(1)一般書店で買うことができること
(2)ホームスクーリングにはこだわらない
(3)どの分野であれ、日本語であること
(4)全部読んでから紹介する、ゆえに、読んだふりはしないこと
などを基準 (^_^;) に、勝手気まま、気の向くままに読んだ本の紹介をいたします。
では、よろしければ、おつき合いください。
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ウォルフレン 「怒れ!日本の中産階級」
毎日新聞社 1999
ウォルフレン氏の著作と発言には、以前から興味を引かれていた。
それは、主に次の観点からである。
ここ10年来、ウォルフレン氏が活躍される以前から、情報公開などの草の根運動のサイドや、政治学者の一部から「政治の力学は、政党間の対立、たとえば革新対保守という図式はあてはまらなくなっているのであり、現在最もリアリティがあるのは、選挙で主権者によって選ばれた政治家と、非民主的なプロセスで実権を握るエリート官独裁との対立という図式である」と語られてきた。氏がこの点について、「人間を幸福にしない日本というシステム」などの著作で官僚支配の功罪ということを繰り返し指摘しておられるのは周知のところであるのだが、ところが、その一方で「自衛隊を軍隊として認知せよ」とか、藤岡氏や小林よしのり氏など言論を「持ち上げている」かのような文章に出会い、不可解に思ったからである。どの著作でも、直接間接に、自由党小沢氏の言動を最大限に担いでおられることも然り。
国家が、官僚の支配によって腐敗するという指摘は、特に新しくはないし、ウォルフレン氏を祖とするものでもない。ただ、日本の官僚主義支配の腐敗した現状へ指摘が、あたかも「予言が成就」したかのように現実でも目の当たりにした時、氏の著作が特別な注目をもって受けいられるのかもしれない。
一方で、石原都知事などの「ヤスクニ公式参拝」や、森首相の「神の国発言」などが非難を浴びる一方で、それを支持する声が少なくないという現状において、今の自衛隊を「軍隊」と呼ぶ世論にたいし、不協和音は国の内外に多い。
それ以上に「軍隊を持たない国家は未熟なのだ。現行憲法第9条の呪縛を棄てて、すでに軍隊そものである自衛隊を軍隊と呼ぶべきだ」という流行の改憲論は、天皇をいつでも神と呼ぶことに吝かでないこの国で、「ヤスクニ」の視点からは限りなく危うい。
氏の官僚批判は、おおむね当を得ているように思える。けれどもあえて「いやみ」ないいかたをすれば、歴史のなかで「極悪」と呼ばれるサイドでさえそのくらいはできただろうと思う。たとえば先の大戦下の特高警察がいかにキリスト教などを的確峻厳に分析していたことか。だが、その役割は皇国の大命を具現することにあった。なにも、氏と特高警察を同一視しようというのではない。何を目差そうとしているのかが見えないだけだ。
「現代のにせ預言者」でなければいいがなと思う。
現状分析が的を得ているとしても、だからこそ、それがどんな政治的勢力に都合がいい言論であるのかということにも注目しなければならないのだ。
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丹治 愛「神を殺した男 ダーウィン革命と世紀末」
講談社選書 1944
ダーウインの「進化論」を前提とした世界観が哲学など諸思想に対して潮流のように与えた歴史をたどっている秀作。
進化論が「嘘か真理か」という議論がされているのではないし、キリスト者が創造論を擁護するように書かれたものでもない。ただ、生物学という「井戸」だけでは見えてこない、「大海」のようなマクロな視点が本書で明快に解き明かされていると思う。
欧州で、当時誰も疑わなかった聖書的定律反定律に基づく「判断基準」への意図的反逆が、本書の表題で「神を殺す」という表現に込められた。
進化論は、始めから「科学上の新発見」を装いながら、その実は聖書とキリスト教的価値観・倫理観への反逆を意図していたのである。「種の起源」はダーウイン自身も意図していないほどの大反響をまきおこしたが、やがて、マルクス主義の国家観、自然主義に潜む唯物史観、戦争における殺戮肯定のニヒリズムは言うをまたず、仏教的輪廻人生観や仏教的唯物論(カルマ)と融合して皇国史観にも隠れひそみ、他民族抹殺のための「淘汰肯定論」として多大な影響を与えた。
