ホームスクーリングQ&A
                                                       2008/3/30  RENEWAL
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 #ホームスクーリングとは何
 #数はどのくらいいる
 #「不登校」とは違う
 #学校に行かないことのメリットとデメリットは何ですか
 #教育をアメリカナイズすることに抵抗があります
 #ホームスクーリングは「合法的」
 #ホームスクーリングのネットワークなどは、ありますか。
 #ホームスクーリングは、裕福な家でなければ無理?
 #教材についてはどのよう考えたらいいですか。
 #教育をアメリカナイズすることに抵抗があります
 #ホームスクーリングは「合法的」
 #ホームスクーリングのネットワークなどは、ありますか。
 #教材についてはどのよう考えたらいいですか。
 #多くの科目を教えるのは無理なのでは?
 #親だけだと社会性が育たないのでは
 #どんな家庭でもホームスクーリングが有効ですか
 #能力の評価なしに済ませることには不安があります
 #「アンスクーリング」と「ホームスクーリング」はどう違いますか
 #近所の人々や親戚とのいつきあいが心配です
 #フリースクールや塾についてはどう考えますか。
 #学校が「ホームスクール」を、認めてくれるそうです
 #学校と交渉して「籍」だけはおいてもらうのはどうでしょうか。
 #子どもが「学校に行きたい」と言い始めたら
 #本人が「行きたくない」と言ってから、ホームスクールに
 #子どもが将来「学校に行きたかったのに、行かせてもらえなかった」と言う
 #学校をなすことが、ホームスクーラーの究極的目標ですか
 #履歴書に学歴を記載できないことは、子どもにとって不利益なこ
 #ホームスクーリングの良さはわかりますが、でも、学校の良さもあるのでは
 #アンスクール以外のホームスクーリングはありえないのではありません
 #今後ネットワークが実践すべき課題は何ですか。
 #TVについて、どう考えるか、どう利用してきましたか。
 #親一人子一人でもホームスクーリングができるのでしょうか。
 #ホームスクーリングでは、母親に教育の比重が重くのしかかる
 #これまで、ホームスクーリングをして一番しんどいと思ったこと
 #普遍的な基礎学力のようなものは、学校に行くと行かないとにかかわらず、必要で
 #これからホームスクーリングを始めるに際して、「参考書」のようなものはありま
 #2002年4月から埼玉県志木市で「ホームスクール」が認められる
 #貴ホームページのコンテンツは、「家庭の主婦」むけではない
 #教科書を使わないのですか。
 #同世代の子どもたちと過ごさないことは、社会性などにおいて、不利益になりませんか。
 #ホームスクーリングでの健康管理が心配です。
 
 
 

Q1 ホームスクーリングとは何でしょう


 学校に通わず、家庭をベースにして子どもが育つことをホームスクールと呼びます。
 実践面を強調して「ホームスクーリング」と呼ばれます。家庭を学校のようにするかのようなイメージを避けて、ホーム・エディュケーションと呼ばれる場合もあるようですが、これも「家庭教育一般」と混同されやすいので、米国などで主に通用している分詞形のホームスクーリング(homeschooling)を用いたいと思います。 
 もともと、法律が自治体に設置や管理を義務づけている公立学校や、制度としての教育環境を否定したり破壊することをめざす運動ではありません。たとえば、米国ではホームスクーリングのように聖書を中心とした教育体系をもって子どもを育てたいと願う親が中心的役割を果たしてきました。一方日本ではそれに加えて、学級崩壊や、さらには「学校崩壊」ともいわれる学校現場の荒廃を憂え、学校教育そのものに子どもをまかせることに不安を感じている親も少なくないと言われます。
 それらの事情を背景に、憲法が子どもが学校に行く権利を守っているのと同様に、子どものために学校環境以外のホームスクーリングなどの方法で「普通教育」を果たすことを選択肢として認めてほしいというのが「草の根運動」であるホームスクーリング運動です。
 ゆえに、反学校運動の一環でも、脱学校運動の一環でもありませんが、同時に、親が学校と提携(協力)したり、学校からの支援を前提に家庭の教育環境を整えようという運動でもありません。
 
 ホームスクーリングの形態はそれこそ、十人十色で、大学を含む学齢期を自宅で過ごしたり、目標を大学入学において、いわゆる「初等中等教育」を学校に委ねないで、自宅で過ごすとか、場合によっては部分的に学校やフリースクール(チャーチスクールや通信教育を含む)を利用することもホームスクーリングに含まれます。その内容も多様で、学校のように学習カリキュラムを細かく配慮する場合や、生活のなかで、子どもの興味を引き出すことを中心にすえたアンスクールと呼ばれる自由な生活のスタイルをとる形態も含まれます。しかし、家庭に学習を含めた子どもの生活全般の「基地」がおかれている点では共通しています。
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Q2 数はどのくらいいるのでしょうか。


 米国では、2002年現在で約230万人。前年度比では20%の増加率といわれています。
 2000年秋、米連邦政府は、毎年10月第一週を「ホームスクーリング週間」とすることを可決しました。
 日本では不登校から始まって、ホームスクーリングに移行している形態が多く見られます。不登校は厳密な意味では、親の選択が子どもの拒否行動に後押しされているという意味で、「暫定的ホームスクーリング」といえなくもありませんが、日本でホームスクーリングの全体数という場合には、このような例も含むと考えられます。
 現状では日本は親が、学校を選択しないでホームスクーリングを決断する家庭はきわめて少なく、その意味で厳密な意味でのホームスクーリング家族の数はまだ非常に少ないと思います。
 しかし、不登校からの移行ではなく、子どもが未就学の段階でホームスクーリングを選択する家族は、これから必ず増加すると思います。

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Q3 「不登校」とは違うのでしょうか。


 ホームスクーリングと不登校は違います。 
 「学校に行かない」というだけなのに、それを不登校や登校拒否が社会問題にまでして、さらには民間においては「不登校新聞」まで発行されるというのは、日本独特の現象であり、アジア地域でも「日本的現象」とみられるでしょう。
 学校信仰の強い地域などで、学校に行かないことの偏見から被る被害においては、ホームスクーリングと不登校は共通しているように見えますが、子どもの視点からは、全く違います。
 不登校状態の場合、子どもは、「親としては学校に引っ張ってでも行かせたいが、子どものことを考えるとそうはできない」と悩んで不安のなかにいる親と向き合わなければなりません。しかし、ホームスクーリングの場合、家庭をベースとして育つことを親が受け容れているのですから、子どもの側からすると、心や情緒の状態において、両者の違いは歴然としています。
 不登校の場合、親は、教育官僚によってマスコミ関係者を巻き込みながら流される「ひきこもり情報」に一層もてあそばれることになるのではないでしょうか。
 ただ「学校に行かない」だけのことを、これほど異常視する国は他にないと思います。
 まして、不登校の子どもについて精神病理にまで関連づけている文書に接すると正気を逸しているとしか思えません。むしろ、異常なのは戦前の国家総動員法の影響色濃い学校教育法のもと、「登校」を絶対視してやまない日本の教育行政のほうではないでしょうか。
 ただ学校に行くことを「登校」と表現する日本語も、子どもが学校の権威に跪(ひざまづ)かせられるような心理操作(マインドコントロール)を含むいい方です。
 不登校からホームスクーリングに移行したような場合、ホームスクーリングは、「登校をあきらめて消極的に自宅待機させている状態である」とか、「登校できるようになるまでの過渡期として一時預かりのような状態におかれている」とかお考えにならないで、幼児期の子どもが生まれ育った状態で、その状態を10代の学齢期においても受け入れることができるというスタンスを持つべきです。
 そして、学校を選ばなくなった子どもの状態を「ひきこもり」などという摩訶不思議な概念でひと括りさせておかないで、もっと積極的な生活スタイルへと移行させなければなりません。
 このような場合、親の意識革命が絶対に必要でしょう。
 けれども、そうはいっても、マインドコントロールを受けたオウム信者の社会復帰のように、学校信仰から抜け出すのは、容易ではなさそうです。

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Q4 学校に行かないことにはメリットばりでなく、
   デメリットもあるのでは

A 
 日本では、迫害とまでいかなくても、ある程度は周囲から「いじめ」のようなものがあるだろうことは覚悟してください。
 しかし、多くの人の想像とはうらはらに、子どもにとって、学校に行かないことによるデメリットと呼ばれるものはほとんどありません。点数主義や没個性的な学校の能力観に曝されない環境が子どもを自由にするからです。
  日本企業倒産による合併など、企業の多国籍化の促進などによって、社会の脱学歴化、もっと言えば、会社に依存しない生活設計を志向する「脱会社化」も今後進行していくと思います。
 ただ、未知なるものへの不安によってデメリットが強く意識される場合があります。
 不登校からホームスクーリングに移行した場合、本来学校に行くべきところが行けない状態にあると認識されるようです。そして苦渋の選択として、ホームスクーリングを選択しなければならなかったというような場合、ホームスクーリングの優れたところを発見するまでにいかないでしょうか。いじめなどによって学校に対する「恨み」のようなものが(特に親の側に)強い場合も、学校のストレスを家庭に持ち込んでしまうことになるでしょう。
 それとは全く別に、複雑な事情におかれる場合もあります。
 外務省の海外駐在や海外出勤型企業などのエグゼクティブが家族の事情で海外で生活した場合、言葉や文化の壁などから子どもたちに「事実上のホームスクーリング」で学齢期を過ごさせた場合です。やがて日本に帰国して、言葉や文化的バリアがなくなってホームスクーリングをあえて選択する必要がなくなった場合でも、親がホームスクーリングの良さがすでにわかった段階で、あえて問題の多い日本の学校に入れたくないという意識が生まれた場合、困難が感じられるでしょう。帰国して文化の壁がなくなった子どもたちには「学校集団」への憧れが強く、一方で親の側には学校の問題意識が育っているという板挟み状態におかれるからです。

 それと、後に述べる「在籍」の課題とも共通しますが、不登校からホームスクーリングに移行したいと願った場合、学校側がどのように認識するのかが一方の問題です。
「出席日数が少ないと卒業できなくなる」と言われたりすることがあるかもしれません。義務教育体制を制度面でも国民に保障している現行法においては、学校が不登校を理由に生徒を卒業させないということは許されていないのです。「在籍」にメリットがありやなしやの議論も、同じ意味で、教師の理解度など場合によりますが、教育委員会とよくご相談された上、転校処置などで、できるだけ「籍」にこだわらなくてもいいように努力されることおすすめします。

 学校行かないことのメリットは、数え切れません。(学校に行かないことのデメリットや「ひきこもり」などの表現が強調されすぎていると思います。むしろ「ひきこもり」こそ、今の10代の殺伐とした心にとって積極的に必要なのだという意見のほうに私は賛成です)先にも述べましたように、ホームスクーリングそれ自体が、子どもの学習意欲を引き出すのだという見解は、アメリカではすでに常識になっているのです。
 学習そのものの選択内容を含めて、親と子どもが自分流に生活をアレンジできること。集団のストレスから精神的に解放されること。子どもがもともと持っているリアリティへの好奇心を解放できること。学校の点数中心の能力観から解放され、時間制限を気にせずに、むしろ「達成感」を尊重できること。数学力や語学力を、学習成果と誤認せすに済むこともその一つです。(数学ができると頭がいいとか、語学力を能力と判断しなくても済みます)メリットがまだありますが、このくらいにします。     
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Q5 教育をアメリカナイズすることに抵抗があります

A 
 日本でホームスクーリングを始める場合、米国からの情報を受けて啓発される場合が多いようです。しかし、諸外国でも同様なホームスクーリングの草の根運動がみられます。
  米国には、今でも様々な意見があるとはいえ40年以上にわたる実績に加え、社会全体がホームスクーリングを積極的に認知せざるをえなくなっています。ところが、12年前に日本人としてホームスクーリングを始める例が周囲に極めて稀だった頃、私たちにはアメリカ文化への陶酔の結果、教育までまねをしているのではないかという批判がありました。
 このご質問のスタンスそのものについて、いわゆる戦中の教育勅語体制からの戦後の解放と、自由な教育制度の確立そのものが、敗戦後大きくアメリカの影響なしにはなかったという点から問い直さなければなりません。
 米国が50年前に国民主権により、親の自然権である教育の補助的役割である学校教育を「自由な普通教育」の一環として道を開いてきましたが、日本の教育官僚たち(このなかには、非常に影響力のあったキリスト者が多く含まれる)はこの50数年間、意図してかしないでか、こと教育に関してはしぶとく戦前の「皇国体質」を温存させてきたのです。
 当初、都合のいい範囲で米国の戦後教育提案のかなりの部分を受け入れてきた一方で、たとえば、学校教育法には、憲法と矛盾した「国民学校令」をそのまま引き継いだような内容が残されました。
 ところが、制度そのものが硬直化し、子どもにとって息苦しくなっているのに、子どもの人権条約批准への道のりがきわめて困難であった経過を含めて、体質が変化しないのには、「米国にはこちらの肉を切らせて、我々は骨をとる」といった旧教育官僚人脈のしたたかさがありました。「ホームスクーリングは、アメリカナイズされている」という批判の背後には、このような隠され温存された「戦前の教育勅語的教育理念」があります。
 それに、日本で近代になって外国から導入されたのは学校制度のほうであり、それ以前は、子どもが自宅で家庭産業を手伝いながら育ったということが見過ごされてはなりません。かつての、「寺子屋」をホームスクーリングに置き換えたなら、近代の学校よりもむしろこちらのほうが日本ではオリジナリティがある教育方法なのです。
 詳しくは、やがて紹介したいと思いますが、いわゆる「大正自由主義教育」の気風のなかで、武者小路実篤門下の小説家によって、内村鑑三などの影響下、キリスト教を理念としたホームスクーリングがおこなわれていたという記録があります。(児童歴史家・上笙一郎氏の研究) 
 私はキリスト者で、ホームスクールのことを含め、米国人宣教師から学び、特に神学などの専門分野はほとんど英米書以外は読みませんが、ホームスクーリングに関しては、学校以前の「ありのまま」が回復されるという意味では、たとえばさきほども述べましたように、「寺子屋制度」が日本にはあったのです。この考え方は「ホームスクーリング」にも適用できます。寺子屋は「教会小屋」として再出発されるべきでしょう。
 もともと子どもが本来成長すべき、当然の場におくという意味であり、新しもの好きだからとかアメリカナイズ(最近マクドナルド化という言葉があると聴きました)された結果だという指摘もあたっていません。ただ、ホームスクーリングのようにすぐれた教育方法を受容する社会的気風は、米国のほうが日本よりはるかに存在しています。「米国の強さ」という表現には、アメリカ中心主義(パックス・アメリカーナ)の臭みを感じ抵抗がある一方で、「ホームスクーリングは、米国の強さの源泉の一つである」という意見は賛成です。ホームスクーリングは、その国を根底から必ず強くします。
 ただし、特定のホームスクーリング運動のなかには、米国至上主義(覇権主義)やキリスト教を含めた特定の宗教的教義による政治イデオロギーの宣伝媒介とされている場合があることは否定できません。その動きと、ホームスクール運動そのものとは区別されるべきです。
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Q6 ホームスクーリングは「合法的」なのでしょうか。


