第18回 東京ホームスクーリング祈祷会 2005年7月26日
特別講演
東京基督神学校校長 山口陽一師

「近代日本の戦争と教会」



 
 
みなさん、おはようございます。
 今日は、近代日本の戦争と教会というテーマをいただいています。
  みことばをお読みして、始めたいと思います。ヤコブの手紙3:18「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって、平和のうちに蒔かれます。」

◆戦後60年◆
  それでは、近代の日本が、どのような戦争の歩みをしてきたか。その中で、教会はどのように歩んできたかということを、かいつまんでお話をしたいと思います。前回、お招きいただいた時に、日本の教会の戦争責任そういう歴史的な課題について、特に偶像礼拝をめぐることを中心にお話をしたと思います。今日は、かなり(前回と)重なる部分もあると思いますけれども、戦争をテーマに考えていきたいと思います。
  今年は、本当に記念すべき60年目、戦後60年目という年、またその夏をむかえています。いろんな機会に戦争のことを振り返る機会があると思うのですけれど、やはり60年という年月は、長いですね。私はつい先日48歳になりましたから、私にとっても戦争というのは全然知らないことなのに、戦争が終わって13年たって生まれました。もちろん今に比べれば、戦争の傷跡とか名残を思うことは子ども時代にありましたけれども、しかし、それでも戦争はもう昔のことでした。ところが戦後60年経ってみると、私が生まれた年は、戦争に近かったんだなということをあらためて思うようになって、こないだ計算してみたんです。大学生たちに夏をむかえて平和のことをお話をするときに、今の大学生達にとって60年前の戦争ってどんな感覚だろうと。そして計算してみると、私にとって、第一次世界大戦を感じるくらいの隔たりがあるわけです。私にとって第一次世界大戦というのは、映画の世界ですけれども(笑い)、遙かに旧いはなしですね。そんなことを考えると、今の大学生に戦争のことを伝えること、そこから学んでもらうことなかな大変なことだなとあらためて思いました。ホームスクーリングのなかで、今のもっと小さい子どもたちにこうしたことを日本の歴史の大事な部分を伝えていくというのは、さらに困難が伴うかもしれません。しかし、本当に伝えるべきことを伝える。分量とか、あるいは知識の量とか、そういうことでは限界があるかもしれないけれども、本当に伝えるべきことを伝えるということができたらいいなと思います。
  近代における日本が最初におこなった戦争が、日清戦争。これから数えても110年。この110年の歴史は、分けますと全くきれいに最初の50年、あとの60年。たえまなく戦争をしていた50年と、まがりなりにも国が直接戦争に関わるっていうことがなく過ごしたというか、守られた60年という、なんという好対照な前半と後半でしょうか。
  戦後の60年の平和というものを作り出してきたのが、憲法の第9条。国際紛争を解決する手段としては、武力を用いない。それゆえに、戦力を放棄するというとてつもない憲法を日本は戦後持ちました。これは、その前の戦争があまりにも惨かったからです。
 戦争って、そもそも悪い戦争をしようと思って始める戦争なんて絶対にないですね。どの戦争も必ず自衛の戦争であり、正義の戦争であり、もっといえば人助けの戦争だったりするわけです。そこには、ちょっと目がくらむような理想が掲げられたりもするわけです。けれども、どんな理想があろうとも、目標が良かろうとも、戦争っていう手段に訴えてはだめだっていうことを日本人が身にしみて感じたわけですね。そういう中から、生まれてきた憲法9条によって、やはり守られてきたと。これを“平和ぼけ”っていうのは、それこそ、ぼけた発言でありまして、これは尊しとすべしです。戦後だって、世界では戦争が続いているわけですね。そういうなかで、一人の戦死者も出さず。一人も戦争において殺さずっていうふうに歩んできたこの大国日本というのは、そのことだけとらえても、これは、本当に尊いことだとすべきなのです。けれども、そうでない傾向が大変強まっている。

◆考えなければいけないこと◆