ゆえに、進化論は、他の科学史上の発見とは本質的に全然違う。
シュトラウスの「イエスの生涯」が紹介されているが(P22)、聖書学において、日本では「無教会」の学徒を通じて紹介されたドイツチュービンゲン学派の聖書高等批評学にも潜みこみ、キリスト教会に伝統的聖書観からのリベラル化というあだ花を産みだす黒幕となった。
神の創造による秩序ある因果関係が否定された一方で、物質/動植物/人間の間の壁が取り去られ、神の占めるべき位置が不可侵の「偶然性」に取り替えられ、人の人生を支配する神の摂理も「競争による自然淘汰」に変えられたという意味では、新宗教の登場と読めなくもない。ダーウイン自身、教祖になる意志などはなかったのに、後代が祭り上げただけなのかもしれない。
特に、天地創造の因果関係を信じるキリスト者でなくても、もし、公立学校や公共放送であるNHK公共放送で当然のように前提とされている進化論を疑って、一度思想史上の脈絡で問い直そうと思われたなら、本書はきっと良い見取り図となると思う。巻末のブックガイドは丁寧であり、良い教材を提供してくれていてありがたい。
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うわさに聴いていた宮台氏のことを、本書である程度学ばせていただいた。
宮台氏の社会学者としての学問的前提として読める一文「社会学の考え方によれば、人が人に価値観を伝達することはそもそもできない。人は単に環境から学習するだけだ。環境には価値観を伝達したがっている大人もいるし、価値観から乖離した行動をする大人たちも子ども達もいる。」(P229)つまり個人の価値観は社会に対して相対的であるという社会主義的決定論とも呼べる立場について、何故か「社会学の考え方」とは何をさすのかが銘記されていない。
わずかに引用される(P363など)、マックス・ウエーバーが欧州プロテスタンチズムを分析した枠組みを、ご自分の少年時代に感化を受けたマルクス社会主義の路線を方法論として、それとは知られないようにではあるが日本的土壌に当てはめようとしておられるのだと推測して、ほぼ外れてはいるまい。
宮台氏の分析は「ラブホテル評論家」と公言しておられるほど、実際に風俗女性との性的関係を含む「フィールドワーク」に裏打ちされているので、日本的集団主義と倫理的虚無が十代の性風俗にもたらす現状を見るのに、彼ほど精緻かつ正確な分析ができている人もいないと思う。「おやじ攻撃」さわやかだが、しかし、宮台氏自身のなかにさえ強力に巣くっている「おやじ感性」の域を出ることができないので、結局自嘲しているようにしか見えない。
日本人の性の擾乱が、旧約聖書の淫欲の町ソドムのように非常に危機的状態なので、宮台氏のシニシズムとも呼べる徹底した倫理的相対主義の立場を批判しようと試みる人は少ないだろう。
ただし、提起されている内容のいくつかは承伏しがたい。
一つは、「誰が見ていようがいまいが、他人が自分を脅かそうが、『我これを信ず』と言い続けられるようなそんな確かな『倫理』を持った人なんて、一人もいやしない」(P50)というくだり。これは、聖書の悲観主義とは違う。
徹底的に絶望的なしらけかたである。
「どうせみんな同じ」という「あやうさ」よ!
それと、韓国への「テレクラ取材」で得た結論が「純潔教育がなされるアジアの後発資本主義国でのこの程度の性体験率(10%未満)こそ、テレクラ誕生を準備する『テレクラ民度』なのかもしれない」(P273)程度とは!
宮台氏は、韓国でのキリスト教倫理の影響の大きさを知っていながら、故意に無視した上で、傲慢にも、韓国が日本の性的放縦の後追いをするだろうと予測した。何故フィリピンを取材しなかったか。なぜ、政治問題にもなっている日本男性とフィリッピナの間に生まれた認知されていない数千人の子どもたちの周辺に関心を払おうとしないか? 日本産婦人科の隠れたドル箱となっている堕胎産業とか、いわゆる法の華なんてものの数ではない霊感商法もどきの「水子産業」周辺に隠れたトラウマにどうして一言も触れようとしない?
