虹色のキャンバスに絵を描いて

  

             クリスチャンホームスクーリング東京大会               
                  2002年3月23日 分科会 
                 日野バイブルチャーチ 吉井春人
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分科会
スクーリングとアンスクーリング
そのメリットとデメリット
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《アウトライン》
 #1 自己流の「スクーリング」
 #2 ホームスクーリングの「燃え尽き」
 #3 「時間割」という考え方を問い直す
 #4 主にあって育つということ
 #5 親の出番
 #6 主の弟子にされるという賜物と祝福
 #7 聖霊の働きと理解力
 #8 いいとこどりはできるのか
 #9 アンスクーリングという考え方とその課題
 #10教科書の意味
 #11「退屈」と「暇」(あるいは「暇と退屈」の効用)
 
 

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 ※この分科会では、「遊びの効用」ということをお伝えしたかったのですが、実は「遊び」について聖書が何かを教えているかと調べてみた結論としては、聖書には現代人が使う意味での「遊び」について教えていないということに気づきました。
  聖書の人間観には、「人生の楽しみ」はあっても「遊び」という概念はみられないのです。それは、創造者が世界をお造りになった時、はじめから人がそれらの被造物を「楽しめる」ように造られたからではないかと思います。花も動物も、宇宙も、つくられたすべてのものは、人の「遊び心」を満たし、楽しみとして与えられているものだから、人は本来「働く存在」として地におかれ、それゆえに、アダムには働くことに「楽しみ」や「リラクゼーション」が伴い、目に見えるもの、食べるものを含めたすべてが「癒やし」を提供していたのではないかと思い至りました。
  堕落の結果は、人の労働には苦痛が伴うようになり、自然環境は厳しいものになったゆえに、その苦痛を癒やすことをねらった「遊び」の必要が生まれることになったのではないでしょうか。さらには労働そのものが苦役に変質したように、遊びが「罪性」を帯びるようになったのでしょう。
  キリスト者にとっても、信じたからといって、労働の「苦役性」から解放されたわけではないのですが、
クリスチャンの「労働」には、世界がつくられた当初の祝福が回復され、いわゆる仕事以外にも、すべてが楽しみになるのであえて「遊び」を意識しなくてもよい状態にされているのでしょう。
 やや、込み入った議論になってしまいましたが、クリスチャンにとって、すべては創造者のみ業を喜びをもって発見する素材に変えられているので、「生活のすべては学習時間」ということになります。
 それは、「時間割」というテーマとも関連しています。
 クリスチャンにとって、アンスクーリングにはどういうメリットとデメリットがあるのでしょうか。


 1 自己流の「スクーリング」

 ホームスクーリングという言葉には、学習中心の印象があります。
 そのため、家庭の中に学校を持ち込んでいるような誤解を与えたくないという意味で、スクーリングという言葉をさけて、「ホームグロウン」と呼ばれることがあることは、これまで紹介させていただいたことがあります。
 この4月から学校教育でも、生活科の導入によって、「スクーリング観」に変化の兆しのようなものがありますので、これまでの教科学習の枠を取り払っていこうとする動きがほのめかされていますが、今回はスクーリングという言葉を狭い意味での「教科学習」という意味で使わせていただくことにいたします。
 ホームスクーリングと子どもの「学習」、あるいは「学習能力」ということに焦点をあわせるように願わされています。
 もう一方の、アンスクーリングという言葉には、なじみのない方もおられるかもしれません。スクーリングという言葉に、「〜ない」という意味の「アン」という否定語が使われています。アンチスクーリングでも、プロスクーリングでもなく、アンスクーリングと呼ばれていることに、ご注目いただきたいのです。つまり、アンスクーリングのことを紹介させていただこうというとき、私はスクーリングと対立した考え方をお伝えしようとしているわけではないのです。
 ホームスクーリングに「アンスクーリング」という考え方が位置づけられることによって、ホームスクーリングがさらに楽しく、そして狭い意味での学習の面でも豊かな実を結ぶことができるのではないかと思われるのです。
 仮に、不登校からホームスクーリングに移行したような場合、学校生活で受けた傷を癒やす時間は絶対に必要で、とても家庭でスクーリングをはじめるなどには至りませんし、ましてや、子どもが不登校などで心の傷を癒やすことが必要な場合、子どもができるだけ学校の空気から逃れたいと思っておられるようなら、親御さんの立場からしても、学校の5教科全部を家庭に持ち込むことはとても無理と感じられるに違いありません。
 私どもも、不登校のお子さんたちやその親御さんのもつ不安と大変よく似たような不安に駆られました。ホームスクーラーとなって、間もないころ、「学校を与えないかわりに、今度は親が5教科を教えなければならないのではないか」という不安がすぐにやってきました。学校では当然のように教えられている5教科の学習を、ホームスクーリングにおいて引き受けなければならないのではないかと思ったのです。
 私たちは、昔から子どもに与えられるべきものとしての「読み書きソロバン」といいますか、たとえホームスクーリングでもたとえば漢字の勉強や数学の基礎的な教養が必要ではないか。少なくとも最低限の基礎学力は必要なのではないかと考えたのです。
 その意味では、親の側からすると学校に子どもをやったほうがはるかに楽です。
 学校では学習があらかじめすべて詳細に決められていて、学習目標、学習内容、学習方法、学習評価まで引き受けてくれて、親はすべて「おまかせ」でいいということになります。親の役割は、学校の補助に後退し、宿題をしたかどうか、試験勉強をしたかどうかを言うだけでいいという反面、親は内容に全く無頓着になり、その反聖書的な内容に全く気づかう必要はなくなるのです。
 言い換えれば、もしホームスクーラーの視点に目覚めると、とりわけクリスチャンの親が主導権を回復しなければならないのはまさに、その方面ではないかと気がつくのです
 学校では、自動車の規格品をつくるように、個性を無視して教科学習の鋳型に子どもをあわせるように見えます。
 そこが強く問題視されているゆえに、米国などでホームスクーリングが選択される時、最初にイメージされるのは、鋳型にはめるのではなく、むしろ子どもの側にあわせて教育の選択肢の側を増やすべきであるという「オルタナティブ(二者択一)」な立場に立つということを意味します。ホームスクーリングとは、その中の一つの選択肢であると位置づけられているにすぎないといわれます。
 つまり、子どもには一人一人それぞれに個性があり、学習ペースも学習内容も関心も本来は違うのだから、学習のペースも手段も様々でいいという考え方をひとまず受け入れます。そして、親の苦労のしどころもまたこの点にあるのであり、「何が子どもに最もふさわしいのか」ということを白紙の状態から考えなければならないということになります。
 様々な手段の中から、子どもの必要にあわせて、手段が選択されるすべきなのでした。その意味では家族にホームスクーラーの何人かの子どもがいても、同じ家族内であっても、子どものために別々の手段を選ぶということはありえます。そこがホームスクーリングのメリットであり、苦労のしどころでもあるのです。
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 2 ホームスクーリングの「燃え尽き」

