リリカルとか「ソフィスティケイティッド(やはりこの表記は英語のSOPHISTICATEDがいい。都会的に洗練され、あか抜けしたの意味。ふざけた〜という意味もあるにはあるが)」といわれる。愉快な気分を演出してくれる。
 ジャズはクラシック音楽に比べてやや、耽溺性が強いかもしれない。
 でもこの点だけとると、たとえばルター派教会の和声音楽への耽溺がJSバッハの音楽の母体となったといえるが、たとえば礼拝であの膨大なカンタータ群が毎週演奏されたことを考えると、その遺産を受ける現代人はけっこうなことだが、当時のドイツ人にとって「不幸」なことであったに違いない。何故かというと、礼拝の場でより高度な音楽が追求され始めることで肝心要(かなめ)の聖書のメッセージが心に届かなかったのではないかと思われるからだ。音楽への執着が礼拝の場を占領し始めることは、(カルヴィンに同意して)、私は文字どおりの意味で「罪」だと思う。 
 その点はジャズ的な音楽が礼拝で用いられることも同じ。もし、聖書の言葉が音楽によって浸食されるようであれば、オルガン伴奏や声のハーモニーを含めて、伴奏なしのアカペラ以外は、ないほうがいい
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松山千春「起承転結」

 松山千春とは、同郷の身である私は、故郷の風景を思いだしたくなると本当にたまにであるが、このCDを聴く。足寄(あしょろ)町にはレコードジャケットに使われた,千春さんの巨大な肖像画が飾られているそうで道立青年自然の家の開設にあわせ,この施設のテーマ曲を送るなど、足寄町との密接なつながりは今も続いているそうである。
 歌碑のほか、駅そのものが「松山千春記念館」となっているとことで、ラベンダー畑の高原風景で知られる郷土に、千春の歌が時折流れているそうだが、いかがなものかと思うけれど…。
 北海道を題材に、時折旅情豊かな曲が作られる。それで洞爺岬、摩周湖知床あたりに行って大音響で地名にからんだ「ヒット曲」ながされるのを聴いて興醒めたことが何度かあるので。が、趣味の問題か?

 千春の魅力は、印象的な曲だけではない。高音部にはりがある繊細な声や若い叙情や恋心に豊かな表現力を含んだ歌詞に引きつけられる。レーモンド・ルフェーブルが千春の曲を好んでとりあげ、確か共同で作ったCDもあった。千春の曲にはどこかにヨーロッパのロマンチシズムの感性に共感を与えるものがあるのかもしれない。
 
 北国の春から夏にかけての草原の明るさの気分とか、10代にまだ初々しい恋心が許されていたころの気分とか、少し落ちこんだ時、演歌のような泥臭さのない「応援歌」などを求めておられるなどしていたら、松山千春のキキメは、いかが?
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ピーター・ポール&マリー(PPM)「風にふかれて」
 フォークソングの創始期に、このPPMがいる。1960年代のロックンロールとは別にボブ・ディランやPPMなどベトナム戦争を背景にアメリカの東海岸を中心にギター1本で反戦歌を歌う「フォークソング」ムーブメントが生まれた。
 忌野清史郎にはこのスピリットが見られ、以前反原発を歌詞にとりいれ禁止騒動になり、昨今ではパンク調に「君が代」をアレンジして、発売元が中止宣言するなどの話題を呼んだ。教会が世俗化し、「塩気」を失ったところでは、反戦や環境破壊批判、体制批判などを旗印に若い世代の「良心のうずき」が、時代へのプロテスト精神を内在したフォークソングを生み出してきた。インターネットの登場は印刷機の発明以来の、革命と呼ばれたが、フォークソングの登場は、60年〜70年代の若人にとって革命の靴音ような響きを持ったであろう。キーワードは「相対化」。欧米では既存の文化や伝統の枠組みを相対化する側面も併せもち、キリスト教サイドからは必ずしも歓迎されたわけではない。時として、伝統的キリスト教に対して破壊的でさえあったからである。この点は、あのビートルズも例外ではない。
 
 それにもかかわらず、フォークギターやフォーク調の讃美歌は教会でも若い層に圧倒的に支持され、「ブラックによるプロテスト」を背景にしたゴスペルと共に、今でもさかんに歌われる。それは、キリスト信仰はもともと神学論争や体制批判ではなく、心の喜びを吐露してやまない歌声運動が本質的なファクターだからである。「一体、何人もの人が死ななければならないか。その答えは風のなかに消える」この歌が歌われたベトナム戦争の時勢と同じように、湾岸戦争でもキリスト教会の主流は戦時体制に組み込まれることしかできなかった。日本のキリスト教会も同罪。第二次大戦下で「皇軍」を全面支援した歴史を決して忘れてはなるまい。
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ビートルズ「エリナー・リグビー」
 去年発売された「ビートルズNo1」について、このアルバムを聴くに至った経過がある。息子は、目下ビートルズにはまっているが、私は去年のクリスマスプレゼントに、このCDをプレゼントする予定だった。が、予算がなく、ついに年明けとなってしまったのである。そんな私を見かねて、娘がアルバイトをした儲けのなかから、肩代わりしてくれたのである。当然、息子は喜んだが、私も3000円の出費を浮かせることになった。いや、なにか、やり残したような気持ちになり、結局、卓球のラケットを買って、懸案のCDに替えることにした。
 ビートルズナンバーは、私も良く耳に残る。とりわけエリナーリグビーには、その特色のあるメロディに乗せられた、強いメッセージに興味をひかれる。