宮台氏は、教養として「キリスト教理解の精緻さ」を求める東大の伝統的学風に抵抗がないためか、欧州マスコミからの取材には比較的素直に応じておられるようだ(P236)。キリスト教についての知識は持っているが、仏教など他の諸思想に比べて、性についての倫理的規範を疑いもなく明確に示しているのが「はなもちならない」にちがいない。
言いたいことはまだある。
《死の自己決定》(P311)のくだり。安楽死の議論を紹介しながら傍観者を装うが、死の自己決定権つまり臓器移植肯定論にカムフラージュされた「自殺肯定論」は彼の持論なのであり、この点も青少年への影響を考えると絶対に見過ごしにできない。
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岡部一郎 「インターネット市民革命」 お茶の水書房 1996
インターネットの登場は革命的であり、「IT・通信技術革命」の立て役者と呼ばれる。 何に対するどのような革命を意味するのかが、本書によって提示されるといえる。この種の書物のなかでも、最も「体系的」であった。
コンピューター社会の到来を見据えたこれまでの思索には、楽観的なものばかりではなく、たとえばロボットによる社会管理は人間性の喪失を生み出すであろうと考えられ、効率性の管理が生命誕生の管理の悪夢にすり替わるであろうと不気味な予言もされていた。唯物論的な思考にとらわれる学者のなかでは、コンピューターがやがて人格をもつであろうとの楽観的な未来像もある。
インターネットを、「人類が火を使用し始めた以来」(p230)の発明と呼ばれるのが、必ずしも大風呂敷を広げた言い方ではないと思わせられた。
たとえば、インターネットは、国家権力の意味を変えたこと。
つまり、近代国家は、市民にエリート崇拝を植え付ける一方、生きる目的を指南し、生きる手段を定義し、できれば市民個々を巨大なレリーフの一部に組み入れようとする。その時市民に対しては、巧妙に「役に立っている」とのマインドコントロールがなされるが、実は、ただ「新しい奴隷状態」に陥っているのである。
インターネットの登場によって、パソコンという最も小さな単位が「国家」や「大企業の財力」や「国家と言語の空間」「放送局」としての機能を持つようになった。つまり、最も少数者であり、最も弱いと見られていた市民に国家や大企業に対抗しうる手段が与えられたことを意味するという意味の革命である。集団主義的であり官僚支配が緻密に張り巡らされた日本社会では、もともと市民の力であるインターネットを受け入れることにブレーキがかかけられていた。今日それを打ち破ろうとしているのは、日本国政府ではなく、米国であり、市民のインターネットユーザーである。つまり、徹底した民主主義の勢力が前述の国家至上主義のレリーフから個人を解放しようとしているのだ。
究極的には米国と同じように市内電話が無料化され、格安プロバイダー登場あってはじめて「革命」は、徹底するであろう。
最も興味を引かれたのは、インターネットが軍事技術によって発展してきたことがどのように「平和的な脈略」のなかで説明されているのかということ。
「徹底して軍事的な思考から生まれたゆえに、インターネットは分権的システムとなった。核戦争という、小惑星の衝突以外、人類の考えられる思考の最高度に研ぎ澄まされた形態が、実はラジカルな民主主義である他なかった、という重要な論点をインターネットは今日の社会に投げかけている」(ピースネット創設者マークグラハム氏の言葉 p148)
ラジカルな民主主義をサポートするのがインターネットであるという認識が、ホームスクール市民教育革命、反原発エネルギー革命、社会のノーマライゼーション、シックハウス市民の会の連帯などを促進してきた。
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小浜逸郎 「この国はなぜ寂しいのか
ものさしを失った日本人」 PHP1998小浜氏というよりも、小浜氏の教育評論風の文章に惚れ込んでいる少なからずの人がいるという点に関心があって読んだ。
