クリスチャンからの問いに答えて
 (No3)
 # 不登校とホームスクーリングは同じですか。
 # テレビやテレビゲームそれにインターネットなどについては
 #「性教育」は、ホームスクーリングでどのように扱いますか
 #「反抗期」はどのように過ごしましたか
 #家で子どもと過ごすのに疲れてきたので、どこかのクリスチャンスクールに
 #うちの子どもにはホームスクーリングがあっている
 #クリスチャン家庭のすべてが、ホームスクーリングでなくていい
 #ホームスクーリングの実践は、日本の歴史認識のような政治問題とは関係がない
 #Q 学校に対しては、それほど敵対心をもたなくてもいい
 #Q ホームスクーラーは、特に日本の教会から理解されないことが多い
 #Q ホームスクーリングのなかで、父親としてどうあるべきなのか
 #Q迫害とか何かあった場合、どうするのですか
 #Q 「ホームスクーリング」には、より日本の精神風土に根ざした展開がある?
 #Q アメリカのホームスクーリング運動で、課題(もしくは問題点)を何か感じた
 

Q 聖書には、「スパンク(鞭)を控えるものは子どもを憎むもの」と書かれています。
 それが家庭教育の要(かなめ)なのではないでしょうか。
A 
 このテーマは、何度か扱ってきました。私はスパンク(一種の体罰)を肯定しますが、すでに別ページでも書かせていただいたように、ただし条件があるという立場でもあります。第一に、スパンクをしなければならないのは、子どもが幼年期にあって自分で判断できないような場合。第二に、幼年期を過ぎて、自己意識ははっきりして、わきまえる力ができてくるときには運用に慎重でなければならないし、「子どもを怒らせてはならない」という戒めに抵触するかもしれないと親が自覚していおかなければならないでしょう。第三に、いつまでも「スパンク」は有効な手段なのではなく、親の考え方に問題がある場合には、子どもの成長にとって逆効果になる場合もあるということです。
 「羊飼いの鞭」(詩篇23編)は、子羊にとっては大変ありがたいものです。それは、子羊は、どこからどこまでが安全で自由に動き回れるのか、ある境界を越えると谷底に落ちるということがわからずに、うかうかと境界線を越えることがあるからです。そのとき羊飼いの役割は、安全な場所に導くために「鞭」をつかいます。子羊にとっては、鞭は痛いものの、それによって自分の安全が守られるということになるでしょう。羊飼いが意識しているのは、子羊の安全に配慮しているためであって、「羊飼いへの絶対服従」を受け付けさせるためではありません。このたとえはわかりやすいかもしれませんが、親子関係に即座にすべて当てはめることはできないでしょう。言うまでもなく、それは動物と人間の関係だからです。親子関係のたとえとしたかった意味は、親が使う鞭もあくまで、「子どもの認識が未発達なので、それを補って、安全な場所を確保する」ということにあります。
 それで、子どもは成長して、自分でどこが安全かどこが危険かを理解するように訓練される必要があります。それで、たとえば羊は主人へのひたすらな従順が植え付けられたらそれでいいのであり、「羊飼いの指示に従えたら」それで十分です。ところが、人の子はそうではいけないのです。いつまでも親の指示に待っていてはいけません。クリスチャンの子どもたちの場合は、ただ親の意志に従って信仰に似たアクションをしていればいいのではなく、主との個人的かつ人格的な関係が確立していかなければなりません。ところが、子どもへのスパンクが恒常化してしまうと、子どもたちは主との関係ができることが疎外され、親の命令に従うための訓練と区別がつかなくなるのです。
 あるとき、親は子どもの「従順さ」を確信します。ところが子どもは主との個人的人格的関係が形成されていかないままにおかれているのに、形だけ親に従順さを示して、神への敬虔な態度さえ【演技】してしまうのです。親は子どもの演技を見抜くことができないまま、子どもがあるとき成人し、自分で経済力を身に付けた時点で、きっぱりと親との偽善的な関係を清算してしまうのです。当然、信仰などはじめから育っていないという悲惨な結果を招くでしょう。
 スパンクが肯定されるのは、親への絶対従順を植え付けるためではなく、子どもの安全と、自律性が育つためだということがお分かりいただけるでしょうか。
 モーセを通じて、主は十戒を与えてくださいました。それは、「〜してはならない」という禁止事項で構成されています。主はイスラエルから考える自由を奪ったり、たとえば「姦淫してはならない」という戒めによって、男女の性的な関係を禁止し、一種の独身制を確立したいと望んでおられたのではなく、むしろ羊飼いが羊のために「この境界線を越えてはいけない」と考えて配慮するように、性的な関係の自由区は、ただ結婚関係に限られるのであり、その境界線を越えなければ、(もちろんそれ自体が偶像になる危険もあわせもつのですが)自由なのです。いえ、それ以外の性的関係については、主イエス様は「情欲をいだいて女を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と外面にあらわれてこない内面においてさえ姦淫の罪を徹底されました。
 すこし話題が逸れましたが、言いたいことは、子どもがいつも親の顔色をうかがわなければいけないとか、自分で考える力が育てられないまま、成熟できないなどという、親が子どもをコントロールしたいという別の罪が無自覚のうちに入り込んでしまうので、それは絶対に阻止しておかなければなりません。
 ご承知のように、戦時中の学校では、体罰が日常茶飯事におこなわれていました。その目的は軍事国家設立にあったのであり、教師の場合は、親の場合とは別に、絶対従順それ自体が目的にされます。子どもはおろか国民全体に「人権」はありませんでした。やや極論にきこえるかもしれないですが、受刑者の収容施設である刑務所も、人権が制限されていますので、同じような環境におかれていることになります。
 私は幼児虐待から子ども守る立場ですが、でもそれを論じるあまりに、「子どもが親に対して主張できる人権」とまで言ってしまった「子どもの人権条約」が、一方で、聖書の言っている親子関係までも軽んずる傾向に拍車をかけないかと案じている一人です。(米国・ファミリーフォーカスのドブスンさんも同趣旨の意見をもっておられます。)そうでありましても、聖書に書かれている「子どもを怒らせてはいけない」という戒めを謙遜に受ける親でありたいのです。
 会員ページにアップを予定している「親子関係&兄弟姉妹の関係について」をご参照ください。

  #ページの先頭へ
 
 


Q アメリカのホームスクーリング運動で、課題(もしくは問題点)を何か感じたことがありますか。
A
 この質問は自問自答のようなものです。私の場合は、ほとんどの場合アメリカが模範となってきました。その意味では、今でも学びつづけているわけで、問題点をあれこれ高飛車に言える余地はありません。それでも、「アメリカナイズ」ではなく、家庭と家庭の教育力を聖書にしたがって再構築するのがホームスクーリングだとすると、アメリカでの実践とそのスタイルをそのまま機械的に移植すればいいというものではありません。
 “さまざまな思想によって揺れ動くアメリカでも、ホームスクーリングの基礎は健全”といえるでしょう。けれど、いいかえれば、それだけ米国のホームスクーラーは今でも戦いの中にあるといえるのです。
 アメリカのホームスクーラーが取り組んできた課題は、多岐にわたります。もちろん、行政からのホームスクーリングへ執拗な介入と戦うという外向きの戦いがありました。米国のホームスクーラーが祝されていると思うのは、すでに地域や教会のなかで受け入れられているというばかりではなく、教会の重要なミニストリーとしてホームスクーリングを位置付けている教会が少なくないと思われることです。
 しかし、いわば内面的な戦いもありました。そのひとつが、フェミニズム思想とのたたかいです。(2月4日、米国最大の女性団体、全米女性機構(NOW)の創設者であったベティー・フリ−ダーさんが死去されたことが報じられていました。「女性が結婚して、出産し、主婦として生きるだけではなく、個人として家庭外でも生きがいを持つよう訴え、女性運動の基礎をつくった。」とのことです。)たとえば、米国有数のホームスクーリングリーダーであるメアリ・プライドさんは、そのような「女性解放運動」から聖書にたったホームスクーリングへの転身を果たした方でした。プライドさんによると、フェミニズム運動は全米の展開をみせて、女性の社会的進出の背景になったものの、詳細は述べませんが、同時に反キリストともいえるいくつかの議論を展開したとされています。(たとえば、神が“父親=男性”と呼ばれることにも疑義をとなえ、救世主キリストが“男性”であることにさえ敵意を剥き出しにしたのでした。)
 ホームスクーリングで女性が家庭に引き戻されることは、フェミニストたちの非難のターゲットになりました。職業的なキャリアを捨てて、女が家庭にひきこもることは、社会的損失だとみます。(この言論は、共産圏でもなされてきたことに共鳴しています。共産圏における「家庭」とは、国家に対して相対的なものとみなされるからです。)
 もうひとつは、米国の文化にみられる功利主義(utilitarianism)の影響です。その思想自体をのべるにはスペースが足りませんが、ただ、ホームスクーラーにおいてみられる傾向として、数値化されたり、評価対象とされない次元のテーマを相対的に軽んじる傾向が入り込むことになります。それでも、米国ホームスクーラーたちのリーダーの発言を注意してきくと、「時間割によってすすめる」ことや「教科書を理解すること」や「世俗社会で勝ち抜くための強さを得る」ことを優先する傾向に対して、非常に思慮深く、反論していることに気づかされます。「主にあって子どもを養育する。」(エペソ書)ことを学び、自分たちの弱さがどこにあるのかをよく認識し、その弱さがいかにして改善の方向に向かうのかをいつも学びつづけています。
 実は、正直いうと、その点からさえも、またもや米国のホームスクーラーには学ぶところのほうが実は多く、脱帽させられてばかりです。
 たとえば、日本のホームスクーラーにどんな“弱い傾向”があり、そして、その弱さをどのようにしたら克服できるのかをいつも研鑚できるようになるかどうかが今後の鍵になるでしょう。(ホームスクーラーの弱さを補うためにこそチャーチスクールが存在するのだとかいう、他人任せの傾向に拍車をかけるのとは別なのです。ホームスクーラー自身が、日々の課題と取り組んで、聖書から解決策を見出していくべきだからです。)実際に役に立つか立たないか---もちろん仕事のなかではその要求は当然ですが、せっかく学校から開放されたホームスクーラーなのですから、「社会生活に役立つか立たないか」という発想をいったんすてて、聖書にしめされた「主のこころ」を「ホームスクーリングの心」と確信することからはじめてなければなりません。子どもたちは、聖書に親しむこと、メッセージをきくことを喜びとしていますか。親に誉められること--(それもよいことですが、)よりも、隠れて見ておられる主を喜ばせようという動機が育っていることが肝要だと考えます。
 日本の場合、国家の教育戦略はまだこれからですね。目下のところでは、たとえば「教会とホームスクーラーとを結ぶ」という課題があります。狭い意味での内村鑑三の影響下にある“無教会主義”をどのように払拭するのかが課題です。クリスチャンホームスクーラーにとって「世俗とは何か」ということも克服していかなければならないテーマになるでしょう。
 米国の場合、「全米で合法化された」のは祝福ですが、どの州でもさまざまであるとはいえ「公認されるの枠組み」として、問題の多い報告義務や登録条件をクリアーしなければならないなどがあります。その意味で、日本ではまだそのような「自由と引き換えにかせられる枠組み」がないというある意味の「別天地」が展開しているのだともいえるでしょう。いえ、今のところは・・・・と言っておきましょう。
 まだキリストを知らない人に、心からキリストを紹介したいと願うように育てていますか?そのような目標は、教科書を何ページやったとか、何ヶ国語覚えているかとか、数式が解けるか解けないかとかいう課題よりもはるかに大切な課題だということを、まず親が発見しなければなりません。この世は勝ち組みに入って、群れの支配者として育てようとします。けれども、主の弟子は、主の心と生活に倣い、人に仕えるための訓練が優先されなければなりません。その意味では、家事の手伝い仕事は、どんな学びにも劣らない学びになります。教科書を暗記させるとか、試験(読書感想文)させるなどには、「親の納得を優先する」ことが秘められているような気がします。多種多様な教科書の出版が戦略的であるという反面、功利主義や実用主義に引き寄せられた「米国型成功主義」を子どもに植え付ける--はずはないと本当にいえるでしょうか。
 #ページの先頭へ

