クリスチャンからの問いに答えて
 (No2)
 #Q 教育とは、「すり込み」であり、強制である
 #Q ホームスクーリング運動は、保守的男女観の復興か?
 #Q ホームスクーリングは、「母親の市民運動」
 #Q 日本で子どもを学校に入れないことは、宣教論上不利な選択になりませんか。
 #Q 「いい方(表現)」が下手だったのでは
 #Q 「能力差」はどのように考えていますか。
 #Q  親だけで子どもが育つことはないでしょう。
 #Q 地道な努力や「忍耐」は、学校のほうがすぐれているでしょう
 #Q 子どもにスパンクをしなければならな
 #Q チャーチスクールに期待することは何ですか。
 #Q ホームスクーリングは、チャーチスクールを実現するための過程に過ぎません。
 #Q ホームスクーリングを始める時に、「子どもの意見」を確認したのですか
 #「ユダヤ人にはユダヤ人のように」とあるところとホームスクーリングは矛盾していませんか。
 #Q クリスチャンスクールの運営面について
 #Q ホームスクーリングでの語学教育について
 #「子どものために何か役に立てることがしたい」を申し出られました
 #ホームスクーリングは、学校が経済的な負担になった方が始める
 #カリキュラムについては、どう考えますか。
 
 


Q カリキュラムについては、どう考えますか。

A 
 ご質問を感謝します。ホームスクーリングは、ホーム・エジュケーションと最近呼ばれることが多く、ある方は、「スクール」と「エジュケーション」は違うのであって、ホームスクーリングでは、「エジュケーション」がふさわしいといわれていました。
 ここでいうスクールとは、「最初に枠組みがあって、そこに子どもが適応できるようにする」という意味でつかわれ、エジュケーションとは、語源からして、学習者の中から引き出すことがめざされていて、ホームスクーリングがその本来の真価を試されるのは、それがエジュケーションになっているかどうかだといわれてきました。(クレッグ・スミス氏)もっとも、スクールという英語の語源も、諸説あるものの、ラテン語で暇を意味する「スコレー」からくるのだといわれていて、今の学校制度のイメージとはかけ離れていて、子どもが就労から解放されて、時間が与えられているということが、その環境そのものが教育的なのだという考え方があります。一方で、聖書は、親に対してその責任として、子どもの養育を命じていますから、深い祈りと洞察をもって、主に寄り頼みつつ、「何を教えるべきなのか」を吟味し、子を訓練しなければならないと考えます。基本として、子どものやりたい放題にさせるのがホームスクーリングなのではなく、親が監督できているのか、親が模範として子どもにふさわしいありかたを示しているのかどうかが問われているのだと思います。
 その上で、たとえばカリキュラムですが、せっかくホームスクーリングをはじめたのですから、既製品のように学校式のカリキュラムを機械的に導入するのだけは避けたいのです。それは、子どもは、それぞれだからであり、一人に対して、ただ一つのカリキュラムがあってしかるべきでしょう。しかも、それを親の理想を押しつけるのではなく、子どもが主体的にスケジュールを守り、同時にもし没頭できるような課題があるなら、時間割を大胆に変えることができるような柔軟性があるかどうかが鍵だと思います。律法主義は、主イエス様と相容れない考え方ですが、カリキュラム作成にはいつも入り込む魔物なのだと思っていただきたいのです。そして、もう一方は、その正反対ですが、無律法主義というべきでしょうか、親は子どもを監督せず、子どももしたい放題ということも、主の望んでおられないのではないでしょうか。テモテは、幼い頃から母ユニケと祖母ロイスから聖書を学びました。聖書教育はクリスチャンホームスクーリングの徹底した土台となっていなければなりません。それは、親が自分の理想とする子育て観や、子どもへの期待を一度主にあって捨てて、主の側から、目標を再構築しなければならいことを意味しています。まわりくどい言い方ですね。カリキュラム(スケジュール、あるいはプランニングといってもいいでしょう)は必要です。同時に、親(もしくは教師)の教育観を根底から見直す作業が非常に大切なことになってきます。これなしに、ただ形式だけカリキュラムをこなすというだけではもったいないですね。
 神中心の教育観に立たないままホームスクーリングを始めると、人間中心になり、親の理想を子どもに押しつけて「子どもを怒らせる」か、反対に子どものわがままを通させるだけなのにそれを「自由」の名のもとに、肯定してしまうことになります。教育においても、神中心となるとは、まず、「育ち」は根本的に主権者である神が責任をもっておられることを悟り(第1コリント)、そして、何が親の役割なのかを確認し、そして親が模範を示すことです。
 カリキュラムは親と子の「契約関係」として実行しなければなりません。そして、律法主義を避けるために、内容がいつでもフレキシブルに変更を加えてもいいのだという合意も必要でしょう。
 一つの事に没頭できるのは、非常に大切な要素で、ホームスクーリングの可能性を広げてくれます。子どもがあることに没頭したくても、「カリキュラム通り」とかで、チャイムでぶつ切りにして学校教育が知的養育を止めてしまったように、大切な機会を「時間」で区切るのは、愚かなことです。とりあえず目安としての時間割はあったとしても、親が子どもを支援する策として、何がふさわしいかをたえず吟味していたいものです。
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Q ホームスクーリングは、学校が経済的な負担になった方が始めるのでしょう? 