 しかし、とりわけホームスクーリングを選択することになった親が直面する問題もまた、本来ホームスクーリングのメリットと思われている「親が子どものために最善の手段を選択できる」「親が子どもの教育について悩む」というその周辺にあったのでした。
 つまり、親の側がどんな教育観を持っているのかを反省し、聖書をもう一度学び直すことから、学習しなおさなければならなかったのです。
 親がそれまで受けてきた教育が、戦前戦後の歴史を含めて、長い時間をかけて、国家の教育戦略の支配のもとに曝(さら)されてきたために、第一には、親には、「自分の子どものために何がふさわしい教育手段なのか」などを考える余地すら与えられてこなかったのです。
 この国では、共産主義の国のように、体勢としては、教育についての考え方も学校一辺倒であるばかりでなく、教育の方法も学校以外にはないからです。
 いや、はっきり、この点に限ると、親は国家の徹底した教育政策によって、親は教育観の構築そのものを奪われてきたといっても言い過ぎではないでしょう。
 「子どものために何がふさわしい学習なのか」という問いかけすら、学校文化に浸りきってきた親にとっては、重荷になるのです。すべて、学校に任せてきたことだからです。
 そんなことから、いざホームスクーリングを始めようというときに親が学校の授業しかイメージできなくなるのです。実は、親は、これから始めるという初歩的な段階において、教育に関して、マインドコントロールのような意図的なものが流れ込んでいるということに気づかなければなりません。
 つまり、第二に、親が国家の教育戦略にそった内容にしばられて、学校文化がトラウマのように「教育」という言葉そのものにはりついている概念となっているので、子どもに対して教育的になるということが、あたかも「学校化」することであるかのように錯覚してしまうという現象に直面するのです。
 [Education]とは、内側から引き出すという言葉の派生語ですから、「教育」という訳語そのものからして高圧的であるゆえ、使うのに抵抗があるという意見もあります。私どもも、学校のように、子どもたちに枷(かせ)を与えるようなカリキュラムは必要ないとしても、子どものペースにあわせた程度の教科学習は必要なのではないかと思いましたので、かなり教材捜しをしたほうではないかと思います。
 公文式学習法や、それを批判した「らくだ式」、さらには、数学者の遠山啓氏が提唱した「水道方式」や、その関連する出版社の教材に注目した時期もあったのです。
 ホームスクーリングを紹介する出版物によって知られる一光社の鈴木大吉社長にも問い合わせたところ、鈴木さんも、ホームスクーリングのための在宅学習用のカリキュラムを開発したことがあったとのことでした。
 ただし、社会環境からして、それは厳しい試みだったのでした。
 今日でも、学校中心主義が消えていない市場ですから、当時では今より強烈に学歴至上主義が大成を占めていて、プロジェクトで利益を生み出すほどには至らず、結局沙汰止みになり、ホームスクーリング中心であったそれまでの方針を切り替えて、ホームスクーラー用ではない補習用のカリキュラムを組み立てたといわれていました。今から15年以上前に、日本でもそのような試みがなされていたのです。
 教材がたとえゆるやかなスタンスを持っていたとしても、それを使う側でもある家庭は点数主義、受験目標などに縛られていて、言い換えれば、学習指導要領による学習観とその教科学習から解放されるには至らなかったということでした。 
 鈴木氏の実験的なプロジェクトは、たとえ教育において開かれた立場で教材を実現しようとしても、日本ではやはりゆるやかにせよ学習指導要領に沿わなければ、現実には売れない。そして売れないと商売や会社の存続にもさしさわるということあります。
 それが、日本の悲しむべき現状であったのです。幸いにも一光社は存続していますが、志がありながら、学歴社会の壁を前についに退廃していった出版社はいくつかあります。
 教材については、あとからふれさせていただくつもりです。
 