時々、人権派や民主派とよばれる人々の意見に唾をはくような「うけ狙い」がちりばめられている点がビートたけし風とも言える。ただビートたけし氏と違うところは、文章が引用される出所が一応あきらかされていること。
だが、ビル・ゲイツ氏や立花隆氏の文章を読んだ後に、小浜氏を読むのはけっこうしんどい。他人の文章や意見や思想に対する取り扱いが、何故こうも粗雑なのだろうかと思う。丸山眞男氏に言及されているが(p14)、文献引用もされていないし、その著作から影響を受けた風でもない。大江健三郎氏を批判する発言は(言論の自由ゆえに)あってもいいとは思うが、何の引用もされないまま論点をはぐらかした。(p56)(小浜氏は同じ様な言い方で、「買ってはいけないもの」を揶揄したことがある。)
渡辺惇一「失楽園」だけには何故か引用ページが書かれているが、あとはどれも引用ページが皆無。しかも、引用途中の「中略」の多さよ…。著者にとって都合のいいところだけ、と勘ぐられてもやむおえまい。
意見の違う人から何かを学び取ろうとする態度や、批判する前に相手の立場に聴こうとする基礎的素養が欠落しているらしい。松本清張氏の「2,26事件」の論の進め方で、松本氏が、第一資料や基礎的全文献を踏まえてさえ仮説としてやっと言い得ているような謙虚さがみられない。
「人は具体的な関係においては、必ず他者の命の軽量の序列を自分のなかで敷いて行動しているもので、それは悪いことではなく自然のことなのだ」(p215)このあたりがやっと出てきた骨董品のような本音か。
命の軽量の序列をはかる「ものさし」なら、戦前戦中においては、八紘一宇の美名のもとに日本中、そしてアジア近隣諸国中にばらまかれていたはずである。
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松本清張 「2,26事件」第1巻 第二巻 文藝春秋 1986
たとえば、バーガミニ著「天皇の陰謀/前篇・後篇」いいだもも訳 れーぽーる書房(特に後編P29以下)によると、太平洋戦中、「元首」と呼ばれた昭和天皇は、軍隊から言われるまま人形のように「言いなりになっていた」というつくられたイメージとは正反対に、青年将校の不満と行動計画をすべて周知の上で、実権を握るための精密な青写真を持っていたといわれる。
もしそうであれば、軍の政治介入に牽制をかけようとしていた高橋是清などに代表される護憲運動家統制派勢力を疎ましく思い、普段から抹殺したいと考えていたが、その暗殺計画情報が「上奏」されるのを静観し、事前においては背後にあって青年将校たちを泳がせ、暗殺の成就事後においてはタイミングを見て「反乱軍成敗」の名のもとに軍部への発言力を一気に掌握するという周到な見取り図を持っていたことになる。これは、バプテスマのヨハネの首を周到にはねさせた、あのヘロデヤのやりかたと似ている。
私は、いわゆる昭和史において、当時青年将校たちには、軍全体の天皇への強い忠誠心が反映され、青年将校たちは、当時の脈略においてのみ「純粋」だったことと、青年の殺刑が天皇自身の強い意志に基づくことの間に、どこか腑に落ちない力関係のようなものを感じていた。
しかし、仮にそうだとしても、日本人の視点でこの出来事を再認識したく思い松本氏の文章にふれた。
二段組の上下あわせて約900頁は読み応えがあって重厚。歴史を遡り、2.26事件に至る因果関係をひもとく時、第一資料への配慮やより信憑性の高い仮説を積み重ねて、慎重に論がすすめられている。
ただ、警察側の事情調書など資料の「木々」をながめて鑑賞してはいるが、
多くの事後効果をもたらした「源泉」、あるいは全体像としての「森」が分析されているとは必ずしもいえない。すべて天皇からの間接直接の「上意下達」によって動く軍隊の様子はありありと浮かんできたが、結論に慎重なあまり、因果関係の「中心」が蜃気楼のようにぼやけた。
何故ぼやけさせたのだろう。
それゆえ、やはり日本人は、米国人歴史家による次のような認識に依存しなければならない。(「天皇の陰謀」後編 P28)