 ああ、あの孤独な人たちをごらん
 ああ、あの孤独な人たちをごらん

 エリナーリグビーは、結婚式が終わったばかりの教会で、お米を拾う
 夢の中で暮らし
 窓辺でたたずむ
 窓脇にしまってある顔をまといながら
 いったいだれのために

 あの孤独な人たちはいったいどこから来るのだろう
 あの孤独な人たちはいったいどこに帰るのだろう
 マケンジー神父は、
 誰も聴く人とていない説教の原稿を書いている
 誰も近寄ってこない
 仕事中の彼をごらん
 誰もいない夜中に靴下をつくろっている
 
ビートルズのナンバーでもこの曲は、教会がマンネリズムに沈み、説教が力を失い、形式主義に陥っている様子を描いて容赦ない。それだけに、一種のシニシズム(嘲笑主義)に受け止められかねない消極さが覆っていることが悔やまれる。
教会は、人の感傷や良心のうずきによってでなく、聖書自信によって変革され続けなければならない。
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ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビーム

 「水玉模様と月の光」と書いてしまうと、味気ないような気がする。曲の詳しい謂われは調べていない。ただ、題からすると、英語圏のようでもあるし、映画音楽なのか、いわゆる伝統音楽なのかもさだかではない。いつか調べてみようと思っている。(おそらく、アメリカ産ではないだろう。欧州の英国圏に属するような雰囲気なのだが。フランスなのかもしれない。)
 クラシック音楽で、サキソフォンが登場する場面は希有であり、楽器自体が新しいためか、あのビゼーの「組曲アルルの女」で、有名なメヌエット部のフルートの主旋律を「裏歌」として支えるのがサキソフォンであったと記憶している。ジャズの世界では、日本人ではナベサダやマルタが思い浮かべられるが、テイク・ファイヴのブルーベックや、スタン・ゲッツのオ・グランジ・ア・モールには引き込まれた。
 この曲については何回か聴いた。いや、思わず耳を傾けていたと言ってもいい。
 どんな楽器にも似合う曲なら「あまた」あろう。たとえば、バッハやビートルズの曲にはそのようなナンバーが多い。しかし、アダレイなどの演奏を聴くにつれ、この曲はアルトサックス以外で演奏してもつまらないだろうなと思う。ジャズのナンバーだが、テンポが遅く、まさに「月の光」を彷彿とさせてくれる。
 実を言うと、私はロマンチックな曲が得意ではない。いや、「ロマンチシズムに酔う」などということにやや敬遠したいような思いさえ浮かぶ。だから、歌謡曲のほとんどは何回も聴きたいとは思わない。
 しかし、ジャズのスタンダードナンバーは、その耽溺主義的的雰囲気にもかかわらず、やはりたくさんの年月を聴き嗣がれてきた「年輪」のようなものに、惹かれずにはおかない。
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エリック・クラプトン 「Tears in heaven」

歌詞がすばらしく、しみじみと泣かせてくれました。
ここに紹介します。
最近、私はあのエリッククラプトンに
もろくもはまっています。
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Would you know my name
If I saw you in heaven 
(天国で君に会えたら、僕の名前を覚えていているだろうか)
Would it be the same
If I saw you in heaven
(天国でも、みんな同じならいいんだけどさ)
I must be strong
and carry on
'Cos I know I don't belong
here in heaven
(僕は、弱音なんかはいちゃいられないさ
とにかく生き続ける。
今、僕は天国にいるってわけじゃないんだから)
Would you hold my hand
If I saw you in heaven
Would you help me stand
If I saw you in heaven
(天国でも、君は僕の手をとってくれるかな
天国でぼくが君をみたら、ささえてくれるかな)

I'll find my way through night and day
'Cos I know I've just cann't stay
here in heaven
(これから僕は夜も昼も、自分の行くところを見つけようと思う
とにかく、今、僕は天国にいるわけじゃないんだから)

Time can bring you down
Time can bend your knee
Time can break your heart
Have you begging please
begging please
(生きていれば、落ち込む時もある
生きていれば、祈る時もある
生きていれば、心が引き裂かれるようなことだってね
僕のために願ってくれ
どうか 願ってくれ)

Beyond the door
There's peace I'm sure
and I Know
there'll be no more
tears in heaven
(ドアのむこうには、平和があるってことは疑っちゃいない
天国にはもう涙もないってこともしってるさ)

Would you know my name
If I saw you in heaven
Would it be the same
If I saw you in heaven
(天国で君に会えたら、君は僕の名前を覚えていてくれるかな
天国でも、みんな同じならいいんだけどね)

I must be strong and carry on
'Cos I know I don't belong
Here in heaven
(僕は、強くあろうと思う。そして生き続ける。
とにかく、今、僕は天国にいるわけじゃないんだから)

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