 私たちの場合、当時は幸か不幸か、「これが教材である」といわれるものはなかったということから、子どものためにふさわしい教材をあてがうということはできませんでした。いいかえると、ただ教材をこなしていくことで子どもの学習内容を埋めようとしなかったことはかえって良かったのかもしれません。
 いや、むしろ教材に拘っていた本当の理由は、誰から「ホームスクーリングでは勉強はどうしているの」と問われても、「これこれの教材を使っている」と答えられるような逃げ道を用意しておきたかったというのが本音だったのではないかと思います。
 ホームスクーリングについて、米国では、「BurnOut=燃え尽き」という表現がつかわれるほど、学校から子どもを解放したものの、親の意識が過剰に家庭を学校化することになって、結果として親も子どもも疲弊し、心理カウンセラーのご厄介になるという事例が13年前に、すでに報告されていました。
 私どもが燃え尽きなかったのは、燃え尽きようにも材料がなかったことと、それ以上に子どもに教えるべき聖書が豊かな教材を提供してくれていたということがありました。
 そのような迷いの中にあった私ども夫婦に転機をもたらしてくれたのは、子どもたち自身だったのではないかと思います。
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 3 「時間割」という考え方を問い直す

 時間割はどうしてあるのでしょうか。
 皮肉にも「先生のためである」というのが結論であるという意見もあります。
 それが言い過ぎかもしれないとしても、生徒が少ない時間を有効に利用するためであるとか、少なくともいろいろとたてまえとしての効用のようなものはあるでしょう。
 しかし、どんな学習であれじっくり取り組みたい生徒にとってみれば、時間割で生活が区切られるとは、作業や思考過程にあるなかで、外部から中途で強制的に切断されることなのです。
 私はホームスクーリングには、授業を中断させられるベルが存在しないというだけでも、子どもに考える力が育まれることと実感していだだけると思っています。
 絵の時間ひとつとってみても、ものごとを熟考したい子どもたちには、1時間さえあまりに不充分ではないでしょうか。
 子どもの側からすると、思考過程を切断するような時間割がないという環境がむしろいかに贅沢な空間であるのかと思うのです。
 
 それでも予定表のようなものを考えなかったわけではなかったのです。
 親子で相談しながら、積極的に予定表をつくったことがあります。
 最初に一週間のスケジュールをおおまかに決めました。
 当然、親子でそのためにじっくり話し合うことになりました。親のほうで一方的におしつけませんでした。ただ、具体的な内容については、それぞれの家庭のペースや子どもたちの事情によって違っていいのではないかと思うからです。
 午前中と午後、そして夜間予定を一週間分決めました。親子で決めたことは、親も子ども約束ですから、原則としては守るのです。
  それから、テレビです。
 テレビがある家庭の場合は、テレビをみる時間も話し合わなければなりませんでした。ゲームができる時間も厳格に決めました。
 必ず、朝に礼拝と聖書のメッセージをきいてから一日を始めるとか、同じように就寝前にはかならず家庭礼拝をおこなっているファミリーは多いでしょう。
 1時間単位で、学校のようにこまかく予定表をたてて、細かなスケジュールをつくり、身の丈にあわなくて、予定表をこなすことだけが優先されてしまい、結果として、きゅうくつになってしまうことで親子ともにカリカリして燃え尽きるという例は多くみられるのです。
 私どもは、私たちが教えたいことがあっても、遊びであれ学びであれ、子どもたちが熱心になれることに、ある時期から子どもが自分の時間に自由に打ち込めるようにしようと決心しました。
 時間割を意識しなくなったとき、日常が自由に流れるようになったと思います。
 たとえば今日「産婆さん」という職業はみられなくなりましたが、子どもを生み出すまでの仕事で、生み出された後は産婆さんの役割が終わるように、時間割はホームスクーリングの最初の段階で重要な役割を果たしますが、教科書の場合と同じように、たとえその必要性が認められたとしても、やがて、存在があること自体が意識されなくなるに至ってはじめて時間割の本来の役割が発揮されているといえるのではないかとおもいます。
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 4 主にあって育つということ

