ホームスクーリングQ&A その2

 #「ホームスクーラー」とは
 #昼夜逆転になってしまう
 #親が大卒など高学歴でなければ、ホームスクーリングは無理
 #ホームスクーラーの数が増加することで、国が“とりしまり”を
 #子どもが一日中家にいるのは、健康的ではない
 #法律ができたほうがいいのでは
 #ホームスクーラーにとってクリスチャンスクールは、必要条件なの
 #ホームスクーリングには、メリットばかりではなく、必ずデメリットがある
 #学校を経験しないと、人格的に偏ったり社会への適応が不得意になる
 #ホームスクーリングは、バイリンガル教育の手段に過ぎないと思います。
 #ホームスクーリングも、「学校」の一種であり、特殊扱いできない
 

Q ホームスクーリングも、「学校」の一種であり、特殊扱いできないのではないでしょうか。
A 
  ご質問の背景には、「相対主義」という考え方がありますね。
  ホームスクーリングは、学校以外の子どもの居場所として、その選択肢の一形態に過ぎないという意見はとりわけ「不登校」と取り組むクリスチャンでないネットワークにみられたご意見でした。たとえばノンクリスチャン系のフリースクールでは、不登校問題をかかえて、学校に行かないことを否定的にとらえるえる親御さんのために、学校の「相対化」をすすめます。それは、学校を絶対化することと対をなす考え方でした。学校に行くことだけが人生の一大事と考えるないようにしよう、そして学校以外の場所もその基準で考えていくことで、子どもにとって居心地のよさは改善されるに違いないという考え方は、おしすすめると「家庭の相対化」にまで及びます。家庭の尊厳を明確なスタンスとして言えるは、もはやキリスト教を例外としてどの分野にもなくなりつつあります。そして、あの“子どもの人権条約”さえ、子どもが親に対して異議申し立てできるような条文が見えるにつけ、相対化の徹底はいきつくところ反キリストなのだといえるのです。それが、70年代の青年たちがこうむった相対主義の行き着くところだったのでしょう。青年たちは、キリスト教に心を傾けつつ、実現したのは伝統の破壊。そして、ヒューマニズムが生み出す虚像だったのでした。
 相対化というひとつの考え方からするとホームスクーリングさえ、特別視してはいけないことになります。あまりに強大化した学校制度が、人の心の中も支配しはじめることに対し、居心地の悪さをとにかく「破壊」するという役割が、「相対化」にはある程度期待されていたと思われます。しかし、破壊した後にもし再構築する考え方をもたなければ、相対化の轍から抜けられなくなるばかりでなく、学校以外の別のものを絶対化しなければならなくなるでしょう。
 もうひとつ、私には、ホームスクーリングが特殊な教育だとは思われません。
 ホームスクーリングがクリスチャンだけのムーブメントだというのも誤解ですが、しかし、ホームスクーリング運動の本質をもっとも理解し、発展させてきたのがクリスチャンであることも否めないのです。それは、「親が教育の主導権をもつべきだ」という方向は、聖書が示している考え方でもあるからであり「私と私の家とは主に仕える」とヨシュア記に書かれているように、信仰は個人のものである以上に、家庭のものであると聖書は一環して教えているからです。
 ホームスクーリングが「学校の一種」とみえるのは、確かに「ホームスクール」とあって家庭の学校のようにみなされるところからきています。ただ、米国では、ホームエジュケーションという表現が主流になってきています。(たとえば一例をあげるなら、チアにっぽんの原型となったチア・カリフォルニアも、Christian HomeEducators Association in California)すでに「ホーム・エジュケーターズ」という表現となっています。ですから日本でも、「ホームスクーラー」というより「ホームエジュケーター」と呼びたいのですね。(ただし、行政組織などに対しては、「スクール」と呼んだほうが説明しやすいかもしれないですね。)
 クリスチャンにとって、ホームスクーリングは単なる学校の代わりになるシステムでも、学校か逃れる場所としての「避難所」なのではなく、世界宣教のための戦略基地であり、主の兵士のための訓練所ともなりうるものなのです。“特別扱い”という言い方がふさわくないほど、ホームスクーリングは「新しく、しかしクリスチャンにとってはもっとも古典的な教育方法なのだ」と確信しています。 

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Q ホームスクーリングは、バイリンガル教育の手段に過ぎないと思います。

 ホームスクーリングは、狭い意味の特殊教育とは違うということを述べてきましたが、ここにきて、いわゆる英才教育のなかでも母国語以外の言語の習得がなければ、ホームスクーリングに意味がないのではないかという意見がごく一部とはいえきかれます。
 私個人の意見としてですが、まず積極的な意味では、そのような英才教育型のホームスクーリングも、ホームスクーリングを始める場合の広い意味の動機付けになると思います。その意味で、たとえば、私はリフォームド信仰に立ってホームスクーリングを導かれましたが、今でも、リフォームド信仰や、その内実として「再臨前千年王国」の考え方についてその終末論としてのキリストの勝利を確信していますが、反面、それがなければホームスクーリングできないとか、リフォームドに立たないホームスクーラーとの交際を持たない立場を受け入れていません。人はいつでも傲慢になりやすいのですが、とりわけホームスクーラーは、自分たちの生き方に信念をもつのはいいのですが、他の立場でおこなわれるホームスクーラーを否定的にみたり、さげすんだりする傾向と向かい合わせで、傲慢にならないという保障はないのです。
 つまり、たとえホームスクーリングをバイリンガル教育の手段を切り口として始めたとしても、それでいいのだと思うからです。聖書の立場に立つときに、学校など、他人に委ねてしまう教育から離れて親が教育の主導権をもつことがホームスクーリング運動の要ですが、その一方で、ホームスクーリングそれ自体を絶対化して、特定の思想的システムと結びつけるのには賛成しかねるのです。それに、積極的には、ホームスクーリングがバイリンガル教育のために、非常に有効な手だてを提供しますが、それは一部に過ぎないと確信しているからです。ましてや、クリスチャンホームスクーラーは、ホームスクーリングには、聖書を介して供給される神の恵みの潤沢さに驚かされる経験が非常に豊かだと思うに違い有りません。
 ホームスクーリングをある人々のように絶対視してはいけないでしょう。これは、確かに優れた実践に違いありませんが。一方で「新しい現代のパリサイ人」が残念ながら、ホームスクーリングを経由して、再生産される可能性があるのです。ただし、聖書を背景にしたホームスクーリングが、豊かなことは疑いません。
 その意味で、クリスチャンは、聖書教育を最も最善に示すのが、ホームスクーリングだと認識しなければなりません。しかし、教会による教育も、ホームスクーリングに肩を並べるくらい、非常に重要な課題だと思います。教育の課題を度外視した、教勢拡大主義にのみ収斂(しゅうれん)した宣教活動が、見直されなければならないのだと思います。