「裕仁は独力で、三政治戦をたたかい勝利を収めた。裕仁は次期政府の政策ないし人選については、何の譲歩もしなかった。叛乱の鎮圧についても叛乱そのものについても、陸軍が全責任を公にとるべきだとした」「廷臣たちは、裕仁がこの叛乱によって止むを得ず、兵士達の遊んでいる手に仕事を探し、対華戦争準備に同意することを余儀なくされたのだ、と示唆しょうとしている」
旧日本軍にたいして絶大な影響力と統率能力を持った「東のヒットラー」というのが「昭和天皇」裕仁の別名にふさわしいと思う。
2000年5月、政府自民党は、驚くことにその名をたたえる「昭和の日」を制定しようとしたのだ。
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ロバート・ホワイティング 日出(いづ)る国の「奴隷野球」
憎まれた代理人団野村の闘い 文芸春秋 1999
著者がどこのどんな人物なのかよくわからない。
どんな職業なのか、どこ住んでいるのか何も書かれていない。翻訳の体裁をとっているが、原文からの引用がどこにもない。ロバート・ホワイティングや松井みどりが実在しているのかも明らかではない。もしかしたら偽名ではないのか最初から日本語だったのではないかなどと思いながら最後まで読み、「あえて著者を所在不詳としているらしい」と思うに至った。
「奴隷野球」とはおだやかではない。古代ローマの競技場コロセウムで迫害の末に捉えられたキリスト教徒たちに殺し合いをさせて、見物人たちが興に入っていたイメージを伝えたかったのだろう。日本にいる限り、もともと「スポーツショー」なのだし、大上段に構える必要もないのではないかと思えるほど、テレビで見る選手たちは楽しんでいるように見えるのだが。
もし、本書に言われていることが事実だとすると、野茂・伊良部・吉井などが大リーグ入りした顛末は、日本の野球界の《実相》が明るみに曝されたとも思う。また、普段あまり知られることのなかったドミニカ共和国と日米野球との関係、特にカーブ・アカデミーの存在については一読の価値がある。
現阪神野村監督の妻沙知代氏を母、ユダヤ系アメリカ人を父とする団(だん)野村氏は、カトリック信徒であり、一時選手としても日米野球の現場を渡り歩き、現在は日本人を大リーグに送り出すエージェントとして知られ、文章を読む限り、良心的な人物であるとの印象を持った。
本書が出される前に、野球ファンとして疑問に感じていたことは多い。
野茂の評価は何故、渡米前後で変わったのか。善良な伊良部は、なぜあんなにマスコミ嫌いなのか。好調だったロッテは、なぜバレンタイン監督を解雇したのか。海外から入団した選手はなぜ差別的に「ガイコクジン選手」とか「助っ人」と呼ばれるのか。なぜ、テレビ中継は巨人軍中心なのか。なぜ長島さんが上着を脱いだの脱がないのだのであんなに騒ぐのか。
ある程度、その答えらしきものが見えてるように思わされた。
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野村克也/筑紫哲也「功なきものを活かす」
カッパブックス 1998
現在の阪神監督の野村氏は、「再生工場」と呼ばれて、その監督手腕は野球界以外でも注目される。人間を「工場」でつくられる品物のように表現するのもいかがなものかと思うのだが、それは「言葉狩り」などではなく、選手使い捨てのイメージにはリアリティがつきまとい、その体質は始めからヤンキース行きを希望していた伊良部選手の渡米劇の顛末で、本人の意向を無視して強引にパドレスとの交渉を進めたロッテの首脳陣に現れた。本書において、叩きあげの苦労人といわれる野村氏の考え方や方法論が「学校化されていないひとつの典型」の例といえるのかどうか…。