 

 
 
 
 
 
 


Q 「ホームスクーリング」には、より日本の精神風土に根ざした展開があるのではないでしょうか。

 日本のホームスクーラーも、現在米国のホームスクーラーが享受しているようであったほうがベターなのではないかという面は確かにあります。いつも、“米国より”が歓迎されるわけではないのですが、ことホームスクーリングについては、率直に「米国依存」が今のところおすすめです。それは、さまざまな課題や問題にぶつかりつつも、議論の過程で乗り越えてきたという積み重ねられた経験に裏付けられた知識があるからです。草の根のネットワークも、日本に住むホームスクーラーとしても、非常にすぐれたサポート体制をひいているといえるからです。
 しかし 「ホームスクーリングをするなら、米国に移住したら」などといわれるときに、日本での展開を示された理由は、語学の壁があったというばかりではなく、ホームスクーリングが教会の徳を高めるという以上に、子どもの教育こそ、教会のおこなう宣教活動の中心におかれるべきだという確信があったからでもあります。ホームスクーリングとは、「教育をアメリカナイズされること」ではなく、米国での実践を通じて、日本という土壌において、聖書の原則を再発見することに主眼があると確信したからです。
 ご質問の趣旨にかえりましょう。「ホームスクーリングの日本的展開が必要である」というとき、どのような意味かにこだわりたいのです。日本にいるホームスクーラーではなく、「もし、ホームスクーリングの日本的展開があるのだとしたら」という青写真のようなものを考えることにしました。
 具体例がないとわかりにくいので、たとえば、コロラド州デンバーに事務所があるChristian Home-Educators in Colorado=チェック(ケビン・スワンソンさんが代表)が打ち出している3原則があります。
 それは、「キリスト中心の教育」「親がその教育の方向を決定する」「政府の教育戦略から自由である」という3ポイントに集約されます。これは代表者のケビンさんが「上意下達(じょういかたつ)」のようなスタンスで打ち出した方針ではなく、スタッフが非常に長い議論をつくした結果なのだそうです。この3つの原則は、まさに「ホームスクーリングの心」であり、たとえ国がかわっても変わらないと考えます。
  「キリスト中心の教育」をホームスクーリングの特色として打ち出したとき、どのような「日本的展開」が考えられるでしょうか。たとえば、すでに日本ではノンクリスチャンのネットワークに歴史があり、草の根の時代には、「クリスチャン」に特化したネットワークではなく、クリスチャンではないご家庭を含めた「教育論」という立場に落ち着かざるをえませんでした。日本ではノンクリスチャンのネットワークのほうが純粋にホームスクーリングを支援してきた実績があるというのも一面正しいのです。ところが、もし、ホームスクーリングから「キリスト」を抜いてしまうと、米国の主流となっているクリスチャンの働きの知的資源に到達できないということと、それと、クリスチャンが聖書を基準にしてホームスクーリングを展開することに、世界観・人生観・家庭観・結婚観が組み立てられる基礎があるのだからです。ですから、私には、ホームスクーリングを日本的に展開するというより、キリストを中心にしたグローバリゼーション、もしくは、「天国に国籍のある地球市民を育てる」という視野がひらかれてきたといえます。クリスチャンホームスクーリングが正しく実践されているところには、子どもたちに信仰継承がおこなわれます。そして、宣教の力や、教会を形成する力にもつながるのです。
 それは、米国だろうが日本であろうが、どの国におかれていても同じことなのです。聖書を基盤にしたホームスクーリングには、教会を革命的に変革し、国家と家庭の関係を改善する影響力があると信じています。それは日本社会でも例外ではないのです。
 次に「親が教育の方向を決定する」は、どのように「日本化」されるべき・・・といわれるのでしょうか。たとえば、米国と比べて親の教育力が育っていないので、日本の親は、原理としてホームスクーリングをわかっていたとしても、「日本人は、より集団的なのでたとえば、ある一部を誰かにまかせる」という展開の余地を残しておくべきだと思うという考え方があるでしょう。確かに教職者や教会員がホームスクーリングを理解するまでに時間がかかります。だからといって、日本でのホームスクーリングには、部分的に他人任せの余地を残すべきだという考え方には賛成しかねます。
 もちろん、その意味は、すでに自覚的な年齢になっていて、自分でスクールを含めた居場所を選択できる年齢になっていて、ホームスクーリング以外の展開を見るというのとは違うのです。「ホームスクーリングは、集団主義のなかで展開されるべきだ」という考え方は米国にも存在していて、クリスチャンスクールに入学させた親が、ホームスクーリングではなく、学校に変わる居場所としてクリスチャンスクールを求めたときの議論とまったく同じです。あえて日本的といわなくても、ホームスクーリングを確信できるまでの時間差は、それぞれの家族ごとに違うのです。それに、あえて日本的といわなくても、家族ごとの認識(信仰の確信)の違いは受け入れたいのです。
 ホームスクーリングに確信がもてなかったり、さまざまな背景からチャーチスクールに道が開かれ、結局そこで恵まれて成長する場合もあります。その一方で、チャーチスクールからホームスクーリングに切り替わることもありえます。「子どもの教育を他人任せにしない」かどうかに、ホームスクーリングの決め手があります。その原則は、アメリカの家庭像に理想を求めるのではなく、聖書が家庭についてどのように教えているのかに学ぶことにあります。それは、教育の方法論を親が聖書から学ぶということ(教育論)を含みますが、それよりも、創造主である神が、子どもの教育について何を望んでおられるのか、神が親について、夫婦の関係について何を望んでおられるのかを聞くことです。それはある国がどうであれ、普遍的原則なのです。「ホームスクーリングは手段に過ぎない」ということも同じで、ホームスクーリングで何もかもうまくいくと思わないほうがいいのは、どの国でも同じでしょう。
 そして、「政府の教育戦略から自由」という点は、「日本の場合、これまで官僚主導の教育になじんできたのだから、政府と対立関係ではなく、できるだけ行政からも理解されるようなホームスクールを展開すべきだ」となるかもしれません。国家の教育戦略を本当に賛成できるクリスチャンであれば、なにもあえてホームスクーリングをすすめようとは思わないでしょう。学校に子どもを送る親のほとんどは、学校に子どもを送っても、親がしっかり家庭で教えていたらなら、信仰継承はなんともない」という自己暗示のような納得に基づいて、子どもが信仰の道から逸れるのを事実上許してきたのです。
 子どもを、国家の教育戦略の轍に入れさせないとか、「バアルに人身御供として子ども生け贄にささげたような時代を繰り返させないという自覚が必要なのは、日本に固有のことではなく、普遍的な課題なのです。
 これでは、答えになっていないかもしれないですね。
 でも、「ホームスクーリングの日本的展開」は、聖書の原理から生み出されてきません。「ユダヤ人には、ユダヤ人のように」ですか?その聖句なら、学校に子どもを臆面もなく堂々と送ってきた親がいつも引き出していた「常套手段」でした。子どもを学校にやることで、完全に「日本人化」したつもりでした。ところが、多くの子どもたちから信仰が失われてきたのです。騙されてはいけません。
 そのような「日本化」をもとめるむきは、どこにその思想的源泉をおいているのでしょうか。
 私にはその思想的全体像がわかっているとはいえませんが、少なくとも、それはキリストからのものではありません。

 #ページの先頭へ
 
 