 「子どもは遊んで育つ」という言葉があるのですが、その意味するところを積極的に解釈すると、子どもには、本来育ったり学んだりする力が備わっているので、教育的な環境と呼ばれる場におかれなくても、生活の中で子どもは育っていくのだという考え方があります。本当にそのことが理解できて、はじめてホームスクーリングの本当の味も見えてくることでしょう。
 これまでお伝えしてきたことの内容はまとめると、そのようなことになります。
 その意味で、脱学校論や、アンスクーリングの考え方がこれに近いのではないでしょうか。
 ホームスクーリングの中でも、とりわけアンスクーリングの中では、子どもたちが本来もっているそのような潜在能力に驚かされることが多いことは確かですし、決して「親ばか」という意味ではなく、子どもは無理に型にあてはめられないとか、競争の中におかれないとか時間の制限がないというだけで、本来の力を発揮できるといえます。よく「自然農法」と比べられるでしょう。これは、子どもが不登校になった結果、クリスチャンでない人々が到達する一つの到達点とも共通します。
 しかし、クリスチャンのホームスクーリングという視点からすると、その認識だけに留められていることには問題があるのです。
 聖書は、子どもが生来純粋無垢なのではなく、罪の中に生まれてくると教えられているからです。キリストにあって再生していなければ、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」(創世記6章5節)とさえ教えられています。
 ここに、アンスクーリング論のデメリットがあります。
 申命記6章6節、7節にはこのようにあるからです。
 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちにおく教え込みなさい。あなたが家に座っているときも、起きるときも、これを唱えなさい」とあります。
 子どもたちが本来育つ力や学ぶ力があるということとは別に、クリスチャンは、その先祖からの信仰を継承する使命を主から託されているということと、子どもたちにはそれを親の責任において「教え込む」ことが求められているからです。
 言い換えれば、クリスチャンにとって聖書は「学問」以前あるいは、それ以上ののものであり、聖書は、魂の糧でもあり、同時にすべての基礎ともいえるからです。
 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(申命記8:3、マタイ4:4)と言われているからです。
 魂の糧である聖書を学ぶということと、一般教養を与える書物を学ぶこととは区別されなければならないでしょう。けれども、後で詳しく述べるように、聖書ほど、学問の基礎や教養と深く結びつけられている書物もありません。
 子どもたちが親の手ほどきによって聖書を理解し、その意味を深く理解できることは、ホームスクーリングの祝福です。
 聖書の学びが子どもたちに与える影響を過小評価してはいけないのです。
 生活の信仰の基準であるという面ばかりではなく、聖書を心に刻むことによって聖霊によって、子どもたちの知性に対しても、特別な祝福を備えられているのです。
 このことを示す聖書箇所は多いのです。
 たとえば、箴言1:7の「主を恐れることは、知識のはじめである」は文字どおり読まれるべきでしょう。「知識のはじめ」という意味は、聖書だけを読んでいればいいとは教えられていないことをあらわします。
「主を恐れること」はすべての「知識」のはじめにおかれるという意味と、もうひとつは、「始め」つまり、諸学問への入口であるという意味にも読まれるべきだからです。
 子どもたちに、聖書の知識だけを与えていれば十分というのは誤解を招きます。
 ただし、同時に、聖書教育はそれ自体が学問の基礎ともなりうるといえるのです。 
 
 ダニエルが、王の食事を信仰のゆえに拒否しましたが、主は青年たちに、多くの知識をお与えになったではありませんか。聖書に基づく信仰こそ、知識の泉であるともいえます。(ダニエル書1:17)
 主の弟子達には、当時の学者たちをうならせるほどの「学問」がみられまして、当時の律法学者たちを驚かせています。それは、信仰の賜物は、理解力や知識にも及ぶことを明確に示しているのではないでしょうか。 
 「ペテロとヨハネの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であることを知って驚いた」(使徒4:13)のでした。
 聖書は、魂の栄養であるばかりではなく、聖霊はみことばと共に働いて知性を聖めてくださるのです。「みことばの戸がひらくと、光がさしこみ、わきまえのないものに悟りを与えます」(詩篇119:130)「無知なものに理解を与えます」(共同訳)と言われているのです。
 聖書の知識は、魂の糧であるばかりでなく、子どもに備えられている知性の素養も引き出すことになり、子どもが賢く育てられることになります。
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 5 親の出番