 米国の場合、すべての州で合法化されました。州によって条件が課せられるなどの例外はありますが、ホームスクールで育った子ども達の「活躍」などによって、受け入れるのに難色を示す動きはほとんど鳴りをひそめています。
 日本では、合法とも非合法とも言えない「法の圏外」の状態です。ゆえに、登録制度も認可制度もありません。→詳しくは、【ホームスクーリングと法律】を参照のこと。
 ホームスクーリングは違法行為ではありませんので、親には行政に対し、はっきりと学校教育を選択せず家庭で普通教育の責任を果たすという態度を説明する責任があると思います。もし、誤解されて《違法》とみなされるとしたら、親が十分に説明責任を果たしていないとお考えください。ネットワークや弁護士さんの働きも場合によっては、有力な手助けを与えてくれますが、最終的には親の責任範囲なのですから。
 行政に対しても地域に対しても、態度は明解でなければなりません。
 今のところ、教育官僚側からするとホームスクーリングは問題にならないくらいの少数なので、静観しているのか、それとも無視しているかという状態ですが、これが、人口の1パーセントを越えるころになると、おそらく法制化の動きが出るだろうと思います。あきらかにこちらが優利な裁判ですから、負けるのが見えているような裁判のような方法をあえてとらないとは思います。一方で、裁判になった方が、ホームスクーリングにとって優利な結果を引き出せるのではないかという見解もないでもありません。
 さしあたり日本の場合、いい意味でも悪い意味でも、ホームスクーラーが一種の平和主義的共存の知恵を発揮するだろうと思われます。「いい意味で」とは、裁判などのために無駄なエネルギー費用を奪われて子どもとの時間を犠牲にしなくてもいいということ。「悪い意味で」とは、ホームスクーラーが行政から何らかの妥協案を受け容れたことになり、行政の介入が子どもに見えない「いじめ」や「圧力」となることです。ネットワークのなかで情報交換や、諸外国の例なども参考にし、知恵を出し合って、いかなければないません。
 具体的には今後、児童相談所などが「幼児虐待」の定義を、「ひきこもり状態の解消」との名目で不登校を含めたすべての在宅の子どもたちにまで広げるの動きを見せていますので、ホームスクーリングと児童虐待の区別を名目に、法制定の声が上がるのは、両者の思惑が絡みながらも、近い将来必至でしょう。
 法制化を歓迎するホームスクーラーは多いことでしょう。さまざまな分野で社会的認知を得ためのという努力も必要かもしれません。しかし、社会的認知にはいいことばかりではないのです。むしろ、「毒」もあります。教育官僚の「管理と指導」のもとにホームスクーラーがおかれる名目を与えてしまうとことになるからです。(話題は逸れますが、最近の「虐待報道」は児童虐待という社会現象そのものに光をあてているというよりも、たとえば、教護院が定員割れ問題の解決を、不登校児の入所で埋めようとした最近の事例にも似て、児童相談所の「業務拡大」に最大のねらいがあるのではないかと疑っています。当然のことながら、児童虐待の犯罪性は明るみに出されなければなりません。)

 学校関係者と、「良い関係」を保つことには、思慮が必要です。
 学校関係者と現在そのような「蜜月」にあるホームスクーラーは、「学校といい関係を保ってきたホームスクーラー」の事例として、将来自分たちの例が教育官僚による恐喝(おどし)の材料とされるかもしれないのだということを自覚していただきたいのです。学校とのかかわりが希薄なタイプの自由なホームスクーラーや、特にアンスクーリングのホームスクーラーに対して、期せずして大きな負荷を背負わせるようなことになるかもしれないのです。
 法律ができる場合、「公的に認定されたフリースクールなどのとの提携関係にあるホームスクールだけに特権をあたえる」とか、「ホームスクーリングには、親の教員資格を条件に公的に認める」とか、「子どもには、学校在籍を条件とする」などの予想されますが、このような動きには是非ご注意いただきたいと思います。
 法律の制定が、親と子の権利を守るルールではなく、「上からの規制」というねらいが込められて、ホームスクーリングの自由な環境が奪われるかもしれません。
 そのような「合法化」には反対しなければなりません。

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Q7 ホームスクーリングのネットワークなどは、ありますか。(2008/03/30 Renewal)


 
 私のホームページ内の、リンクをご参考にしていただければ、幸いです。
 関東地区のホームスクーラーが対象ですが、2000年11月25日「THNひなたぼっこ」が誕生しました。主にホームスクーラー同志が互いに支え合うための、通信の発行、子どものためのミニ学習会、親の学習会・講演会などを企画、MLも始めました。
        →  

 インターネット上で、HOME SCHOOLINGを詮索していただくと、主に米国では、すでにたくさんのネットワークが存在していることを知っていただけると思います。
 2000年5月に「聖書配布協力会(俗にキリスト看板で知られるグループ。株式会社グレープシティーの外郭関連団体)。」のもと、“チャーチ&ホームスクーリング支援”を標榜して「チア・にっぽん」が設立されました。様々な思想が乱立する米国と同じように、ホームスクーリング支援組織の内面的な支柱(哲学)がどこにあるかについてホームスクーラーの側に判別力が求められる時代が到来したということでしょう。米国においても、ホームスクーリングは、一部のカルト系組織から広告塔として懐柔(かいじゅう)された時期があったにせよ、今やホームスクーリング運動の核となっているのは聖書信仰に立つ保守的キリスト者です
      「チア・にっぽん」の詳しくはここ→
 
   これとは別に、「日本ホームスクール支援協会」も設立されました。これまで「日陰者」扱いだったホームスクーリングが世に知らされていくための情報発信をしていただけるのは、非常にありがたいことです。企業ベースであれ、文部科学省がらみの官僚ベースでホームスクール情報が流されることについてともかくも歓迎するという一方で、日本においても、個々のホームスクーラーが絶えず意識的に「声」を発信しつづける努力が必要なことを知らせてくれたのではないでしょうか。(ホームスクーラーむけに、レザーディスク教材を販売している企業はすでに1995年あたりから、日本でも存在しています。教材そのものの評価とは別に、産業フィールドに「ホームスクール」が登場することそれ自体は不自然ではありません。当然のことです。質のいい「ホームスクール産業」のサービスが増えることで選択肢が増えることは、ホームスクーラーにとってメリットが多いのではないでしょうか)

 エリート指導型ではなく、英国の「アザワイズ=Othewise」や、米国の「GWS-GROWING WITHOUT SCHOOL」などのように、純粋にホームスクーラーのみによって発案/維持/管理されている井戸端会議的な民間のネットワークが、日本でも各地で育つことが期待されます。

 (これらのネットワークは項目を改めて、まとめて紹介させていただきたいと思います)
 ホームスクーリングは、インターネットの普及から最も恩恵をうけた草の根運動の一つでもありますので、日本でもネットワーク化の要請は高いと思いますが、今のところ、インターネットでホームページをリンクさせることから始めて、電子メールや「ネット会議」などが育てられ、「気が付いたら、あちらこちらでホームスクーリングが始まっていた」というのが望ましいのではないでしょうか。 
 もともと、ホームスクーリング運動は、国家の教育統制の外にある運動であり、それに、いわゆるボスが陣頭指揮に立って闘うとか、「寄らば大樹の陰」みたいな発想はなじみません。それでも、情報交換のためのネットワークは必要と思います。
 きつい言い方かもしれませんが、ホームスクーラーとしては、「大きな組織ができたのだから安心」など、「寄らば大樹の陰」のような発想を転換し、個々のホームスクーラーが地域のなかで相互にゆるやかにかかわりながら、地域の特色を生かしつつ、草の根運動としてのネットワークを構築していけるようになるのが望ましいのです。それゆえ、ホームスクーラーやホームスクールネットへの公的支援などの「誘い水」に誘惑されて、公的資金に活動源を求めることは、結果として労働意欲を削ぎ落としていったことで悪名高いあの「商品券発行」の愚策にも似て、徐々にではありますが、確実にホームスクーリングの基盤そのものを弱体化させることに繋がります。ホームスクーラーへの教育官僚や企業エグゼクティブからの”親切な”申し出には、ご注意ください。よほどのことがないかぎりそれは「罠」です
 そのためには、米国のように、キリスト教会が率先してホームスクーリングを支援し実践して、学校信仰を棄てなければなりません。この点は人間的な言い方をしますが、身内のことゆえ、悲しいことながらこのような組織依存体質は日本のキリスト教会に偏在していて、すぐには変化しそうにありません。
 フリースクール主導でおこなわれる通信教育型在宅学習(東京シューレ主宰のホームシューレなど)も広い意味で、ホームスクーリングと呼ばれて良いのではないかと思いますが、ホームスクーリングには、セルフコントロールの自覚が絶対に必要で、他の教育機関(組織)からの支援は、今のところむしろ「あればいいが、なくてもやっていける」くらいにお考えいただいたらいかがでしょうか。
 チャーチスクールについては、江戸時代の「寺小屋」と同じような発想で、教会員の子どもでなくても受け容れるような寛容さをもつて部分的に一般にも開かれているなら、ホームスクーリングにとって、有力な「盾」になります。
チャーチスクールについては考えるところを別に述べました。未完成ですが、参考までに。チャーチスクール
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Q8  ホームスクーリングは、裕福な家でなければ無理なのではありませんか。(2002/9/29改訂) 


 貧乏の方がいい、とは《あえて》もうしませんが。(笑)
 ホームスクーリングだからということで、始めから子どものために教材を買うとか体験させるとか教育費をそそぎ込むことだけに傾くことには賛成できません。
 あるいは、子どものわがままを通させているだけなのに、それをホームスクーリングをしているかのように勘違いしないようにしたいものです。教材を揃えることなどによって、教育にお金をそそぎ込むことが、教育活動それ自体であるという幻想から解放されたいのです。
 我が家では、最近「教育費」と呼ばれる出費が、ほとんどありません。
 本は、親も子どもも、図書館のリクエストを頻繁に使います。
 教育は教室でなされなければならないという思いこみから解放されるばかりでなく、「お金をかけると良い教育ができる」という幻想からも解放されたいものです。
 たとえば、外食は、何でも用意してくれますが、そのサービスにみあった費用がかかります。しかし、自宅の「手作り料理」はそうはいきません。買い出し、保存、調理、テーブルセット、雰囲気づくり、あとかたづけ、皿洗いまで、調達から片づけまで自前でしなければならない分、外食に比べて費用はかからないのです。このことは、ホームスクーリングにおいても同様のことがいえます。
 子どもだけのために買い与えるということは、あまりしませんでした。(実家に帰った時、祖母や祖父が買い与える「おもちゃ」くらいです)
 テレビゲームでさえ、親子で鑑賞して楽しむための道具だと考えました。広辞苑や医学事典、聖書はもちろんのこと、聖書物語や科学事典など、高価でも質の高いものを購入し、数年にわたり親子で共有しています。これまでのところ、教材とは、子どもがそれによって学ぶためというよりも、形式上はたとえそうでも、むしろ親が学ぶための素材であるというのが実体でした。
 親が学んで、教え方を工夫しなければ、子どもを納得させることはできません。 
 必要最小限の教材に留めることで、無駄な出費を控えられるばかりでなく、親は柔軟な考え方を身につけられるのではないかと思われます。子どもたちは遊びばかりではなく、学習手段、食品情報などすべてにおいて、親の意見を有力な情報源として最優先して取り入れるようになっています。それから、自分専用の「机」も用意することはしましたが、結局すぐに質問に答えてくれる“便利な家族”がいる「食卓」で読書などをする時間のほうが圧倒的に多いようです。
 学校生活の場合、体育用品や、学校指定の学習参考書ばかりではなく、学校入学時の入学金、授業料、制服、運動用品、袋物、交通費、そして事実上文部省もしぶしぶ認めたように「塾への出費」なしにはその情報処理(勉強)スピードについていけないでしょう。 ホームスクーリングにおいては、そのすべてがほとんど必要ありません。インターネットで必要な情報はほとんど手に入れられますし、公立図書館を利用しますので、本はもちろん、場所によってはビデオやCDも無料で貸し出してくれます。公立の無料施設は平日すいているほか、たくさんの「割引」があります。
 我が家では週に一度、子ども達と卓球とバトミントンの練習に某市の体育館に行きますが、子どもが40円、大人100円で用具まで貸してくれて、そのうえほとんど2時間半「吉井家ご一行様・貸し切り状態」です。また、100円ショップで買える程度の素材や、材木屋さんでいただいてきた端切れの素材、スーパーでもらった段ボール箱などは、工作のために大いに利用価値がありました。子どもの想像力の豊かさには本当に驚かされます。高価な学習道具や玩具も本当に必要なものはわずかです。もっとも実家で買ってもらった「レゴ・ブロック」だけは自分たちの小遣いで少しづつ買いたしましたが、今でも大切にして遊んでいるようです。
 蛇足かもしれませんが、お金にまつわる話題を一つ。
 ドーナツ化減少による東京都内の学校の統廃合状況などを鑑みると、公立学校の教育官僚サイドは子ども人口の減少に非常に頭を悩ませておられるように思います。学校そのものや教室数を維持して職場を確保するためには、生徒の絶対数が必要で、学校サイドが不登校対策に熱心なのは、学校への補助金枠が「登録人数名簿」によって決められているからなのではないでしょうか。学校の生徒一人あたり年間百万円くらいの税金が国庫から支出されているとのことですから、不登校児を無理にでも再登校させようとする動機もおそらくそのあたりにあるでしょう。 
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Q9 教材についてはどのよう考えたらいいですか。
A 
 私どもの経験からお話し致します。 
 市販されている現行の教材のなかで、在宅学習を前提としたものはごくまれにあります。しかし、多くはいわゆる「学習指導要領」に準じた内容で難が多く、点数主義だったり、やはり選ぶのに困難がありました。でも、遠山啓(ひらく)氏による水道方式など算数/数学の学習の一部に利用できそうな教材はあり、利用したこともあります。今後、ホームスクーラーのための有用な書物が増えてくることでしょう。
 「数学力向上」にシフトしてしまうのは、科学の分野で先進国に肩を並べていたいという国策を反映した学習指導要領の枠組みから、暗黙に要求されているのだと思います。苦役のような算数や数学を「将来のため」とかなんとかいって、生活の中心に据えることはしませんでした。
 「九九の歌」もテープなど購入してみたものの、覚えたのは、「3人で合唱するとおもしろい」ということで、親がもくろんだ九九のほうではありませんでしたね。
 最初、米国からたくさんの教科書のようなものや、ドリルを購入して実行してみたものの、子どもたちの知的好奇心が「親の準備」よりも後になることは稀で、結局親の制作する教案にはみむきもしないで、図書館で自分で本を捜し、読みはじめてしまいました。
 あと、特に「禁書(親が子どもに読んではいけない本を指定して読ませないこと)」のようなものはありません。親が健全な批評的視点に裏打ちされた読書習慣を持っているなら、子どもは抵抗なく読書習慣を身に付けるのです。親が読書嫌いなホームスクーラーもあるでしょうか?基本的にはありえないでしょうね。かえって、本のすばらしさを、親が子どもから教えられることが多いからです。
 