  戦争をすることのできる普通の国になろう。憲法9条をドブに投げ捨てようというようなそういう勢いのご時世であります。クリスチャンにとって、神の前に自分が罪人であるということを自覚することは、スタートですね。祝福のスタートです。そこからすべての希望が開かれてくるスタートです。クリスチャンは、基本的に同じように旧約聖書を学んでいてもそうですけれども、民族の歴史はこんなにすばらしいんだ、ユダヤの歴史とはこんなにすごいものなんだ、周りの国を見てみろというような事であるよりも、自分たちが、先祖達がいかに神様に不従順であったか、そのために裁きを受けたか、主よどうぞお許しくださいという歴史認識をもっているのです。これはクリスチャンが自らの事をを考えていく時にも、あるいは国の事を考えていく時にも大変共通するところだと思うんですけれど、自分を正しいとか、あるいは完全であるというふうに思わない。むしろ多くの欠けがある、そういう中から間違いを犯すのが国家権力なんですけれど、それを押さえていく憲法をもって歩もうとする。そういう歩みを決して“自虐”とか呼んではいけない。やはり、日本の国がアジアの中でどんなことをしてきたか。このことをまっすぐに見つめるところから、自分たちの国はこんなりっぱなんだという「一国中心史観」という言い方をしますけれど、そうではなくて、隣国と共生していく歴史観をつくっていくっていうことをやっっぱり曲がりなりにも、努力をしてきたわけですけれども、それがなかなか完全に確定しないままに、むしろ、そうではなくて、自分の国のことを誇りとするそういう歴史を持つのは当然だろうということを、まことしやかに語るようなこともまた強くなってきています。東京都において、君が代・日の丸の強制は、目に余るものがあります。昨年も、この人が処分されました、今年もそうです。でも処分の数が減ってきていますね。先生たちもこの事と闘っていくのは大変ですね。5月の終わりくらいに、立川の先生が処分されました。不起立。国歌とされた「君が代」の斉唱の時に、起立をしなかったというだけで、停職でしたね。停職1ヶ月。それで、九州の訴訟で、確かに職務違反という要素はあるんだけれど、しかし、それに対する処分として、戒告ぐらいはまあありうるかもしれないけれども、それ以上の処分というのは不適当だということがいわれたばかりなのですけれど、こういう処分が出されました。この先生は、ご存じかもしれませんけれど、やはり間違ったことを子どもたちに教える、それから間違ったことであっても、上から言われれば従うんだっていうことを子どもたちには絶対教えられないっていうふうに思って、不起立の態度をとって、1ヶ月停職ですからね。でもこの方は、自宅謹慎しなかったんですね。毎日学校に出てきて、校門の前でその不当性を訴えたんです。それが、教師の責任だって考えたんです。6月の終わりに、また職場に戻りましたけれども、こういうのは、昔の話ではなくて、今現におこっている教育現場のことなんです。いくつかのお話をしましたけれども、私たちが戦争の事っていうのを本当によく考えて、これからどういう国に自分たちはしようとしていくのか、その中に生きていこうとするのかを、考えなければいけないし、子どもたちに伝えていかなければならないなと思わされるのです。
◆日清・日露の教会 内村鑑三「日清戦争の義」◆
 それでは、旧いとこから、日清・日露の教会。そして、その後、特に大正期くらいのこと。アジア太平洋戦争期の教会、戦後のこと。そんな区分けをしながら、お話をしていきたいと思っています。
日本は繰り返し戦争をしてきたわけですけれど、その中で教会はいったいどういうふうに生きたのか。興味あるところですね。知りたいところです。まず、日清戦争ですけれども、欧米列強の帝国主義的な侵略が、アジアに覆い被さってくるというそういう時代でした。ですから、これをはね除けねばならないと日本人が考えたのは当然のことだし、ある意味で自衛という部分があるんですね。私はこの時からの戦争を「自衛主義の史観」とか、あれは自衛の戦争で当然だったんだいうつもりは全然ありません。そういう味方をしてはいけないと考えているわけです。でも、自衛という要素があったのは確かです。いろんな要素がそれぞれの時代にあるわけですね。どれを、歴史的な教訓としてとらえてくみとっていくか。今の時代に何をどういうふうに歴史をとらえることが必要かっていうことが大事なんですね。歴史観の問題になります。そういう点で、日本の国はりっぱだった、こんなにすごい事をしてきたんだということよりも、すごいことをしようとしてどれほど過ちを犯してしまったか。そのことをよく考えることによって、アジアにおける正しい歴史を切り開いていこうというこういうところに、歴史の視座を据えることが大事なわけなんです。自衛の意味を多いにもつ戦争であり、同時に日本人がこれは「義なる戦争だ」とほとんど例外なく考えた戦争でした。清(シン)という国の圧制から、朝鮮の独立を確保するこれが戦争の大義でした。もうちょっと言うと、困っている朝鮮の人たちを助けてあげよう。そのために、日本人が血を流そうというくらいのことを考えたわけです。