Q 自分たちはアメリカに帰って事なきを得たとしても、日本のホームスクーラーの場合、
  迫害とか何かあった場合、どうするのですか。
A
  日本でビジネスマンとして働くクリスチャンや、在日の米国人宣教師の方から、“率直なご心配”とも“日本でホームスクーリングをすすめることの「無謀さ」を戒める”ともつかない親切な言葉をいただいたことが数度あります。
 日本国憲法には、第22-2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されないとあり、北朝鮮と違い国籍離脱の自由は保障されているので、いざとなったら米国移住も可能です。けれども、どんなに米国でホームスクーリングをおこなうほうがいいとしても、私は日本でホームスクーリングをおこなうことに意味があると考えてきました。それは、ホームスクーリングが米国の一過性のムーブメントではなく、家庭を聖書的な基盤を取り戻す改革運動だと思うからで、これは日本で不可能だということはないという信仰の立場に立ったからです。
 もし日本の法律がホームスクーラーにとって今より厳しくなったとしたら(たとえばブラジルのように禁止されてしまった場合)米国に“逃げる”という対策があるので、日本よりも米国で生活したほうがいいと思われるかもしれませんね。
 それだけに、日本でホームスクーリングを始めた場合、米国よりたくさんの困難があるのだと覚悟しなければならないでしょう。ただし、度合いの違いこそあれ、米国でもホームスクーラーは1%に満たない数なのであり、日本と同じような様々な困難と隣り合わせにおかれているのであって、ただ外国移住するだけで万事解決とはいかないのです。
 私が「ホームスクーリング祈祷会」を開始したのも、日本でも自信をもってホームスクーラーとなる家族が増えるようにと願い、これから日本でクリスチャンホームスクーラーとなるためには、クリスチャンが共同体としての祈りをもって支えることが絶対に欠かせないと確信したからでした。使徒パウロは、「私たちの戦いは血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいるもろもろの悪霊を相手にするものなのです。」(エペソ書6章12節 共同訳)と言いました。この聖句を根拠に“祈祷会”にこだわったのです。「祈祷会よりも、セミナーや個性的な名前にしたらどうでしょう」という提案があり、窓口を広くして関心のある人々のさらなる参加を促すのも一案でした。
 しかし、人数が多いか少ないかは無視しました。たとえ人数は少なくとも、クリスチャンホームスクーラーの集いとし、聖書信仰の立場が明確にされて、初代教会のように祈りの力を信じる熱い祈りの会が今の日本のホームスクーラーにとってもっとも大切な確認だと信じたのです。また、「ホームスクーリングばかりでなく、チャーチスクールの方にも参加しやすくするために、チアのように「チャーチ&ホームスクーリング」祈祷会にしたら」というご提案もあり、どんなレベルの方も多く参加できる会が望ましいのかもしれないとも思いました。
 しかし、今の日本におかれているクリスチャンホームスクーラーの霊的な状況は厳しく、初心者の方への配慮はいつも必要としつつも、互いに祈りの重荷を負いあうネットワークが各地に誕生すべきと思いました。地域の中で、奮闘するホームスクーラーにとって、米国のホームスクーラーの支援は大きなものですが、なんと言っても英語のコミニケーションになり、そしてインターネット環境が主体になります。むしろ、ネットワークが顔と顔が見える関係という、地域性がホームスクーラーにとって必要だと思いました。そのような地域ネットワークの働きはパラチャーチに近い働きであり、地域教会が主体的におこなうチャーチスクールの活動や支援と区別されるべきではないかと考えて、あえて“チャーチ&ホームスクーリング祈祷会”とはせず、より狭く的を絞った「ホームスクーリング祈祷会」としたのでした。
 もちろん、「ホームスクーリング祈祷会」の働きがそれだけあれば安心などというのも間違いです。各家庭ごとの課題があり、それぞれの課題をまず各家庭が信仰の面でしっかり受け止めていただきたき、ホームスクーリングを通じて親や子どもたちが信仰の成熟を得ることだと思うのです。現状は、すべての教会がホームスクーリングを受け入れてくれるのではありません。時には、クリスチャンが最も強力な迫害者になる事例さえあとをたちません。そのような個別のホームスクーラーが教会のなかで証をたてるように、しかし、場合にはホームスクーラーを迫害しない教会に転籍する“転地”を支援するなど、地域型のネットワークが機能しなければならない分野はとても多いのです。
 それに、ホームスクーリング祈祷会の働きは、「チアにっぽん」など、これから誕生するであろう全国規模のネットワークに接続することもねらいの一つです。ホームスクーラーは、しばしば、自分の意見を絶対化し、傲慢と孤立化の危険に晒されることが多いので、同志の兄弟姉妹から学ぶ必要があるからです。そして、同時に、家庭や親族、そして教会からも迫害される場合もあり、さらにローカルにホームスクーラー同志が祈りつつ支え合う必要があるのです。そのような、地域ネットワークが日本全国に生まれて、互助的に機能するようになるのを私は願っているのです。
  米国とのコネクションが与えられていることは大切で感謝なことです。本当に問題があった場合に「それは国内問題なので、自分たちのことは自分たちで」となるのはむしろ当然の流れです。もちろん、アメリカのホームスクーリングサポートが、自分の国のことばかりでなく、たとえばHSLDAのように、外国のホームスクーラーを支援する働きを積極的になさっていることも心から感謝したいとおもいます。
 しかし、日本でも米国のようにホームスクーリングがさかんになり、法的にも「ホームスクーリングの自由」が認められるようにはならないとは誰もいえないでしょう。逆に、米国並の迫害がこないともいえません。いえ、私は日本でも米国のように「行政側の譲歩が引き出される日」が必ず来ると信じているのです。
 私は、「ホームスクーラーに何かがあったら、米国に逃れる以外に手段がない」という国にしないために努めたいのです。
  #ページの先頭へ
 

 
 


Q ホームスクーリングのなかで、父親としてどうあるべきなのか困ることがあります。
A
   父親だけ、もしくは母親だけのシングルの家庭でも、ホームスクーリングが可能だという考え方をまずおさえておきましょう。
 その場合、可能性の鍵となるのが教会です。教会には、教会の子どもが、自分たちの子どもであり、(あるいは自分の兄弟姉妹として)共同体の一員なのだという認識が求められています。「 神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」 (マルコ 3:35 )とある通りです。クリスチャンには教会が与えられていて、子どもの養育に関して、主イエスが子どもの父親となり、教会が母親のようになって、全く「家族」として十全に機能するのです。
 まずそれをふまえた上での話ですが、ホームスクーリング環境の中で家庭の中の父親は、どのように過ごすべきなのかは課題です。
 もし、ホームスクーリングをはじめていないで、一般的な気風に馴染んでいるなら、「教育とは母親のする仕事、父親はひたすら経済的に家をささえるのが仕事」というふうに、子どもの事から全く手を引いてしまう例がほとんどですが、いざホームスクーリングを始めたとなると、「ホームスクーリングとは母親の運動ではなく、家族に対して聖書の基礎を回復させる運動です。」(ジュリー・ホーンさん)といわれるように、父親の働きが期待されてきます。
 父親の役目は、子どもとの時間は実際には母親とすごすことが多いので、私の場合は妻の相談相手になり、共に祈る時間が多くなって、副産物というより、それがホームスクーリングの祝福のひとつのように実感しています。夫婦が細かなところまで、教育方針を一致させるための話し合いと祈りが求められます。ですから、子どもとの関係をどう扱うかより、「ホームスクーリングをおこなう妻をどのように受け止めたらいいのか」ということが優先されるべきでしょう。父親が直接子どもに対して言う言葉よりも、父親が妻に対して「子どもの教育は〜あるべきだ」と黒子のように要求することの影響のほうが大きいのです。しかし、ホームスクーリングにおいては、妻が担当しているという考え方そのものを反省することが出発点ではないでしょうか。私にホームスクーリングを伝えてくださった宣教師は、「ホームスクーリングを始める前に比べて、妻とデートする時間が長くなった」とおしゃいました。私はなかなか“シャイ”なので勇気がないんですが、時には「夫婦手をつないで公園の散歩」もいかがでしょう。
 では、「ホームスクーリングをおこなう妻を100%支援することだけが父親の役割なのか」というと、そうでもないのです。つまり、子どもの目線からすると、お父さんが自分の状態をどのように受け止めてくれるかというのが最大の関心事になるのです。たとえば教育方針について、子どもは父親の立場を優先するのです。
 子どもたちは「ホームスクーリングをやっているから何かができる」とか「何かができなのは、ホームスクーリングをやっているから」というふうに、良かれ悪しかれ、世間から(時には教会からも)ホームスクーリングの状態を付加的な価値判断として引き出されるのを負担に感じることがあるでしょう。その場合に、父親がこれをどう判断するかはとても大きいでしょうね。
 親が自分の子どもを学校の子どもと比較したがって、「この子はホームスクーリングやってるから何かができる」とか「この子はホームスクーリングやってるから何かができない」とかいうふうに、少なくとも周囲からはそのように見られる傾向があって、翻弄されるのです。
 そのような時、お父さんの役割は、そのような世の比較判断から子どもを自由にしてあげることかなと思います。もちろん、ホームスクーリングは時間があり、その子に一番適したプログラムを提供できるのでもし比較したら、良い結果をみるのはあきらかなのです。けれども、学校に行っている子どもと全く同じように風邪をひいたとしても、「ホームスクーリングをやっているから風邪をひいた」とかいいかげんなことを言われることで、子どもの心に負荷がかけられたり、傷がつけられたりするかもしれません。
 聖書の価値判断にしっかり立脚して、まず父親がこの世の価値判断や“ざわめき”に対して、“ぶれない姿勢”を示して防波堤のように動かないことが一番求められていると思います。父親は、荒波を行く船の船長のように、いつも家族に聖書のメッセージをつたえ、それに基づいてどの方向に行くかという決断を示す必要があるのです。
 いえ、実はこれこそが一番の優先順位ではないでしょうか。実際に教科を教えたりする優先順位は、どちらかというと低いですね。
 たとえば、体育については、これも周囲から「ホームスクーリングをやって家ばかりにいると肥満になる」という意見がありましたけれど、実際に肥満になっている子どもは、学校で受けるストレスが原因のようで、ホームスクーリングで育っている子どもたち(全国ですでに100名越えていますが)には肥満の例はみられません。でも、運動については、お母さんを休ませてあげるという意味でも、あえて「健康のために運動を」ではなく、お父さんの楽しみの一つとしてスポーツをレクリエーションとして取り入れるのは一案です。詳しくは別に述べますけれど、考え方として、集団競技から学ぶことは少なくないとはいえ、それがなければ子どもに社会性が身に付かないと考えることもないでしょう。
 (疲れて仕事を終えた父親にとってある意味で、それが一番難しいですが)どうぞ、家族との時間を楽しんでください。妻とすごす時間を楽しみ、子どもと過ごす時間を楽しんでくだされば、それがホームスクーリングをおこなう子どもが父親から受ける何よりの貢献になるのではないでしょうか。
 #ページの先頭へ
 