 どんな食材が安全なのか、どんな食材が危険なのか、買う人の安全を優先している企業はどこか、買う人の安全や健康面での被害を無視して営利中心なのはどんな企業なのかについては、親の側で結果として説明することになりました。
 読み書きソロバン、それに「食材」についての知識が大切な時代になっているのだと思います。
  (具体的な企業名は本筋でないので公表を控えます。もし、ホームスクーラーの方で食品や健康住宅などに興味のある方がいらしたら、問題のある会社についてばかりでなく、積極的にお薦めできる食品会社やお店がいくつかあります。メールで個人的にお知らせできると思います。参考まで。)
 私どもは、聖書を例外としておよそ教材らしい教材を使ったことはなく、「もしわからないことがあったら辞書/百科事典、もしくは図書館で調べるか、インターネット」ということで、セオリーは親も子どもも同じです。
  しかし、今後米国の参考書が翻訳されたり、日本人によって新たに書き下ろされたりするようになる時代になると、かつてのような「浜辺に貝殻を捜す」ような状況ではなくなるでしょう。
 今でも、親も子も、同じ「広辞苑」を使っています。
 あと、テレ朝系のニュースステーションのニュース解説の分かり易さは群をぬいていて、子どもたちに時事問題を説明する時には欠かせなくなりました。あえて「子どもむけでない」ところがいいと思います。ワープロやホームページ作成を含めて、パソコン操作と英語学習は基本教養と思いますが、絶対、無理強いはしません。知識の多くは、遊びと仕事からと思いますので、親子で楽しめるスポーツでも「習熟段階」は必ず要求されます。もしアルバイトなどに道が開かれたら、多くのことが身に付くでしょう。車の運転や各種国家試験については言うをまちません。
 とにかく、子どものために有効な教材な何かと捜すよりも、出来不出来は別として、親がきっちりと子どもに分かり易く説明するための努力(学習態度)を示すことが何よりの教材です。今後、ホームスクーラーが参考にできる図書は確実に増えていくと思いますが、親子が主体的に選択する意志をもたなければなりません。くれぐれも、ホームスクーラーの需要に即していると言われて買ったとかで、レザーディスクなど高価な教材を買い、子どもたちが興味を持たなまま、死蔵するなどというようなことがありませんように。親の側に選択が任せられていることが重要なことなのでしょう。
 「チア・にっぽん」は、キリスト者ホームスクーラー向けの教科書の出版計画をもっていて、小学低学年むけに数冊出版されています。
 私も翻訳チームの一人に参加させていただいています。今、理科の教師用テキストを翻訳させていただいているのですが、いわゆる「現象面の記述」に終始した現行の日本の学校教科書に比べても、学習者が自然現象の「原理」に着目して繰り返しを学べるようにできているという面で、よりすぐれた内容であると思います。ただし、「挿し絵がアメリカそのままで、どこぞの異端グループのように見えるので、せめて日本人むけに挿し絵やイラストを工夫してほしい」という声があります。これは課題です。それに、子どもの文化においては、日本の「遊具」や「伝統技術」には、すぐれたものが多数あります。これから、日本人によって書き下ろされたホームスクーラーのための「学習参考書」登場が待たれるでしょう。日本の歴史については、歴した史教科書問題で話題になりましたように、非常に多くの課題があります。ボブジョンズ大学出版部のクリスチャンであるリッチ・コラーさんとお会いした際に「是非、歴史教科書が生まれるように祈ってください」とお伝えしました。
 今後ホームスクーリングにとっては、企業が内容の質の高さを巡って競争してくれることで、選択肢が増えるということから、これから出版社がたくさん参入してくれるようになることが望ましいでしょう。
 これからの時代のホームスクーラーは、この意味からも、実に恵まれています。
 12年前には、子どもたちに読ませようと思っても、なにせ英文のものしかなかったのですから。
 
 学習の基準化について、米国でのニュース・トピックが参考になります。
 米国クリントン元大統領は、2000年ホームスクーラーの基礎学力を確保するためホームスクールの「組織化」を提案しました。しかしそれに対し、ホームスクール法律擁護協会の創始者であるマイケル・ファーリス氏は、「子どもをホームスクーリングで育てるために、一つの方法しかないということはありません。多様なアプローチを一つの枠に当てはめようとしているところに今日の学校の困難があるのです。ホームスクーリングの有効さは、教育をそれぞれの子どもの身の丈に自由自在にあわせることができるというところにあります。」と言っています。
 
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Q10  親が、学校のように多くの科目を教えるのは無理なのでは?
  
 
 古来「子どもは遊んで育つ」と言われてきました。
 親が子どもへの監督責任を放棄してもいいという意味ではありません。むしろ、その「心」に学びたいものです。
 無理に教科学習をカリキュラム化しようとしないで、子どものペースにあわせてゆっくり始めてはいかがでしょうか。
 学校のペースに遅れないようにという意識が先行して、学校の学齢相応の学習カリキュラムをホームスクーリングで追いかけるということは、いい結果をもたらしません。そのようなスタイルが有効な場合もあると承知しつつも、学校との対抗意識を子どもに押しつける結果になるだろうと思われるからです。
 特に親がホームスクーリングについての確信がないまま、不登校状態にあって、子どもが心に傷を受けているケースではなおさらのことです。スクーリングアットホームによって、子どもの「情報収集力」「読解力」「分析力」「表現力」がどのような様子なのかに配慮することは、対外的な説明のためにある程度必要かもしれませんが、急がずに生活を楽しむ範囲から始められてはいかがでしょうか。
 学校のように情報の記憶力速度と記憶再生力開発など、力点をおく必要はないと思います。
  「アンスクーリング」という考え方には、子どもが本来持っている事物への興味や探求心によりそうことが、結果としてバランスがとれてくるという確信があります。
 子どもは、教室の教科学習よりも、遊びのなかで、より多くのことを学ぶのです。
   子どもの遊びを一緒に楽しんでみてください。テレビゲーム一つとりあげても、「情報収集力」「読解力」「分析力」「表現力」どれも、大人より優れていると思うに違いありません。

 教科学習は、子どもに意欲が湧いてから始めて決して遅くはないと思います。数学など理数系の能力開発を「至上命令」とする必要もないでしょう。好きなだけ読書のできる環境と、インターネットのできるパソコンがあればベターですが、重要なことは、(上にも書きましたが)親が、自分の自由時間を今までよりある程度減らし、子どもとの共有時間を多くする覚悟が必要なことでしょう。だからといって親が子どもを管理する時間を増やすという意味ではありませんし、無理に子どもの相手をするというのでもありません。「子どものために」などとあえて構えずに、スポーツや映画鑑賞など親も子も楽しくなれるようなことから始めたらいかがでしょうか。
 子どもはもともと好奇心が強く、勉強(学習)が好きなのです。学校がそれを奪ってきただけなのではないかなと思うことが多いのです。
 私は学生時代に、学問体系が「理系」と「文系」に分けられたのがいつごろなのだろうかと研究したことがあります。その詳細は述べませんが、学問区分さえ、恣意的な歴史があったとすれば、学問の総合とか学際などと肩肘をはらず、ホームスクーリングのすべてが総合的知識体系の入口になりえるのです。
 それと、ヤング・ファミリーですべてを白紙から準備できるとか、家族全員が心から合意しているなどのある条件下で可能なのですが、(テレビゲームの前例と矛盾するようですが)幼児期・幼年期の子どもの生活環境に関しては、特に《テレビがない環境》の方が絶対にいいと思います。
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Q11  親だけでは社会性が育たないのではありませんか

 
 社会性をどのように考えるのかがポイントのようです。
 ホームスクールの視点からするなら、むしろ同世代に依存する学校生活が、健全な社会性を疎外しているとみなされます。
 米国では、子どもの社会性が学校で損なわれないために、あえてホームスクールを選択するケースも稀ではない(R・モア氏)といわれています。
 それと、子どもは自分より社会性を身につけている親との信頼関係が確立していることによって、他の大人ともコミニケーションをとれるようになるのではないでしょうか。
 同世代だけで構成される「教室」に子どもの成長を事実上無条件でゆだねることや、教室で教師ただ一人から複数の子どもたちが影響を受けるなど、むしろ学校が「不自然でゆがんだ社会性を産む」と言われるのです。「受験競争に勝ち抜いてきたエリート」として認証されただけの教師ライセンスに、子どもの心と体の全生活を無条件委任しているという現実に、どんなにかリスクが伴うことでしょう。むしろ、教師だけでは、社会性が育たないというほうが真実に近いのです。極端で誤解されるかもしれないということを承知であえてこのように言った人がいます。「親が教育を断念した気の毒な子どもたちが学校に行くべきです。子どもの教育に熱心で、しっかり育てようとしている親は、学校ではなくホームスクーリングでそだてるべきです
 この意見は、学校を一面的にしか言っていないなどの問題点を含みますが、それなりに聴くべきです。この意味で、学校は「公共の福祉」として存続するべきでしょう。
 学校での点数競争を、営業成績など社会の競争原理と比べることには、両者の言葉の意味が違い過ぎて、類比自体がなりたちません。後者は、顧客のニーズに目標がしぼられていますが、前者は自己中心的であり、せいぜい「親のプライドを満足させる」ことに収斂されるだけです。
 家庭で親子や地域との結びつきを最優先してこそ、社会性が育てられるのではないでしょうか。お年寄りから学び、年下の子ども達との交流を学ぶという異世代交流は、地域のボランティア活動や塾、そしてフリースクールやチャーチスクールを含めた「学校の外」に多くあります。そして、本来ならば「母なる教会」と呼ばれるキリスト教会にも地域コミニティはあるはずです。残念なことに、米国とは違い、日本では皮肉なことにかえってキリスト教会において学校信仰が強く、ホームスクーリングを理解してくれる教会は非常に少ないと思います。
  フリースクールやチャーチスクールにさえ、ホームスクーリングを事実上蔑んで「ホームスクーリングは、何であれ集団の中のスクーリングに至るための通過点にすぎない」みなしてしまう傾向があります。

 けれども、私はとても楽観的です。
 これからは、ホームスクーリングを受け容れる教会は必ず増えると確信しています。
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Q12 どんな家庭でもホームスクール/ホームスクーリングが有効ですか
  
 どんな家庭でもホームスクーリングの道が開けていますが、どんな家庭でも有効とはいえません。
 簡単にホームスクーリングを始めないほうがいいと思います。
 次のような場合、お勧めできません。

 (1)学校の集団文化の強い影響下にあって、親の社会性が極端に未熟であったり、オウム真理教などのカルト宗教の影響により、何らかの理由で、事実上親としての責任を放棄した(させられている)状態におかれている場合。あるいは暴力と教育の区別がつかない学校教育環境の影響下にあって、児童虐待傾向にある親は、ホームスクーリングができる状況下にはないと判断なさるほうがいいと思います。教育官僚が、児童相談所の機能拡張をねらって「いいホームスクーリングと悪いホームスクーリング」を仕切りたがるという問題とは別に、ある状況下では子どもを学校に送ったほうがいい場合があることは、否定できないからです。

 (2)夫婦がホームスクーリングに向けて共通の理解にない場合。
 シングルの場合にはこの問題がないのですが、夫婦の場合。夫婦がホームスクーリングについて、同じ認識に立てるまで始めないほうが無難です。夫婦のいさかいは子どもの心に傷をあたえます。それでも不登校などで子どもが学校を拒否しているような場合は、ひとまず民間の非営利のフリースクールなどと連絡をとって「不登校情報」から始められることをお勧めします。シングルの場合は、その必要はないわけですが、 その場合は、身近なところにできれば親族のレベルで、良き理解者が必要でしょう。
 