A 
 この質問をいただいたのは、クリスチャンの方なので、このページに入れさせていただきますね。
 ご質問の趣旨を確認させていただきたいのですが、一般に学資は家庭経済に重い負担となっているので、その負担を避けるために、ホームスクーリングを始める方が多いのではないでしょうか・・・という想像をなさっていると受け止めます。
 私自身がホームスクーリングをはじめた動機は、経済的なことはほとんどありませんでした。白馬セミナー講師でいらしたダン・ギルクライストさんがおっしゃっていたように、自分が本来なすべき教育を他人に委ねて、そのような「専門家」にお金を払うために働いているというシステムそのものを見直さなければならないと考えたのです。
 「経済力のある人が家庭で自分の子どもを育てた。おまえのような凡人には、凡人にふさわしい教育がある。金のない凡人は、学校に子どもをやったほうがいい」といわれたものです。つまり、ホームスクーリングをやるのは、親がよっぽど教育通で、時間に余裕があり、しかも自由にお金をつかえる人だとい先入観があるので、それは間違いなのだという認識が必要です。
 それは、親の教育観の変革が優先されると思われるからです。親はそのために、まず「お金をかけると、いい教育ができる」という幻想から自由にならなければなりません。ホームスクーリングは、すでに述べましたが、親に教育の主導権を戻すスタンスに立つかどうかが勘所なのですから、たとえば卑近な例かもしれませんが、教材をたくさんそろえるとか、優秀な家庭教師をつけるとかを直接繋がりません。いいかえれば間接的にいい教材。教科書が必要だったり、家庭教師ももしすぐれた出会いのようなものがあれば、あるにこしたことないのです。でも、どちらかというとそのようなものにお金をかけるかかけないかで、ホームスクーリングの質が決まるのではないと思います。私は今でもあまり経済力がないと(自負できないですが)思っていますが、お金をかけないといい教育ができないとは100%思っていません。
 教材と呼ばれるものの中で、最も優れているのは、親の生活態度ではないかと思います。子どもは、教材から学ぶよりも、親の姿から学ぶのです。それで、「りっぱな親」である必要はありません。むしろ、知識面では、“わからない”の連続です。子どもの質問は、非常に本質的で、親がきっちりと応えることができないものばかりなので、正直にわからないものは「わかならい」と子どもに対してもいえるかどうか。それに、ただ「わからない」ではなくて、では、どうしたらそれを調べられるかを子どもと一緒に探求するかどうかが鍵です。ここまでは、どうでしょう?全くお金は関係ないでしょう。それで、米国のホームスクーラーも、公立図書館を非常に有効につかっているとうかがっていました。(グレッグ・ハリスさんの本に書いてありました。)図書館は、もちろんお金かかりませんね。それに、リクエストという制度があって、とてつもなく高価でなければ、図書館の蔵書にしてくれるのです。しかも、自分が読むばかりではなく、他の人に紹介できるというおまけ付きです。つまり、このようなホームスクーリングのスタイルに全くお金はかからないのです。長女がケーキを作りたいといったので、その材料費は、あまり節約した覚えはありません。つくりたいだけ、つくらせてあげました。ここが肝心なので、本人が納得いくまで、親はサポートする側にあって、お金を惜しむべきではありません。このように、お金をかけるべきとことで、あまり節約しないほうがいい場合もあります。でも、それは、他人ではなく、親が判断すべきです。特に、少年時代の“原体験”となる本物の音楽、本物の体験を大切にして、たとえば教材を用意してもいいと思います。ホームスクーラー界隈では、“かわいい子に旅”こそお金をかけてあまりある有益な教材だという意見が見られましたが、確かにそう思います。しかし、子どもにとって何が有益になるかと考えたとき、親を含めて他人に買って もらうものよりも、自分で小遣いを貯めるとかアルバイトをして買ったもののほうが、有効な場合があるでしょう。親は、ここでもあまり出費しないほうがいいでしょうね。学校の出費が無駄な出費と思われて、それが動機でホームスクーリングはじめたとしても、それはお金の問題というり、何にお金をかけるのかという優先順位を考えているからですね。いずれにせよ、学校生活にはどうみても無駄としか思われないような出費が多すぎますよね〜。
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Q 親戚や知己から、「子どものために何か役に立てることがしたい」を申し出られました。