 このようにいってくると、ホームスクーリングがとてもすばらしもので、信仰面でも知的な面でもすべてバラ色の時間で埋められるかのように言っているようですが、それは誤解です。
 ホームスクーリングは、安易な思いで始められるべきではありません。
 設計図も青写真もないまま、建造物を作り出すようだとも、白紙のままの画用紙に絵を描くようななものだともいわれます。
 ホームスクーリングにおいて、特に親に対しては、多くのものを要求されるのです。それは、親が学校の教師のようになるのがいいとか、5教科すべてを親がひきうけるという意味でもありません。 
 子どもにとっては、学校から受けるたくさんのストレスがないだけでもバラ色とはいかなくても、のびのびした環境になるかもしれませんが、親にとってはそうではないと言いたいのです。実際にホームスクーリングの場面では、子どもを学校入れたほうがどれだけ親は楽だろうかと思われる場面は少なくないのです。
 生活の場がすべて教育の場になるということは、第一に親の倫理観が問われます。子どもにとって、「これはいい」とすすめられることは、親もそれを本当に「いい」と認めていなければなりません。子どもにとって「悪い」ものは親にとっても「悪い」とされていなければなりません。子どもからは、親はけっこうシビアに言行一致をもとめられるのです。
  叱り方一つとっても、親は子どもをしかる時、子どもはしかられている事柄よりも、そのような親の態度から、親の倫理観を学んでいるのです。感情的に子どもを叱る親からは、子どもは、感情を発散させるためには、自分よりも弱い立場の者を「叱る」ということで発散させればいいのだということを学ぶことになるのです。ホームスクーリングでは、なかなか簡単には叱れなくなります。夫婦の場合は何について叱るかについて一致していなければ、子どもからみるとちぐはぐなことになるでしょう。
 それから、どのように時間を使ったらいいのかわからなくて、困るでしょう。退屈な時間が感じられることも決して少なくないでしょう。
 何をしようか考え込む時間があるというのは、ホームスクーリングの祝福の一つなのではないかと思います。逆説的なことを言おうとしているのではありません。
 学校に子どもを入れると、子どもは何をしようかなどと悩む必要がないくらいの宿題と試験と授業に飲み込まれるでしょう。親も「さて、何をしようかな」などいう必要はなくなります。「宿題やった」「試験何点だった」ですべて済んでしまうからです。
 学校に子どもを委ねて、母親が仕事につくということのほうが、実は楽なのです。
 これは、サタンの策略であり、罠であるという認識が必要です。
 そのようにして、学校文化は、家族の食卓に対してもエイリアンのように侵入し、「もう子どものことで悩まなくてもいい」とささやきながら、親と子どもの間に侵略した結果として、現代の惨憺たる敗退の道が開かれてしまったともいえるのではないでしょうか。
 ホームスクーリングにおいては、親があらゆる場面で、子どもにとっての模範になることは覚悟すべきゆえに、安易な思いからホームスクーリングを始められるべきではありません。
 親が考えることに煩わしさをもつようであれば、その庇護のもとにあるホームスクーラーの子どもはあまりものごとを考えることをしなくなるでしょう。
 確かに、俗にいわれる「親がなくても子は育つ」は一面の真理です。最終的に、育ててくださるのは造り主なる神だからです。(第一コリント3章7節)
 けれども、使徒が教会のために重い役割を果たしたように、教育者としての親の役割はきわめて重要なのです。
 親の立場が重要になるゆえに、ホームスクーリングを「親の虐待」であるとか、親の横暴だなどという声がおこりますが、それは一部の教育官僚や地域のソーシャルワーカーからばかりでなく、どの国でもいつでも周囲から聞こえてくることでしょう。
 親に対してばかりでなく、教会に対しても、主イエスの弟子をつくるための教育が委ねられているのですから、すべての教会は日曜学校に満足することなく、チャーチスクールをおこなう必然性があるともいえるでしょう。しかし、チャーチスクールがあれば、教会が親のかわりにホームスクーリングをしてくれるというものでもないのです。
 クリスチャンのホームスクーリングが幸いなのは、この点で親と子どもが聖書を同じ基準としているからだと思います。
 それゆえに、結果として権威ある聖書を、権威のない他の書物と同じようにしか扱えないリベラルな近代主義的聖書観に基づいてホームスクーリングがおこなわれるとすれば、本来受けるべき祝福を受ける状態にはないといわなければなりません。
 「長子の特権を軽んじた」エソウのような道を辿ることがありませんように。
 主がホームスクーラーの親に対して与えられている賜物は、非常に大きいのです。
 親には、子どもたちが育つ環境をつくりだすことばかりではなく、その子どもにとって最もすぐれた教育者になるための賜物をも与えられていると信じるのです。
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 6 主の弟子にされるという賜物と祝福