 (3)それゆえに、たとえば、東大受験など「英才教育」を目的に学校をやめさせて自宅学習をさせるというケースを無理にホームスクーリングと呼ばないほうがいいと思います。ホームスクーリングは、理想的かもしれませんが、唯一の絶対的教育方法ではありません。また、それと反対の意味でいわゆる「学習障害児対策」もホームスクーリングと呼ばないほうがいいと思います。このどちらもこれからホームスクーリングを始めようとされるファミリーに、間違ったイメージを焼き付けられて、外部から不本意な誤解を招く種とならないためです。家で育つことが子どもにとって最善であるとの親の認識が重要なのではないでしょうか。点数で人を評価する能力観や偏差値中心の学習達成観など、目標設定を学校教育においたまま、ホームスクーリングを始めないほうがいいと思います。
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Q13 能力の評価なしに済ませることには不安があります
A 
 内申書のことなどありますが、まず試験に限っておはなしさせてください。
 10代の特に前半の子どもが能力判定のための試験を受けることには、デメリットの方が多いのです。たとば、教師によって提供される情報の処理と再生と、提示された公式(定式)の暗記とその応用力だけで判定されるという試験システムには、年齢別能力達成目標など、子どもを一定の枠組みや型に押し込めようとする意図が働いています。
 たとえば、子どもが真剣に興味を持っている事柄を無視し、けんもほろろに「今はそんなくだらないことに興味を持つよりも、九九を覚えることが第一」と言って、子どもにとって味気も興味もない九九を無理に反復練習させるとすれば、せっかく芽生えた才能の成長を阻むことになるとは思いませんか。
 私どもは、英才教育のような特殊教育には関心がありませんでした。しかし、子どもの潜在能力に強い関心があったことも事実です。
 学校では思考能力が疎外されるとも思いました。
 (「特に初等中等教育においては、自ら考えることは事実上禁止されています。教師の言うことを記憶し、忠実に実行できることが評価されるからです。自発的であってはいけません。自分の意志で動き回ると「多動児」とみなされます。一人で考えることが好きで、あまり友人と歓談しないでいると「アスペルガー症候群」を疑われます。)
 子どもは自分がほめられていることに敏感です。たとえ試験の結果が良くても悪くても、副産物として生み出される優越感や、その裏腹である劣等感がもたらす精神的副作用をもっと警戒すべきなのです。(森毅著「学校とテスト」朝日新聞社 1977がテスト観を再考するための参考になります)

 言うまでもなく、自動車の運転免許など特定の業種や職種への適性の判定については、試験は避けられないし、むしろ必要でしょう。しかし、それは本人のなかに分析力がついて、目標がはっきり見えてくる年代になってからで決して遅くないでしょう。特に成長期にある幼児から少年期にかけては、試験制度の外におかれるべきなのではないかと思います。この考え方は、すでに日本でもシュタイナー教育の影響下にある教育研究機関や私立学校で、早くから取り入れられ実践されています。
 以上のことから、私は大学入試制度廃止論に、心から賛成するものの一人です。進級/卒業試験を厳しくすればいいのです。ただし、受験産業界や、大学入試関連企業にいわゆる「天下り族」が張り付いていて、大学試験制度廃止を阻んでいるいるという問題点が以前から指摘されいます。いつまで「地獄」は続くのでしょうか。
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Q14「アンスクーリング」と「ホームスクーリング」はどう違いますか
 
 ホームスクーリングにおいて、あえて学校のカリキュラムや達成目標を取り入れず、子どもたちの関心事に任せて一種気ままな生活スタイルをとるアンスクーリング(UNSCHOOLING)と呼ばれる場合があります。アンスクーリングが親の責任放棄と同義語のいわゆる「ほったらかし」と決定的に違うことは、親が教育について十分に学び熟慮した上で、子どもの成長過程で、教科学習をあえて絶対的必須条件と考えないことです。
 吉井家のホームスクーリングはこれに近いのですが、厳密には意図的に聖書やカテキズムを教えたり、聖句暗唱などはさせていますので、アンスクーリングとは呼べないかもしれません。
 ホームスクーリングのなかには、アンスクーリングが明確に位置づけられていなければなりません。
 けれども、米国のようにホームスクーリングの認識が多様化していない日本の現状では、混乱を招くことになるかもしれないということと、行政にたいして、「ホームスクーリングなら認可して、アンスクーリングは認可しない」などといわせる根拠を与えるのではないかなどの危惧はいまだに消えません。
 ホームスクールの形態はもともと多様であり、学校のように学習内容(カリキュラム)を細かく配慮したり、フリースクールや学校などと連携したり、あるいは学習の概念そのものを問うて、教科学習よりも、子どもの自主性や学習意欲にシフトするアンスクールと呼ばれる形態も含まれます。
 けれども、最初は学校と競争するとか、学校に対して説明する必要から、「スクーリング」に熱を上げていた家庭が、疲れたり、燃え尽きたりした後で、アンスクールの考え方に気がついて、それ以降アンスクールが定着したというおはなしは少なくありません。アンスクーリングだけが理想というものおかしいのですが、一方で、「学校のように勉強させているからいいホームスクーリングである」とはお考えになりませんように。様々なファミリーの事情に合った楽しいプログラムを工夫されるのをお勧めします。最初から「カリキュラム」などと肩に力を入れずに、親子の交流や楽しみを中心に始めてください。
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Q15 近所の人々や親戚とのいつきあいが心配です。


 非常に重要な質問です。
 世間体を気にしていては、ホームスクーリングを始めることはできません。
 これは日本でホームスクーリングを始める時の、最も大きな障壁の一つでしょう。
 吉井家では、引っ越しと同時にご近所への挨拶といっしょにホームスクーリングのことをお伝えして違和感を持たれないように配慮しました。地域社会でホームスクーリングを始めるにはそれなりの覚悟と、常識の範囲の最小限の地域への配慮は必要だと思います。ホームスクーリングは始めから理解されないものだと決めつけずに、そのすばらしさをわかっていただくための配慮も必要ではないでしょうか。

 ただし、学校や行政からの許可やご近所や親戚など周囲の理解を取り付けてからホームスクーリングを始めようとお考えなら、無理をしてすぐに始めないほうが懸命です。
 ホームスクーリングを推進している地域や教会のある場所に、転地(引っ越し)されるのが可能ならそれも(最善とはいえませんが)、いいかもしれません。
 しかしもしあなたが、自分の子どものことよりも世間体や面子(メンツ)を大切にしたいとお考えならば、ホームスクーリングはなさらないほうが無難です。
 親に子どもの教育についての自尊心が乏しく、世間からの非難を覚悟してでも子どもを守るという意識がない場合も同じです。それでも、子どもの側が不登校状態などで学校への道が閉ざされているとお考えならば、家庭教師を雇うとかフリースクールに行かせるとか、ホームスクーリングとは別の手段を選択されることをおすすめします。
 日本語の純粋な意味で、ホームスクーリングの家は、学校信仰に汚染された世間の目に曝される「覚悟」が親側に必要です。それなしでのホームスクーリングは始めないほうがむしろ無難です。
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Q16 フリースクールや塾についてはどう考えますか。


 消極的な言い方をすると、まわりから文句をいわれないようにするために、フリースクールや家庭教師派遣の支援を受けることで精神面での負担を軽くするのは一案と思います。積極的には、家族以外に信頼できる他人が相談相手として身近にいることは大いに心強いと思います。日本では、不登校の受け皿として、ホームスクーリングに関心を持つ方も多く、情報を交換する関係を保ちたいと思います。

 でも、雨後の竹の子のように、どの塾でもサポート校でも「ホームスクーリングをサポートします」などといい始める時代には、選ぶ側に様々な状況判断が求められます。
 フリースクールとの看板があっても、事実上サポート校のようになってしまうケースもまれではないのです。某フリースクールに通っていた子どもが何故か東大に合格し、それはそれでめでたく、いい話なのですが、その後日談が問題。「あのフリースクールに入れたら東大に入れられるかも…」と《夢よ!もう一度》式の篤い期待を抱くスポンサーの親御さんが増えて、譲歩を余儀なくされ、フリースクール本来の自由な雰囲気を放棄せざるを得なくなったという話があります。
 特に以下のようなケースには、ご注意ください。
 テレビで宣伝している某有名「家庭教師派遣業」から派遣された、某有名大学在籍の学生。「不登校をよく理解している」、「子どもと友達になってくれそうな気さくないい人」ということで、家庭教師の派遣を受けたが、実は不登校状態からのしあがって一流大学入学を果たした「たたき上げ」の猛者(もさ)で、現在不登校状態にある子どもを「自分のように努力しない、なまけもの」としか見ることができす、それで子どもがマンツーマンで、陰に陽に「おまえは怠け者のバカだ」みたいなことを言われ、逃げ場を失った親子が、結局心身ともにずたずたに傷ついたという実例は、本当に多いのです。
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Q17 学校が「ホームスクーリング」を、認めてくれるそうです。
 
 繰り返しになりますが、ホームスクーリング運動は反学校運動の一環でも、脱学校運動の一環でもありません。しかし、同時に、親が学校と提携(協力)したり、学校からの支援を前提に家庭の教育環境を整えようというものでもありません。
 「子どもの権利条約」が重要な試金石になります。
 ホームスクーリングを始めたファミリーにとって、もし学校の側がホームスクーリングを「認知」してくれるという事例に接したなら、時代は大きな変化の節目にあるのかもしれないと感じることでしょう。ただし、もし学校が現行の官僚的上意下達体質を180度方向変換し、たとえば「子どもの権利条約」の精神に本気でとりくんで、子ども中心の場として解放された結果としてホームスクールにも門戸を開いたならという条件つきのことであって、仮にでも、もしそうならもろ手をあげて歓迎したいところですが、現状はいかがなものでしょうね。
 学校制度は、「無駄な巨大公共事業」のように何らの変更も加えられないまま放置されているにもかかわらず、身内から登用したような学校カウンセラーなどの粗製濫造によって「雨漏り」を凌いでいる一方で、ひたすら「登校率」をあげたいだけなのではないでしょうか。「不登校率」の増加にはお手あげ状態なので、今度は「登校率」を解釈拡大して、学校に肯定的と見えるホームスクールを数にとりこもうとしているだけなのだとしたら、「認める」とは言っても、結果は、不登校の子どもたちの「在籍」に似て、差別感を植え付けられるようになるかもしれません。
 条件付きで、ホームスクーラーを「登校児」とみなすかもしれませんが、視点を変えると、ホームスクールに対して「子どもに与える学習目標の基準化」や「親の教師資格」などがおしつけられるかもしれないというあやうさを含みます。学校と地域の親御さんたちがホームスクーリングに、本当にひらかれる日が来るのでしょうか。
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Q18 学校と交渉して「籍」だけはおいてもらうのはどうでしょうか。
 
 上の質問に関連していますね。
 学校と「うまくやっていく」ことが、ホームスクーリングの絶対的指標なのではありません。
  子どものために何が最善であるのかを判断し、それ実現を実現するための責任の第一人者は、親です。
 ですから、学校がホームスクーラーを受け入れ、他人から干渉されない自由度が保たれ、しかも互いにとって平和的に共存できる関係が築かれているようなら、「在籍」には意味があると判断されてもいいのではないでしょうか。
 いい意味で、いいかげんにつきあっていける関係ならいいのですが、これまで、行政は学校教育法という「違憲状態のまま放置されている悪法」を盾に、原則として学校以外の教育手段を認めてこなかったので、在籍そのものにはリスクが伴います。それゆえに、これまでの事例から判断する限り「在籍を条件にホームスクーリングを受け容れる」という学校側の提案を手放しで喜べないのです。 
 つまり、校長が個人的に、柔軟な対応ができるくらいの新しい知識を備えておられる場合は別として、一般論としては今のところ登校状態だけが「正常」とされているのですから、ホームスクーリングさえ「登校していない特殊な状態の一つ」とみなされることは必至だからです。もちろん、校長が変われば、在籍の意味も変わるかもしれません。また、「何をさしてホームスクーリングと呼ぶのか」という名目で、官僚主義的な一方的定義づけがおこなわれないという保証はないのであり、その際にどのくらいホームスクーリングの独自性を受け入れらるのかに注視しなければなりません。官僚的気質は、「言葉の厳密な定義」を箕の隠れして、実は自己保全に一貫していることであり、発想の根本から「民」とか「当事者」は完全に消失してしまうというトリックもどきの現象は、教育行政の分野ばかりでなく、普遍的な原理のようなものだからです。
 親が絶対的に子どもを守るという視点に立っ時、在籍そのものは相対的課題ではないでしょうか。
 行政には「在籍」以外の選択肢は今のところありませんから、むしろ親の側での課題が大きいと思います。在籍を絶対的課題と受け止めるか、それともそうではないと受け止めるかいずれかを問われるでしょう。
 念のためですが、初等中等教育での「在籍」は、この日本でさえ社会人になるための絶対条件とはみなされなくなっています。選挙権や被選挙権を含めていわゆる在留異邦人も社会参加できる状況が加速的に進んでいることがその要因の一つであり、さらには、学制限を撤廃したいわゆる「大学解放(大学院設置校に限る)」が一両年のうちに実施されることが決まっています。
 
 吉井家の場合は、学校に籍をおかない道を選びました。
 でも、これからは、きっと行政/学校側に理解を求め、忍耐深くホームスクーリングを受け入れさせるように努める「在籍の道」と、一方で「在籍しない道」を選択できるようになると思います。
 ホームスクーリングの一環として、税金の運用で設立/維持されている学校設備や行事などを積極的に利用できるとすれば、それはそれにこしたことはないからです。
 入学式だけは登校し、あとは在宅学習として登録してもらいながら、学生証や卒業証書発行などのサービスを受けられるようになればけっこうなことかもしれませんが、今後ホームスクールをめぐりどのような柔軟な法律ができるか、学校現場がどのように様変わりするかなどの要素が絡み合い、現段階では予測できません。
 どのような場合でも、行政依存体質から脱却し、家庭本来の自律性と教育力を受け容れることがホームスクーリングの原点であることが忘れられてはならないでしょう。
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Q19 子どもが「学校に行きたい」と言い始めたとしても、
      それでもホームスクールをやめないのは、親のエゴでは?
A 確信をもってからホームスクーリングを始めてください。
 ホームスクーラーである子どもが、「学校にいきたい」と言い始める場合には、いくつかの要件が重なっているのではないかと思います。大きな理由としては、親の側がホームスクーリングへの自信をもてなくなってしまって、登校児の状態と在宅の自分の子をいつも比較しているような場合。
 ホームスクーリングが魅力と可能性に満ちていると思えなくなると、親にとっても子どもにとって外から見た学校は、とても、楽しそうに見えると思いますよ。
 子どもが在籍している場合は、今の学校では例外はあるとしても、ホームスクーラー出身の子どもたちも不登校の子どもと同じ様に、「集団訓練が未熟な児童」として、理不尽な扱いをされるのは必至です。
 何らかの理由、(たとえば夫婦の不仲も原因の一つかもしれませんし)、親が、学校への対抗意識からホームスクーリングを始めて、家庭を数々のカリキュラムや教材で埋め尽くし、子どもに学習を課したとすると、その親の「教育熱心」を子どもが受け止められなくなるかもしれませんね。
 それから、子どもの側に立つと、たとえば「学校へ行こう」など、テレビからはいつも「楽しい学校」のイメージがばらまかれていますので、一度は学校に行ってみたいと思うかもしれません。たくさん問題点がわかっているのに、それでも、子どもが「行きたい」ということに従いますか? ジャンク食品が健康に良くないとわかっていても、「食べたい」に任せる親がいるかもしれませんけれど。