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Q ホームスクーリングだけで、学校を経験しないと、人格的に偏ったり社会への適応が不得意になるのではありませんか。
 
  これも、いまや「古典的」となっているよくある社会性をめぐるネガティブなご意見です。おそらく「学校」が人格成長の場として強い期待を受けていた時代の遺物だろうと思われるほど、学校への期待そのものが低落しているご時勢ですから、10代に学校生活にどっぷり浸かることで、どんな問題が生じるのかを指摘させていただきたいほどです。でも、ここでは、ホームスクーリングの子どもたちは、学校を経験しないというだけで、様々な可能性の中におかれているのだというポジティブな面をお伝えしたいと思います。
 ホームスクーリングで成長し、数年過ごしてる子どもたちは、すでに日本でも200名を越える時期にきています。(クリスチャンスクールは、本HPでは含めませんが、含めると、1000人は下らないでしょう。)それで、私的な感想ということで、限界があることを承知の上ですが、ホームスクーラーを守る立場なので偏見もあるでしょうけれど、全般的に非常によい結果がみられていると思います。米国のように社会参加に至るまでにはまだ至っていませんが、10代の後半で成長しつつある子どもたちは、「心をつくし、思いをつくし、精神をつくして、創造主を愛する」そして「自分を愛するように、隣人を愛する」環境におかれていて、つまり、まず自分を受け入れてくれる大人である親から受け入れられているので、他人のありのままを受け入れることができているのです。社会性といえば、ホームスクーラーへの批判の切り口だったわけですが、事態は逆転しています。むしろ学校だけに子どもをあづけた結果、仲間内で気の合う子ども同士は受け入れあえるが、異年代への警戒心が強く、仲間内を大切にする反面、仲間の外か内かによって、もしかしたら「いじめ」の温床にさえなるでしょう。これは社会性とはいえません。
 これは、社会性の生育に関して、学校に通う子どもたちに、深刻なリスクを背負わせることになります。いうまでもなく、信仰の育成と反対向きの道に子どもを追いやっているのだと親は、もっと深刻に意識しなければなりません。「切り返し言語」をもてあそぶわけではありませんが、「学校だけで、本当に社会性が育つのですか」といいたくなりますね。
 社会性という意味では、ごく最近、ホームスクーラーの中学生2名が、小学生キャンプのスタッフに初めてカウンセラーとして加わりました。聖書の教えを明確におさえていたこと、小学生の中に素直にとけ込んでいてただ指示するだけではなく、ひとりひとりへの適切な対応がみられた他、(バイアスがかかっているといえばいえなくないですけど)とてもよかったですね。子どもを学校の枠組みからではなく、一人一人が創造主の前に受け入れられる存在だとして受け入れられるからでしょうね。彼らは、情緒の面、聖書の知識の面、子どもたちへの態度の面、どれをとっても非常にバランスがとれていました。学校を経たカウンセラーに比べてみるのは意味がなく、やはり全員が献身したクリスチャンであることは変わりませんが、ホームスクーラーであるゆえに欠損しているという見方は、全く的外れでしょう。
 むしろ、ある時期にホームスクーリングを選択できなかった親御さんたちに、子どもたちが高校を卒業する頃になって、信仰を失い、教会にも来なくなるという事態に直面して困惑している実例をいくつかみています。
 ホームスクーリングを選択しなかった(もしくはできなかった)としても、それだけで結果が決まったかのような言い方は問題でしょう。けれども、もし、その場合、信仰において迫害を恐れたとか、主のみ声ではなく周囲に気づかったのだとしたら、その結果を推し量ることはむしろ聖書的です。
 つまり、もし子どもたちをやむおえず学校にやらなければならず、子どもたちの信仰のために真剣に悩み祈るなどしないことの結果は、子どもたちの信仰からの離反となって歴然とあらわるに違いないのです。ただ、これもよくあることですが、「信仰熱心な親であるはずなのに、子どもたちが学校で信仰を失うことに対して、手の打ちようがない」」「信仰熱心な親であればあるほど、子どもたちが信仰から離れるのはどうして」という疑問をきくことが多いのです。
 おそらく、子どもたちを学校にやって、たくましい信仰=どんな環境におかれても信仰とあかしとを守れるのが強い信仰なのだから、ホームスクーリングで自宅でぬくぬくと育てるような「ひ弱な」子どもではなく、免疫力のある強い信仰をもってほしいと、一応たてまえとして、そのような名目で妥協の道を選択している例が多いからだと思います。 「信仰から出ていないことは、みな罪」(ローマ14:23)というパウロの言葉があるではありませんか。本ねでは疑っているのに、本当は信仰の妥協なのに、闘うべきところで闘わなければ、失われるのは子どもの信仰です。
 ご質問の趣旨からはだいぶ離れてしまいましたが、聖書はホームスクーリングだけを唯一の道とは示していませんが、教育や子育ての分野でも、信仰の妥協や偽善者は、容易に入り込むのであり、その結果は、やや厳しい言い方になってしまいますが、信仰の道ではなく、「社会適応を唯一の行動基準とする子ども」を生み出すことになります。
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Q ホームスクーリングには、メリットばかりではなく、必ずデメリットがあるのではありませんか。
 