データーの稠密な集積を積み上げてた采配を示す「ID野球」の監督として知られる。選手の学習は現実の試合で活かされるべきことが重視される。そして、野球は「失敗のスポーツ」であって、失敗は当然だか、どのようにしたら失敗を少なくできるかに心を配るのだという。 自信を喪失しがちな選手の本来の能力を引き出して活躍させる配慮が「教育的」といわれるのであろう。野村さんの手法はチームを優勝に導くために、「学校でつちかわれた日本的集団主義という精神的素材」をさらに磨きをかけたものだ。ゆえに、選手たちは学校よりもさらに徹底した管理の下におかれ、チームのためにある種の「自己犠牲」を要求される。(p44)当然というべきか「巨人批判」が目立つが、《大艦大砲主義》の巨人を反面教師としているということは、言い換えれば日本野球は徹底的に「巨人様々」ということで、巨人に勝つことを努力目標にさせて、他球団に優勝の恩恵を与える巨人軍はかなり自己犠牲的とまではいわないが、やはり存在が大きい。
野村工場では、大リーグに巣立つ野球人が生まれるのだろうかと思う。現在横浜ベイスターズの監督である権藤さんの門下にあって、野茂も吉井もそして、昨年まで横浜にいた佐々木もいた。権藤さんは「のむさん」に比べて選手の自立心を育てる野球を指南しているのかもしれない。
滅私奉公的に管理されたノムラ野球慣れした選手は、日本人チームの組織力に貢献する能力をいかんなく発揮する。管理されたとしても、選手たちは、野球が心から好きで、高い年俸も伴うので喜んで命令に従うのだろう。だから、大リーグに行こうとはあえて言わなくなる。
それは、学校における「管理」とも「努力」ともその概念はまるで違う。しかし、野村さんの「国旗国歌(当時まだ法制化前だったのに?)への敬意」への執着(p59)と同様に、徹底して日本的ではある。
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寺脇 研 「なぜ学校に行かせるの?」日本経済社 1997
寺脇氏の肩書きは「文部省生涯学習局生涯学習振興課長」('97年現在)という長いもので、文部省の顔役としてしばしばマスコミに登場する。
寺脇氏は文部省サイドにありながら、ホームスクーリング容認の可能性を示唆した発言をされていた。(別冊宝島「学校に行かない進学ガイド」参照)
だから、本当は自由な発想を持っておられるの方なのかもしれない。
本書は、非常に難解な本だ思う。
専門用語が多いとかいうのではない。
たとえば、登校拒否に関して「来るのが苦しければ学校にこなくてもいい」(p17)と言われていながら、すべての子どもが「いい学校通い」をしている社会をつくることが文部省の、そして学校の使命(p89)といわれているくだり。つまり、学校が改善されるまで、一時的臨時的処置として「いい」のであって、ホームスクールのように学校以外の場が容認されているわけではない。
また、内申書については、一方で「内申書で生徒を黙らせるな」(p38)といっていながら、そのすぐ先で、内申書のなかで教科学習以外の「ボランティア活動」を評価することが擁護されている(p48)。子どもは「こども扱いしてはならないけれど」(p165)「大人扱いしてもいけない」(p183)。
首尾一貫とはほど遠い。
想像力で「対立概念」を埋めなければならない。
意地の悪いクイズみたいである。あと寺脇さんの著作とは関係ないが、軍隊用語があるように、「自由にやらせる」とか、「考えさせる」という表現は、学校化されて特殊用語。「自由」と「やらせ」は本来、対立概念。「考える」のと「させる」というのも対立概念。「考えさせられる」はあっても、「考えさせる」は一般社会では上意下達による組織内部以外には、少なくとも公には使われない特殊用語である。一般社会では、自由は自由、考えるは考えるなのであり、「自由にやらせる」「考えさせる」というのは、刑事さんが犯人を泳がせておくのというのと同じで、徹底的な監視行動や意図的誘導を含む概念と考える。
1999年春、広島で「日の丸・君が代」を指導する教育委員会と現場の板挟みになった校長が心労で自殺した。この事実を根拠に、昨今「君が代・日の丸法」という悪法が成立。文部省は、国旗・国歌法安施行後最初の卒業入学シーズンに際し、昨年9月と同様、2000年の今年1,2月にも、掲揚・斉唱率の悪い自治体の担当者を呼びつけて「適切な指導」を要望した。
寺脇さんのお仕事だったと考えるのは勘ぐりすぎか?