 クリスチャンホームが、ホームスクーリングをするということで受ける最大の恵みは、世の人々が求めてやまない価値観から解放されるということです。
 米国で、ホームスクーリングが社会的に受け入れられてきた経過には、ホームスクーラーにいわゆる「学校の子ども」と比べても遜色がみられないばかりか、学習面で同じ条件に並べてみても、優れた訓練がみられるというものです。客観的データーもそのことを示していると早くから言われていました。
 しかし、ホームスクーラーへのそのような評価は一面しか見ていなのではないかと思えてなりません。ホームスクーラーのほうが世の人々に比べてすぐれた賜物をもつであろうことは予想できていました。ただ、もし、クリスチャンのホームスクーラーが世の評価に納得して安住し、そこにとどまっていたとしたらならやはり問題は残ります。 
 ホームスクーリングの最も優れた賜物は、子どもの能力開発とか、安定した将来の約束などということではなく、「主の弟子とされる」という本来の目標を鮮明にできるということにあるのではないでしょうか。
 世俗の成功主義の考え方に何の変更も加えないまま、その実現のために信仰を足がかりとしたいとは思いません。信仰が利得の手段とされてはならないからです。(第一テモテ6章5?6節)
 子どもたちは、将来どんな仕事につくにせよ、主の弟子になることに最大の目標がおかれるべきであり、その点は、チャーチスクールにも全く同じ目標が与えられているのではないでしょうか。
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 7 聖霊の働きと理解力

  ホームスクーリングでは、聖書を基礎にしておこなわれるときにその真価を発揮されるとはいえ、ただ聖書だけを読んでいればいいということでないのは当然です。
 聖書は、「主を恐れることは、知識のはじめである」(箴言1:7)とも、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」(コロサイ2:3)とも言われています。聖書の学びが基礎となって、あるいは原理を提供してくれて、学びの豊かさをサポートしてくれるともいえます。
 クリスチャンとして、信仰の賜物、あるいは、聖霊の賜物を軽んじてはなりません。「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの内にはたらいて話されるあなたがたの父の御霊だからです」(マタイ10:20)といわれています。

 近代の法律の基礎が実は、聖書からレールが敷かれていると知らされて、モーセの律法を学ぶことから、近代の法律の基礎的概念を学ぶ道が開かれます。
 近代国家の法律において「正義の基準」は、ほかでもない聖書にその規範を求めているのです。日本国憲法もその成立には多数のクリスチャンが関わっています。
 そのことを知れば、法律を学ぶものにとって、聖書を知ることはこの上ない励みになるのではないでしょうか。
 創造論を受け入れるということは、すべてに原因結果があるということを受け入れるということなのです。ある科学的現象には偶然ではなく、かならずそこに至る道筋あるいは原因があるという論理的な思考が訓練されることを意味するからです。
 そのように、自然科学の場合、造り主のみ業である「世界」を対象としますが、それををお造りになった創造主を知っている学習者が、優位であるのはむしろ当然です。物理現象の分析だけでなく、その原理を秩序をもって支配しておられる方のお考えを知っているということはいかに優れていることでしょうか。それは、物理学の学びの基礎や数学を学ぶ基礎にもなります。歴史の過去の現象をいくら分析できても、歴史の出来事をただ断片的に記憶できるかどうかに勉強をシフトしてしまっては、おもしろくもなんともありません。歴史を支配し、明確な目的をもって歴史を動かしておられる方のことを知っているという立場のほうが、偶然性に依存して万物が流転しているという考え方でしか歴史現象を読みとれない立場よりもはるかに優れています。
 聖書の知識は、歴史学を学ぶための基礎を与えます。
 経済学も例外ではありません。自由主義経済とは何でしょうか。政府のコントロールか、自由市場の判断に委ねるかといった様々な問題性を含みながらも、自由経済が「互いに仕えあいなさい」(マタイ20章:25?28節)という主イエス様の教えに基づいていることを知るなら、自由主義経済圏に生きていることにもっと確信と誇りをもてるようになるでしょう。そして、正義感に溢れる若者が、共産主義思想に流れていくのを阻止できるかもしれません。
 
 語学もそうです。近代のドイツ語の基礎となっているのは、ルター訳の聖書であるといわれています。皮肉なことに、信仰によってでなく、語学を学ぶために聖書を学ぶ人がいます。英語を学ぶ人は、英語圏の文学や作品に聖書の影響がいかに大きいかを知ることでしょう。ですから、聖書を学ぶことは、英米文学を学ぶための基礎となることは誰も疑いません。
 音楽の基礎を学ぶものは、必ず教会音楽を学ぶ必要があるのです。西欧音楽の基礎となっているのは、教会音楽であり、その大元には当然聖書があるのです。
 それゆえにホームスクーラーの家族においては、何をおいても先ず熱心に聖書が教えられ、子どもたちには聖書が教えられなければならないと思うのです。
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 8 いいとこどりはできるのか

