特に印象に残っているオススメの映画を紹介しています。
 映画は、いろいろなことを考えさせてくれます。
 
   
 
 
映画鑑賞の小窓
 #「おもひでぽろぽろ」
 #「キッド・カンパニー」
 #「ショート・サーキット」&「ショート・サーキット2」
 #「セント オブ ウーマン」
 #ショーシャンクの空に
 #プライベート・ライアン
 #天と地
 #評決
 #レナードの朝

 

「おもひでぽろぽろ」
 宮崎駿プロデュース。高畑勲監督。都会育ちの「たえ子さん」が、山形のべに花の農家に出かけることになり、やがて結婚相手を出会うまでの様子が味わい深く描かれている。
 たえ子さんの幼少時代の回想が、私の少年時代の世相に重なり、グループサウンズなど当時流行した音楽や風物などにノスタルージーを覚えた。主人公のたえ子さんの半生から、やんわりと教育/文化/農業などについてのメッセージが伝わってくる。
 小学校時代、数学が悪く、母は嘆き、姉には「バカ」と呼ばれるという回想場面が印象的。 分数のわり算が、何故「分母と分子を反対にして掛けると正解になるのか」という疑問に学校ではもちろん、家族も答えることができなかった。私にも、小中学校で分数の概念が納得のいくように説明されてきたという記憶がない。この年になってごく最近、遠山啓氏の「水道方式」に接して、やっと分数のわり算の意味と関数の意味がわかりかけてきたばかりである。
 姉のセリフ「そんなの、ただ《ひっくりかえせばいい》って覚えたらいいのよ。「アンタばかね。」は、素朴で本質的な質問をした学校の子どもたちに対して繰り返されてきたはずだ。

 分数の分母は、全体が「1」と考えられるということは、実は非常に根元的で重要な哲学的概念に属する。多数が1に置き換えられるからである。「一と多」である。そして、少数など「1」より少ない数を掛けると、結果は増加するのではなく減少する。この概念も考え始めると「増加と減少」という「正負の数」の概念に重なる。とにかく、もし小学生がこのような数の概念にまで関心を広げて教師に質問しようというものなら、今も昔も「あんたバカね」とは言われないまでも、奇異の目で見られるに違いないだろう。だから、学校では「考える」ことは教えられていない。 

 演劇に才能があったようで、地域の劇団から声がかかるが、父親が猛反対する。反対のしかたが当時を彷彿とさせいかにも権威主義的。「芸能人になんかなるな」ということであった。かくして、学校信仰によって、才能が封印されてしまった。
 べに花農家の場面では、無農薬農家の苦労もそっと紹介されている。情景描写もきわめて美しい。
 タレントの今井美樹さんが声優として活躍する本作品。今井さんの歌などが流れていると、映画のなかの「たえ子さん」がどこかに実在しているようで、ほほえましい。
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「キッド・カンパニー」
  市場では非常にマイナーな米国映画。邦訳され、日本でも見られる。
 けれど、お勧めの映画ベスト10を勝手に選んだとすると、間違いなくランクインしそうな作品。原題は「KIDCO」。カリフォルニアに実在するといわれる株式会社の創設期に取材した子どもが主人公の実話。
 荒唐無稽な子ども対象の映画ではない。
 10代の子どもたちが、会社をつくることを提案し、紆余曲折の末、本物の会社「KIDCO」ができるまでが忠実に再現されている。
 最初、子どもたちがどのように学校を「見限るか」、そしてどのように会社をつくろうと思い立ったかがが見どころ。子どもを学校の型にあてはめようとする大人社会と、子どもたちの自由な発想がぶつかりあう。
 両親が、「学校に行かない、型破りの破格な」子どもたちの行動をあたたかくうけとめるようとする姿には感動した。
 だから、アメリカには「不登校問題」というカテゴリーすらないのだろう。

 子どもたちは、最初父親が経営している牧場馬の「糞」に注目して、それに草を混ぜて「飼料」として売ることを計画。廃棄物の再利用というエコロジーの意味では、非常に模範的な着想。大人は、子どもの着想からもっと学んで(盗んで)いい。