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鳥山敏子 「賢治の学校」&「賢治の学校 2 いじめを考える」
サンマーク出版 1996,1998宮沢賢治は、日本で教育を考える時に避けて通れない作家だと思う。
中学、高校の学校国語教科書では、何故か好まれて頻繁に登場する。
しかし、個人的には避けて通りたかった作家だった。作品に描かれている人生観や世界観がきわめておそろしいからである。ゆえに、宮沢賢治のやさしさをたたえる評には大きな戸惑いを禁じ得ない。
数年前、清里の絵本博物館で宮沢賢治作品の特別展示会がありその絵本作品群をじっくり読む機会があったが、賢治の作品は「やさしさが溢れている」などと絶対に形容されるべきではない。
「よだかの星」をいじめられている子どもが読むと、よだかに心から共感するかもしれないが、同時に「死以外に逃れ場がない」と読めはしまいか。背筋もこおるほどの残酷さ無慈悲さを、彼ほど肯定的に描けた作家はいない。冷酷さが「あわれみ」とか「慈悲」や「美しさ」の名で覆われる時、虚無主義の母体となる。やがてそれは、あのオウムが殺人を「ポア」と言い換えた狂気を産むだろう。たとえば、シェルダン・H・ハリス「死の工場」に著された731部隊の姿を、「なめとこ山の熊」「注文の多い料理店」などに描かれた賢治の寓話と重ねてみるとわかる。もし「なめとこ山の熊」を聖書のように繰り返し読んで、その生死観を自分の「からだ」に浸透させた後ならば、731隊員医師たちがあれほどの残酷をなしえた境地に少しでも近づけるかもしれない。調べる気もないが、ひょっとして、当時の関東軍には賢治の愛読者が多かったりして?
鳥山氏の著書では、著書全体が宮沢賢治作品のコメンタリーと呼べるほどその世界に惚れ込み、共感し解釈して、教育問題など現代の諸問題に適応させられている。以前鳥山氏が神戸の少年の殺人事件について、言い得て妙なる分析をしておられた背景がここにありやと思わせられた。宮沢作品は、人間の心の非情さ、残酷さを分析し認識するための資料として申し分ないからである。
もう一つ長くなって恐縮だが、賢治がキリストの教えそのものを批判している箇所に鳥山氏が賛辞を惜しまない「めくらぶどうと虹」の引用のくだりは、聞き捨てならないので一言。
「まことの瞳でものを見る人は、人の王のさかえの極みをも、野の百合の一つにくらべようとはしませんでした、それは、人のさかえをば、人のたくらむように、しばらくまことのちから、かぎりないいのちとはなして見たのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧きのぼる、塵の中のだた一抹も、神の子のほめたもうた、聖なる百合に劣るものではありません」(P116)
つまり、人の羨むような「ソロモン王の栄華」は、神が恩寵をもって飾られた一本の「野の百合の美しさ」に優るものではないというマタイ伝に記されたキリストの言葉を、「なんでも比較して優劣を認識しようとする不徳」と読んだらしい。
聖書の文脈に仏教の自然観を読み込み、大言壮語してはばからない解釈学上の幼稚さもさることながら、キリストを名指して「まことの目を失っている」となど評するとはずいぶんなことが言えたものだ。
ちなみに、賢治研究の新しい視点として、武田秀夫著「セイレーンの誘惑」漱石と賢治 現代書館 1994 を紹介しておく。もし、森毅氏のような人が、今般の教育改革国民会議のメンバーの一人であれば、学校教育の改革議論のゆくえに少しはおもしろみが期待できたかもしれない。が、それは教育基本法の改悪などをめざす会議の隠された目的からすると、一つの必然といえなくもない。
森先生とは面識はないが、他に数学者と呼ばれる数人に実際に出会って、公式的紋切り型ではないかとの先入観とは全く裏腹の柔軟な発想・思考に驚きを感じていた。本当に数学が分かった人ならばこそ、非常に柔軟な思考を身に付けておられるのだ。本書にも、関西人らしいユーモアを交えた、歯に絹着せない自然体の言葉に同じような自由さを感じ、思わず笑いを誘われた。著者は、心の動きまで見えるような生き生きとした文章を書かれる人だと思う。