  ホームスクーリングにとって、「デメリット」と呼ばれるものはむしろ祝福であり、様々な能力が開発される入り口のようなものです。旧約聖書をご存じの方は、ダニエルの場合を知っておられるでしょう。異教の環境を拒否したダニエルたちは、ネブカデネザル王の命令によって野菜だけを与えられるという不利な環境におかれたにもかかわらず、創造主は彼らを祝福し、その学問に豊かさを添えられたではありませんか。(ダニエル書1章17節)
 確かに、この世にはイエス・キリスト以外に完全なものは存在しないので、その意味ではホームスクーリングにもデメリットがあるに違いないでしょう。
  そこで、まずメリットとデメリットという考え方に拘らせてください。つまり、何を基準にするのかによって、判断に違いが生まれ易いといえるでしょう。たとえば、クリスチャンでないかクリスチャンであるかによって違います。いえ、もっと根本には聖書を基準にしているかいないかによって、その判断はいかようにでも変わります。たとえば具体的には、チアマガジンにも書かせていただきましたが、「退屈」をどのように考えるかというテーマがあります。つまり、ホームスクールには、あらかじめたとえば管理されたカリキュラムのようなものは全くないので、すべて親の監督か、もしくは子どもが自己管理しなければならなくなります。これは、いつも他人の指示を待っていなければならない立場からすると、不利だと思われてもしかたありませんね。
 しかし、自由にできる時間が“ありあまるほどある”というのは、この上ない「贅沢なのだ」というみかたもあるのです。しかも、ホームスクールのメリットは、自己管理の訓練にあるのですから、暇な時間があればあるほどいいということになります。一つのテーマをじっくり練ることになるわけで、芸術家にとって、時間の経過や「もの思う時間」が貴重なように、時間をつかって考えることや、時間を自己管理できる訓練に結びつくというメリットがあります。
 つまり、学校ではことごとく「デメリット」といわれる場面で、そのすべてがメリットに開花する「つぼみ」になるかもしれないのです。教室の中では、群れることができず孤独なのは不健全とみなされます。しかし、ホームスクールにおいては、すべてがメリットであり、わけてもクリスチャンは、ひとりで「祈りの時間」を過ごす訓練を求められることからすると、(もちろん親の意識や信仰の態度にもよりますが、)ひとりの時間が子どもに与えられるホームスクーリングのほうがむしろ有利となります。日本の狭い住宅事情をどう克服するかは、課題でしょう。集団の中にいないことは、デメリットだと考えられる傾向があります。でも、これもホームスクーリングの視点からすると、同程度の理解力や判断力しかない同世代から開放されていて、年長者と壁無く交わることのできる術(すべ)を早くから学べるという意味で、これもホームスクーリングのメリットといえそうです。実際のデメリットといえるものはあるかもしれませんが、学校との比較では、問題にならないくらい低いのです。
 百歩譲って、あなたがホームスクーリングのデメリットを探すのは、無意味ではありません。多分、すぐに、ホームスクーリングのデメリットを探しあてることができるに違いありません。ところが、学校の場合は、デメリットを減らすためにシステムの硬直化など、壁があまりに多いのです。(改革を担うべき教師がその問題点を一番感じておられることでしょう。)もし、問題点がみつけられたなら、ホームスクールにおいては、いくらでも学習や経験や変革の機会にできるのですが、上意下達(じょういかたつ)体質の学校では、失敗やデメリットを積極的に生かす道さえみえないでしょう。
 ホームスクーリングにおいては、問題・デメリット大歓迎です。
 娘はケーキを何十回となく失敗しながら、潤沢な時間と思う存分与えられた時間によって、ケーキを焼くことにかけては、ほとんど極みまで工夫と対策を学び、けっこうな作品ができるまでになりました。(本当に極めたかどうか別ですけど、人気はあるみたいですよ。)
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Q ホームスクーラーにとってクリスチャンスクールは、必要条件なのでしょうか。
 
 「ホームスクーラーがなにを必要としているか」からにではなく、「聖書がなにをいっているか」にすべての根拠をおきたいのです。
 聖書は、子どもについて第一の責任をもつ存在は親です。そのポイントは、(聖書の引用はたくさんあるのでここではしませんが)、本ホームページでも繰り返されているところです。クリスチャンファミリーが子どもの教育について全面的な責任をもつという時、たとえば教会学校を含めて、子どもの霊的な成長の責任は、親に付託されているといえるでしょう。そのことと、実際に子どもが家で過ごす時間が長くなるか短くなるか、あるいは親以外の人(英語表現では、メントール mentor)がいて、成長を見届ける働きがいるかいないかは別のことなのではないでしょうか。
 親の責任は、子どもにとって最前の道を備えることです。それが、完全に家で時間を過ごす場合もあるでしょうし、家以外の場所、たとえばクリスチャンスクールであれ何であれ、そのような場所や人とかかわる時間が長くなるかどうかは、あまり本質的なことではありません。もし、あなたが、ホームスクーラーの子どもたちが、「かごの中の鳥」とか「純粋培養」に比べたイメージをおもちなら、それは全く誤解です。籠の中という意味では、学校のほうがそれに近いでしょう。純粋培養というよりは、強いていえばのはなしですが、いっさい肥料をやらない自然栽培に近いと思います。
 子どもの必要にとって、家がベースとされていて、その上で、成長過程とか、年齢によって、あるいは個性によってできるだけ即応した環境を与えられるのがホームスクーリングなのです。完全に外から学校の枠組みをあてはめるようなやりかたはしませんが、子どもによっては、スクーリングに適性がある場合があるかもしれません。
 ご質問の「クリスチャンスクールは、必要条件なのですか」にたいしては、ホームスクーリングそのものにとって、たとえばクリスチャンスクールなしのホームスクーリングには、不備があるなどということはありません。この点は、ホームスクーリングを巡って生まれている新しい誤解かもしれません。子どもは完全にスクーリングなしに、クリスチャンとして教会の交わりにとけ込んで、「子どもの礼拝時間」に閉じこめられないで、普通に大人といっしょにメッセージをきくことができる環境であれば、何の不足もないです。
 しかし 「聖書がなにをいっているか」という最初の命題に帰るなら、たとえばホームスクーリングで育つかどうかとういうより、クリスチャンとしてなら、たとえばオネシモに対するパウロの役割は、実の子どもではなかったとしても、霊的な父親とされたのです。(ピレモン書)
 教会には、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」(エペソ4:12)るという役割が与えられています。教会は、親と同じく、ホームスクーラーの子どもたちの霊的成長に重荷をもつべきでしょう。つまり、聖書の視点によれば、親とその属する教会には、子どもの養育する責任をまかせられているのだといえます。ホームスクーラーはどんなにホームスクーリングに理解のない環境だったとしても、礼拝出席を軽視すべきではありません。いえ、一番熱心に教会に仕える器としての奉仕者とされなければならないのではないでしょうか。
 でも、言い換えれば、教会が「クリスチャンスクール」をもつかもたないかということとは別な課題なのです。もちろん、教会やその指導者に与えられたビジョンとしてクリスチャンスクールが実現するのはすばらしいことでしょう。しかし、ホームスクーラーの子どもたちは、年上の信仰の先輩たちと過ごすだけで、十分に信仰的霊的な影響を受けているのだと思います。それゆえ、充実したホームスクーリングにおいては、いわゆる教会学校すら必要ありません。それは、親がリードすべき課題なのであり、子どもは礼拝の中で、メッセージが理解できるかできないかにかかわりなく、そのような霊的な場所おかれるところから始まるのです。少し話題は変わりましたが、親が礼拝でメッセージに心からきく態度をもっているなら、その模範のゆえに「子どもが礼拝で静かにさせる」などという場面はなくなるでしょう。つまり、家で充実したホームスクーリングをしていて、その上で説教者が妥協しないメッセージを語る環境におかれているなら、あとのものはなくてもいいのです。(ケビン・スワンソン氏)
 ちなみに、クリスチャンスクールをもっていない教会も、教会として不足がないでしょう。けれど、ミッションスクールがその道を歩んだように、教会と全く分離したクリスチャンスクールには不足、というより問題があると思います。クリスチャンスクール以前に、ホームスクーラーの信仰の背景にある教会が、神学的に自由主義な立場ではなく、本当に宗教改革を尊んだ聖書に基づいた聖書観及び教会観をもっているのかどうかも大きな課題です。それから、せっかく両親がホームスクーリングに導かれながら、実際には信仰的な態度を回避させているだけなのに、オルタナティブ(選択的な教育手段)をいいわけにして、ただ子どもを「スクール」にやるというのは、せかく与えられた主の恵みの機会を生かしきっていないように思われれて、残念でしかたありません。
 いかがでしょうか。
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Q ホームスクーリングを合法化するための法律ができたほうがいいのではありませんか。
  (2004.1.3 Renewal)
 