 親が「ホームスクーリングは、子どもにとって最良の手段」であると確信したうえで、ホームスクーリングを始められることをお勧めします。
 ただ、子どもが10代後半になって、自分で状況を判断できる時点で、たとえば在来の高校や大学に移行して、ホームスクーリングをやめるということもありえます。
 ご質問はこのようなニュアンスでしたか?
 熱心なホームスクーラーのなかには、ホームスクーリングにしか教育の道を求めるべきでないという意見もあり、これはこれで賛成しかねます
 ホームスクーラーだって学校を、利用したい時もあるのです。
 ホームスクーリングの捉え方はもっと柔軟であっていいと思いますが、如何でしょうか。

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Q20 とりあえず登校させて、本人が「行きたくない」と言ってから、ホームスクーリングに移行したいと思います。

 「とりあえず登校」ですか?
 非常に重要な、でも十分にありえるケースですよね。
 親がホームスクーリングの良さを知っていながら、実際には子どもをいったん学校に入れて後、本人が「行きたくない」と言ってから、ホームスクーリングに移行してもいいとお考えの方もおられるかもしれませんが、率直に申し上げましょう。
 この考え方には、賛成できません。
 このような「“ おためし ”登校」には、親の自信のなさが反映しています。
 当事者である子どもが、必ず直接の被害者になりますよ。
 それは、子どもの立場からは、不登校の場合と同じように、学校に行っている子どもと自分をいつも比較していなければならないという、願ってもいない劣等感を植え付けられてしまうに等しいからです。
 私の近所に熱心な「学校信者」の友人がいて、「将来、自分は行きたかったのに親が行かせてもらえなかったなどと、子どもに恨みを植え付けることにならないか」とのご意見をいただきましたが、もし子どもがそのように言うとすれば、学校やこのような熱心な「学校信者」から「罠」を仕掛けられた結果なのです。
 それでも、学校に通わせるよりは、ホームスクーリングという「社会的認知」を得つつある選択肢があること自体が親にとって救いなのかもしれません。
 最初からホームスクーリングを選ぶことが、最善の道です。
 どうしても「体験入学」にこだわるなら、将来途中でホームスクーリングに移行した場合、子どもに植え付けられるであろう「心の傷」とかなり長い間、向き合うことになるということを覚悟してください。
 親も子も。
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Q21 子どもが将来「学校に行きたかったのに、行かせてもらえなかった」と親を恨むかもしれません。

A 
 
 TBS系「報道特集」によると、そのようなケースが米国にもあるらしいですね。
ただし、あの番組(2000/10/3)には両親が出てきませんでしたね。
 ホームスクーリング情報の乏しい日本で、このての報道にだまされてはなりません。
 逆に、「ホームスクーリングで育ったことに不満を持っている元ホームスクーラー」をよく捜したものだと関心しましたよ。意図的に「挿入された」と思いましたね。
 カリキュラムなど、子どもを「型」にあてはめようとするスタイルをとるとか、在学途中で強制的にホームスクーリングに移行したような場合、子どもの心に学校への未練が残るのかもしれませんね。
 はっきり言いましょう。
 学校で社会性が育つというのは「幻想」です。
 反対に、「この子が、もし学校に行ってさえいなければ、このようにならなかった」という事例に、本当に山ほど出会いました。
 学習面を強調され過ぎたいい方だとは思いますが、米国のほとんど全大学が、ホームスクーラーのために特別招待枠を設けるなどしていますし、「正しい選択(クリッカ氏)」をしたと考えている親御さんや子どもたちの数は圧倒的に多いというのは、まぎれもない事実です。

 子どもが、動物園で猛禽に手を伸ばそうとしていました。あなたならどうしますか。
 手をかみ砕かれる前に、近づかせないでしょう。あの「学校で子どもを殺された親たち」の無念な悔しさは、もし事前に事態が読めていたら、学校に子どもをやるようなことはしなかったということでしょう。
 もし、動物に触れてみなければ恐さがわからないから、子どもは手を咬みちぎられてみなければわからないからといって見て見ぬふりをする親がいるでしょうか。将来「あの時に猛禽に触れさせてもらえなかった親を恨む」と言われるかもしれないとしても、子どもを近づけないでしょう。将来、親がなぜどのような処置をしたのかについては、子どもが成長し成人した暁には、必ずわかるようになると信じているからです。
 猛禽と学校を比べたのは、やや言い過ぎかもしれませんね。
 いや、言い過ぎではないという意見もあるのです。
 石坂啓著「学校に行っていなければ死なずに済んだ子ども」参照。
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Q22 学校を廃止することが、ホームスクーラーの究極的目標ですか?

      
 学校制度そのものがなくなることはありえませんし、ホームスクーラーの目標でもありません。国が子どもの権利としての教育の場を最低限守ることは、近代国家として主権者に対する当然の義務と思うからです。ホームスクーラーの願いの第一は、制度変更にも、学校廃止にもありません。
 第一には、不登校対策と同じように、親の意識に張り付いている学校信仰を相対化することにあると思います。米国の場合、その原動力の中心は、保守的なキリスト者の聖書主義にあります。
 第二に、子どもの教育の主体は教育官僚に代表される国側にはなく、親側の自然権であるということを主張する運動です。その上で、多様な選択肢の一つとして、学校やホームスクールなどが位置づけられるのが望ましいのです。
 真面目に学校に行っている子どもとその親御さんを「教育力のない親と、その子ども」などと見下げたりするようなことも不本意です。ましてや、登校を拒否している子どもたちやその子どもたちを支えている親御さんたちをさげすむようなことも問題なのではないかと思います。
 日本社会のなかで、学校を選択した家族とホームスクーラーの共存は理想ですが、数の上で問題にならないくらい圧倒的に少ないホームスクーラーのいわゆる「少数派の権利」が守られるようにと心から願います。
 ただし、すべての親(保護者)に学校を義務づけているかのように誤解される現行の学校教育法は、日本国憲法違反です。憲法や教育基本法に基づいてこの法律が廃止されるかあるいは変更されることが必要でしょう。
 ホームスクール合法化などの法律面の整備も絶対必要な課題には違いありませんが、当面は、法的課題をにらみつつも、優先すべきはホームスクーラーの数が増えることでしょう。
 そして、各地で草の根のホームスクールネットワークが構築されていくこと。子どもが就学年齢になって、親の側で完全に学校だけを選ぶのか、学校在籍タイプのホームスクールか、在籍しないタイプのホームスクーリングになるのかを公然と選択できるようになることが、当面の目標といえます。
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Q23 履歴書等に学歴を記載できないことは、子どもにとって不利益なことになりませんか。
A 
 学籍を置くということは、、学校の側からすると法的整備のない現状では、教育機関は不登校と同じく、在籍生(ホームスクーラー)を卒業させる義務を負うことになります。
 そのメリットは、ホームスクーラーのが側からすると卒業証書(卒業資格)がもらえるであろうということです。これはいいかえると、学校サイドには最後の手段として、これが見えないか式の「印籠」がわたされてるという幻想を生み出します。
 しかし、現段階ではとてもホームスクールを理解してくれているとは思われない教員たちに、ホームスクーリングの内容を説明しなければならなくなるということを覚悟してください。たとえ理解を得たとしても、転任や移動によって、やがて無理解な干渉がされないとはいいきれません。ホームスクーラーへの試験による評価や、学校カリキュラムのおしつけは、好ましい結果をもたらさないのです。
 しかし、今後、ホームスクーリングの社会的認知が深まり、法に整備されるようになれば、在籍しながらも、干渉されず、かえって、ホームスクーラーの側で「好きなもの選べる」ようになるかもしれません。さて、いつになることやら!!
 ある日本のホームスクーラーが、ハンバーガーショップでアルバイトを志しました。
 採用の時、履歴書には当然入学も卒業も記載できないまま、ただ、「ホームスクール」とだけ書いたようです。面接の後、即日採用となり、学歴は問題にされなかったそうです。
 このような例は、日本でも新しいものではなく、むしろこちらの側に「学歴を振りかざして、自己顕示しようとする」ことがあるならその方が問題にされそうですね。雇う側は、学歴ではなく仕事への愛着や適性とか実際の能力(できれば職歴)を求めているからです。
 都内の民間NPO団体(キリスト教関係ではありません)が、ホームスクーラーを含めて「三級介助士(ホームヘルパー)」の講座を開催しました。不登校生向けのゆるやかなカリキュラムで、半年ほどかけて学び、2001年春にはホームヘルパー三級の資格を得られるというものでした。
 当然ながら、登録時に「学歴」などは全く問われません。
 社会全体が、学歴に対して、ゆるやかなスタンスを装備しはじめたようです。
 これからは、日本でも履歴書の学歴欄に、明確に「ホームスクール」と書いたほうが、かえって積極的アピールになるかもしれません。参考までに。
  
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Q24 ホームスクーリングの良さはわかりますが、でも、学校の良さもあるのではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、ホームスクーリングの出発点は、家庭が子どもの成長と学習の場として、最善であるとの認識にあります。家庭をベースにして子どもが育つことを受け入れるのですから、学校に行くか行かないかは、相対的な課題となります。
 私自身は、小中高と地域の公立学校に行きましたので、学校について理解できないわけではありません。子どもを視点において考えると、子どもにとって学校も、フリースクール程度とはいわないまでも、せめて塾くらいのゆるやかな制度であるなら、学校(登校)を「相対化」するだけで問題の多くが解決するかもしれません。
 不登校の子どもを受け入れるフリースクールには、いい意味でも悪い意味でも「良い学校」へのこだわりの空気が色濃くあります。
 いい意味でとは、ホームスクーラーも、単独ではなく、たとえばキリスト者であれば、母なる教会は子どもを含む信徒を育む場とみなされ、もし、属する教会でチャーチスクールが始められたならまさに鬼に金棒ということではないでしょうか。キリスト者でなくても、フリースクールなどとの連携は、子どもの野外活動の場を広げたり、精神的励みになる可能性は大きいと思います。
 悪い意味でとは、親のなかに不登校をもたらした学校への失望感や恨みの感情がしぶとく残っているために、「良い学校」への憧憬が強く、不満や期待が交錯して、外に「居場所」を捜しますが、ホームスクーラーとして家庭を居場所として子どものために確保しなければならないという肝心なことを後回しにさせられるかもしれないということです。

 社会的認知が広がるなかで、ホームスクーラーにも、学校や塾やフリースクールなど、様々な行政/民間の教育システムが開かれることが望ましいと思います。
 問題は、今の日本の学校は、学校教育法のしばりが強く、「ゆるやかな制度」とはみなされていないということです。教育改革国民会議報告などには、これまで不登校を問題視してきたサイドの議論の域を出ていないでしょう。子どもにとって「学校は絶対」という暗黙の了解は根深いのです。
 学校をいかに登校しやすくするかという議論はあっても、学校の外に「普通教育」を求める議論はいまだに萱(かや)の外です。民主党の政策課題にホームエディュケーションが入っていたり、「国民会議」でもホームスクーリングは話題にされたようですが、まともに選択肢の一つなどと言われる気配はなさそうです。
 まだ、学校の魅力を語る時期ではないのかもしれません。
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Q25 アンスクールリング以外のホームスクーリングはありえないのではありませんか。
       

 家庭でも、学校のようにカリキュラムを組まなければならないのではないかと考えて、13年ほど前、ホームスクーリングを始めた頃、米国から多くの「教材」を購入し、翻訳しながら使っていたことがありました。けれども、せいぜい3ヶ月ともたなかったのです。
 その理由は、親がモタモタと翻訳している間に、子どもの興味はどんどん広がり、とても教科書の狭い世界に収めていられなくなったということがあります。一定の枠にはめられない時、子どもの興味は非常に旺盛闊達です。きっと創造主は、成人するまでの短い時間にたくさんのことを吸収できるように、子ども時代をつくられているのではないかと思いました。
 やがて、親が教科書的なものを用意して、説明し、教えるというスタイルをとる必要がないことにも気づき始めたのです。
 娘は、妻に教えられて、見よう見まねでケーキ作りに興味を持ちました。自作して、失敗や成功をかさねるうち、やがてご近所にも試食していただくことになり、自然食品のネットワークで「販売」させていただくようになりました。もちろん、農薬や添加物のない安全なケーキということで、「はんなケーキ」のファンの方もおられるときいています。さまざまなバリエーションで自作し、しかも喜んでいただけるばかりでなく、わずかながら小遣いにもなるということを「学習」しました。
 いかに品質を下げないで、利益をもたらすか、仕入れ値の抑制、利益、販売先の確保、顧客サービスというテーマにとりくんでいます。要するに、ケーキ作りを楽しんでいるだけなのです。親は?何もしません。試食くらいですね。やや太ったのは、中年だからというばかりではなさそう…。(笑)近所の栄養士さんにも「出店」の太鼓判をおされていますが、本人にはその意志がないようです。(注文は受け付けてくれるようです。多くはつくれませんけれど)
 息子たちのことは、やがて紹介できるかもしれません。
 そんなわけで、子どもの興味や、学習意欲に依存したアンスクーリングのスタイルはすばらしいものではないかと思います。
 しかし、ご質問の趣旨に帰りますが、参考書や「教科書」を利用したカリキュラム化はすべて無効であるという考え方には賛成しかねます。
 年齢ごとに、ある程度の設(しつらえ)た達成感が必要な子どももいるでしょう。また、私どもの日本長老教会ように生まれてすぐに、幼児洗礼を施す教会や家族の信仰的環境では、聖書教育あるいは聖書的世界観に立った教育が必然であり、私の家庭もその意味では「アンスクーリング」とはいえません。
 けれども、広い意味において、ホームスクーリングのなかに必ずアンスクーリングが位置づけられなければらならないと思います。学校制度を部分的に利用するとか、幼少時代はホームスクーリングで育ち、10代後半は、自分の意志で学校に行くということもありえるのではありませんか? ホームスクーラーも、医師、弁護士その他の公的役職をめざすことがありましょう。
 でもかくいう私は、将来そんな専門職の方々のなかに、アンスクーリング出身の方が確実に増えるであろうことを密かに確信しています。
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Q26 今後ネットワークが実践すべき課題は何ですか。
  どのような役割をになえますか。
  行政などへの働きかけを含めてどのように考えますか。
       