 内村鑑三なんてほんとうにそういうふうに言っていました。「これは、まことに義なる闘いである。」つまり、隣人のために命を捨てよう。血を流そうっていうそういう覚悟の戦争なんです。自らが何らかの利得を得ようとするのではなくて、正義のための闘いなのだと言ったわけです。清国を後進国というふうに日本は考えていました。そんなふうに考える事自体かなり傲慢なことなんですけれど、清国を打ち破ることが清国のためになると考えていたのです。文明を普及させていくための戦争というふうにとらえたわけです。ですからその時期に、まだ教会もよちよち歩きの時期ですけれども、この段階で、戦争に反対する教会っていうのは基本的になかったのです。唯一例外が、そもそも戦争反対を教理としている、あるは主義として掲げているフレンド派、クエーカー。もうこの頃日本で活動していました。友会、友の会。キリスト友(ゆう)会という名前で、日本で活動を始めています。「平和」という雑誌も発行されていました。自分たちの教派の主張として戦争反対ととなえた唯一の教会。ところが、そんな教派でさえ、日清戦争に直面して、分裂していくんです。自分たちの主義である戦争反対を貫くべきと言ったのは宣教師たち。いや、これは義なる闘うべき闘いなんだと考えたのは、日本人の教師たちでした。早くも、この最初の戦争を巡って、フレンド派は分裂をしてしまいます。以後、フレンド派が日本の戦争にどういう発言をするか、私など歴史をみていくときに、本当に期待をするし、どんなこと言っただろうかと思うのですけれど、ほとんど、有効な発言をすることができませんでした。内村鑑三は、「日清戦争の義」を書き、(もともと英文で書かれた論文です。)世界にむかって、日清戦争がいかに義なる闘いであるかを説いたのです。明治学院のインブリーっていう宣教師は、こんな心配をしました。これは、この時期は、丁度内村鑑三不敬事件というのがあって、教育と宗教の衝突論争。教育勅語が出て、日本の国のありかた。天皇を中心とした国のありかたとキリスト教は相容れないということでさんざんたたかれた後だったんですね。だから、インブリーは考えました。その上戦争になって、日本の教会はどれほどの苦境に陥るだろうかと、心配するのは当然でした。けれども、結果、(少先の話をさきにしてしまいますが)インブリーは、日清戦争・日露戦争を通して、日本の教会は、日本から認められる結果になったっていうふうに振り替えています。
  わかりますか?つまり、もちろん日露戦争の時期には、内村鑑三をはじめとして、非戦論がおこってくるわけですけれども、日本の主流の教会は戦争を全く支持をしました。その戦争を支持することによって、ある意味、天皇と相容れないだろうといわれた教会が、いや大丈夫なんだということをあかししたといいますか、(このあかしはあまりいいあかしじゃないんですけれど)そういう結果をもたらすことになるのです。

◆大正期  内村鑑三の非戦論◆
  さて、日清戦争・日露戦争で、実は勝ったことが日本の悲劇でした。
  朝鮮を支配圏に入れる。台湾の?を受ける。ヤオトン半島を支配する。もちろん多くの犠牲者を出しましたかれども、戦争ってこんなにうまい汁を吸えることなのかと実は日本が思ってしまったのが日清戦争だったわけです。その後ロシアの南下という状況の中で、日本の中には政府がとか軍部がというだけではなくて、国民の世論が戦争を望むようになっていきました。傲慢なロシアをやっつけろというわけですね。日本にはそれができるっていう国民感情が作られていってしまったのです。この時期、内村鑑三のことを中心にお話をしたいと思いますけれども、それだけでなくて、キリスト教社会主義などが興ってきます。多くの人たちはクリスチャンでした。彼らは、社会主義の論理から、帝国主義批判を繰り広げ、戦争に反対するそういう論をたてていきました。