Q ホームスクーラーは、特に日本の教会から理解されないことが多いのではありませんか。
A
  ホームスクーリングと教会というテーマは、これからさらにいろいろな角度から考えていかなければならないテーマではないかと思います。
  これまで日本の教会の大勢がホームスクーリングを受け入れてこなかったのは、国家の教育戦略がクリスチャンの中にさえ深く浸透して、同時に、教会でも聖書の家庭観や教育観が正しく教えられてこなかったこととに原因があります。例外がなくもありませんが、ミッションスクールが国家の支配の下(もと)におかれたり、学歴主義など世俗化との戦いに敗退して信仰コードを放棄してきたことなど苦戦の歴史に枚挙がありません。さらには、ホームスクーリングを“反教会的なカルト集団”とを混同されて、理解が入り口から妨げられてきたことも事実です。
 「解決マニュアル」のようなものは全くありませんが、ただある程度の提案として受け止めていただければ幸いです。
 もし、教会がホームスクーリングに理解がなかったとしても、“セカンドドア”として、たとえばより学校色が近いチャーチスクール活動には理解を示してもらえる事例があります。ホームスクーリングへの批判を回避するために、とりあえずチャーチスクールを選択し、実質ホームスクーリングをすすめるという“カムフラージュ”が有効な場合もあると思います。ただし、それはあくまでカムフラージュなのだといえます。このHPでも何度か言及していますように、世界観や教育理念など共通項は決して少なくないものの、ホームスクーリングとチャーチスクールには、子どもを親が指導するか、親以外の教師が指導するのかにおいて、大きな区別が存在します。それでも、教会がチャーチスクールの母体になっていたり、校長が牧師であるような場合にはクリスチャンホームのために有力な味方を得らえるかもしれないでしょう。
 “かもしれない”などと歯切れの悪い言い方をしたのは、存在しているすべてのチャーチスクールが、ホームスクーリングへの理解に基づいて運営されているのではないというのもまた一方の事実だからです。積極的に考えていたけるなら、ホームスクーラーにとって、チャーチスクールはサポートとして用いられる可能性は十分あるのだといえるのです。
 では、もし、チャーチスクールを運営していなくても、教会が「児童伝道」に熱心であったり、教会学校がさかんな場合はどうでしょうか。
 私の経験では、「児童伝道」を熱心にすすめている教会だからといって、必ずしもホームスクーリングに熱心とはいえないということです。かえって、教会は子どもたちを積極的に「学校の子ども」として育てることで、地域へのあかしをしようと志そうとしてきたといえるかもしれません。
 学校の中で困難にもかかわらず戦っているクリスチャンホームからすると、ホームスクーラーの家族は“戦いを避けて”“敵前逃亡している”とさえ写ることでしょう。(もちろん、実際には学校に子どもをやることは、“宣教戦略”の装いをしていますが、子どもたちが信仰を失い、敗退した事例のほうが多かったのです。)
 同じような理由から、教会学校がさかんにおこなわれていても、残念ながらそれだけではホームスクーリングを受け入れ入れてくれるとはいえないのです。かえって、「登校していない子どもが来ると、苦労して泣きながらでも登校している子どもたちに、“不登校”など安易な道を教えることになるので、ホームスクーラーはおことわり」などという冗談のような実話があるくらいです。
 そのような教会の教会員であった場合、解決策は2通りあります。つまり、忍耐をもって、ホームスクーリングを理解してくれるようになるまでその教会にとどまってあかしし続けるか、それとも、ホームスクーリングを理解している教会(もしくはチャーチスクールを運営している教会)に移転するかいずれかです。
 クリスチャンにとって教会生活は基本であり、ホームスクーリングをしていようがしていまいが、信仰をはぐくまれ養われるべき“母なる教会”なのだといえます。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エペソ1:23)とある通りです。私の場合はというと、チアマガジンにも書かせていただいた通り、当然最初から理解されたわけではありませんでした。このまま留まるのがみこころなのだろうかと思うことも何度かありましたけれど、結局転会するようには導かれず、たとえ困難であってもその場に留まってあかしをするように導かれました。米国の場合、むしろ長老教会こそがホームスクーリング運動の牽引役になっていると知っていましたし、ホームスクーリングの基礎となる信仰の立場は、むしろ長老系(リフォームドともいわれる)にあると教えられていたからでもあります。(日本の場合、この傾向はむしろカリスマ系・ペンテコステ系の教会が先行していて、リフォームド系の教会はホームスクーリングに対して少なくともこれまではとても冷ややかでした。これは米国の事情と大きく違います。)ほぼ、10年くらい荒れ野の不毛の地に留まっているかのような印象がありましたが、ここにきて、少しづつ理解されるようになってきました。異端扱いだったのが、米国宣教師はじめ多くの祈りの結果として、情報が伝達されてきたからだと思います。
 でも、私の家族の経験は一つの参考になるかもしれませんが、この問題の指針もしくは基準にはなりません。
 その理由は、親が教会から理解されるために闘うのはいいとしても、子どもたちにとっての10代の年代はあまりに貴重であり、ホームスクーリングのなかで過ごす時間は早く過ぎると思うからです。教会の礼拝にいく度に、無理解の空気に晒されて、おまけに理解のない信徒から発せられる心ない質問は、ホームスクーラーの子どもを傷つけるのです。そのような場合、親は子どもたちの環境を守る責任がありますから、ホームスクーリングを受け入れてくれる教会への転会も含めて、主に導きを祈りもとめる必要があるでしょう。
 もちろん、信仰からくる「出エジプト」を経験したとしても、荒れ野におかれたイスラエルにとってそこは試練の連続だったように、ホームスクーリングに理解のある教会に転会したからといってすべてバラ色の世界が開かれ、全面的な解決になると思わないほうがいいでしょう。それは、地上には完全な教会はないと同じように、すべてのクリスチャンがホームスクーリングに理解があるということはありえないからです。
 私は、別のページでホームスクーラーは独立性が高いために、“勝手”な行動を取りやすいと指摘しました。すべてのクリスチャンにとってそうですが、でもホームスクーラーにとっては特に、教職者やリーダーなど、教会からの真摯なアドバイスに謙遜に耳を傾けなくなる誘惑に陥りやすいということも指摘したいのです。その一方で、人情や人間関係だけを判断基準にしないで、ただ信仰のゆえに「出エジプト」しなければならない場合もあります。その場合は、人にではなく、主の召しに従わなければなりません。そして、ホームスクーラーとして最善のあかしになるような配慮と、将来においてもその教会と継続したつながりをもつように心がけていただければと願います。
 それは、日本でも「ホームスクーリングは教会の宣教活動の中心である」と受け入れられる日が必ずくると信じているからです。

  #ページの先頭へ

 
  
 
 