 では、聖書以外の教科についてはどうでしょうか。
 ある方は、もし、子どもの好きなように学ばせているようなホームスクーリングなら、子どもに偏った知識を与えることになりはしないかという疑問をもちます。
 この問いには、学校の教科に従って、5科目を教えることが「知識のバランス」を生み出すという幻想、もっといえば、知識の多くは教室で教えられたことであるという幻想があります。5科目は、むしろ学問を断片化する弊害を産んでいるのではないかという反省があって、文部科学省でさえ、「総合学習の時間」を提唱しはじめ、この4月から教科として組み込まれることになりました。
 ホームスクーリングの「いいとこどり」をしているのは、むしろ文部科学省の側なのではないでしょうか。
 ところが、これはとっくの昔からホームスクーラーが言い続けてきたことでした。その意味で「総合学習の時間」を先取りしてきたと思います。一つのことに興味をもちますと、ホームスクーラーには時間の制限や、横並びの学習指導要領のしばりがないので、知識を深めてその質を高めることができるからです。
 一つの事柄に学習を絞り込んでいったら、狭くなるというのもひとつの幻想です。
 実は事物は、裾野では深く違いに結び会わされていて、「いもずる式」に繋がっているのだとつくづく思います。
 5教科を取り扱う以前に、理系と文系などという区別がいったいいつから始まったのかとも思います。そのあたりから疑いはじめることをおすすめします。
 ですから「いいとこどり」を恐れることはないのです。
 最近は、大学や企業でも「学び」と「遊び」が融合しているのは理想とされます。 
 そのほうがより創造的だからです。企業でもこの考え方は取り入れられています。
 遊び心がないまま、唯一の価値であるかのようにただお金もうけだけを追求していたのでは、この先、企業としても生き残れないとも言われているからです。
 この点もホームスクーラーは先取りしています。
  子どもは遊びの天才です。これは、すでに誰かが言った言葉かもしれません。
 「ただの遊びから、いかに多くのことを学ぶか」については、むしろ、子どものほうが大人の先生になってくれるでしょう。
 しかし、今の自由主義社会において普遍的原理でもある「互いに仕えなさい」という教えがどこから来たのかを知っているクリスチャンホームスクーラーはさらに優れているのです。
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 9 アンスクーリングという考え方とその課題

 学校での学びがスクーリングと呼ぶとしますと、一方にアンスクーリングがあって、それと対立した考え方を提案しているのではありません。
 「アンスクーリング・コム」というホームページがあります。ジョンホルトの考え方に基づいて、子どもの学習意欲に信頼し、子どもの時代には、いっさいの教科書や試験を与えるべきではないという考え方です。学校から子どもを解放されるだけで、子どもたちの中に学習意欲が生まれるのを尊重すべきであるから、、むしろ、スクーリングは子どもにとって妨げになるという考え方が紹介されています。
 しかしながら、アンスクーラーが、「あらゆるスクーリングは、ホームスクーリングにとって有害である」というのは誤解です。
 そして、もし、すべてのスクーリングを拒否するのがホームスクーラーであるかのように主張されているとすれば、明確な誤りとみなされます。
 現実には、子どもの自主性を最大限に尊重しようとするアンスクーラーにとって、クリスチャンホームスクーラーは聖書を意識的に教え込もうとするために、しばしば批判の的とされてきました。
 聖書が教え込まれるべきであると思いますので、アンスクーラーからの批判は的外れの部分があるのは否めません。
 ところが、すでにお伝えしてきましたように、クリスチャンホームスクーラーが、聖書に基づいた教科学習を求めているといいながら、スクーリングの内容が国家の教育政策に基づいた学習指導要領から自由にならないままおこなわれている時、アンスクーラーからの批判は残念ながらあたることになります。
 ただ、聖書が「教え込まれるべきである」ということは、さきに触れましたように、聖書的な原理をすべての学問の基礎に据えることでもありますので、信仰に基づく学問(あるいは学習)が本来の姿なのであり、学習指導要領などに示されたような国家の教育政策を反映したカリキュラムは、むしろ教会の子弟教育のスタイルを「まねをして」いるにすぎないのだといえると思います。近代の学校教育発生の起源はルターが提唱したカテキズム教育であり、近代の学校の原型は、むしろチャーチスクールの側にあるのではないかと思います。
 聖書に基づいて学問がなされることこそが学問の王道なのであり、親の視点が聖書教育の視点におかれるとき、かえってそこには、明確な教科学習の根拠が与えられているのだといえるのです。
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 10 教科書の意味