ここに名前を挙げておきましたけれど、その他にも、メソジズト教会の白石きのすけ、日本基督教会の宮川、組合教会の柏木ぎ円、それぞれの教派の中に戦争に反対をする論がおこっていきます。内村はどうして、非戦論に転じたんでしょうか。これは、彼が日清戦争を義なる戦争だと信仰をもって本当に信じたからだという言い方ができると思います。内村は本当に信じました。本当に信じたので、裏切られたと思った時に、これが間違っていたということを明確に感じたのです。彼は言います。「朝鮮の独立。これが戦争の目標だったのに、日本が朝鮮での利権を拡大しただけではないか。益を受けているのは軍部だけではないか。台湾をぶんどるなんていうことが何の関係があったのか。」というふうに。つまり、戦争の大義名分が嘘っぱちだったということを内村鑑三は見過ごしにしなかったのです。これは、私たちが大変学ぶべき態度です。つい最近だって、イラク戦争において「大量破壊兵器がある」っていったのが、なかった時に、なかったっていう現実を、もっと大事にすべきなのです。そこでごまかされて、やっぱりフセインという暴虐な支配者を追い出したんだから、それで良かったというような理屈に移っていってはダメなわけです。戦争が終わったと言われてから、それからアメリカ軍の死者は急増ですよね。はるかにまさるイラクの人たちが死んでいくのです。そういうなかで、またイギリスでテロがおこる。関連があるに決まっているじゃないですか。ないって、ごまかすことは現代に内村が生きていれば絶対にしないでしょうね。そういう態度です。正しいと言われたことを、なるほどそうだと思うことはありえますよね。支持するということはありえると思うのです。でも、そうではなかったということが見えたならば、はっきり違ったんだと、内村は猛烈に悔い改める「猛省」というそういう論文を書いて、戦争を支持したことを悔い改めるのです。罪を認識する、悔い改める、みんなクリスチャンが個人の生活のレベルでそれから、国民としても懺悔すべきところと、内村は言います。「剣をとるものは、剣で滅びと主イエスはおっしゃられた。かかる時にこそ、私どもは、世の変幻きわまりない諸説に耳を傾くることなく、単にこぼつべからざる聖書の格言に頼りまして、私どもの身体を定むるべきであると思います。」ここはなかなか難しいところで、聖書が非戦論を明確に支持しているか、いや、戦争を認める部分があるのではないかというものですね。国が警察権をもって、横暴な犯罪を抑制する。それの延長線上に国家が軍事力を使って、警察権の延長のような戦争をするっていうこういう理屈があるわけです。確かにある。それで、今も私たちは、それをどのように考えるかなのですけれども、そういう戦争を日本はずっと続けてきて、その結果が何であったか、これをちゃんと見ることが大事なんです。その結果、国際紛争を解決する手段として、警察権の延長だこれは人助けだ、大東亜共栄圏だといって、軍事力を用いたことがどれほど大きな間違いだったかということを、いやというほど、感じて、これを放棄するという決断をしたわけです。歴史の中から、私たちはそのことを学ばなければならないですし、それから、聖書の中から、やはり、セカンドベストとか必要悪としてとか、実際問題としての戦争というのがありますけれども、イエスキリストが、「剣をもつものは、剣によって滅びる」と言われた、まさに格言、これは本当ではないですか。歴史の中ですね。
  やがて、内村がそういうところに確信をもっていくのですけれども、とはいえ、罪深い人間が戦争のない世界をつくることはできないだろうと私も思います。だからといって、戦争っていう手段を聖書が肯定的に支持していると読むことができません。そこにあるのは、神のさばき、人間が自ら墓穴を掘っていくこと、「剣をとる者は、剣で滅びる」「平和の種は、平和を求める者によって平和のうちに蒔かれる」。聖書が教えていることは、特に古代教会がこれを受け取りました。
   古代の教会は、ローマ帝国の中で、ローマ皇帝礼拝を拒否するというだけでなく、やはり、争わない剣をとらない。そういう立場から兵役に就くことを拒否するのです。それが最初の教会の姿でした。しかし、そんな中でも、兵隊たちの中にも、今度は、クリスチャンは兵隊にならない、けれども兵隊の中に伝道がすすんでクリスチャンが生まれてくる。大変大事な事なんです。すばらしい事なんですけれど、でも、そういう事がすすみ、やがて、キリスト教がローマの国教となるというなかで、キリスト教の軍隊が生まれていくという歴史をたどってしまうのですけれども。