 やがて評判になり、人気が沸騰して注文が殺到し、大資産を得る。
 ところが、同業の競争相手会社からにらまれ、やがて違法行為などを理由に提訴されてしまう。納税問題や未成年の就職などをつつかれて、裁判は苦境に立たせられる。
 
 しかし、ここで「めげない」ところが実にアメリカ的である。テレビで「少年社長」として紹介されるや、子どもたちを中心にこの会社を守るための大キャンペーンが展開され、裁判の結果せっかく苦労してもうけた資産をすべて没収されてしまうのだが、納税責任と経営主体を明確にすることを条件に会社の存続を許可され、こんどは「キャラクター・グッズ」でそれまで以上の利益をあげてしまったのだ。

 もし実話でも、あれほどの演説がテレビカメラを前にできたとすればみごとと言うほかはない。
 少年社長は言う。「アメリカは自由な国のはずなのに、大人たちは、子どもの自由な発想を奪おうとしているのです。」
 キャスター。「もし資金がたまったなら何に使いますか?」 
「大学を買います。そして、子どもが自由に学べる学校をつくります」
 拍手喝采。いいことを言ってくれる!!
 ホームスクールや不登校出身の子どもの将来の「就職」が話題にされることが多いが、希望を与えてくれる。参考になることも多いのではなかろうか。 
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「ショート・サーキット」&「ショート・サーキット2」

 表題からは、スポーツカーのレーシングものかと誤解されるかもしれない。
 主役は兵器として開発された最新鋭のロボット。
 「アサシン〜暗殺者」や「ブルーサンダー」などのハードボイルドアクションで知られるジョン・バダム監督による、こちらはコメディ作品。バダム監督作品では、なんといってもあの70年代の青年像を表現した名作「サタディ・ナイト・フィーバー」の知名度が突出している。
 「ショートサーキット」二部作は、「ホームアローン」「キッド・カンパニー」などと同様に、家族で楽しめる秀作と思う。深刻な映画ではない。質の高い笑いを提供してくれる。アリー・シーディ演じる「相手役」?もインド系アメリカ人の悲哀をもの語るという伏線がはられている。
 ロボット・ジョニーナンバー5が人間と同じように生命が宿るという一見荒唐無稽ともいえる設定ながら、ユーモアとパロディが随所にちりばめられる。 ロボットが疑似生命を持つようになるという設定は、たとえばシュワルツネッガーのターミネーター二部作が有名だが、作品としては着想・映像・出演者・演技どれも「ショート・サーキット」のほうが出来がいいと思う。
 周囲が、ロボットに生命が宿ったことをなかなか理解できないということは、反対にジョニーNo.5も自分が「生きている」ということを分かってもらえないということだ。みどころもここにある。
 このあたりの描写は異民族が共存するアメリカ社会の困難をパロディー化したものと言えば大げさか。異なる文化や考え方に対して、社会がバリアーをつくって受け付けようとしないのは、日本だけに固有の課題なのではない。ホームスクーリングが周囲に受け入れられない時の気持ちを、ロボットなのについ感情移入して見てしまった。 
 恋愛感情を持ったり、兵器製造組織から「欠陥品の暴走」とみられて追撃されるとか紆余曲折の末、後編ではジョニーNo.5がついに周囲の信頼を獲得し、ヒーローになって、ついに「アメリカ市民権」まで獲得する。
 軍事産業を母体とするインターネットも、このように市民権を得た。
 現実の社会では何の倫理的歯止めもなく、テクノロジー信仰の技術者たちによって、ロボットが限りなく生命体に近づく日が夢見られているのだが。
 悪夢でなければいいが。
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「セント オブ ウーマン 夢の香り」