 日本では、憲法では「普通教育」と学校教育以外の義務教育課程を含めて認めていると判断できるものの、憲法の細則として、つまり義務教育とは何かということを規定する法律が“学校教育法”だけであるといういわば“違憲状態”におかれていて、戦後の歴史の中では、「義務教育」を、狭く学校教育以外には解釈されてきませんでしたが(東大・団藤重光氏など)、ホームスクーリングなど学校以外の場を義務教育に含める法解釈がみられるようになったのは、本当にごく最近になってからです。(阪大・松井茂記氏など)
  “曖昧なまま、棚上げにされている”というのが実態で、ホームスクーリングが“違法行為”と呼ばれる根拠はなく、むしろ、憲法の主旨に反して、教育環境が一元化されているほうが違憲状態だといえるのです。
 今のところ、ホームスクーリングは合法でも非合法でもない曖昧な状態におかれているのだといえますが、曖昧さを解消するための動きは避けられないほどに、今後ホームスクーラーは増加すると思われます。
 これまでのところ、学校教育法をもって、ホームスクーリングを禁止まではできないとしても、これまで、ホームスクーリングを説明しようとした場合、教育委員会や学校サイドにはそれを全面的に肯定できる材料がなかった反面、学校教育法をひっさげて全面的に“ホームスクーリングが禁止されている”というのにもあきらかに無理がありました。つまり、親が自覚的に説明して、行政側に納得していただける余地があったのです。
 私は、親に説明責任があるというのは、当然であり、親に教育の主導権を戻すというホームスクーリングの本来の主旨に沿っていると思います。しかし、行政としても、「曖昧さを解消するための合法化」の動きを示すでしょうし、法治国家である以上“ホームスクーリング法”という(名称はどうあれ)いわば合法化政策が話題になるのは時間の問題です。
 これまでのように、サブカルチャーとして、日陰者扱いされることなく、日の下を大手を振って歩きたいという願望が強ければ強いほど、ホームスクーラーの中に法制化を歓迎する傾向が強まるかもしれません。しかし、特に日本の場合、意識的にホームスクーラーが“教育の自由”や“親の教育権”の意味を理解して、その権利を主張していかなければ、日本での法制化には、権利のためだけではなく、行政によって“監視体制が強化”されるという面があるのだということを忘れてはなりません。それは、エジプトの中で、ユダヤ人が増えたとき、パロやヘロデが警戒心のあまり、2歳以下の幼児を殺戮しはじめたところに通じます。(出エジプト記1章、マタイ2章)あの時代の“殺戮”はないとしても、少なくもと監視的にはなるだろうと予測します。
 つまり、これまでは、親の説明が主体で、それに対して行政が一定の理解を示す余地があったのに、「合法的ホームスクーリングとは何か」という定義を装備することで、“いいホームスクーリング”と“悪いホームスクーリング”を振り分けるための格好の材料となるかもしれないからです。つまり、たとえば、ホームスクーラーに対して、「試験」などの学力判定を含めた定期検査や、報告義務、日の丸君が代尊重を主眼とした国家主義的なセレモニーへの出席が義務づけられるなどの縛りがかけられるかもしれません。そんな状態になった時、ホームスクーラーにとっては、自由の制限以外の何ものでもなく、利益があるとは決していえないのです。
 たとえば児童虐待などの名目で、ホームスクーラーが行政からの監視対象とされる傾向はすでに生まれていて、今まで以上に一層の説明責任が親に課せられる状況になっています。まして、クリスチャンの場合、聖書に基づいて“スパンク=体罰”を受け入れる立場であり、一旦、“法”を議論しはじめると、国家と宗教という視点からするとオウム真理教を含めた新興宗教諸派の「宗教教育」と同一視されることになるので、たとえ、ホームスクーリング法があったとしても、これまでの経緯をふまえるとそれがとりわけクリスチャンホームスクーラーにとって規制的監視的な内容を含む傾向が生まれることは否めません。それゆえに、日本でも、今後米国HSLDAのような働きは必ず求められるでしょう。米国HSLDA(Home-School-Legal-Defence-Association)の地道な活動によって、米国のホームスクーリング運動が進展をみてきたことは明らかだからです。いえ、むしろ、その地道なロビー活動があったからこそ、今日のように全米でホームスクーリング運動の進展みられるのです。しかも、全スタッフが献身したクリスチャンであり、ホームスクーラー弁護士のグループによる活動を展開しています。それゆえに、HSLDAは、各州各地のホームスクーラーの法的な自由を守る働きを展開していて、具体的で切実な祈りの支援を求めるメールが届き、(もちろん許可を受けて)その中のいくつかを翻訳させていただいています。
 法制化される以前からソーシャルワーカーによるホームスクーラーへの監視活動が行政の側に顕在化していて、これについても、現在でも米国HSLDAは、法律を行政による監視の材料ではなく、むしろホームスクーラーの自由と権利を守るための“武器”として積極的に法律を味方につけるための支援活動を続けています。
 ただし、いちホームスクーラーとして思うことは、将来法律面で社会的に保障されることだけに「寄らば大樹の陰」として、“安住の地”をもとめてはならないのだと戒められていることでます。ホームスクーラーのためには法律の整備が必要ですが、もともと法律には、権利の擁護と規制の強化という両面性があるのです。(たとえば、すでに施行されている“住民基本台帳法(住基法)”も、押し出しは国民生活活動の円滑化なんていう言い方をしてましたが、実際には国民情報の国家管理、もしくは情報統制が本当のねらいです。騙されてはなりません。)「法律ができたから安心」ではなくて、法制化はホームスクーラーの権利を守るための新しい表舞台での闘いの始まりだと考えていただくほうがいいのです。
 ですから、私は、現段階では、早く法制化すべきだと思いません。まずは親が教育を他人に依存しない自律した考え方を養われ、地域や行政に対して誠心誠意、説明する努力を自覚し、「気がついたらあっちこっちで、ホームスクーラーが増えていた」というふうに、もうしばらくはサブカルチャーに甘んじて、草の根的にホームスクーラーが各地で増えていくことが肝要ではないかと思います。