  主の教え、使徒たちの教えを受けて、最初の教会がローマ帝国の中で平和主義者として、生きようとしたということ。聖書をどう読むかという観点から、大事なことがあります。
この時期多くの人たちが、いろんな立場から、戦争反対を語ります。も一度確認しますけれど、教会の基本的なラインは、戦争支持なんです。でも、日露戦争に際しては、やはり日清戦争をちゃんと見極めた人たちがいる。そういう中で、内村は聖書を読むわけです。一生懸命聖書を読んで、聖書が何を教えているか考えるわけですけれど、そういう中から、戦争に反対人たちが出てきます。前橋正教会とは、ロシア正教会の信者である深沢俊重氏、生糸の生産に携わる信徒であり、実業人でありました。彼はこんなことを言っています。「戦争というのは、かけのようなもので、たとえ勝利をしたとしても、それによって人々の精神は堕落し、国家の健全な成長は、阻害される。」まことに健全な考え方ですね。博打とかギャンブルとかでお金を得て良かったなんて言っている人間は、堕落していく。戦争も同じである。もちろん彼は、ロシア正教会の信徒であって、自分たちの教会の母国であるところのロシアと闘うことをやっぱり避けたかったということは当然あるだろうと思いますけれども、そのような人たちもいました。健全な議論はありましたけれども、教会の主流はそうではありませんでした。ロシア正教会は、実は、明治の初期にはプロテスタントにひけをとらない活躍をしました。すごい熱心な伝道活動をして、多くの信徒を特に東北の農村などにつくっていきました。けれども、本当に大きな打撃を受けました。
 近代日本の戦争と教会と言ったときに、一つのテーマでしょうね。ロシア正教会が、大打撃を受けているのが日露戦争です。最初の戦争を、そんなふう関わりをもちました。そしておおかたのところでは、日本人として戦争にりっぱに協力して、「ああ、教会も大丈夫じゃないか」「日本人として、人民としてやっていけるじゃないか」という評価をある程度得ていくのが明治の終わりから、大正初期。この評価を得ていくという一つのシンボリカルな出来事が2番目のところの真ん中に書いておいた「3教会同」という出来事です。どういうことでしょうか。これは、仏教・教派神道・キリスト教の3教が、内務省のお膳立てで、集まって、国策協力を求められるのです。社会主義なんていうのが勃興してくるし、人々の心を宗教によって統治していこうそういうふうな政府のニーズがありまして、宗教者たちが招かれて、国策への協力を求められる。それに対して、3つの宗教の代表者たちは、それに応えている宣言をするのです。実はこれは画期的というか、明治からのキリスト教の歴史をみると、あるキリスト教者たちにとって、本当にすばらしいことだったのです。つまり、キリスト教がいつも日陰者扱いをされて、国体に相容れないとか言われて批判をされたキリスト教が、政府内務省の求めで、神道や仏教と同じように扱われた。承認されたわけですよ。本当に、そういうことを象徴するような出来事が1912年、明治の一番終わりですけれどおこりました。この時期、1900年代に入って、プロテスタント教会は、さかんに伝道します。日本の教会は、伝道をさぼっていたからこんな状況なんじゃないかと思ったら大間違いで、本当によく伝道しました。大正期は、特に協力伝道しました。今では考えられないくらいの幅広さで、教派協力をして、伝道をしました。大正時代は、日本のプロテスタントの人口がもっとも急激に伸びた時期なんですね。日本プロテスタント史のなかでは、一般的な言い方ですけれど、教会の発展期といわれる時期です。大正デモクラシーを背景にして、個人的な価値も、重視され、あるいは国際的には軍縮の傾向に進み、いろんないい状況があったわけです。明治の終わりに5万人だった信徒は、大正期の終わりには、17万人になります。これは、目に見えて教会が成長しているということを人々が実感できる数字ですね。そういう時期でした。