    原題は「SCENT OF WOMAN」「SCENT」は「芳香」、「WOMAN」は文字どおり「女性」の意味。「女のかおり」という原題のストレートさを「夢の香り」とかえても、原作の雰囲気は少しも壊れていないと思った。テーマは色恋沙汰ではない。いわゆる見せ場が多い名作だと思う。クリス・オドネル扮する名門校学生チャーリーは、ある日バイトを頼まれた。依頼人は、退役軍人であり、愚かにも手流弾をもてあそんで盲目になるという苦渋をなめたややひねた初老フランク。アル・パチーノ演じる盲目のフランクは、まったく「頑固じじい」で、なかなかはまり役だと思う。しかし、彼が本当に盲目になったのかと思わせるほど、真に迫る名演技だ。チャーリーは、プライドばかりが高く激しやすく気難しいフランクに手こずり、バイトを諦めかける。しかし、彼は強引にニューヨークに引率させられた。そんななか、少しづつ心の中が通じ合っていく。第一印象で「いやなやつ」と思っていた人物と、信頼関係が徐々につくられていく過程は重厚であり、感動ものである。第一の見せ場といえる。第二の見せ場は、題名の出所でもあるが、初老の退役軍人が、もはや叶わない幸福な結婚を夢見る場面。ニューヨークのホテルで「美女」と踊る場面が切ない感情を誘う。バンドネオンの哀愁に満ちたメロディにのせて、パチーノとガブリエル・アンウォーが踊る場面は実に美しい。洗練された上品さの極致。ある日、チャーリーは、学校でおこったある事件に巻き込まれ、冤罪から停学処分させられそうになった。その顛末がフランクに知られるようになり、チャーリーは公開尋問にかけられる。しかし、その講堂にフランクがあらわれやや「はったり」のきいた演説で弁護するのだ。「がんこじじい」はここでは一変して、正義感と誠実さ溢れる名演説をおこなう。権力の横暴のもとに翻弄されている弱者が、「正義」や「真実」によって救済されるいかにもアメリカ映画らしい。。第三の見せ場だろう。上位下達や長いものに捲かれろ強い者に媚びろ式の「正義」に馴染んだ邦画では、このような展開はなかなか見られないと思う。 
 

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「ショーシャンクの空に」

  原題は、「THE SHAWSHANK REDEMPTION」。邦訳版では、キリスト教的用語に馴染まない鑑賞者のために「空に」とされたか、もしかしたら芭蕉の「〜夢は枯れ野を駆けめぐる」を連想したのかもしれない。
 が、しかし、原題に「REDEMPTION」が使われている意味は大きい。神学用語としては、「贖(あがな)い」と訳され、人の罪から救い出すために無垢なるキリストが代償として自身を差し出すという意味。映画における、無実なる人銀行家アンディは、妻殺しの濡れ衣を着せられ、終身刑に服するためショーシャンク刑務所に送られる。過酷・劣悪な刑務所の状況の描写がリアルだ。ティム・ロビンスの淡々とした演技はすばらしい。脱出のための穴掘りや、所長の不正に肩入れさせられるなど気の遠くなるような労苦は無意味ではなく、すべてやがての日に「贖いの代価」とされるべき「希望」につながるという重厚な内容なのであり、虚空の幻影に遊ぶ芭蕉の世界とはほど遠い。
 
「刑務所のリタ・へイワース」は、何をみていたのか。アンディが何故「希望」を捨てないでいられたのか。その内面を支えていたのは、聖書のことばであったことが燻し銀のように示されていたのを見る人は見る。それだけに刑務所所長の外向けの瀟洒な「慈善」と「信仰」、そしてその絢爛たる偽善の影で行われる不正な蓄財と残虐行為が目に心に焼き付く。脱獄ものといえばそれまでだが、ふさぎ込んでいたり落ち込んでいる時に見ると絶望の渕から救われるような映画だと思う。そして、脇役の獄中仲間役のモーガン・フリーマンが非常にすばらしい。最も印象的なシーンは、彼が木の下でアンディの手紙を読みすすめる場面。セリフのない沈黙の画面に、あれほどの深い内面性を込められる役者は他にいないだろう。
 
 評価が高い映画であるが、そのほとんどは脇役のフリーマンの存在感によるものだと思う。
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「プライベート・ライアン」