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Q 子どもが一日中家にいるのは、健康的ではないと思います。

 「健康とは何か」をどう考えるかにもよりますね。
 日本の住宅事情からすると、外での活動のほうがいいということはありますが、問題の質が違うと思います。
 別の意味で、そうおっしゃいっているのでしょう?
 たとえば「学校に行かないのは不健康」「学校行くのは健康」と思っていませんか。
 図星ですか?
 あるとき、近所のおばさんが「子どもが学校に行かないというのにねぇ、そんなに元気にしてていいのぉ?」と不登校の子どもをもつ明るいお母さんをつかまえて言ったそうです。 
 いいかえれば、在宅の子どもたちがいて学齢期に一度も学校に行かなくても、それが本来おかれている場なのだという受け止め方が、ホームスクーリングの大前提なんですね。学校に行かなくていいのです。学校に行かないほうが健康になる場合だってあります。もちろん元気に学校に行っている子どもは、それはそれで幸せですね。それでも、学校での不健康、それに在宅の健康というのが見えにくくなっているとは思うのです。
 病んでいるのは、(不健康なのは)むしろ、その健康観であり、子どもの在宅状態を異常視する側です。
 乙武さんの「五体不満足」を是非一度お読みください。目からうろこが落ちますよ。もしかしたら、現代人の健康観、いや学校が生みだした近代の新しい健康観を、もう一度洗い直されるかもしれません。
 学校が宣教している健康観に従うと、子どもがホームスクーリングなどで元気に育っているのを見ると、不思議でたまらないのでしょうね。しかし、しばらくホームスクーリングを続けてくると、体育祭などで「一糸乱れず」「みんな笑顔で」を健康な状態と判断することにいかに無理があるかが見えてきますよ。たとえば、北朝鮮のマスゲームなどが放映されるのをみて、日本の学校文化に非常に似た考え方が流れていると思いますね。
 きれいな制服、同じカバンとか、一糸乱れずとか、外見で判断することが、むしろ特別な…いえ、判断基準としては、軍隊や共産主義国やパナウエーブみたいなのとか、特別な思想や団体が背景にあって発信されることなのではないでしょうか。
 学校とは不思議なところであり、とにかくペーパー試験の成績が良ければ、いい子ども、逆に試験の成績がおもわしくなければ、悪い子になってしまうんですね。それで、子どもに、いくらでも不健康状態がつくられてしまう場所です。本当に健康か健康でないかというレベルではなく、不健康がつくられてしまうのです。たとえば、成績が悪ければいつでも「学習障害」が疑われますし、仲間との関係がうまくいかないと見えたらそれも「アスペルガー症候群」が限りなく疑われるでしょう。あまり知られていませんが、就学時検診の時、不登校傾向が巧妙にチェックされる項目が存在しています。つまり、学校に不適応な子どもは、早めに予防処置をしておこうというわけですね。さらなる問題は、今の学校の「健康観」がどんなに病んでいたとしても、それを自己診察して、改善できないということに問題があります。先日、学校カウンセラーの働きによって、不登校の子どもの数が減ったという報道がされていましたが、これも、なぜか恣意的です。不登校が減ったということを、ただちに改善とみてしまうのは健全ではありません。登校していることだけを健康な状態だとみているので、このようなプロパガンダのような言い方になるのです。それは、せっかく30億円以上もかけてカウンセラーを配置したんですから、効果ないといわれてはなんですからね。え、皮肉過ぎますか?確かに冷笑的すぎるのは好ましくありません。
 
 話題は、そうですね、健康的かどうかということですね。 ホームスクーリングのほうが、子どもの健康管理の面で優れていることは、すでにお伝えしました。親には、教育についての健全な知識と同時に、健康管理についても常識的な知識が要求されています。ホームスクーラーとなってから、その点でも、それから妻がシックハウス症候群になってからはなおさら、医学関係の書物をある程度読ませていただきました。学校信仰からの脱却と同時に、(イリイチの言い方に従うと)「脱病院化社会」という考え方が求められるでしょう。子どもの健康管理、それと医療機関との健全なかかわり方は何であるかが、もっと模索されていいのではないでしょうか。異常があれば何でも医療機関にというのは、江戸時代の5人組制度に範を求めたような「不審な人をみかけたら、すぐに警察に」という標語と同じくらい思慮のないことだからです。学校に行かないことを、無条件に不健康とみるというその考え方は、子どもが学校に行っていれば無条件に健康だと思いこむのと同じくらい、深刻に病んでいるのです。いかえれば、健康な状態も不健康な状態も、「学校に行く」とか「学校にいかない」とかとは関係なく存在するのではないでしょうか。
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Q ホームスクーラーの数が増加することで、国が“とりしまり”を始めるなどという心配はありませんか。
 