 しかしながら、教科書の役割とは第一次的には、教科書を暗記して、それを100パーセント書き表すためではないのです。マニュアルに依存しないでパソコンを操作できなければ、パソコンをつかっていることにならないように、教科書はある事柄を生み出すための「産婆役」なのではないかと思います。ソクラテスは産婆役といいましたが、クリスチャンの立場では、パウロの「養育係」(ガラテヤ書3章24節)という表現に近いかもしれません。
 養育係は必要ですが、子どもが生み出され後には役割を終えます。教科書もそのような使われ方がされることに、はじめて本来の必要性が発揮されるのではないかと思います。教科書が本当に利用されているといえるのは、「教科書の存在を意識しなくなる」ところからはじまるのです。
 ここでも、聖書と聖書以外の他の教科書とは、その扱い方が根本的に違うのです。聖書は、何度でも繰り返し読まれなければならないからです。
 楽譜を見ているうちは、音楽をものにしているとはいえません。辞書を使わなければ話せないとすれば、英語を使えるとはいえないというのと同じです。
 教科書のどの部分に限界があり、乗り越えなければならないかを探し求めるなかで、「どこで教科書の役割を終えらせるか」が鍵なのではないかと思います。
 この点で、米国のクリスチャンホームスクーラーが受けている祝福の一つは、非常に多様な教科書があるというばかりでなく、教科書がつくられる時、第一に国家の教育統制から自由であるということと、さらには健全な競争があるために、ホームスクーラーの意見によって「鍛えられている」ということでしょう。
 親が、子どもとともに聖書を「魂の糧」として学び研究することを踏まえつつ、アンスクーリングの考え方がどこかに位置づけられているのが理想です。
 しかし、さらには、たとえば教科書を利用しつつも、教科書出版会社や著者に対しても、ホームスクーラーの側から意見を積極的に言えるような社会環境が望ましいのです。
 教科書出版側には、チャーチ&ホームスクーリングの率直な意見に耳を傾けて、是非、真剣に悩んでいただきたいのです。そして、悩みながら、チャーチ&ホームスクーリングにとって本質的な課題をふまえつつ、とりわけ日本クリスチャンの必要にあわせて、大胆に内容をシフトしていただきたいと思うのです。教科書出版の側が、ホームスクーラーの意見を随所に取り入れながら、内容を鍛えていくことで、教科学習の継承がおこなわれ、ますます養育係としての教科書が使いやすくされていくような環境が求められます。
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 11「退屈」と「暇」(あるいは「暇と退屈」の効用)

 生活が宿題や時間に縛られないということはいいのですが、子どもたちは、ありあまった時間のなかで、かならず「退屈」だとか「暇」をもてあますことになります。私はこの段階に至ってはじめてホームスクーリングが学習環境としてふさわしことを最も実感できるのだと思います。
 もし、ホームスクーラーは、子どもに暇な時間ができないようにと、とりあえずの作業として教科学習で埋めることになるかもしれません。
 しかし、ある時間が充実しているということと、退屈さを感じないくらい目先のことに追われて忙しいということの間には、その内容は似ていながら全く違うということをお伝えしたいのです。見た目に充実しているだけで、だた余裕がないだけなのかもしれないからです。
 時間を、有効につかうのは大切なことです。しかし、一方で、暇や退屈な時間をどう活かそうかと、悩むことには重要な効用があるのです。
 忙しい時間には普段考えないような、素朴な問題提起を、親子で共に考えてみてはいかがでしょうか。
 学校では、子どもに考える時間がありません。宿題や試験に追われ、教師の判定でふるいにかけられるのを待つ状態で数年間過ごすので、自分で考えることができなくされているのです。学習内容を全く学校に委ねることに慣れてしまうと、他人に考えてもらうことを何とも思わなくなります。
 その思考回路から出られないために、教科書をまる暗記すれば知識になるかのような考え方にとらわれいて、本当は素朴に疑問に感じていることで、学習の種となりそうなものの芽を摘んできたのではないかと問う人はかなり多いのです。
 
 「退屈」な時間がたくさんあるというのは、それだけ一人でじっくり考える時間をたくさんもてるということです。
 草花のバラエティーや、動物たちの姿をみましても、造り主は、はじめから世界を人が興味を持ち、学んで楽しめるように造られたともいえるのです。
 世界のすべては、興味深いことで満ちています。
  地球はどうしてまるいのか。
  魚が水のなかでも呼吸ができるのはなぜか。
 とりわけ人体には、不思議なことで満ちています。
 子どもに試験を与えなければ、知識を埋め込めないとか、感想文を書かせなけれ文章表現がわからないとかなどという幻想からも解放されたいのです。
 ですから「退屈」であることは、無駄な時間ではないのです。
 すでに描かれた絵の上に「色つけ」するだけのお絵かきよりも、想像力をはたらかせて全くの白紙から書き始めることがすぐれていることは誰も認めるでしょう。
 子どもたちが、「退屈だ」と言い始めたら、その時こそ、さまざまな学習の窓口が開かれているのです。
 親の責任は、そのことを真面目に受け止め、学年割とか学年別達成目標などということにとらわれずに、納得のいくまでサポートすることではないかと思います。
 いわゆる、「教科書捜し」「教材捜し」もサポートの重要な要素の一つであることでしょう。家族の必要に応じてチャーチスクールが備えられていたら、まさに鬼に金棒というものでしょう。
  必要は発明の母といわれるように、「何がわからないかがわかる」とか、「何が不足しているかがわかる」ということは、これも大切なことで、そこから知恵と手段が与えられるようにとの祈りに導かれるのではないでしょうか。
 「虹色(希望)のキャンパス(無限の可能性)に、絵を描く(一歩を踏み出している)」ということに主の御手がはたらくのを実感できたそのとき、ホームスクーリングの確かな祝福を実感できることでしょう。
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 吉井春人ホームページ
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