『プライベート・ライアン』鑑賞
 S・スピルバーグ監督の話題作。CGを駆使した戦場の描写があまりにもリアルであるという「たてまえ」から米国では、青少年の鑑賞にはふさわしくない作品とされた。(本当は、観衆のなかに湾岸戦争体験者がいて、臨戦の悲惨な記憶が呼び覚まされるために、劇場のなかで泣きわめくなどの行動がみられたため、カウンセラーやセラピストが待機させられていたからのようだ)
 原題は、「Saving Private Ryan」。ちなみに、Privateは「個人的」という意味ではなく、軍隊用語で二等兵のこと。(このての誤解は他にもある。戦争もの系の「プラトーン(Platoon)」は「小兵隊」という意味で、キリシヤの哲学者の名(Plato)ではない。いつか朝日新聞のコラムで哲学者プラトンの思想と映画の内容を無理にこじつけようとしていたが、単純な誤解に基づく。)
 邦訳で出されなかったSavingが物語の本質に迫ると思うので、陳腐かもしれないが「二等兵ライアンの救出」と訳したほうが「個人的ライアン」と思われるような誤解を避けられたのかもしれない。巧みなCG技術が話題を呼んだが、個人的にはそれほどでもなかった。(バイオハザード2の、Gの変形体と、食われた死体のCGを見よ。この比ではない。)
 むしろ、内容に見応えがある。
 時は、第二次世界大戦「ノルマンディ上陸作戦」渦中にあったとある連合軍米兵小隊に、二等兵ライアン救出の特命が下され、8人の編隊が組まれる。ライアン家の4人息子のうち3人が戦死。軍上層部が、残された一人の母のために末息子の帰還を「配慮」した結果であった。ところが、ライアン救出には成功するものの、戦場では特命隊員が次々に悲惨な死を遂げるのであった。
 戦場では、「救い」という概念がいかに空しいことであることか。印象的だったのは、射撃手がドイツ兵に照準を合わせる時に、十字架に敬意を示し「祈る」場面。弾道がうまく読めて、的確に敵兵を殺傷できるように「神の加護を祈る」のだ。敵の救いのために祈るべき敬虔なキリスト者でさえも、戦場では「祈り」の概念すら変質させられるかもしれないのだ。この内面的変質はグロテスクであり、「Gの変形体」などの比ではない。この作品は、同監督による「シンドラーのリスト」ほどの「名作」と肩を並べるとはいえないまでも、戦争を美化する昨今の風潮に警鐘をならすかもしれない。
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『天と地』

 邦画の角川映画「天と地と」と間違われやすい。
 こちらは、「JFK」などするどい社会的視座をもつことで知られるオリバー・ストーン監督による秀作。主人公は、実在のベトナム人女性レ・リー。導入部分のベトナムの田園風景が、きわめて美しく印象に残る。小乗仏教の厚い信心で結ばれ、僧を中心とした農民の生活の牧歌的な豊かさが忠実に描かれる。(旧約聖書の士師記18章、イスラエル侵攻の前夜、虐殺される前のシドン人が「安らかに住んで」「平穏で安心しきっていた」というくだりを思い起こした。イスラエルのカナン侵攻をどのように現代戦争論のなかで位置づけるかという難問と向かい合っていた時期なので…)

 戦禍は、田園生活を破壊するばかりでなく、主人公リーを巻き込み、スパイ容疑、拷問、レイプなどに翻弄される。転機は、離婚歴をもつ米兵との出会いによって訪れると思われた。やがて、渡米し、結婚する。カトリックの信仰あつい米人家族のなかで、仏教の信仰を固守しようとするリーの姿に幼い頃から馴染んだ精神教育の「頑固さ」を見た。

 ところが、夫が武器産業によって一儲けしていることをリーが知るところとなり、夫婦の間に諍いが生じ、やがて、麻薬中毒の影響下失意のうちに夫は自殺。違った信仰を背景にもつ結婚がもたらすかもしれない悲劇とも見える。
 
 主人公役のヘップ・ティ・リーの演技は真迫の名演であり、不覚にも涙をさそわれた。映画でも少し描かれていたが、「転んでもただでは起きない」女性リーは、実在の世界でも事業で成功し、講演のために来日したこともある。夫役のトミー・リー・ジョーズの「無骨さ」がいい。それにしても、なんとも、激しく強い女性であることか。
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『評 決』 監督 シドニー・ルメット ポールニューマン主演
  