 諸外国の例などを参考にすると、日本のような初期の草の根運動の段階では、行政からするとほとんど無視してもいい数と見えますので、何の働きかけもない状態が続くことになります。やがて、ホームスクーリングに人々の関心が高まってくる段階において一番困難が多く、これまで、米国をはじめ欧州のいくつかの国でも、犯罪行為とみなされて、訴えられ、場合によっては収監されるような場合さえありました。
 そのような苦難の時期を過ぎて、各地でホームスクーラーがどこにでも普通にみられるようになると、行政は「しぶしぶ」ホームスクーラーを認めざるをえなくなります。もっとも、認めざるを得なくなるとう段階でも、どのように“認める”かによって、ホームスクーラーに監視の網がかけられるという例は、たとえば英国やスコットランドにありました。最近はルーマニアでホームスクーラーの活動を規制するような法律が検討されそうになり、米国のホームスクーリング法律擁護協会(HSLDA)から「抗議メール」を送るように要請されたことがあります。(ルーマニアの場合は、結局法的規制はかけられませんでした。)この事例はインターネットの時代ならではです。ただ、日本の実情も似たり寄ったりで、諸外国とあまりかわりません。将来、もしかしたらHSLDAに支援を要請するような時代がくるかもしれませんが、今のところ水面下の動きがあるかもしれません。予想されるさまざまな行政戦略はまだ表にはみえてきませんが、今のところ「しかと(無視)」されているのが現状です。  
 英国のアザワイズによれば、世界の趨勢としては、ホームスクーリングについて国家は公的に認知せざるをえなくなる傾向が読みとれるとしています。でも、それはいいかえれば、殉教とまではいいませんが、この道にある程度の“迫害”は覚悟しなければならないという意味でしょう。それは、迫害がないのにこしたことはありませんが、たとえば「行政との関係がうまくいっているホームスクーリング」といえることが本当の意味の健全さと表裏一体であるとは思いません。あえてくりかえしますが、わざわざ行政と摩擦をおこすことはないのです。平和的な関係を構築できるならベターであるに違いないでしょう。でも、教育における家庭の自律性が確立されているのがホームスクーリングを見極める鍵だと思いますので、「行政とうまくいっている」という言葉だけで、(そのような事例を斜めに見たようで恐縮ですが)私には何かの“罠”のようにみる過剰反応をしてしまうのです。
 ですから、日本でも、たとえば、埼玉県志木市で「ホームスクーリングが始まった」という報道がなされ、私もある新聞社から取材を受けたものの、実際の内容は、在宅の不登校児への行政指導と準登校処置による“天下り先の確保”でしかなかったのであり、家族の自律性を伴う本来のホームスクーリングとは、その意味も方法も内容も全く違いましたので、そのことを私の意見として伝えたのですが、記者は「ホームスクーリングが各地で認知されるのはいいことだ」みたいな現役ホームスクーラーとのインタビュー記事を掲載してしまいました。権力に都合のいいようにホームスクーラーが利用されてしまう場合はこれからもありそうです。
 ただ、このような“志木型”のホームスクーリングを、ひな形として、行政が感知しないホームスクーリングを限りなく違法行為とみなす傾向が生まれる余地は現段階では払拭されていません。つまり、行政に登録しているホームスクーリングは“いいホームスクーリング”そして、行政から完全に独立しているホームスクーリングは“わるいホームスクーリング”というみかたが生まれる余地はあるのです。
 このやっかいな「仕切りたがり屋の傾向」は、いつでも行政につきまとう病気みたいなものですが、ある意味で、この傾向のおかげで、ホームスクーリングが本当に自立的なのかどうかが試され、訓練されているのだといえます。
 別の意味で、チャーチスクールとの関わるのは歓迎すべきだという一方で、「チャーチスクールなど、行政が認めた施設への登録がないホームスクーリングは、違法である」などといわれかたがあるのだとしたら警戒しなければならないのです。つまり、私が案ずるのは、現状では、ホームスクーリングよりもチャーチスクールにおいて、行政との癒着が生まれる可能性が高いということです。
 つまり、どこかで「いいホームスクーリングと悪いホームスクーリング」を勝手に決められてしまい、あるホームスクーラーが、いつのまにか「悪いホームスクーリング」というレッテルを貼られて、取り締まりの対象にされてしまうことになります。
 近代国家の歴史は、教育統制の歴史であるといってもいいくらいで、おしなべて国家権力は、よきにつけわるきにつけいつでも教育熱心でした。ですから、行政がいつでも悪いというのは、それはそれで問題のある言い方ですが、しかし、ことホームスクーリングに関して言うと、どこまで家族が行政から自立しているか、もしくは“自律的であるか”が問われているのです。
 ホームスクーリングは、行政組織をはじめネットワークやフリースクール及びチャーチスクールとの関わりなしにも可能だという点はおさえておきたいのです。 
 ただし、付け足しですが、だからこそ、クリスチャン・ホームスクーラーこそは、明確に聖書に立った教会観や礼拝観を学習し、実践していなければなりません。それゆえに、キリスト教会(キリスト教界)の中で模範的奉仕者になるべき努力を怠ってはならないのです。いいえ、ホームスクーラーの自律性をいいことに、教会(教派・教団)との結びつきを相対化して、考え方の違う兄弟姉妹との交わりを敬遠したり、嫌ったり、日曜礼拝を粗末に扱おうとする傾向は、ホームスクーラーにとって、歓迎できない以上に、絶対に警戒しなければならないのです。
 自律性を完全に受け入れた上での、ネットワーク構築であり、ホームスクーリングマインドをもったチャーチスクールなのだといえます。ゆえに、行政からの監視や取り締まりも確かに困った傾向ですが、一番困るのは、(家庭ごとに課題があるとはいえ)ホームスクーリングの自律性=「子どもの教育の主体は、その子どもの親であるという考え方」を阻んだり疑ったりする考え方、それに、健全な聖書的教会改革運動ではなく、ホームスクーラーの自律性を足がかりにして、既成教会に対して破壊的になる内部の不健全な傾向であるといえます。蛇足ですが、「ホームスクーラーだけで教会をつくればいい」という考え方に、私は賛成しかねます。
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Q 親が大卒など高学歴でなければ、ホームスクーリングは無理なのではありませんか。
 