  ただし、これからお話することは、そういう好調な時期に、実はいろいろな課題・問題が見えてくるというお話です。たとえば、日本の教会の発展期は、同時に、「日韓併合」以後の時期なんですね。朝鮮の教会は、日本の侵略によって、大きな苦しみに陥って、そして、朝鮮半島のキリスト教は日本の弾圧との闘いの中で、リバイバルをしたのです。ある意味、同じ時期に教会成長があるのです。朝鮮半島では、迫害に耐え抜く力として、リバイバルがおきる。日本では、順調なあるていど国と折り合いをつけて、国からも承認されるようなそういう環境の中で、つまりキリスト教だったら非国民だとかあまり言われないような状況の中で増えていく。賀川豊彦、救世軍、社会的な活動も本当にめざましいものがありました。当時まだ福祉国家ではありませんから、政府が福祉とかのことに関して、面倒みるなどということがない時代です。救世軍はめざましい働きをしたのですね。
  そういう時代です。歴史をみますと、今言ったような、朝鮮半島への侵略が強まっていく、国内的には大逆事件というのがありますね。公徳秋水らが殺される事件ですけれど、これは当時の社会主義に本当に大きな影響を与えました。同時に教会にも。やがてはじまる第一次世界大戦。第一次世界大戦期には、社会主義の影響を受けた人たちの反戦運動というのは、ほとんどなくなっちゃうんです。それで、内村鑑三はといいますと、内村鑑三は、だんだん、もちろん非戦論を叫ぶんです。でも、戦争というのは人間の罪の事を考えると止むことはない。そして、また止むことがない戦争を繰り返し、そして、その中で苦しむというのは、神のさばきなのだというふうに戦争をみていくようになります。
  ついに、アメリカが参戦します。そうすと、内村の落胆は局地に達します。キリスト教国アメリカなんて、とっくの昔にうそっぱちだと思っていた内村ですけれど、それでもやっぱりアメリカが参戦するということに、もはや人間に望みをかけてはダメだと考えるようになったのです。内村鑑三は、これを経て、再臨信仰、それから再臨運動へと進んでいきます。あるみかたをすると、社会の問題に対して責任をとろうとして発言していたことをやめてしまって、宗教の世界、霊的な世界の中に引き込んでしまった、内村鑑三の後退だというふうにみられること、確かにそういう面はなくなないんですが、しかし、内村は本当に戦争を通じて人間の罪の問題を考えました。「非戦は、すべての場合においてとなうるべきである。しかれども、戦争は非戦において止まらないのである。戦争は神の大能の実現によりて、止むのである。」という境地。そんなところから、再臨運動がおこってきます。再臨運動自体はあまり好ましいものではないのですけれど、その根本にある彼の信仰はそんなところにあるのです。大正の終わりから昭和の初期にかけて、まだまだ日本のプロテスタントの中にも健全な良識は基本的にありまして、たとえば1928年に日本基督教連合。これは当時のプロテスタントのほとんどがかかわっていた運動対ですけれど、後に教会合同によって、日本基督教団をつくりあげていく力となっていくわけですが、この年14項目の社会信条を定めます。その最終項目はこうです。軍備縮小。仲裁裁判の確立。無戦世界の実現。ということを、1928年(昭和3年)。1931年から満州事変が始まりますけれど、その直前の段階で、まだ教会は全体的な表明としてしていました。

◆アジア太平洋戦争期の教会◆
  内村などにいわせると、教会は平和な時には平和を叫び、戦争になれば戦争を叫び、全くのダブルスタンダード。戦争を承認する教会などに真理はないっていって、無教会に進んでいくわけですね。私は無教会を全く認めるものではありませんけれども、こういう点においては同感するところが大いにあります。組合教会では、柏木義円、群馬県。上毛教会月報において、本当に最後の最後まで、満州事変に至るまで、軍縮を叫び続けるというような声はあるのです。しかし、1930年代に入ると、日本の状況は急激に変わっていきます。歴史家は、近代の日本が一番大きく変わったのは、いつかというと、これはなんといっても明治維新です。明治維新に次いで日本の社会が急激に変わったのは、1930年。つまり、大正期にはそれなりに、良いものがいろいろとあるわけです。でもそれを一気に押し流していくのが戦争への歩みの時期でした。靖国神社・戦争神社ですけれども、靖国神社にまつられた戦死者たちをみても、ここに数字を書いてきたのですけれども、今だいたい250万人が神様として祀られているわけですね。非常にえこひいきな祀り方です。それで、祀られている人たちの中にだって、祀られたくないと思ったって祀るわけですから、祀ってくださいと言っても祀ってくれないわけです。本当に、これは国が戦争を遂行するための神社なのですけれど、これ以降、今からお話しするアジア太平洋戦争の15年間に死ぬ人が、230万なんです。死んで神とされる人が。それ以前には明治維新からずっと数えてきても、20万人くらいなんです。だから、どれほど大きな戦争がこの時期にあったか、おこなわれたか、またそれ以前の戦争がこの愚かな戦争を用意してしまったかを読みとることができるだろうと思います。