 ホームスクーリングはもともと、「組織化」を旨とする行政サイドの管理とは、全く正反対といっていい、独立性に意味があります。
 ですから、ホームスクーリングが家の数ほどの特徴があっていいように、そのネットワークも多種多様であっていいのではないでしょうか。ただ、米国など社会全体が多様化に馴染んでいる場合とは異なり、日本では、上意下達といいましょうか、身分制社会のなごりがあってネットワークに「おらが村」意識が生まれてしまう傾向があります。つまり、自分たちのなかだけで通用する言葉を持ったり、自分たちにあわないものは排除したいという意識に固まる傾向があると思います。ネットワークは、ホームスクーラーが互いに励ましあったり、情報交換しあったり、独善に陥らないために必要であり、同時に、学校の外に新しい疑似学校(いじめ構造)をつくることになってはいけないと思います。
 行政面については、理論的な構築もさることながら、やはり、ホームスクーラーの数が増えて、ある程度になるまでは、地下運動にも似た草の根運動であることを自覚しなければなりません。「選挙」や「法律」でホームスクーリングが話題になる時は、そこに政治学的な「パワー」が働いていると面があることが了解されるべきです。
 ホームスクーラーにとって、「法制化」がもつ意味は、諸刃の剣です。
 つまり、ホームスクーラーにとっては、社会的権利を主張できる材料になりますが行政からすると、法制化されることで「コントロール」しやすくなるからです。何でも法律で規制される社会が、あまりいい社会とはいえません。たとえば、ガムの投げ捨てが法制化されて、厳罰の対象となっている社会があります。でも、社会常識が育っていて誰もガムを投げ捨てなければそんな法律はいらないでしょう。それと同じです。ホームスクーリングがあたりまえの選択になってけば、あえて法制化などは必要ないのではないでしょうか。
 ただし、法制化を全く視野にいれなくもありません。それは、親の教育権とか、子どもの就学義務の意味の拡大とかいう「権利」にかかわるものです。ただし、このところのわけありでやや加熱気味の「虐待報道」によって、ホームスクーリングに背を向けたような「児童相談所による親権剥奪権」まで押し進められてきているのが、日本の悲しい現状です。
 言うまでもないことですが、ホームスクーリングそれ自体は、政治的イデオロギー構築を目差していません。もし、政治的な次元で話題にさるようになるとすれば、政党が選挙がらみとか、票田開拓のための戦略という「きな臭さ」が存在します。ホームスクーラーからの支持を得るために政党が政策課題としてホームスクーリングのことに触れることもあるでしょう。でも、政治に深い関心を示しつつも、「常識化」の道は、ほんとうに地道なものだと思います。
 もうしばらくは、草の根運動に徹したいと思います。
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Q27 TVについて、どう考えるか、どう利用してきましたか。


 この点については、私のホームページの別のところでも紹介させていただきました。始めからホームスクーリングを決心されたなら、特に幼児期にはTVのない家庭環境が望ましいと思い強くおすすめしたいと思います。私どもも、最初はTVを置かないことを決めたにもかかわらず、「今時、テレビがないのは気の毒」とかいうことで、ある友人が中古のテレビをもってこられました。初志貫徹できなかった責めは、この友人に対してというより映画と音楽好きの私に向けられるべきでしょう。
 ゆえに、テレビなしの理想的な家庭環境はついに実現しませんでした。結果として、「テレビとつき合いながらのホームスクーリングを経験した恥をさらす」というのは言い過ぎでしょうけれど、消極的な経験談のようなものにとどめます。
 まず、テレビゲームのこと。テレビもテレビゲームもあるのですが、テレビゲームをしない曜日が週二回あります。最初の日は、地域の体育館で卓球をする日、あとの日は日曜日。「この日は、神様を礼拝する日なので、ゲームはしない日」と納得しています。ゲーム時間は、一応1時間。あまりきつくしないで、「自己規制」を旨としています。ゲームを禁止するよりも、ゲームよりももっとおもしろいものがあることに気づくことが大切と考えています。
 テレビについては、見てはいけない日はありませんし、禁止している番組も特にはありませんが、時間は二時間原則。これも自己規制を旨としています。ただし、チャンネルの主導権は親にありますし、報道内容については、親がかなりシビアな批評を加えてきました。
 バラエティ番組から、アニメ、ニュース報道、映画評論、選挙、政治に及びます。その話題の一端をホームページで紹介していますので、参考までに。テレビ朝日系のニュースステーションは、その報道解説の分かり易さと、「人権感覚」に積極的に配慮しようとする態度から、やや遅い時間という難点があるにもかかわらず積極的に見て、親子で意見交換をしてきました。時どき、テレ朝に抗議のメールを送るのですが、ご承知ください私どもも「ファン」の一人だからです。
 なかなか返事がきませんけれど。
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Q28 親一人子一人でもホームスクーリングができるのでしょうか。


 結論からいうと、親がシングルの場合でも、ホームスクーリングは可能です。
  具体的な課題がいくつか想定されます。
 親が外で働いている場合、長い時間を子どもが家で一人だけで過ごすのが不健全だと考えて、何らかの他人との関わりをもてるように気づかうことでしょう。幼少の頃は別でしょうし、個性の違いもあるでしょうけれど、私は子どもが一人で時間を過ごせる術(すべ)を心得ていることは非常に大切だと思っています。
 教師からの指示を待つ姿勢が学校生活によって産み出されることが指摘されていますが、その点ホームスクーリングでは、自己管理を旨としますので、ホームスクーリングでは他人からのストレスを受けない「孤独」の時間の可能性が最大限に引き出されているといえます。
 かえって、兄弟が多い家庭では、兄弟間のストレスがあるだけに「一人の時間」は子どものためにむしろ確保してあげなければならないと思います。それに、孤独の時間が多いのは、考えるための時間が豊富にあるということです。一人の時間を大切に考えられるようになると、他人のプライバシーの時間のためにも配慮できるようになるのではないでしょうか。
 全く両親とも盲目の家庭に、子どもが生まれたという事例があります。生まれた子どもは、目の不自由な親のハンディの部分を補うためにどのようにしたらいいのかを心得るようになったといわれます。たとえ、片親がいないとしても、子どもには逞しくも、それなりにりっぱに育つように、創造主の特別な支えがあるのではないでしょうか。
 それから、最近は、シングル親の環境について、「父性や母性の必要」といわれることがありますが、何を意味するのか概念が曖昧なので、あまり使われるべきでないという意見(たとえば芹沢俊介氏など)に賛成です。他人が親切心からであれ、自分勝手なイメージで父性母性を演じることが、当事者の子どもにとっては「ありがた迷惑」になるかもしれません。もしかしたら、有力なマーケット(市場)になるとにらんでいる利益優先型の企業エグゼクティヴだっていないとはかぎりません。キリスト教には「母なる教会」という言葉があって、親なき子どもは、教会が育てるともいわれます。欧米では、キリスト教会がその役割を積極的に果たそうとしています(Ministry of Marcy)。
 日本でも、チャーチスクールの役割は非常に大きいでしょう。
 いわゆる「児童相談所」がらみの施設などは、不登校周辺の考え方ひとつとっても、「子どもは学校に行くべきだ」みたいな発想で固まっている場合が多く、今のところホームスクーラーにはあまりおすすめできません。ホームスクーリングに理解がある教会か、もしくは民間の親が中心になって運営しているようなフリースクールと連絡をもちながら、親が孤立しないような交流を求められたらいかがでしょうか。
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Q29 ホームスクーリングでは、母親に教育の比重が重くのしかかるのではないでしょうか。
 
 キリスト教をベースにした家庭観においては、答えは非常に明解です。
  聖書においては母親よりも、むしろ父親に「教育の責任」を問うているからです。
  一方で、今の社会では、結婚や家庭を相対化する傾向が深まりつつあります。
 社会のなかにどんな深刻な影響をもたらすか未知数でしょうけれど、あきらかなのは、子どもが育つ家庭環境そのものが「相対化」されてきているという恐るべき事態が浸潤しているということです。昨今の女性の社会参加は、好ましい面だけが紹介されきていて、その「反社会的」な面は、話題にされることすらありません。結婚して子どもを産み育てることが重要視されなくなっています。結婚しても子育てにかかる「教育費」を予想して、出産制限をします。子どもの教育について、マニュアル化されたものしか信じなくなってきています。学校に子どもの生活も人生全体もすべてを任せて切ってしまいます。それらの結果、子ども時代の豊かさが奪われた「学校の子どもたち」のなかに様々な歪みが集中しているといえます。
 これまで、日本の教育は、母親が任される一方でした。
 父親は、仕事の忙しさを言い訳に、教育について学んできませんでした。高度成長を目標にした利益優先型の日本社会の構造上の歪みが、「父親の教育からの全面撤退」という異常さを産んできたともいえます。「忙しくて教育勉強する暇がない」というのはやはり、言い訳に過ぎないのではありませんか。
 学校信仰に引き寄せられた教育観や家庭観を維持していないと、少なくともこれまでの企業や会社では「干される」と脅されているので、子どもの教育について学ぶことを拒否させられているのでしょう。
 そのような会社人間で、しかも学んでいない状態で、父親が「教育熱心になる」ということは、逆に幼児虐待になるとは言い過ぎかもしれませんが、子どもにとっては「はた迷惑」な押しつけとなるのであって、母親はむしろ父親の暴力的教育観から子どもを守らなければならないといわれ、それは必ずしも特殊なケースではありません。「父親にはよけいな口出しをしてほしくない」というお母さんは本当に多いのです。
 一方、ホームスクーリングにおいては、父親の家庭での責任が再確認されるようです。
 外で働く時間の多い父親よりも、在宅時間の多い母親が時間的にはたくさんの時を子どもと過ごしますが、問題は時間ではなく質ではないでしょうか。父親の世界観や倫理観の影響は非常に大きいと思います。ゆえに「ホームスクーリングは父親と母親が共同で担う」という表現に満足していてはいけないでしょう。 教育の主導権は親にあります。ですから、母親にも父親にも教育の責任があると考えます。しかし、家庭の主導権はやはり、父親にあるのです。夫婦関係を「パートナーシップ」ととらえる考え方は、魅力がありますが、やはり全面的には賛成できません。
  私はキリスト者であり、聖書から生活の原則を学ぼうとしているからです。
 
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Q30 これまで、ホームスクーリングをして一番しんどいと思ったことは何でしたか。
 ホームスクーリングをしていて、最もしんどかったことは、周囲の反対でした。
 そして、正しいことをしているにもかかわらず、実は、我が同胞なるキリスト者ほど警戒感や違和感が強かったと思います。関係が親しければ親しいほど、たとえば親戚関係であれば、それだけ、他人事で済まそうとはしないのです。子どもが学校に行かないことを受け容れないことは勿論のこと、親が教師の代役をできないのではないかというものが多かったのです。(本当は、はなしは反対なのであり、40人生徒を対象の一斉授業では、教師が親の代わりができると思うのがむしろ無理があるのではないでしょうか。)
 いずれにせよ、ホームスクーラーにたいして、反発が強くその結果急に交わりが疎遠になることは辛い経験です。たとえば、ある機会に自分がホームスクーラーであることをうちあけるとします。すると、それまでの親密な態度が一変するのです。
 これは、辛いと同時にその人の持っている考え方が露呈される試金石のようなものではないかと思います。隠された内面の学校信仰が露わにされるようなものでした。
 それほどに、子どもを学校に行かせていることは、強い確信が与えられているか、それとも妥協しているのかいずれかに立たなければならないのではないかと思います。
 このように、対抗的な立場をとっていた人のなかに、徐々に変化が与えられてきたのでした。
 それで、どんな経過が、そのような変化をもたらしたのかをお伝えしたいと思いました。
 第一に、学校に言っている子どもが不登校になるという経験から、ホームスクーリングの道が開かれる場合がありました。実際、お子さんがその様な経験を持っている親御さんの場合、ホームスクーリングへを理解できる近道かもしれないと思っています。
 ただ、親が主体的に教育に目覚めるホームスクーリングと、親が子どもの後についていくような不登校との境界線があるにはあるでしょう。でもその境界線が曖昧に感じられるほど、子どもたちが、ホームスクーリングのすばらしさを証言してくれることがあります。
 つまり、第二に、ホームスクーリングでどのように子どもが育つのかを見ていただくしかないと思うことがあるのです。子どもたちを人目に曝すことをよしとしませんし、好ましいとはいえませんが、ホームスクーリングの利益は、直接当事者である子どもに示されるのです。
 ホームスクーリングは絶対視はできないのですが、非常にすぐれているのではないかと思えることはたくさんありました。そのことを証言してくれる、最強のメッセージは、言葉ではなく、子どもたち自身です。
 ホームスクーリングですこやかに育つ子どもたちには、説得力があります。
 第三に、アメリカ旅行がありました。特にアメリカでホームスクーリング運動が盛んな様子にふれることで、様子が変化したということもありました。これも、帰国してからは、日本では不登校の受け皿としてホームスクーリングがあてがわれるにすぎないと考える人がいて、ホームスクーリングをあくまでもアメリカナイズされた教育方法としかみれない場合もあったのでした。
 とにかく、今反対しているか、あるいは迫害者の立場にいるような人にもやがて、ホームスクーリングをわかっていただける日が必ずきます。忍耐して、対応していれば、じきに時がきて必ず良い方向に変化していくことでしょう。
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Q31 普遍的な基礎学力のようなものは、学校に行くと行かないとにかかわらず、必要でしょう。
 