Q 学校に対しては、それほど敵対心をもたなくてもいい所だと思います。いいところもたくさんあるのではないでしょうか。
A
   似たようなご質問を、5年前に受けたことがあります。教職者の一人でしたが、彼のは「ホームスクーリングは理想としてはわかるが、実際には違和感がある」という意見で、私が牧師を罷免された時期に、慰めていただいた側にありました。
 「牧師をやめさせられるようなことまでして、学校に反対することはないでしょう。学校にもいいところがたくさんあるのですから、もちろん問題はどこにだってあるのだし、“肉を切らせて、骨をとる”ということわざもあるでしょう。」というアドバイスでした。 わたしはそれでもホームスクーリングの道を進んだことにためらいも迷いもありませんでした。
 学校のいいところは、それはそれで受けた上で、クリスチャンの価値観は、親がしっかり教えていれば、子どもは育つという楽観主義は、学校の問題や反信仰的な側面への警戒感を麻痺させるための“モルヒネ”のような働きをしてきました。日本にクリスチャンホームスクーリングが紹介されて、20年以上になりますが、ある程度結果をみることができます。
 結果は、非常に明確だというのが、今の私の感想です。
 ただし、学校のみで育った子どもたちのすべてが、信仰継承していないわけではありません。長老教会のケースについていうと、おおまかに100名ほどの子どもが生まれたとして、その中の10名くらいは、りっぱに献身して、教職者等の道に進んでおられるか、信徒として活躍しておられます。でも、あとの90人の場合、たとえばノンクリスチャンとの結婚を選択するとか、教会生活をやめてしまうとか、信仰からのドロップアウトを含めると、ほぼ90人は信仰の道を進んでいるとはいえません。この傾向は、日本のキリスト教会全体の問題です。(長老教会の場合、幼児洗礼を基礎にした聖書教育を告白していますが、くれぐれも“幼児洗礼”の教理に問題があったのだとか誤認されませんように。信仰継承の問題は、いまや教会・教派を越えた問題だからです。) 
 学校は、2000年の「国歌・国旗法」から、国家主義の方向に大きく方向転換しました。東京都では、入学式卒業式の式典で「君が世」を歌わなかった教職員に対して処分がおこなわれ、再研修を命じられ、それを拒否したものは、再就職できないようになっています。一方で、「学校に行かない子どもたちは、障碍があるか、それともニート予備軍である」という考え方の基本を、全く変更しないまま、医療機関や警察機関との連携が強化されてきました。自治体の判断とはいえ、かつては子どもの人権にかかわるとして難色を示されていたのに、凶悪事件がある度に「監視カメラ」がほぼ義務化されたような地域もあります。たとえば、文部省(現在の文部科学省)が1992年に「不登校は、すべての子どもにおこりうる」という答申を出す前と、それ以降は環境が変わりました。それまでは、行政は、「不登校」にそれほど本腰を入れてこなかったのですが、その答申以来、「日本から学校に行かない子どもをなくする」という立場にかわり、早期発見と、早期対策にやっきとなり、校長には、不登校の子どもの数を提出させ、人数目標をたててその数を減らすことができなければ校長の身分もあやうくなるといった強行策が出されるようになりました。同時に学校カウンセラーを増加させましたが、この場合のカウンセラーの役割は、子どもの側に立った文字通りのカウンセラーではなく、「子どもを学校に再登校させる」ことだけが使命とされました。(再登校が良い結果を生むケースもまれにあるのですが、多くの場合、うまくいきません。その理由はここでは書ききれません。)
 いずれにせよ、1960年代から1990年までの学校環境と、1992年から2000年にかけての変化を遂げた学校環境は、違います。その変化は、クリスチャンの信仰に大きな影響を与えるほどの変化であり、「反キリスト」とも呼べるものです。
 ですから、学校について何の危機感も覚えていないのは、認識不足が原因だと思います。

 なべの中に入れられたカエルは、なべの水の中気持ちよく泳いでいます。火をいきなり強くするとカエルは飛び出しますから、賢い料理人は少しづつ暖めていくのです。そうすると、最初はかえって気持ちよく泳いで、出ようとしないので、ついに熱湯になった時、カエルが異変に気がついたときには、飛び出る力も失い、ついに釜ゆでになるのを待つばかりなのです。
 学校の中のクリスチャン子弟たちもこれと同じです。いや“飛び出るような活力がなければ社会のなかでクリスチャンとして生きていけない”ですか?むしろ、子どもたちは「信仰があったら日本社会では生きられない」というクリスチャンの親が願ってもいない“反キリストの知恵”を学んだのではありませんか。
 
 #ページの先頭へ
 


Q ホームスクーリングの実践は、日本の歴史認識のような政治問題とは関係がないように思えます。
A
    メティカフ元OMF宣教師は、「闇に輝くともしびを継いで」(いのちのことば社 Haru-san(^_^)/~の推薦書としても紹介させていただいています)の中で、少し長い引用になりますが、次のようにおっしゃっています。
 
  1989年に昭和天皇が死去すると、そのことをきっかけにし私の過去を知っている多くの人から、戦争中の体験についていろいろと聞かれるようになった。それまでは驚くほど、この話題については触れられてこなかったのである。たまに私のほうからこの話を持ち出すと、嫌な顔をされるのが常だった。そして聞かれ始め、話し始めているうちに、私は日本の若い人たちが、いかにあの戦争を知らないでいるかに気づき、驚かされたものである。戦争と言えばヒロシマと思っている人が多いのではないだろうか。被害者になる前に加害者であったことについては、びっくりするほど無知である。中国での認識はまったく違う。私は、2000年に久しぶりに中国を訪れたが、どの本屋にも日中戦争時代に日本兵がした残虐行為のイラストが入った本が置いてあるのを見て驚いてしまった。深い怒りと憎しみが若い世代に受け継がれている。この本の冒頭でも述べたが、こうやって熱心に憎しみを次世代に伝えようとする姿勢にも問題はあると思う。しかし、被害者がそうしたくなる理由は何だろうか。加害者側があまりにも無知で無関心だからである。今、中国には日本のビジネスが大きく進出しているが、日中の過去には、少しも興味のないビジネスマンたちが、わがもの顔で横柄に振る舞っている。(もちろん、みんながみんなそうではないが、)かつて日本軍が侵略し踏みにじっていった東南アジアで、安く買春できることを喜んでいる日本人も少なくない。こうした態度が、何年たっても痛めつけられた側の傷を癒やすことなく、かえって深いものにしていくのは、当然ではないだろうか。
(129-130ページ) 

 メティカフさんがここで指摘しておられるように、戦後の学校教育は、日本の過去についての教育を全くといっていいほど子どもたちに伝えてきませんでした。私のように青年時代から、問題意識をもってきたのは例外のようなもので、かえって「家族のどなたかに、共産主義の方がいて、その影響を受けたのですか」とかいわれて怪訝な顔をさせる始末でした。(私は、歴史認識の必要性を感じていますが、共産主義思想に染まっているとか、身内に共産党関係者がいるわけではありません。)
 ホームスクーリングで育った子どもたちは(これはチャーチスクールでも同じだと思いますが)せっかく学校教育から自由な環境におかれているのだとしたら、科学の分野で、聖書を基盤にした創造科学を教えられていると同じように、歴史教育の分野でも、聖書の教えに基づいた近代の歴史認識、とりわけ過去の戦争の加害者の民族として東南アジアの諸国民に何をしてきたのかをもっと正確に学ぶ機会があるのではないかと考えてきました。しかも、クリスチャンホームスクーラーは、「悔い改めを通じて、すべての罪を許す力のある神」につながっているのですから、「史実を学ぶことは自虐的だ」などという立場に足下をすくわれなくてもすむのではないでしょうか。
  首相のヤスクニ参拝がなぜ問題とされるのか無知なままでは、中国を含めた近隣アジア諸国に、ビジネスマンとしてであれ、宣教師としてであれ、(社交辞令は別として)、現地の人々との深いところでの継続的な接点を失うことでしょう。過去の犯罪の悔い改めを通過しないまま、「東南アジアとは何か」を語ることさえ無理なのです。私は、ホームスクーラー出身の宣教師がこれから日本からも多数召しを受けて遣わされると思います。そのことを期待する者の一人ですが、歴史認識の学びを通過しないまま宣教フィールドに就くことに懸念を覚えています。
 これらのことをふまえて、私は、ドイツのバジレア・シュリンクの言葉を別のところで紹介しています。主がこの国に対して求められていることは、ドイツに対することと何らかわりありません。バジレア・シュリンクが、ナチスドイツの仕業に対して感じたことを、日本にいる私たちは、近隣アジア諸国に対して、日本軍がおこなった残虐行為に対して感じ、主に許しをこわなければなりません。それは、この国が真に生かされていく(人生の希望を回復する)道は、悔い改めを通じて、全能の神のまえにぬかずき、キリストによる許しを受ける以外にないと強く思わされているからです。
 「まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのためい、願い、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(第一テモテ2:1)と教えられているクリスチャンは、日本の過去の深い闇のなかに、ともしびを掲げることのできる唯一の民なのではないでしょうか。
 そして、さらにクリスチャンホームスクーラーは、なおさら歴史の学びを通じて、歴史の学びを深めることで、さまざまな分野でりーダーシップをることができる素地があたえられるのだと思います。
 主が導いてくださり、実現できるように祈りもとめ続けている“沖縄研修ツアー”もその一環です。
 #ページの先頭へ
 
 