その学校観・教育観は、フリースクールのスタッフをしてさえ「彼は過激だ」と言わしめるほど的を得て、確かに過激でもある。しかも不登校など鼻にもかけられなかった20年数前にして、テストが作り出す学力観、内申書、塾と学校、どれも内部から見た学校教育の問題点が整理されてお見事哉。ホームスクーリングを始めて、「少し学校のテストみたいなことをしなければいけないかな」などと焦り始めたなら本書を読まれることをお勧めしたい。
テストにまつわる幻想を消してくれるだろう。もっとも手元にある本はかなり旧い本なのでアルミサッシの宣伝でおめにかかるあたり以降のお考えとは「ずれ」があるのかもしれないとも思う。森先生の最近の著作も読みたくなった。もっとも、不満がなくもない。「よく、学校を出ていなくても『人間としての幸福』をつかめば良い、なんてことが言われるが、これは現代の社会においては、相当犯罪的な言明だろう」(P182)というくだり。犯罪的という表現はどうかと思うが、20年以上前の時代状況からするとやむおえないかな…。
それと「微積分など知らなくても生きていける」(P131)といった誰かの問いかけへのお答えなどは、どこかはぐらかされたような印象だ。特に「(微積分の概念)は、世界観の問題として必要であるのだ」というあたりは理解できなかった。カナダの初等中等教育にはあの拷問のような九九はないとか、アメリカでは高校レベルでも二次方程式程度が分かれば御の字とかいうのと比べて日本の微積分修得への固執は異常だという問題と、数学上の概念として微積分は必須であるのとは、問題の質が違うように思うのだが。
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シェルダン・H・ハリス 「死の工場」
近藤詔二訳 柏出版 1999もし旧日本軍について全体像をつかみたいと考えたら、その無責任体質を詳細な資料からあきらかにした丸山眞男氏の「現代政治の思想と行動」が筆頭にあげられるだろう。決して読みやすいとはいえないが、最近不祥事にことかかない現代の官僚の対質のなかに旧軍隊にみられた思想的慣性の法則が働いていることが認識させられよう。
ただ、これまで読んだ旧日本軍論のなかで、D・バーガミニ著「天皇の陰謀前編&後編」以上に印象に残っている書物はない。いわゆる昭和天皇は、米国の占領統治上の策略のゆえに罪を公にされることなく免罪されたが、その歴史の影の部分である「昭和天皇の戦争への積極的関与」に光が当てられた労作であるからだ。日本人が書こうとしなかった事実を、元米国人将校が書いた。
そして、天皇と別の意味で731部隊の責任者であった石井も免罪された。 つまり、731部隊における細菌兵器開発のデータの提供と引き替えに、恐るべき戦争犯罪に加わった数名が戦後生き残るばかりか、医学界で重要なポストを得たのであり薬害エイズ問題が育まれる「死の血統」を生み出されてきたといわれるのである。
それから、ハリスによるの本書でもたびたび引用されるが、森村誠一氏によって「悪魔の飽食」が書かれたことは特筆に値する。軍事的機密事項という理由から作為的に隠蔽されてきた事実を明らかにしたこの勇気は、本当に尊敬されるべきだとおもう。
ちなみに、現東京都知事の石原慎太郎氏が森村氏に反論し「731部隊の蛮行はなかった」と公言して、一時両者の間で激論がかわされた。
ハリス氏は、米国サイドの資料に基づいて、戦後石井の戦時医学資料がどのように利用されたのかにスポットを当てている。米国軍部は、生物細菌兵器開発のために「人体実験」の資料を求められていたが、法律的倫理的壁を乗り越えられなかった。ところが、石井部隊は残虐非道な殺戮をものともしないで貴重な実験を無感情な機械のようにやすやすとやってのけたのだ。
もし、日本固有の「軍隊」が存在していたとしたら無責任体質が温存され、一方、実戦においてはどんな狂気もなしえる殺人マシーンに変身できるとみなされるだろう。
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