 学校の価値観を、そのままホームスクーリングに持ち込んでしまうことは、無用な心配をひきおこします。
 親が「5科目」全部についての教師並みの知識と経験がなければホームスクーリングできないと思いこむのは幻想です。
 親が自分の学歴をひっさげて、知識の切り売りをして、子どもがぬか付いているようなホームスクーリングのスタイルより、むしろ、子どもとむきあっていて、親が子どもと同じく素朴に一人の「学習者である」ことを自覚して、子どもと共に学ぶ立場に立つほうが結果としてすぐれた学習効果が望めるような気がします。
 米国などでは、すでにこのような議論は終わっていて、ホームスクーリングにおいて、子どもの学習成果は親の学歴とは関係がないといわれています。
 もともと、ご質問がホームスクーリングを「学習」という狭い観点から眺めておられるのではないでしょうか。ホームスクーリングで開かれる視野は、学習面ばかりではなく、「生活」であり子どもの成長そのものなので、「ホームスクーリング」という言い方が「スクーリング」に絞られてしまうので、「ホームグロウン(家で育つ)」といったほうが正確なのだと思います。当然狭い意味での学習が組み込まれていいのですが、子ども時代とは、もともと「ほうっておいたら怠け者になる」というのとは違い、非常に向学心とか、ものの原理への興味と学習能力に優れている時代なのだと思います。(むしろ、いわゆる大人のほうが、“その場しのぎのごまかし”“原理よりも形式”“他人まかせ”“めんどくさがり屋さん”になっているのです。)
 つまり、子どもの生活が「学習」を含めた豊さをもっていることがわかる段階までくると、親がどんな学歴があろうがなかろうが関係がなくなってきます。
 むしろ、問題がみえてくる事例は、親が自分を「無学歴」とおもって劣等感にしばられたまま、子どもに「学歴」を期待して、ホームスクーリングを形成してしまうとき、俗に言う個別指導教室とかわらないことになっている場合は、子どもにとって、ホームスクーリングが苦痛になるでしょうね。もちろん反対の例もあります。つまり、親が高度な学歴を持ち、子どもに対しても自分がその分野での「成功者」であることを示し、ご近所一般からもそのような評価を受けているような場合です。
 両者は別のようですが、学歴信仰という点では、根が一つです。結果は、子どもにとってホームスクーリングが非常に息苦しいものになります。
 しかし、ここまでは非キリスト者でも同じですが、キリスト者ファミリーの場合は、親の学歴が「キリスト信仰」に対して「学歴信仰」となるという問題を生み出しかねません。
 人の評価を「学歴」で評価する傾向を容認してはいけません。
 もちろん、初代教会においてそうだったように社会的な評価を受けている人が回心してキリスト者になることを、心から歓迎します。がしかし、現代日本のキリスト教会がどこまで「キリストを誇りとしているか」深く内省してみていただきたいのです。
 この点でキリストの御名の下におかれることが、世俗のどんな価値観にも勝っているのだと本当に確信しているでしょうか。このような教育と学歴主義の世俗のなかで、残念ながらキリスト教会は「地の塩」としての機能を果たしているとはいえません。
 学歴で人を心から差別しない宣教をおこなっている教会はあります。私が尊敬してやまないある韓国人宣教師は、路上生活者のために「炊き出し」を続けていて、日々の糧さえ削っておられ、路上生活に身を窶す中年男性たちを「兄弟たち」と呼んで涙されていました。このような群れに、キリストがおられるのです。その実践をすべての教会ができるとは思いません。けれども、学歴信仰から脱出することがなければ、日本宣教1パーセント未満の壁は越えられないでしょう。このように言うのは、すでに「明治のキリスト者」が知識階級優先の宣教をやってきた結果を今みていると思うからです。
 少し話題が逸れてしまいましたが、とにかく、親が子どもを真実に愛し、キリスト者であれば子どもへの信仰継承が何より大切なのであり、学歴主義はむしろ障碍(しょうがい)であって、そこから自由になることがきわめて大きな課題なのだと思います。
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Q スポーツなどの集団活動には、どう対処しますか。

 野球とかサッカーは、とりわけ男子の子どもにとって、魅力的な活動でしょう。
 学校でのスポーツ活動が、日曜に関係なくおこなわれるのに対して、ホームスクーラーは日曜日活動から解放されるものの、米国などのようにホームスクーラーによるスポーツチームが生まれ育つまでにはまだ途上ですが、将来ネットワークが盛んになるにつれて、スポーツチームの結成がみられるようになると思います。
 ただし、純粋にスポーツに限って考えると、「集団競技」ばかりがスポーツではないと思います。
 私の場合のように卓球、スキー、キャッチボール、水泳は、父親である私が担当しました。それも、「体育の授業」などと肩に力を入れずに、時間のある範囲で、楽しめる範囲でやってきたというのがこれまでの経験です。子どもたちにが運動不足になるのではないかという不安はありませんでした。
 (たとえば、素人考えかもしれませんが、問題になるほどの肥満や拒食になるメカニズムは、運動量の多いか少ないよりも、もっとストレスなど精神的要因が大きいのだと思います。)
 ご質問の趣旨に帰ると、たとえば、集団適応能力という面で、学校が提供する「集団訓練」が受けられないことで、将来社会生活に支障が生まれはしないかという意味ではないかと察します。
 「スポーツと教育」が、しばしば教育の名目で、体罰が容認されるとか
 結論からいうと、そのような心配は、全くありません。
 その第一の理由は、ホームスクーラーとして家庭をベースに成長することで、精神的に最も安定するので、かえって、プライバシーを大切にする考え方と、その延長線にある「公共心」が育てられるからです。かえって、集団依存体質がもたらす無責任体質とか、集団への適応を優先させるあまりに、自己認識を確立できない(つまり自分で考えることができない)とか、さらには、集団の傘下に入ると、どんな倫理的逸脱も許されると勘違いするとか、ホームスクーリングのことをご心配いただく前に、こちらのほうがはるかに深刻な問題です。
 第二に、少年時代に訓練される言語学習などの基礎学力に比べて、スポーツルールを覚えるなどは修得が容易なのではないでしょうか。 
 
 
 