Q クリスチャン家庭のすべてが、ホームスクーリングで子どもを育てるとか、チャーチスクールに入学させるなどしなくてもいいのではないでしょうか。
A
   正直いうと、私は最初「子どもたちを学校に入れても、確実に信仰を守らせることができるという信仰がなかったので、ホームスクーリングをはじめた」という消極的な態度でした。もちろん、後になって様々な書物からホームスクーリングがさまざまな祝福の源泉であることを知らされていくのです。でも、いいかえれば、子どもを学校に入れても子どもが信仰を継承してくのだという確信をいただいた上で子どもを危険な学校環境に送る親はまれです。いえ、どれだけ信仰的な決心を伴っていなかったか、どれだけ信仰の妥協をベースにしていたのかをむしろ問わなければならないのではないでしょうか。
 クリスチャン家庭に子どもが生まれる時、子どもが親の信仰を継承するかどうか、親が決めるのではなく、子どもの意志に任せるという立場をクリスチャンホームスクーラーはとっていないのです。ですから、クリスチャンホームは、子どもへの信仰の継承について、それは“親が決めるかどうか”にかかっているというのではなく、主からの明確な命令が与えられているのだと受け止めなければなりません。(すでに別のところでも論じてきましたので、聖書の引用は省略します。)
 本音はどうあれ、「子どもを学校に入れたとしても、親が子どもの信仰を監督して、道をはずれないようにし、特にノンクリスチャンのなかであかしを立てさせることがクリスチャンの使命ではないか」といって、子どもを学校に“宣教師”のように遣わしてきたのでした。しかし、クリス・クリッカ弁護士が「ホームスクーリングの心」のなかでふれているように、子どもを宣教師として遣わし、学校を聖化させるとの試みはことごとく失敗に終わり、むしろ、熱心なクリスチャン家庭の子どもたちが、学校文化に浸りきったことで、完全に教会からも信仰からも離れてしまう例があとをたたないのではないでしょうか。
 今の日本の学校制度は、戦前戦中教育でつかわれた「国体の本義」「教育勅語」などにみられるように、天皇主権のもとに軍国主義が支配していたことをふまえたうえで、「教育の中立」を言ってきました。しかし、実際に教室でおこなわれてきたことは、「聖書が良い本だとは認めつつも、宗教書を絶対的な教典とするような洗脳から子どもを解放しなければならない」とか「聖書を信じるのは悪くはないけれど、さまざまな思想について研鑽を積んで、判断力がつく成人になってからでも遅くない。若い頃は、特定の思想に凝り固まらないほうがいい」などとまことしやかに、反キリストの教育がなされてきたのでした。
 聖書の価値を古典の書物と同等に扱わせ、キリストを尊ばないばかりか、進化論や国家主義によって、キリスト以外の権威のもとにひれ伏させることに成功してきたといえるでしょう。
 もちろん、そのような劣悪な環境におかれても、しぶとく信仰を守り抜き、献身まで勝ち取った子弟がいるでしょう。また、劣悪な環境でも、まっとうな教育を願っておられるクリスチャンの教育者のことも尊ばなければなりません。しかし、そのようなわずかな例外をもって、全体の反キリスト的な教育内容の危険度を、見逃させてきたのではないかという指摘があります。(「OPCの立場」参照)
 このように考えてきますと、本当に問題にしなければならないのは、信仰継承を示されてホームスクーリングをはじめたり、危機感をもってクリスチャンスクールを子どもの進路にとる親ではなく、たとえば何の危機感や問題意識もなく、公立学校に子どもを送り込む親の側ではないでしょうか。クリスチャンの子弟が信仰を継承できないという現象を、学校問題と学校に全く委任してきた親の責任以外に探し求めてはならないのです。いえ、そのような親の曖昧模糊とした信仰の妥協のなかに、信仰喪失の原因があるのだと認識しなければなりません。
 「子どもが信仰を持つのは、子どもの意志によるのであり、親が押しつけるものではない」という意見は、ヒューマニズムに基づくのであり、聖書から教えられたスタンスとは相容れません。「学校は、もともと子どもから信仰を失わせる環境なのだ」という危機感を持たないとしたら、それは親の罪だといわなければならないのです。
 子どもの信仰のために、親が努力しないのは罪です。
 いえもっとはっきり言いましょう。クリスチャンである親は、“子どもを学校に入れることで教育の努力を示しているのだ”と言ってきたのですが、もちろん、例外があるとはいえ、そのほとんどが美辞麗句にカムフラージュされた“子育ての責任の放棄”の罪だったのではないでしょうか。あなたは、子どもを塾に通わせるための資金を稼ぐ努力をしたかもしれません。あなたは、子どもを有名学校に入学させるための資金を稼ぐ努力をしてきたかもしれません。しかし、どれだけ子どもの心を主にあって理解しようとしてきましたか。あなたは、子どもの健康のために自然食品を与えようとしてきたかもしれません。でも、どれだけ、子どもの心の中に思想的な毒物や異物が入り込んでくる危険性について敏感だったでしょうか。どれだけ、クリスチャンの親として、主から与えられた教育の賜物を自覚してきましたか。「学校は教育の専門家」「学校は、日本で生きるための社会性訓練のための登竜門」といわれてきたことに、聖書の立場から、何の対抗策を立ててこなかった責めを負っているのではないでしょうか。
 すべてのクリスチャンホームがホームスクーリングに導かれるとはいえないでしょう。
 けれども、これからの時代は特にホームスクーリングを教育の基礎にしていないクリスチャン教育の理論は何であれ、世の教えと聖書の教えのダブルスタンダードに子どもを追いやることになります。いえ、子どもたちは劣悪な環境でも、たくましくサバイバルして、聖書の確信の上に立つことができる少数があるかもしれません。しかし、ホームスクーリングに対して無関心であるか、もしくは敵対心をもつようなら、親が子どもの魂を地獄に送り込む手助けをしているのだと気がつかなければなりません。結果として、親は「自分の信仰はこの程度なのだ」などと自嘲的な自己卑下に追い込まれるだけなのでしょうか。いえ、厳しい言い方かもしれないですけれど、やはり、学校教育に子どもの成長を全面的に委任してきた結果を見ているのだということ、自分のホームスクーリングへの批判は間違っていたのではないかと、悔い改めと再考とをうながされているのではないでしょうか。

  #ページの先頭へ
 
 

 
 

Q 子どもをクリスチャンスクールに通わせています。でも、うちの子どもにはホームスクーリングのほうがあっていると思うようになりました。
A
  「いっぱひとからげ」に扱えないので、もっとくわしく伺わないとわからないことがありますね。
 でもせっかくですから、とりあえず一般論としてだけ、おききください。もし、クリスチャンスクール(チャーチスクール)に子どもが入学しているうちに、親が次第に子どもの特徴について理解できるようになり、チャーチスクールの集団よりも、ホームスクーリングのなかで自宅でじっくりというスタイルを選びたいとなったとしたら、それが本来の「親が子どもの学習手段について適切な判断を得た」ということに近いのではないでしょうか。もちろん、反対の場合もあります。ホームスクーリングがしんどくなるという、いわば親の側に課題があるケースではなく、親が子どもの適性として「チャーチスクールのような集団のほうがいい」とみなされる場合もあるからです。ただ、一般論としてではありますが、第一に学校問題を解決する糸口として、「ホームスクーリングは、我が家にはまだ無理なので、とりあえず共通の考え方に立つチャーチスクールに」という段階を経て、いわば第2段階として、やがてホームスクーリングについて学び、確信が深まって、クリスチャンスクールからホームスクーリングに切り替わるということがみられるのです。その意味で、ホームススクールとクリスチャンスクールは、同一の教育方針(世界宣教、弟子訓練、悔い改めの歴史観)を分かち合えたとしても、両者には区別があるでしょう。
 私の小さな経験から、お伝えしておきたいことがあるとしたら、米国では、この両者の運動は、それぞれ早い段階から明確に区別されているということです。ジュリー・ホーンさんやケビン・スワンソンさんにも、このあたりの事情をうかがう機会がありました。私は、クリスチャンスクールを運営しているスタッフの側に、「親だけで子どもを教育するのは不可能」という哲学があるのではないかと思います。いえかえって、 「ホームスクーリングに対して一番迫害してきたのは、ソーシャルワーカーと、クリスチャンスクールでした」(ジュリー・ホーンさん)という言葉さえあります。もちろん、米国は米国の事情があるかもしれないと想像します。しかし、両者の区別は、国が違うからなのではなく、教育についての“捉え方”という面にあるのだと思わされます。ですから、国は違っても、たとえばもっと集団教育指向が強い日本でも、チャーチスクールを運営する側で、“ホームスクーリングで親だけで、子どもを育てることには無理である。”と考えておられる節があるのではないかと疑います。
 そのような思想を背景、教室の中で生徒の絶対数の確保したいという運営上の課題が被さってきますので、“ホームスクーリングだけでは頼りないでしょう。あなたのお子さんの教育のために、ぜひ私たちにも手伝わせていただきたい”となるのでしょうね。ホームスクーリングを確信している親御さんの側からすると、これがたとえ親切な言葉からだったとしても鼻持ちならないと感じるでしょうね。“ホームスクーリングを軽視された”“ホームスクーリングをわかっていない”と受け止められてもしょうがないです。(もっとも、すでに別のQ&Aでふれていますように、ホームスクーラーの側にも、良くも足しくも独立自尊の傾向があり、他のクリスチャンの主にあるアドバイスに耳を傾けようとしないとか、十字架を負って主にあって無理解と闘う道より、礼拝・教会生活を疎かにして怠惰に流れるとかの誘惑はあります。)
 もともと、「ホームスクーリングだけで子どもを育てるのには無理がある。」というのは誤解なのではありませんか。つまり、ホームスクーリングはその出発点から、教育が親だけに占有のものだとはみなしていないからです。え?意外?でしたか?子どもの教育について、親が全面的に第一義的な責任を負わなければなりません。それで家庭、もしくは家庭環境がもつ教育力を最大限に引き出そうとします。けれども、別のところでふれていますように、子どもによってコースは様々なのです。教育が学校に「一元化」されてきたことが問題ですけれど、子どもの性格や年齢、それに地域環境などを条件に、よりきめ細かで適切なコースが何なのか判断ができるというのは、教室で教師がするより、専門家である親なのです。クリスチャンスクールが子どもにとって最善であると親が判断したなら、是非、そのような環境を与えていただきたいのです。けれど、もし、子どもがクリスチャンスクールの環境に無理があると親が判断できるなら、(クリスチャンスクールには、運営というもう一つの課題があるので、迷惑になることを承知の上で)子どものために、ためらわずホームスクーリングに移行していただきたいのです。

 #ページの先頭へ
 
 
 
 
 