 結論としては、「基礎学力」は必ず必要です。
 ただし、その内容が何をあらわしているかを考慮する必要がありそうですね。
 ホームスクーリング紹介のところでも引用しましたイリイチの言葉が「まと」をついています。
 「学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えることは、ある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかし、たいていの人々は知識の大部分を学校の外で身につけるのである」(イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』現代社会科学蔵書 P32)と言われています。
 日常に役に立つ実際の知識は、巨大な建築物のように積み上げるものであって、幼年期に基礎学力が身についていなければ、成人できないかのような幻想がマインドコントロールのように植え付けられているのではないでしょうか。このような場合、教育官僚からよくひきあいに出される事例に、幼児期を「野生のおおかみ」と過ごして、原語を失い、ついに人間社会にいきることができなかった少年のことがあります。しかし、この事例には、家庭で学齢期を育つこそが「おおかみとの共存」と混同されている無理があるばかりではなく、同じ論理を一貫したらなば、学校サイドこそ、「おおかみとの共存」が是認されているに等しい「反社会的バーチャルリアリティ」が存在します。
 ホームスクーリングの最低限の基礎とは、家で子どもが育つことが心から容認され、親が家庭環境を最善の「ゆりかご」と考えるかどうかの認識からはじまります。親の感性や倫理観が大きな役割を果たすことは言うまでもありません。そのなかで、欧米のホームスクーラーなら、カテキズム教育を伝統の祖とした聖書教育を「基礎教養」とみなすことでしょう。その上で、何を基礎学力とみなすかと考えて、知識の内容をしぼりこんでいくと、日常生活で得られる知識がほとんどで、言葉にせよ、数の概念にせよ、ほとんどを生活の場から得られてしまうことでしょう。
 基礎学力そのものが必要かどうかということについは、必要ではないかと認めつつも、その場合、基礎学力の定義は教育官僚の主導のもとにないことが望ましいのです。そして、基礎学力と呼ばれるもののほとんどは、恣意的に教室などで教えることにはかならずしも、依存していないのです。
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Q32 これからホームスクーリングを始めるに際して、「参考書」のようなものはありますか。

 邦訳で、ホームスクーラーにとって、一般的に参考になると思われるもののなかから、二冊だけ、主観的な感想を含め、紹介させていただきます。

ジョン・ホルト
「THEACH YOUR OWN」
アメリカのホームスクーリング運動
大沼安史訳(邦訳『何で学校へやるの』)一光社
                    
 邦訳題「何で学校にやるの」は、日本語訳として好きになれません。
 でも本文は、ホルト自身が日本語で書いたかのかと錯覚するような、語りかけるような名訳です。
 ホームスクーリングの潮流は、いわゆる英才教育のように、子どもを学校行かせないという点は共通していますが、子どもの才能のために親ができるだけ教材やカリキュラムを駆使するスタイルと、家庭を疑似学校にしないで、子どもの興味や関心をできるだけサポートするという、アンスクーリングというスタイルがあります。「ホーム」を、学校に行かせるための基地としてではなく、子供が育つための基地と考え直し、学校を含めて家庭が主導権をにぎるというスタンスに立つならば、スクーリングであれ、アンスクーリングであれ、ホームスクーラーの多様性と考えられていいのではないでしょうか。
 しかし、考えてみると「教育」という概念さえなんと学校化していることでしょうか。教室で、黒板を前に教師が板書し、それを生徒が熱心に書き取るとか、試験の成果を教育の効果と考えるとか、「数学の力」「英語力」が「社会参加への重要な訓練」と考えてしまうとか、子どもの成長のほんの一部分でしかない概念を、非常に重要であるかのように、マインドコントロールされてきたのではありませんか。このように、いちど「教育」という概念そのものを疑ってしまうと、「教育」とは、「家で育つ」ということそのものと完全に置き換えられうるのです。
 感性がすり切れて何も感じなくなった大人には、あたりまえの日常生活でも、家に育つ子どもたちにとっては、すべてが知的好奇心を刺激するものであり、それは教室で教科書から学ぶことよりももっとアカデミックでエキサイティングなことなのです。
 学校では、いつでも教科書中心に教育がされるとみなされ、良い教科書か悪い教科書かという議論の前に、子どもたちにとっては事柄の全てがすでに「発見されて」いるということを意味します。これが、子どもにとっては全くの興醒めなのです。しかも、反対論をとなえることさえ基本的には認められません。しかも、まんぞくに理解していないことさえ、点数さえよければ高い能力の結果とみなされます。子どもは、方程式や二次関数を暗記させられますが、「三平方の定理」「三角関数」「基礎解析」が何のための勉強なのかという最も重大テーマを問うことすらゆるされていません。大人なら、会社のためとか、自分のためとかで動き出せるかもしれませんけれど、ものごとの原理に興味のある子どもにとってこれはきっと拷問でしょうね。絵本作家の五味太郎さんが「何でも100点満点。その子どもの将来が心配」と意味深なことを言っています。親が教育費に潤沢に投資している家庭は、実は子どもにとってあまり好ましいとはいえません。欠乏感とか、不足感があるからこそ、子どもは学ぶようになるのです。「どうすれば、お客様に満足していただけるか」に熱心であるからこそ、工夫や智恵が浮かぶのではありませんか。
 
 たとえば、ホームページを作るために本当に必要なのは、どんなコンテンツを相手に伝えたいのかという「意志疎通」の願望なのであり、「タグの概念」ではありません。「タグ書式」や「JavaScript」の知識が不要とはいいませんが、絶対になけばならないとはいえません。ところが、学校では、ホームページ作成には「タグ」の概念がどうしても「なくてはならない」と信じられて、将来役に立つかもしれないと「信じられて」タグ書式を暗記させられ、100%をめざして過酷な試験を受けさせられているようなものなのです。
 ホームスクーラーの多くは、むしろ、家庭で育つ子どもたちの力が想像以上に大きいことに学ばせられることでしょう。そんな「アンスクーリング発見」の実例が、本書にはたくさん出てきます。
                    
 イヴァン・イリッチ
 「脱学校の社会」
 東洋・小澤周三訳 現代社会科学叢書 

 カトリック司祭/大学助教授でありながら、「かたてま」に思索を重ねているとはとても思えないほどのあのイリッチでした。神学という学問がもつ守備範囲の広さが暗示されています。存在の類比(analogia entis)を説くカトリック神学の伝統には、プロテスタント神学以上に、キリスト教以外の諸思想ばかりでなく、世俗の諸思想及び文化についての思索が堆積されているのでしょう。
 邦訳されたものも多く、「脱病院化社会」「エネルギーと公正」(いずれも晶文社刊)「ジェンダー」「シャドウワーク」(いずれも岩波書店)など、近代社会に何の不思議もなく馴染んでいるかのような学校と病院の功罪・産業効率優先による自動車社会に対する自転車の役割・男女差別問題とフェミニズム運動そして、労働報酬と無報酬労働などを峻厳な思考のフィルターに掛けています。なかでも、学校を問い直した「脱学校の社会」は広範囲に議論をまきおこしたようで、「脱学校化の可能性」(現代社会科学叢書)という反論を含む論集が続編として続刊されました。
 読みやすいとはいえませんし、あえて平易に書こうという意図もみえません。
 学術論文に近いのですが、論じられていることは現実を真摯に見つめた、「檄文」のようにも見えます。
 イリイチの「社会が学校化されている」という視点が、「社会が病院化されている」という視点同じであるということが重要です。学校や病院は、現代社会のなかで巨大化してきました。この二つとも、西欧のキリスト教会が、やがて世俗主義に飲み込まれていった領域だったといえます。つまり、人を苦難から救うのは、信仰ではなく「医学」であり、人に知恵をさずけるのは、教会ではなく「学校」であるとの考えが押し進められてきた延長線上にあるのでした。
 ところが、現代においては、学校が巨大化し、子どもたちにとって「不利益」となっているとすれば、(「学校に行っていなければ殺されなかった子どもたち」という話題の本がありますね)病院についても同じことが言えるのであり、「病院で殺される」というイリイチの《旧くて新しい警告》とも結びつくのでした。
 ここに、知識の豊かさを象徴する学校によって、かえって「無知」が蔓延し、命が守られるべき病院で、かえって「殺される」という警告があるのです。本書はホームスクーリングというよりも、不登校などの現実に直面、学校を相対的に考える教育論構築の必要から、その「基礎教養」として広く読まれてきました。
 どちらかというと、著者は明言していませんが、純粋な教育論というよりも、社会学上における「未来の社会像」の提案書として読んでもらいたいという意図があるのではないでしょうか。
 「知識の多くは、本当は学校の中ではなく、ほとんどが学校の外で得たものなのだ」という説には、旧約聖書の預言書群にも似た風格さえあると思います。アンスクーリング論はみえませんが、すでに学校にかわるものとして今日さかんにホームスクーラーたちによって提案され実践されている「ネットワーク構築」が早くも本書で提案されています。
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 ナンスィ・ワレス
「鎖のない学校」あるある家族の独立宣言 川島書店
ナンスィ・ワレス/著 スカオ=兼平啓子/訳
米国で、ホームスクーリングが知られるようになった頃のある家族の「臨戦記録」のように読んだことがあります。ただ、借りて読んだ本であり、しかも、詳しい内容を忘れていますので、もう一度読んでから、詳しくここで感想などを述べたいと思います。教育委員会への対応などは、どの国も同じと思います。始めた頃、かなり参考にさせていただきました。
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Q33 2002年4月から埼玉県志木市で「ホームスクール」が認められるそうですね。
  
 行政側のこの動きは、かねてから予想されていたことですが、「ホームスクーリング」と呼ばれることに問題があります。
 その理由の第一は、その不登校観にあります。不登校状態を行政のケアが必要な状態と認識し、「登校」だけが唯一の解決策としてシステムが組まれているからです。つまり、ホームスクーリングにとって必要最小限の環境である在宅状態を受け入れるというところから発想されていないために、学校の視野からしかもの見ていないことが明確だからです。
 その第二の理由は、「教員免許を持つ元教員や非常勤教師らが週五日、希望する不登校児の自宅まで出向いて1日2―4時間の範囲で在宅学習を手助けする」といわれ、ホームスクーリングに必須であるべき、「教育の主導権を親に取り戻す」というスタンスが省みられていないために、教師の立場にあるものが、オルタナティブな立場から、学校を一つの選択肢と相対的に受け止めているとは明言できません。かえって、学校の価値観が一方的に家庭にもちこまれることによる好ましくない結果が予想されます。
 第三には、目的の問題。
 志木市では、子どもが元教師と過ごす時間を「出席日数にする」とのことです。
 この制度が誰のためであるのかということがここに見えてきます。これまで、不登校の子どもが一日も学校に行かないというケースでも卒業できていた事例が多くみられることから、ここにきて、在宅学習の数時間を「出席扱いする」というメリットは、生徒の側にはないのです。とすれば、あとは教師の側に「業務認定されるかどうか」という教師サイドの一方的都合による「教師救済制度」ではないかと言っては言い過ぎでしょうか。
 私は、ホームスクーリングにおいては家庭や子どもの事情に応じた様々なスタイルがとられるべきであるという立場ですが、このいい方は親が子どもの視点で様々な教育手段や情報を選択できているかどうかを背景にしているのであって、完全に官僚主導体勢が維持された上、旧態依然と学校信仰が維持されたまま用語だけがラベルのように転用されることには、他の自治体への波及効果などからみても、むしろ危惧されるべきではないかと思います。
  埼玉県内のある高校では、かつて不登校児に少年刑務所で巧を奏したといわれる「内観法」が運用され、結果として、不登校の生徒を犯罪人扱いし、一方的な反省を強いるなどの問題性が指摘されていたという経緯がありました。学校信仰の考え方を変えないままの「和魂洋才」だけでは、これからの新しい時代に有効な視野が開けるとはいえません。

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Q34 貴ホームページのコンテンツは、「家庭の主婦」むけではないのですね。

 ご質問の主旨は、ホームスクーリングは実際には、子どもが母親と過ごす時間が多いと思われるのに、コンテンツが哲学的抽象的でわかりにくいのではないかというご指摘であろうと受け止めます。在宅している子どもの立場で考えると、仕事で家の外にいる父親よりも母親との時間が多くなるでしょう。その事実は、ホームスクーリングにおいても変わらないどころか、もっと母親との時間が多くなることでしょう。父親よりも、実際に子どもと過ごす絶対時間が多い母親がホームスクーリングについての知識を持つべきであるというのは、わからなくありません。
 しかし、自分の教育について、日本の父親は責任を自覚してきませんでした。幾度となく「子どもの教育のことは、母親に全部まかせてある」という言葉に接してきました。これは本来異常なのです。私は不登校の子どもの家庭教師をして8年ほどになり、その小さな経験から言えることは、不登校の子どもにとって父親が不登校についてどのような意見を持つのが最も大きな鍵であるということです。父親と何時間過ごしてきたかではなく、父親が自分を受け入れているかどうか、自分のことで安心していてくれるかどうかが最も大きな課題だったと思います。
 でも「では父親がいない家庭はどうなのか」という問いもあることでしょう。誰かが言ったことの引用だったかどうかも忘れましたが、エッセイストの久田恵さんが講演会の中で(ジョークの部分もありそうなので、半分そのように受け止めてもいいでしょうけれど)このようにおっしゃっていましたね。
 「最も尊敬される父親」とはどんな父親でしょうか?
 何も言わないで、機嫌良く受け入れてくれる父でしょうか。いやそうではなく、最も尊敬される父親像とは、「今は亡き父」です。
 生きている現役の父親としては、何とも歯がゆい話ですけれど、父親がいなければ、「いないなりに」、子どもは育ちます。家庭とは、そのようなものなのです。
 要するに父親は、仕事を言い逃れにして、家庭の教育に関して不勉強であってはいけないのではないでしょうか。たとえその場にいなくても、一家の主(あるじ)として教育方針について、明確な意見と態度を持っていただきたいのです。ホームスクーラーならなおのこと!
 いわゆる「亭主関白」のようにきこえてしまいますが、母親の立場からしても、どんな場合でも「私と夫は同じ意見です」と言えるのはどんなに心強いことでしょう。
 それと、主婦が哲学的抽象的概念に弱いという決めつけも、賛成しかねます。私はいわゆる男女の性差そのものを悪とみなす類のフェミニズムの立場には非常にネガティブな意見を持つサイドにいる一方で、個人に備えられるべき「教養の質」とか、社会の中での「人権」については、男も女もないと思っています。
 もっとも、当ホームページのコンテンツの分かりにくさは、私個人の表現力と想像力の乏しさに原因があります。 嗚呼!修行あるのみ哉。
ご指摘くださり感謝します。
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Q35 教科書を使わないのですか。