 ポールニューマン主演の弁護士ギャルビンは、さしたる成果もなく三流弁護士の汚名を帰せられるまま「よいどれの日々」を送っていた。そこに、ある大病院の医療過誤を巡るもみ消し事件の弁護を依頼されたのであった。

 すなわち、キリスト教会立病院の産婦人科で、出産に伴う酸素吸入のタイミングを誤り、産婦を窒息死させてしまう。ところが、病院はこの過失を認めず、家族が提訴したのであった。大病院を相手にしながらも、遺族の側に「正義」があると見て取ったよいどれは、一念発起して正真正銘の「弁護士」になる。本領を発揮し、遺族弁護に立ち上がり、病院側の隠蔽工作を暴くことで、遺族を勝訴へと導くのだった。
 
 巨大権力悪も、正義の審判の前にはひれ伏さなければならないというアメリカ映画の一つの魅力、もしくは美徳が表現されている。観点の一つで興味深かったのは、教会立の病院が巨大化し、営利を追求しなければならなくなった時、小規模のうちには守られていたであろう福祉と奉仕の精神が、組織を維持することこそが最大の目標とされるように変質してしまうという設定。かなりリアリティがある。
 
 たとえ組織が巨大化しても、「愛の奉仕」や「見返りを求めない援助」を消さないための努力、つまりこの病院のようにキリスト教系病院の場合においては「最初の福音に帰りなさい」というメッセージに真剣に聴いて、いつも内面を刷新していなければ、同様の事件は国や時代を越えて、どこでも繰り返されるかもしれない。宗教的背景は違っても同じ性質の問題は、巨大化した病院にばかりではなく、巨大化し「組織の存続と維持」が優先課題にされはじめた家庭教師派遣業・補習塾・フリースクール・私立学校にも必ず訪れる。

 ところで、アメリカ映画の「裁判もの」には、おもしろい内容が多い。子どもによる会社創立権を争った「キッドカンパニー」、エイズを理由とした不当解雇を訴える「フィラデルフィア」、正義のために偽証が許されるかどうかを問うた「スリーパーズ」等。正義の精神は、マンモス名門大学を相手にした名作「セント・オブ・ウーマン」にも健在であった。いずれ紹介しようと思う。
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「レナードの朝」監督 ベニー・マーシャル 主演 ロバート・デ・ニーロ
  原題は「AWAKENING」。覚醒という意味。名作だと思う。
 主人公は、自意識がなく疑似昏睡状態におかれている重度の障碍者。そのレナードの変化の様子を、ロバート・デ。ニーロが熱演している。
 彼は実に名優だ。
 セイヤーは担当医として、彼に新薬の投与を試みたのであった。ただちに効果が現れて、レナードに意識が戻る。「数十年間会っていない母」と再会し、言葉を覚え、街の様子にふれ、恋の予感もあるなど、以前の様子と癒やされる喜びとのコントラストが印象的。嬉々としたレナードの姿と、それを見つめる病院関係者など周囲の様子が、刻銘に描かれ医療に従事している人々の喜びと悲しみの一端をかいま見せている。セイヤー医師を演ずるロビン・ウイリアムズは、どこかしら亡くなったあの川谷卓三の風貌を思わせ、暖かみと誠実さをかもし出している。
 しかし、やがてその新薬も効果がなくなり、ほどなくしてレナードはもとの疑似昏睡状態に戻る。レナード物語は、実話に基づくことが最後のテロップに流されるのであるが、医療の可能性とその限界を表したドキュメントとしても、薬の役割とその限界を示している映画としてみてもいい。
 米国から、関連した話題を一つ。
 おちつきがなかったり、授業中動き回って教師の話を静かにきこうとしない子どもが「注意欠損・活動過剰障碍」と診断され、教室に入るまえに中枢神経刺激剤イタリンや、抗鬱薬プロザックが過剰に投与される実態があかるみに出されている。しかも、2才児にさえ「多動障碍治療」と称した薬づけが行われているとされる。米国政府は、学校におけるこのような「薬害」の調査にやっと乗り出したばかりである。(2000/3/21 毎日夕刊参照)
 薬によってもたらされるのは、癒しばかりではない。
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