  日本の戦争犠牲者は、310万人というふうに言われますね。そして、アジア地域での犠牲者は2000万人。ですから、大東亜共栄圏という言葉がいくらか真理性をもっていたとしても、そういうことを評価してはいけないという結果をこの戦争はもたらしたわけです。歴史をどういうふうにとらえるかということは、歴史の中にはいろいろな側面があるわけですから、英霊たちに感謝しようという歴史観を持つことだってありうるんですよ。ありうるんだけれども、そういう歴史観をもってはダメだということをこの現実の中からくみとらなければならない。さて、このあたりを中心に今日みようとしていたのですけれど、残された時間の中で、裏に写真資料を入れてあるので、見ながらいきたいと思います。日本のプロテスタント教会は、1941年に、日本基督教団という合同教団をつくります。これは、教会は一つであるべきだという理念は、もちろんあるのですけれど、それによってではなく、戦争遂行のためにつくられた教会でした。日本基督教団ができる過程には、そういうことを教会が望んでいたということがあるのです確かに。あるんだけれども、あるんだからといって、そういう見方をしていいのか。そういう歴史の評価をしていいかというと、ダメなんですね。実はこれ以前にも教会合同、教会が教会として合同しようという動きがあったんですけれど、できない。できなかかったことを、戦争に協力しなければならないという必要を満たして、教団の成立に至るのです。教団の統理者は、教団ができた翌年に、伊勢神宮に参拝をします。
  まさに、神と天皇に兼ね仕える教団ができるんですけれど、その教団規則の生活綱領、写真を入れておきました。裏側に生活綱領。この頃教会に貼られたポスター。その第1項を読んでみます。「皇国の道に従い、信仰に徹し、おのおのその分を尽くして、皇運を扶翼し奉るべし。」これは、みなさん何気なく読まないでください。非常に教会としては、重大な事が言われているんです。皇国の道に従い、その皇国の道というのは、天皇が中心である天皇が絶対である天皇のために忠誠をつくす、そういう国のあり方に従って信仰に徹しというのです。教会は、聖書に従って信仰に徹しって言わなければいけないんです。事実日本基督教団の規則も、そのすぐ前のところでは、旧新約聖書を聖典としって言っているんです。聖書に従うんだけれども、それは、日本の国のあり方に従うような聖書の読み方をしてということなんです。聖書は、日本の国のあり方が違っているということを、言わせるべく、教会に与えられているわけですけれども、そういうふうに聖書を読めなくなっているのです。そういう時代でした。教会には、いろいろな方面から弾圧がありました。そういうなかで、これだけ見ておきましょう。
資料として出しましたが、昭和17年に日本基督教団が出しました「戦時布教方針」です。つまり、戦時下において、教会がこういう伝道方針をもったということです。
  そういう意識で見てください。教会が伝道していきましょうという時に、どういう言葉を言うでしょうか。どういう言葉を言うだろうかなと考えながら読んでください。「大東亜戦争は、その目的の高遠にして、規模の雄大なる世界史上いまだかつてその比を見ず。みいつのもと、我が忠誠勇武なる皇軍将兵の勇戦奮闘は連戦連勝、かくかくたる戦果をあげつつある。しかして、戦果の拡大とともに、大東亜建設もまた着々進勝しつつある。我ら1億国民の等しく感激に耐えざるところなり。しかりといえども、建設の前途なお遼遠にして、国民の負担の重きに鑑み、いよいよ必勝の信念を高揚し、堅忍持久、総力をあげて闘い、もって聖戦目的を完遂せざるべからず。」ここに聖戦という言葉がでてきて、大東亜戦争も聖戦と呼ばれたわけですけれども、教会が聖戦という言葉をつかうときに、神様の闘い、教会の闘いということと重なるようにしてなっていく。事実そのように位置づけていくのです。「国民精神の指導に任ずる宗教教師たる者の責務や、まことに大なるものある。ことに本教団は、今時大戦勃発直前に成立したるものにして、まさに天業を翼賛し、国家非常時局を克服せんがために、天賦の召命をこうむりたるものと言わざるべからず」つまり、戦争に協力するためにできた教団なのだと自ら言っているわけですね。こういう状況でありました。