Q 家で子どもと過ごすのに疲れてきたので、どこかのクリスチャンスクールに入れたいと思います。
A
   一日中子どもの相手をしなければならず、自分の趣味や友人とおしゃべりで過ごす時間が全くとれないという不満は、ホームスクーリングをしているお母さんたちが一度は通過するんでしょうね。
 それは、子どもを小学校に入れる時期になって、学校に子どもを送る母親が感じるのと、とても似通っていると思います。
 つまり、学校に入れることで「やっと子育ての重荷から解放されて、自分の時間がもてた」と思うでしょう。もちろん、ホームスクーリングをするためには、とりわけ母親が子どもと過ごす時間が非常に多くなりますから、ホームスクーリングをはじめるとき躊躇(ちゅうちょ)する本当の理由は、「自分の自由な時間を子どもに奪われたくない」とか、「ホームスクーリングで子どもと過ごすやっかいな時間より、学校に行ってもらって、自分の時間ができて、気の通じ合う仲間とおしゃべりしているほうがずっと楽しい」ということになります。でも私が実際に耳にしたのは、おそらく学校に子どもをやるための大義名分としてでしょうけれど、「子どもをノンクリスチャンの環境にあえて入れて、そこでクリスチャンとしてのあかしができるような訓練を与えるのが大切ではないか」とか「学校に行って、あかしをたてないで、どうして地域の中で宣教をおしすすめることができるか」というのご意見に多く接してきました。
 そのように子どもを公立学校に送った結果として、多くの子どもたちが学校の中で信仰を貫こうとして失敗し、かえって信仰を失い、世俗主義や唯物主義に身を委ねていくいくつもの姿を悲しみとともに見てきました。「熱心なクリスチャン家庭なのに、熱心であればあるほど、子どもが信仰を継承していかない」という現象の、これがいわば“からくり”のようなものです。“ミイラ取りがミイラになった”という格言は、悲しいながら、このような熱心なクリスチャンホームの惨憺たる過去についてもあてはまるのではないでしょうか。ですから、学校が子どもの信仰にとって、深刻なダメージを与える場所だと確実にわかった上で、なおホームスクーリングを断念するようなことは避けたいと願うのです。
 ご質問の方は、様々な事情からホームスクーリングを継続できなくなって、公立学校に再入学させる気にはとてもなれないけれど、クリスチャンスクールなら選択肢になるのではないかというご意見だと読みとれます。
 私は、10代の子どもにとって、ホームスクーリングが最善と確信していはいるものの、ホームスクーリングを絶対視すべきではなく、子どもや家族によって、多様なコースがあっていいのだという立場に立っています。家庭によって、子どもの時期によって、いろいろなコースやスタイルがあっていいのではないでしょうか。お子さんが中学生とかの年齢に達していた場合、ホームスクーリングだけが視野にあるというのでなく、子どもによっては、スクーリングを組み入れた生活のほうが好ましい場合もあると思います。それに、公立学校と、ホームスクーリングの間にあって、その中間策ともいえるクリスチャンスクールに導かれて、そこで、多くの祝福を得ておられるご家族も多数存じ上げています。たとえば、そのクリスチャンスクールは、ホームスクーリングの心を受け入れてくださると同時に、本当の意味で“ホームスクーリングを補完する意味で”サポートを示しておられるのだとしたら、すばらしいことです。もし、そのようなホームスクーリングマインドに導かれたクリスチャンスクールと出会い、つながりをもてるなら、主にある同志との交わりを得て、きっとホームスクーリングについてのさらなる確信をもつことができるでしょう。
 でも、最初に話題にしましたように、とりわけ10歳前後のお子さんをもつ親が「自分よりいい教師がいるから」とか「自分の趣味の時間がほしい」とか「今より楽になりたい」というおもいだけで、ホームスクーリングによって確認された親の主導権を全面的に他人の手に委ねてしまうことには、やはり慎重であっていただきたいと願うのです。
 ファミリー・フォーカスのジェームズ・ドブソン博士は「子育ては、宇宙飛行士を育てるための訓練より、高価で大切で尊い仕事です」とおっしゃいました。子どもが幼年期に親子で過ごす時間とは、子どもの人生のなかでもっとも大切な珠玉の時間として与えられているのですから、他人まかせにするのは、すごくもったいないですね。もし、いろいろな事情でホームスクーリングがしんどくなって、別の道を模索するとしても、中途でクリスチャンスクールを含めた他人に預ける行動をおこす前に、ホームスクーリングのなかで、親としてののあり方に対して、主がチャレンジを与えてくださっているのであり、再構築を願っておられるのではないかとまずは受け止めていただいてから検討するのでも、遅くないのではないでしょうか。 
 
  #ページの先頭へ
 
 
 


Q ホームスクーリングのなかで、「反抗期」はどのように過ごしましたか。
A
 あくまで、原則論としてであるなら、「反抗」の原因である、親のダブルスタンダードが解消されて、聖書の教えによって一環した言葉と生活を維持できているなら、反抗期はないと思います。いいかえれば、親の言行不一致、「たてまえ」と「本音」のつかいわけくらい、子どもにとって躓きになるものはありません。言葉だけで、子どもに命令して従わせようとしても、親がその言葉通りに生きていなければ、どうして子どもがそれに従うでしょうか。
 監督(牧師や、教会のリーダー)に対しては、「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会のお世話をすることができるでしょう。」(第一テモテ3:5)とあるのであり、どんなにすばらしいメッセージが語られていたとても、自分の子どもが神に背を向けたような生活をしているなら、教会のお世話をする資格そのものが問われるという意味です。
 このような言行不一致のほかに、妻が夫に対して示す“軽蔑的な態度”も、子どもたちを反抗的にさせる“悪い模範”になっていはしないでしょうか。子どもたちは、母親が、父親に対して示す反抗的で傲慢な態度に習い、自覚してくる年代になると、まず父親に反抗し、そしてその矛先は母親にもむけられるのです。「反抗期」という用語すら、日本独特の流行語のようなものです。
 フェミニズムの立場は、多様な反面、ある程度の共通項があり、「男女同権」を錦のみ旗にして、夫に対して不従順であることが事実上奨励されてきたと思います。神が与えた夫婦の絆をあざわらうかのように家庭の価値を低くみる傾向を生み出したことで、たくさんの家庭崩壊と離婚が生み出されてきました。無意識のうちに受けている“フェミニズム”の余波は、クリスチャンホームにも入り込んできます。 
 親への従順を「あなたの父と母に従いなさい」という戒めを教え、そして、とりわけ妻が夫に対して(子どもからすると父親)への尊敬の態度を示し続けているなら、子どもが反抗的になることはありません。親への反抗は、10代の子どもが成長する段階で通る生理的な気質ではないのです。「理由なき反抗」などという映画がありましたが、“ムカツク”理由が認識できないだけなのではないでしょうか。
 子どもの主張を受け入れるか受け入れないかということで、たとえば親の方針を変えなければ、子どもは反発します。わがままからくるだけのこともあるからです。その場合は、反抗と区別しにくいかもしれません。
 娘が「学校に行きたい」と言い出した頃がありました。娘の態度は、その時、反抗的だったというより、周囲から自分が取り残されるような意識を知らぬ間に植え付けられていた結果だったと思います。ホームスクーリングに理解がない時期がしばらく続いたので、周囲から興味本位の質問を受けていたのかもしれません。しかし、親の方針に対して、理解が及ばなかったとしても、「従った」ことにはかわりありませんでした。周囲には学校以外の選択肢がないかのような風潮でしたので、子どもをホームスクーリングにとどめることで、周囲から入り込んでくる悪い影響から子どもを守ったことになったのだと確信しています。
 いずれにせよ、下の男子2人は家で親と過ごす時間に満足して、それなりに楽しく過ごすことを覚えていたので、反抗期のようなものはなかったと思います。おそらく、それがホームスクーリングをなさっている方の実感なのではないでしょうか。
 ちなみに、流行語がいつのまにか実体があるかのように語られたことの例に、「母原病」「不登校は、早期治療が必要」「ニート」があります。「母原病」は、その実体とは別に本当は子どもが学校に対してフラストレーションをもっていることを覆うために、母親が子どもの内部に登校拒否の原因をつくっているといわれたもの。学校が免罪されるために使われました。「不登校の早期治療」も、学校の教育方針の根本問題から目を逸らさせるものでした。ニートも、政府筋が「商品券」だの「年金100年」だのと、働かないでいきることに焦点をあわせながら、一方で老後のために若い人に働いてもらわなければならないというところで、まことしやかに「職業の必要」を語っているものでしょう。そんな政治の姑息なありかたに若者が反抗したとしてもしかたがないでしょうね。親子関係とは違って、こちらは恒常的になっているので、とても“反抗する時期だ”などとはいかないでしょう。

 #ページの先頭へ
 
 
 


Q いわゆる「性教育」は、ホームスクーリングでどのように扱いますか。
A 
  チアコンベンションの大阪会場で、ご質問いただき、このコンテンツではまだ紹介していないということがわかりましたので、さっそく今までのことを紹介いたします。 
結論からすると、クリスチャンホームスクーリングは性教育に関しても最善の機会となると確信しました。
 いえ、学校での性教育の実態に、子どもを任せるのは危険なことだと考えていたことが、ホームスクーリングを決心させるための要因の一つになりました。一般の性教材は全くつかいませんでした。それが、性行為唯物的で、家庭の価値を弱め、家庭への祝福を無視した内容となっていたからです。現象面の説明や、からだのしくみを説明するということで終始しないようにしました。
 それは、考え方の基礎として、人間観、生命観、結婚観、男女観に、聖書の基礎があるかないかで、全く異なると思ったからでした。クリスチャンは、未婚であれ既婚であれ、「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。」(ヘブル人への手紙13章4節)という言葉に従わなければなりません。
 ですから、男女の性の違いやしくみよりも、その男女の体のしくみをアレンジしてくださった創造主である方の存在と働きを信じて受け入れ、主が、結婚について、どのような計画をもって男女を創造してくださったのか、主が結婚によって、何をもとめておられるのか伝えることを優先したのです。
 主は「生めよ増えよ、地を満たせ」(創世記1章)とあるように、創造の初めから結婚を祝福されました。当然のこととして、そのような祝福のなかに、夫婦の性的な関係が含まれると理解できることは、クリスチャンの特権です。もちろん、クリスチャンではないホームスクーリングであったとしても、家庭、結婚、夫婦、そして妊娠と出産のプロセスは、分断した知識ではなく、トータルな“パッケージプログラム”として教えられるべきだからです。しかし、さらに、クリスチャンはホームスクーリングを通じて、結婚を通じて、子どもたちへの信仰継承を実現し、さらに主をほめたたえるようにも導かれています。
 結婚前に性関係をむすんではいけないこと。性関係は、夫婦に固有な関係であるということ。結婚は、聖い子孫への主の祝福を具現するための手段なのだと確信します。
 その意味では、ホームスクーリングのなかで、世俗の「新しい結婚観」〜たとえば、同性愛結婚や、堕胎を容認する立場とは峻別されていなければなりません。そして、聖書の捉え方とは、その対極ともいえる禁欲主義でもないでしょう。「後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それはうそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じたりします。しかし、食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝をしてうけるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみなよい物で、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何一つありません。」(第一テモテ4:3−4)とある通りです。
 そのようなわけで、ホームスクーリングをはじめてからこのかた聖書のメッセージを続けてきて、数度となく、結婚をテーマにして、10代前半あたり、第二次性徴があらわれる頃から、創世記1ー3章を中心に、「結婚と性、男女の意味、神と出産の関係」をテーマに教えてきました。6歳か7歳ころから、「クリスチャンと結婚して、クリスチャンホームをつくれますように」という祈りを取り入れました。