Q 昼夜逆転になってしまう傾向がある場合にはどうですか。

 特に、子ども不登校からホームスクーラーになったご家族で、このテーマが時々深刻な話題とされます。
 子どもが日中寝ていて、夜中に起き出してくるようなパターンを繰り返すようになると、親はいい知れぬ不安にかられるものです。昼夜逆転の生活が身に付いてしまったまま大人になって、やがて社会からドロップアウトしてしまうのではないかとか、健康に悪いのではないかとか。
 学校からいわゆる「不登校」になった場合もホームスクーラーの場合も、同年代の子どもたちが学校に行っている時間を、親御さんを含めて、周囲からしっかりと受け止めていただいていないと、近所の子どもたちが学校に行っている時間をなんとかしてスキップしたいとおもうようになります。親が子どもの在宅状態を受け入れていないことで精神的な負荷を負わせているという事実を無視して、「子どもの昼夜逆転状態」だけを“やりだま”にあげるべきではないと考えます。
 子どもが日中に外出しても、「うちはホームスクーリングです」と子どもが自信をもって言えるような精神的環境がまず大切でしょう。けれども、親がホームスクーリングを確信している場合でも、昼夜逆転になることもあります。その場合には、親の側で、子どもとよく相談しながら、時間の管理の大切さを伝えながら、ルールをつくっておくことが大切ではないかと思います。
 ただし、親が子どもの時間管理に主導権をもって、タイムキーパーのように、やや感情的になって朝起こしにいくことが常態化するのは、いかがなものかと思います。なぜかといいますと、子どもが自分にかかわるすべてのことを、セルフコントロールできるようになるということが、ホームスクーリングの非常に重要なメリットだと考えるからです。このポイントは米国のホームスクーラーの中でもかなり早くから、いくつかの書物で紹介されていました。
 もし、お子さんが、学校に通っていらして、ホームスクーラーになった場合は、学校の指示待ち体質から解放されるまでやや時間がかかるでしょう。けれども、「自分のことは自分でする」という家庭教育の常識をさらに、身の回りのことばかりではなく、学習目標や学習手段、そしてさらには教科書を含めたある種のラーニングプログラムを利用することまでも含めて、セルフコントロールするための訓練の場が、ホームスクーリングにおいてはゆたかに提供されているのです。
 ですから、時間の管理もそのような「自己管理」を旨とすべきです。
 「もう〜の時間だから早く起きなさい」式に親があれこれ口やかましく言っているうちは、セルフコントロールが育ちません。それどころが、大切な自己管理能力の芽を摘んでしまうことになります。早寝早起きが健康にいいということと、親がその模範を示しているなら、ほうっておいても子どもはそれに倣うのです。
 親が強く言って、それに子どもが形式的にしぶしぶ従うことで、親は見た目で満足してしまいますが、たとえ早起きが習慣化したとしても、子どもには、セルフコントロールによって時間の管理を学習するための大切な機会が奪われてしまったことになります。
 自分の生活管理、自分の学習目標、生活設計(保険のはなしではありません)まで自分で考えることを訓練されるので、学校に行っている子どもに比べて、ホームスクーラーの子どもは早く大人になる(性的に早熟という意味ではなく)といわれています。
 「子どもは、大人に言われなければ何もできない」という先入観をもっていませんか。
 子どもには、もともと自己管理能力が備わっているで、それを引き出すのが親の役割なのだと思います。
 子どもが昼夜逆転になっていたとしても、大人が生活管理をしっかりしていることと、子どもの心を受け止めていることがみられるなら、時間の管理は、やがて自分で覚えていくようになります。もちろん、学校に行っていたからといって、自己管理能力が著しく遅滞するようなことはみられないでしょう。外から管理されて与えられ訓練されなければ身につかないこともありますが、時間の管理は、自己訓練が最善です。
 現代人は、あまりにも「細切れの時間」に慣れさせられているのではないかと疑います。ある画家の方と親しくなって、「筆はおもいのままに動き、おもいのままに止まる。いつ止まるか、いつ動くのか、いつまで動くのかわからない。それが作品を完成させるためのこつです。」とおっしゃっていましたが、ホームスクーリングには「時間割がない」ということが、最大のメリットであるということはおわかりいただけるでしょうか。早くから自分の時間を管理できるようになることが、どのような学習成果に比べても遜色ないくらい、大切なことなのではないでしょうか。
 
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Q 「ホームスクーラー」とは、ホームスクーリングを受けている子どもたちのことを指すのですか。親はホームスクーラーではありませんね。

A 
 「ホームスクーラー」という用語に限っていうと、子どもに対してだけホームスクーラーと呼ばれるとか親だけをそう呼ぶとか、区別されて使われてきたとは思いません。
 それは、ホームスクーリングが、本質的に「家族の改革運動」であるからでしょう。確かに、最初、ホームスクーラーの家族には、個人が個人にふさわしい教育コースの選択ができるのだという視点に目覚めます。
 ただし、ホームスクーリング運動は、家族の教育力を受け入れたことから生まれた視点です。ですから、夫婦であれシングルであれ、親サイドの出発点として子どもの教育をどうするのかということがあったとしても、結果としては、ホームスクーリングには家族観の建て直しが必須なのです。それだけに、学校文化がいかに、人の生活と心を支配しきたことでしょうか。言い換えると、塾や進学をどうするのかという差し迫った課題もさることながら、ホームスクーリングは、教育観や家庭観も同時に見直すきっかけになります。その意味では、ホームスクーラーとなった家族には、それぞれ「学習指導要領」にかわる指針やプランニングのようなものが必要です。話題を元に戻しましょう。もしかかわりがある子どもだけをホームスクーラーとみなすと、親は、あたかも教室における「教師」となるでしょう。
 でも、私は、ホームスクーリングをはじめた時点で、その決心をしたのは確かに親であるはずなのですが、親は決心をした時点で、すでにホームスクーリングマインドにいわば、「巻き込まれている」とみます。これは消極的ないいかたかもしれません。親としては、不本意ながらとりあえずホームスクーリングをするという場面があったとしても(私の場合そうでしたが)、やがてホームスクーリングが本来子どものもっている潜在能力を引き出す可能性が大きいわかることや、それまでの学校信仰の鎧(よろい)がはずれることによって、みえてくる様々な視点が大きく、「ホームスクーリングの恩恵を一番受けているのは、実は親なのではないか」という感想に繋がるのでしょう。それゆえ、親もまたホームスクーラーなのではないでしょうか。
 学校信仰のしがらみは、マインドコントロールのように染みついていて、家族の教育力を損なってきました。自分の子どものことなのに、こと「教育」ということになるとすっかり主体性を失い、(いや骨抜きにされ)、多くの家族は世俗的能力主義や点数主義などの時流にあわせる以外になく、自分の頭で考えることはむしろ「悪い」ことになります。
 この点に関しても、日本は全く未熟です。
 ホームスクーラーである家族は、日本では確かに特殊にみえますが、私は特殊なことをしているとは思いません。家族がそうあるべき、本来の姿に立ち返っているのだといえます。
 むしろ、特殊なのは、日本の教育事情の側です。
 そのようなわけで、親もホームスクーラーと呼ばれていいのではないでしょうか。
 ちなみに、米(多分・俗語)英語では、「ホームスクーラーとして育つ」とか「ホームスクーリングをしている」という意味でhomeschoolが動詞として使われることがあります。She was homeschooled since last year.というぐあい。参考まで。
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