  ホームスクーラーの学び方が、ある時「アンスクーリング」と呼ばれていることにたいして、ご質問には「ホームスクーラーは教科書なしで、どうやって勉強を教えたりできるのでしょうか」という質問の主旨とも重なります。
  結論からお伝えすると、私は教科書は必要であり、ある場合には絶対に不可欠だと思っています。教科書が必要であるということの意味は、質のいい教科書、そして親であれその他の大人であれ、教師というものは、およそ「学習」という名のつく分野であれは、むしろ、特別な場合を除いては、どんな場合でも必要なのではないかと思うのです。
 たとえば、全くパソコンの知識のない状態から操作を覚えるまでの過程において、マニュアルは必要です。一つのセオリーとして、全く事前知識がないまま、パソコンの操作を覚えるということに意味があると言えなくもありません。初心者にとってマニュアルやプログラム言語などの学習指南書は必須条件でしょう。ですから、ホームスクーラーこそは、他人任せではなく教科書を自分の判断において選択すべきです。親がいいと確信するものを子どもに与えてください。
 しかし、いつまでもマニュアルに頼る学習観から「乳離れ」できないままでいると、応用的な学習を修得できません。その意味でいつまでも、「教科書通り」に留まるということは、知識が貧しいままにおかれることになり、やがて枯渇してしまうことでしょう。楽器についても同様です。楽典や楽器の操作方法にとらわれているうちは、身につけているとはいえません。楽器演奏を楽しみたければ、楽典は当然のこと、操作方法マニュアルなどは、できるだけ早く卒業して、演奏そのものを楽しめるようにならなければなりません。このことは、学習のすべてについて言えるわけではありませんが、たとえば、音楽や語学についての基礎学習については顕著なことでしょう。脱マニュアル化しないことによって、学習能力においてどんなリスクが生まれるかということそれ自体が一つの研究テーマになります。絶えず応用的な対応が要求されるとか、ある状況におかれれて、最も最善のアクションや判断が求められる場合は、マニュアルはむしろ必要ありません。つまり、[教科書がマニュアルである]という考え方を徹底すると、教科書がその本来の存在価値を発揮するのは、その存在が忘れられる時ではないかと思われるのです。言い換えれば、さらに上級を目差したければ、初心者状態は、できるだけ早く終わるべきです。
 必要なら教科書は徹底的に学習してください。中途半端ではいけません。でも、できるだけ早くその存在を忘れるべきです。いや、「その初心者に必須な教科書さえ満足にできない」とおっしゃるかもしれません。そのような子どもには、活動中心など具体性が伴う別のメソッドが有効なのではないかと疑っていただきたいのです。教室で教科書が必要とされるのは、生徒のためというより、教師のためであるとか、「仕事は、習うより慣れろ」という提案は傾聴すべきなのではありませんか。
 例えば、注解書ではなく、聖書を直接読んでいただきたいのです。また、運転のための疑似体験授業の役割は、実際に車を運転するというリアリティーへの準備段階に過ぎません。
 いつまでも教科書に留められていることは、それだけ初歩的な段階に留められていることを意味します。知性の活動が、知識の集積に留まるのは、幼稚な段階です。ある事柄に対して、疑問をもつとします。学習者にとっては、答えを出すことより、その疑問がどういうプロセスで生じたのかを理解することのほうがはるかに大切です。次に事柄を正確に分析しようとします。この場合、すでに同じプロセスで解決をしている経験者の意見を参考にすることは大切です。ただし、ここにも落とし穴があります。経験し、分析されたものを読むだけで、わかったつもりになってしまうということです。教科書が理解できたとおもうのは、事柄を理解したのではなく、同じ様な事例について分析し、解決をした人の意見を聴いただけに過ぎません。それから、よくいわれるようにリアリティーの喪失があります。教科書に書かれた「餅」はあくまで「絵に描いた餅」です。餅つきや、餅を味わうまでは、餅の意味は実はわからないのです。これは、著作家や作家などの特別に抽象性が高い分野を含めて、哲学や神学などのすべての応用的な学問レベルにおいていえることなのです。
 初心者にとって指南してくれるものは、必要です。しかし、産婆さんが出産の後には役割を終える時期があるように、いつ教科書から離れるかを知っている学習者は、さらなる豊かさを身につけられることでしょう。聖書は、その意味からは教科書的ですが、いわゆる「教科書」ではありません。むしろ、キリスト者にとっては、この書は魂の糧であり、毎日必ず読まれるべきであり、暗唱聖句でさえ、少年時代の必須科目ではなく、生涯にわたってなされるべきなのです。学校は、カリキュラム化された断片的知識を子どもに与えると、やがて成人されるときに総合されるという幻想を与えます。しかし、それは失敗に終わっています。学習者が本当に学習できるのは、目標が受験競争などというつまらない目標から解放されるときです。
ホームスクーラーは、早くからそのような「学び本来の楽しさ」に視野が開かれる可能性をもっているのだともいえます。
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Q36 同世代の子どもたちと過ごさないことは、社会性などにおいて、
    不利益になりませんか。
 
 子どもが同世代と過ごすことのほうが、社会性を育てるためには課題を残すのではないでしょうか。
 むしろ、子どもの成長過程を、全面的に「同世代依存」させることに、現代社会が引きずっている病理のようなものを感じるのです。米国ホームスクーリング運動の創始者の一人ともいわれ、米国教育省の顧問もされていたことがあるレイモンド・モア博士は、子どもの教育を同世代に依存させている事に、むしろ現代教育への危機感を表明しておられます。
 子どもにとって、同世代間依存には、学ぶことはおろか、互いに競争のなかで「敵対心」が養われるのであり、子どもの心を偏差な競争主義においやることになり、さらにそれがもたらす劣等感も、子どもから正確な自己認識を奪うかもしれません。集団に馴染むことだけを是として、やがてものごとへの消極的な態度をつくりだす温床のようになるだろうと考えるのが自然です。それを若い時代の教育環境として是認してきたところに、むしろ罠のようなものがあるのです。
 かえって、子どもたちにとって歓迎されるべき教育環境とは、教師であるのとないのとにかかわりなく、社会経験やとりわけ思いやりと憐れみの心豊かな賢い大人から影響を受けるべきであり、同世代から受ける影響とは、同世代が悪いことばかりとはいいませんが、「友達が悪ければ良い習慣が損なわれる」(聖書)といわれるべきなのでしょう。
 学校に行っていようと、不登校であろうと、ホームスクーリングであろうと、子どもたちには、一番身近な大人である《親との信頼関係》が真っ先に確立されるべきです。ホームスクーラーの子どもは「同世代の子どもと遊べないのでかわいそうだ」といわれることがおおいのですが、実は、ホームスクーリングにおいては、同世代の悪い影響から守られているのだという認識が必要だとおもわされます。親との信頼関係が確立することで、子どもには情緒的安定が育まれます。隣人や親戚はじめ、他人とのかかわりは、その次に無理なく成立していくのではないでしょうか。
 消極的な事例として、不登校の子どもなどには、心がいやされるまでの間、多くの場合教師への不信感にさいなまれている場合が多かったのですが、学校文化にどっぷりとつかりきってなかなか脱皮できない親御さんに対する不信感も相当なものである場合が多いのです。
 私は、聖書的家庭観を背景にホームスクーリングをしていますので、自分の立場を安易に「父性の復興」とか「親業の見直し」と同一であるとは説明できませんが、ただ、子どもに同世代の友達がいないことが、不利益なのではないこと。それに、親子の信頼関係が確立していることは、異年齢間の交流を可能にすると考えるのです。もちろん、同じようなことに興味をもつ同世代との時間を有意義につかえるのはそれも一つの交流にはちがいありません。けれど、教室のように《ほとんどの長時間を同世代としか過ごせない》という空間は、むしろ「特殊な社会」なのであり、そこから生まれるのも、集団依存という「特殊な社会性」なのではないでしょうか。
 私自身10代のほとんどを同世代の中で過ごしたにもかかわらず、社会人になってからは、同年代と過ごすことはほとんどなくなりました。ましてや、「同年齢の方」と出会うともなると、いまやほとんど希有なことになっています。
 同年齢や、いや少年時代には大切な目標とされた学歴さえも、実際の社会生活の中ではほとんど無視される場面のほうが多いのです。私は昨年、地域の輪番として自治会の役員をさせていだだきましたが、年間を通じた会合で、ついに年齢や学歴を意識する場面はありませんでした。世間一般の通念としては、世代間のおおざっぱな興味の傾向はありますが、異年齢交流が主体であることのほうがはるかに多いのです。
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Q37 ホームスクーリングでの健康管理が心配です。
A 
 そうでしょうか?
 むしろ、“学校での健康管理に不安を覚えたので”ホームスクーリングに切り替えたという例が多いのです。
 それは、第一に「食材管理」の問題です。
 たとえば、まず、学校給食に大企業が参入していた場合、どの様な食材が使われているのかが限りなく見えないということがあるでしょう。O(オー)157食中毒事件など、マスコミなどで大規模に取り上げられると、実態のようなものがある程度浮かんでくるでしょう。給食は巨大産業に依存しなければならず、絶え間なく供給するための大規模化は、限りなく不透明化と結びつきます。
 管理栄養士さんたちの、日々のご苦労を直接耳にすることがあるので、いかに最深の注意を重ねておられるか頭がさがるおもいがしますが、それでも学校給食がらみの食中毒はあとを絶ちません。それに、近年話題になっている遺伝子組み換え食品の混入については、透明度を高める努力とは裏腹に、ここでもみえてくる政官癒着の問題は不透明な部分を生み出しているのです。
 年間数千トンの食材を定期的に一カ所で管理して供給するシステムは、原発事故と同じように巨大化することで、ますます管理が困難になり、同時に、「バケツ一杯」がシステム全体に甚大な影響をもたらすことになります。
 この点、ホームスクーリングにおいては、食材の管理は比較的容易です。意識のあるお母さんなら、それほど特別な情報源なしに生協などのきめ細かな食材ネットワークを利用できるでしょう。自家菜園などがあれば、それ自体が有効な教材になる上に、種の管理さえ可能です。食に関しては、小規模管理が優れていることはこのようにあきらかであり、この点でもホームスクーリングが優れていることはまちがいありません。
 妻がシックハウスを引き金とした、化学物質過敏症になり、我が家では、ある時期から、すべての食材を、完全無農薬品に切り替えなければなりませんでした。妻が食べられるものしか、食卓にのせられなかったからです。
 当然出費はふくらみましたが、ところが、不思議なことに、その時期を境にして子どもたちが病気にかからなくなりました。それまで、数ヶ月に一度は、風邪やぜんそくに悩ませられていたのですが、それがうそのように、子どもたちはここ10年くらいは病院に行ったことがありません。つまり、いい食材を選ぶことで、一時出費があったとしても、病気から遠ざけられることで医療費の出費をおさえることになったということなのです。
 第二に“しも”のはなしで、恐縮ですが「排便問題」があります。
 食の話の後ですが、健康管理という面からはどうしても触れておきたいのです。
 つまり、子どもが学校で大便をしないという問題があるということです。学校で大便をすると、不思議なことにいじめられたり、馬鹿にされたるするので、がまんしてしまうのです。家に帰ってくるまで、子どもは大便をしないで、我慢することによって、どれだけストレスと健康被害が潜在的にあることでしょうか。
 食教育もしかり、そして、(そんな言葉があるかどうかわかりませんが)「排便教育」も学校には全くまかせられません。
 いったい教育という言葉がなじむかどうかさえわかりませんが、とにかくプライベートな時間の平穏と静謐が守られるべきです。
 「場違いなこと」といいましたが、健康管理という視点からいうと、排便は非常に重要な時間です。
 ホームスクーラーではありませんでしたが、ヨーロッパ海外生活を6年間経験されたあるお宅におじゃました時に、その家のご主人の曰く。「我が家自慢のトイレを見せたい」とな?
 考えてみれば、平均的日本人にとって、「便所掃除」が古典的な罰則に数えられるように、お墓とかと同じように、トイレはきたなく、嫌われる場所の代名詞のようなものです。(「世界のトイレ」なる本があり、トイレを不浄な場所とみる傾向がアジア的であることに気がつきました。)
 いや、ともかく、件(くだん)のお宅の御主人に、“自慢のトイレ”に案内された時は驚きました。
 欧州の文化において、トイレは一人になれる静謐な場所であり、考えるためにとても優れた場所。だから、少しでも苦痛を感じさせてはいけないのです。華やかなポプリの香りが満ち、花や絵などで非常にきれいに飾り、音楽こそなかったけれど、BGMだって似合うような場所でした。トイレには何と本棚さえありました。誰にも制限されることなく「楽しいトイレ時間」を過ごせるのはというと、これもやはりホームスクーリングに圧倒的に軍配があがりそうです。(ある会社の社長さんでした。聖書を読み、教会で洗礼を受ける直前までいったのですが、今どうされているかな。音信がとれません。)
 学校では「授業時間に支障があるといけないので、5分以内に排便を済ませること」などという校則があるともききました。曰く「食事は10分以内、排便は5分以内、教師への礼の角度は45度以上」。うそみたいな本当の話です。
 これは、遠い北朝鮮のはなしではなく、現代日本の学校現場に日常茶飯事にみられるのです。
 もし、子どもの健康管理をまじめに考えておられるなら、ホームスクーリングをおすすめします。
 
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