   #ページの先頭へ
 
 


Q テレビやテレビゲームそれにインターネットなどについては、どう考えますか。
A
  この質問を最近よく受けるようになったので、まとめて、今達しているところという前置きのもとで、お話しさせていただきます。すでに、別ページでも紹介させていただいたように、吉井家の場合、「テレビのない家庭」は実現しませんでした。いいかえれば、「大草原の小さな家」のように、もし親も子どもも納得できているならテレビや、ゲーム、それに(電子メールは別として、)インターネット(総称として、メディアと呼んでおきます。)のない家庭は理想なのです。
 しかし、私の家では消極的な意味ではそれが実現しませんでした。言い換えれば、積極的な意味では、ホームスクーリングの実践のなかにテレビを含めたメディアをどのように位置づけるかは、ホームスクーラーとしての重要なテーマだったわけです。
 それで、私は、テレビを含めたメディアの存在そのものが、自動的に“サタンの手先”とか“堕落の入り口”となるとは考えませんでした。そのように考えた背景には、フランシス・シェーファーの代表作「そこに存在する神」(邦訳・いのちのことば社)から受けた影響があります。そこで、著者があきらかにしているように、メディアの受けてがメディアのもつ前提となる考え方(哲学とか認識論といわれる場合もあります。)が何であるのかを理解していなければ、どんなに形式的に「避ける」ことをしても、サタンの巧妙さには勝てないだろうということです。サタンの悪賢さは、家庭にいる時間に子どもたちにテレビを見せないことで、親がサタンから子どもを守っていると自己満足できるほど、甘くはないと認識しなければなりません。子どもは親の前で、親のご機嫌に配慮して、テレビを見ないことに何の不満もないような顔をしていますが、親の目の届かないところで、自分の判断できる範囲にテレビがあると、禁止されていた世界が放たれるように、耽溺してしまう危険と隣り合わせなのです。くれぐれも、「テレビを見せない」だけでは不十分なのだと理解していただきたいのです。
 つまり、私は積極的にメディアを取り入れたわけではありません。でも、(少し背負った言い方になるかもしれませんが)、子どもたちには、メディアを通じて「弁証学入門」が学べるのではないかと考えたのです。ですから、ただ時間や曜日を親の権限で制限するのではなく、CMや映画やドラマが、作品としてがつくられていく過程で、どのような考え方が基本になっているかを説明することにしました。私はその説明を徹底するために、映画作品についてできるだけの事前調査をすることにしていました。(このHPでも、少しその調査の一端を紹介しています。)文明やこの世の知恵がもたらす、さまざまな「だまし」の世界の構造を教えるため、テレビは格好の教材になります。何を目指しているのか。目的のために、どんな手段をつかったのかを徹底的に話し合いました。「作品」とは、本であれ、映画であれ、コマーシャルであれ、必ず、制作目標があります。もし、それがエンターテインメントだけなら、クリスチャンのあるべき人生観にたいして、耽溺主義や快楽主義を塗り込めようとしているのです。見る見ないではなく、その耽溺主義や快楽主義を理解して、聖書からくる人生観のなかに取り入れないことが大切です。
 ですから、親が模範です。親がどのようにテレビを見ているかが子どもたちへの模範になります。もし、親の側にメディアを批評的に見る訓練と聖書の戒めに従う徹底した生活がないまま、メディアに前に子どもをさらすことは、サタンの策略に対して無防備でもいいのだということを教えたことになります。
 選挙報道、事件報道、各局の報道の仕方は、話題の宝庫でしょう。スポーツものは、サッカーや野球などスポーツにとってのルールがどれだけ大切であるか、審判の権威とは何か、その審判が公平であることがいかに大切かということです。
 そんな方は、たぶんないと思いますが、私は、“テレビをおいているホームスクーラーは、「異端だ」”などという空気は、絶対に蔓延させてはいけないと思います。くりかえしますが、見せないからサタンの罠から自由だとおもえるほど、サタンの策略は甘くありません。音楽を楽しむことは、信仰と矛盾しないし、わけてもクラシック音楽は好ましいのですが、それにさえ、自己目的の耽溺性はあります。パリサイ人は主イエス様から「律法主義」と非難されましたが、見た目には、むしろ禁欲的で完成度の高い道徳的生活を送っていたことを忘れてはなりません。
 最近、子どもたちは、テレビゲームをしなくなりました。インターネットを覚えてきたからです。インターネットも、親が禁止の議論のまえに、親と子どもでモーセの十戒の意味を徹底的に学び、主が望んでおられることの中で、何が好ましいことで何が好ましいのかを教えることが先だと思います。それがピューリタンの示した原則でもありました。
 テレビがなかった時代のほうがホームスクーリングをしやすかったでしょうね。でも、現代人として生きている限り、グローバリゼーションの潮流におかれている日本人の一人としてはもはや「靖国問題」を他人事ですまされなくなっていると同じように、メディアとどのようにつきあうかも、もはや「テレビを置きません」「インターネットをさせません」で済ませられなくなっているといえます。
 この世とどのようにつきあうかという「接触点 神学用語では、コンタクトポイント」の問題は、別のテーマで取り上げさせていただくつもりです。
 #ページの先頭へ
 
 
 
 

Q 不登校とホームスクーリングは同じですか。
A
  子どもが学校に行かない状態にあるという意味では、現象面で区別がつきにくいということと、子どもが社会に対してもっている課題という意味では共通する部分があると認識していますが、両者には違いがあります。
 ただし、両者とも、「学校制度」を意識した用語なのだと理解しておかなければならないでしょう。不「登校」とは、登校を前提にして、それを否定した表現で、子どもが学校に行っていないことを指します。もし、「不登校症候群」という病名があってもおかしくないくらい、学校に行かないことを異常視した行政用語(もしくは、文部科学省用語)といえます。私は、同じくらいか、いえ、もっと深刻な意味で、学校依存症候群という病名をつけたくなるくらいの「学校依存症」が蔓延していると思っているのですが、いずれにせよ、「不登校」の実態は、問題視するどころか、「子どもが不登校になるくらいの感受性をもって育ってくれた」と思っていただきたいのが今の私の達しているところです。
 その一方で、ホームスクーリングという言葉も、学校に対して家を「スクール」の場に置き換えるという意味から、不登校と同じように、学校制度の硬直化や絶対化をふまえて初期に使われてきた言葉です。(現在の欧米では、ホームエジュケーション)という言葉が好まれてきました。それは、ホームスクールというと、家の中で、学校の代替(だいたい)的な役割を果たすのではないかという誤解を生むと考えられてきたからで、子どもを新しい枠にはめることへの批判をうけ、学習者の内側に内在している能力を外に引き出すという意味のエジュケーションが用いられているといわれています。
 ただ、エジュケーションも、子どもが家で育つことの「学習面」だけをとらえた言い方とされる不都合があるので、「ホーム・グロウン」(家をベースにして、子どもが育つ)という表現を提唱しておられる方もおられます。
 あまり用語の話題にとらわれすぎてはいけないですね。
 歴史の上では、子どもが家で育つのが当たり前の時代が長く、学校が子どもの時間と家庭での親子関係を奪うようになったのは、ここ100年くらいの現象だという事実の理解が大切でしょう。
 ですから、子どもが家で生まれて、親のもとで子どもが育つという意味では、現象面からいうと、不登校もホームスクーリングも、「もともとの状態に戻ったのだ」という意味では、共通してますが、決定的に違うところは、不登校は、子どもが学校を拒否するまでに至る段階で、「心の傷」が残っていること、そのようななかで親の意識が後から変えるようになることがあります。
 ホームスクーリングの場合は、子どもの意志決定ではなく、親の意志決定と、たとえばクリスチャンなら聖書教育や信仰継承という哲学(考え方の基礎)があって、親の意志決定が先にあるのだといえます。親が学校の問題点をどれくらい深刻に受け止めているかというスタンスも両者のスタンスを分ける決め手になりますが、あまりにも学校に依存させられたマインドコントロールのようなものから解放されて、親が聖書の教えている親子関係や子どもの成長、それにクリスチャンとしての弟子訓練を意識しているかも重要な鍵です。それに、クリスチャンの場合は、教会にも教育の一部が委ねられていると理解しますので、教会がホームスクーリングを受け入れているかどうかも非常に重要な要素になります。それは、教会がクリスチャンスクールをもっている場合も同じで、別のページでも紹介しましたように、チャーチスクールがどれだけホームスクーリングの心を受け入れているかという課題とも連絡しています。
 はじめに不登校から親子が認識を深め、聖書の考え方を再認識して、ホームスクーリングを始めることは十分ありえます。
米国の場合は、聖書のスタンスがさらに明確で、親の決意からホームスクーリングに移行するケースが圧倒的に多いのです。ただし、「不登校」の場合は、親御さんが子どもに「学校から受けた心の傷」が存在していることを本当に理解し、「不登校」という官僚用語の否定的なイメージが認識の中から一掃され、その上で、教育の主導権は、まず親に託されているのだと自覚していなければなないでしょう。

 #ページの先頭へ