  戦争末期に至って、決戦体制宣言。その後読みませんけれど、これなどは読んでいられないほどの内容です。昭和19年「日本基督教団より大東亜共栄圏にあるキリスト教会に送る書簡」をつくって、アジア諸国の教会に送るんです。この戦争がどれほど大事な戦争か、正しい戦争か。みなさんの中には誤解があるようだけれども、これをよく理解してほしいということを言う書簡を出しました。その中では、東洋的なるもの、ここに救いがあると、欧米のキリスト教はだめだと。東洋的なるもの、ここに救いがあると。日本の精神がアジアに広がっていくこと、これが神の国の拡大であり、そこにこそ救いがあるというようなことを言うようになりました。戦争協力を、いやいや、やむおえずという側面も当然ありました。しかし、教会が能動的にある一翼を担って戦争を続行したということも事実です。戦争が悲劇的な最後で終わります。教会自体は壊滅状態でした。何百人という信徒をもつ教会でも、一桁の礼拝出席でした。それでも礼拝を最後まで守りながらは、りっぱだと思いますけれど、そこでは国民儀礼がおこなわれて、まさに、天皇と神に兼ね仕えるという状況があったのです。戦争が終わって教団が出した最初の文書。「教団と終戦」という文章を資料に入れました。ここでは、痛烈な反省と懺悔が語られます。しかし、それは決して神様の前にではありません。天皇陛下にお仕えする力が足りなくて、戦争に負けてしまったことに対する責任です。
「日本基督教団号献納機」というのがあります。こんなのはご存知ですか。日本基督教団は献金を一生懸命集めて、2機の戦闘機を空軍と海軍に献納しました。こういうことをどの宗教団体もみんなやっていたんです。だから、そういう時代だからといえばそういう時代なんですけれども、日本基督教団号と書いた戦闘機が、飛び回るという姿はグロテスクですよね。そして、日本基督教団の伝道推進のための献金にはなかなか集まらなかったのですが、この戦闘機献納献金は、ドッと集まってしまう。やはり、そういう時期でした。

◆戦後◆
 戦争が終わって、教会は、この戦争のことをどういうふうに顧みたのかということなのですけれど、戦時下における偶像礼拝のこと、あるいはあの戦争に協力したこと等々を最も反省せずに戦後を歩みはじめた団体の一つが教会なんですね。
アメリカの進駐のもとに、キリスト教ブームがおこって、反省よりも前に、好機到来で、伝道に忙しくなってしまったなんていうこともあるのです。そんなことです。ところがやがて朝鮮戦争がはじまる。再び、軍靴の音が聞こえはじめると、一体何なんだこれは、もう一度同じことがくりかえされるんじゃないか。自分たちにとって戦争は何だったんだとのかということをやっと顧みはじめるようになるのは、1950年代の後半でしょう。
 1967年にはじめて「戦争責任にたいする告白」が日本基督教団から出される。67年。以後のことは今日はお話しませんけれども、近代の日本の戦争の中で、教会がどんなふうに歩んできたかいついてのあらましをお話しました。決して誇れる話ではないですね。家庭において、子どもたちに、夏というのは、いろいろと戦争のことを語る機会があると思うのです。そいうなかで、日本の教会がこんなに無様だったということを言うのはちょっと忍び難いですね。でも、子どもたちにわかるように、現実を話をする、そして、今私たちが立っているのも、自分たちのりっぱさとか正しさのゆえではなく、神様の許しのなかで、憐れみの中でしかないのだなということを伝える戦争の教育ができたならと思います。ホームスクーリングのみなさま達が、学校での教育がダメだというなかで、挑戦をしているそのなかの非常に大切な要素の一つであると思いますので、私も自らできない分も含めて、多くを期待するものです。本当に平和を作り出す人々を育ていくようになっていただきたいなと、覚えて祈りをもって終わりたいと思います。
(完)