A 
 ご親切な申し出には、感謝しなければ・・と言いたいところですが、そうもいかない事情があるようですね。特に、同じ教会のクリスチャンは、「よい行い」を促されて、ホームスクーラーのために何か良いことを願っておられる場合もあるでしょう。この申し出は、まったく善意で、しかも熱心なクリスチャンの信仰に基づいているわけで、このようなページで“もの申す”こと自体が、なにやら反発されそうです。
 しかし、善意であって、しかも本質的なことが何もわかっていないということくらい対応に難しさを覚える課題はありません。「たとえば、ホームスクーラーは、学校で習っている〜の習熟が遅くなるか、もしかしたら親が忙しくて怠慢になる傾向があるので、何とかして補いをしたいと」申し出を受け、快く承諾したものの、「学校でやっているはずの九九」「学校でやっているはずの漢字」を「あなたの年齢では、このことはわかっていなければ」と子どもが言われてしまい、結果として、子どもたちがホームスクーラーであることを悩み、親への反感ばかりでなく、子どもにとって好ましくない劣等感というトラウマを植え付けられてしまうという事がみられます。
 これは、単純に「ありがた迷惑」なので、親の側で拒否できればいいわけですが、たとえは、それこそ文字通り親身になっている親戚とか家族のような教会の中心的なメンバーからこのようにいわれることで、拒否できない状況にあることで、問題が増幅してしまうのです。いえ、同じ場面は、残念ながら、クリスチャンスクール(チャーチスクール)サイドにもみられるのです。
 反ホームスクーリングとまではいかないまでも、ホームスクーリングを理解できないまま、表面的な好意だけが先行して、「ホームスクーリングを助けたい」となる場面で、たとえばホームスクーリングに行き詰まっている親御さんにとっては、「渡りに船」となるのでしょう。しかし、実は、ホームスクーリングへの懐疑的なスタンスを消化しきれないまま、子どもと向き合うことになって、ホームスクーラーの子どもの心に深い傷が残る場合もあるのです。
 ホームスクーリングの実践者でない方がクリスチャンスクールの教師である場合、多くの場合、教師が抱いているであろう「ホームスクーリングへの疑問」は未解決のままなのだということを承知していなければなりません。親御さんとして、クリスチャンスクール側に対して、基本的な対応を要求できるかどうかが鍵ですが、クリスチャンスクール側としては、親の申し入れに対して、スクールの教育方針もあることから、親からの申し入れに聞き分けがあるとは思わないほうがいいのです。結果として、ホームスクーラーが教育について他人に“下駄をあずけざるをえなくなる”と、ホームスクーラー・マインドがあろうかとはいえ、事はやっかいな顛末をむかえます。
 ホームスクーリングの中で、最もメリットなのは、(私はチアのマガジンでも書かせていただきましたが)親が主導権をもって、子どもにとって最もふさわしい教育プログラムを備えることができるということにあります。ですから、ある子どもは、パソコンとか芸術的な分野で、先端をいくような技術を身につけても、その一方で、学校に行っている子どもに比べて、漢字が書けないとか、文章表現が苦手などということがありえます。親は、それを子どもの個性や発達段階の途上にあるとみて、子どもができることとできないことについて楽観的になれるのです。たとえば、我が吉井家のように、子どもが10歳を過ぎても、九九がまともに言えないということについて、ホームスクーラーは楽観的になります。それは、同じような事が学校では大問題として扱われ、親はやれ塾だなんだかんだと奔走するか、最悪の場合は、「学習障害」という非常に問題のある判断基準に甘んじなければならないでしょう。
 ホームスクーリングと学校文化との大きなずれが存在しています。
 そのために、ホームスクーリングへの反感はなかったとしても、(自分の子どもがいない、親戚に教育者がいるなど)何らかの事情があってホームスクーリングをあまり理解できないか、ホームスクーリングへの積極的な態度をとれない方の場合、ホームスクーラーの子どもが被害を受けることになります。表面的には、ホームスクーラーを受け入れてくれるといいながら、本音ではホームスクーリングへの強い懐疑を抱いているような人に子どもをあずけるのは、ホームスクーリングのねらいにかなわないばかりか、かえって躓きになるでしょう。とりわけ、親の承諾なしに、(いえむしろ、ホームスクーリングなど、“親の身勝手な決断”から、子どもを守るためにという使命感から)親の目の届かないところで、密かに「漢字の書き取り」「英単語の履修」「計算問題」などをさせるなどという場合がありえます。そのままさせておくと、せっかくホームスクーリングでのびのび育った子どもが、自信を失ったり、最悪の場合は、親に反抗するようになります。対応としては、先方にご理解いただくのが一番なのですが、私は、ホームスクーリングを一朝一夜でわかるようになるとは考えていません。相手が好意を寄せているからといって、楽観的になって子どもを預けてしまうことがないようにお願いしたいのです。そのくらい、日本人の深いところに、子どもは「学校にいかなけりゃだめだ」みたいな思いが練り込められているのであり、親は子どもを守るために、そのような危険な場に行かせないという道を選ばざるをえないでしょう。今年チアのコンベンション講師であったケビン・スワンソンさんからメールをいただいたのですが、その事情は米国でも同じで、ホームスクーラーの所属する教会が、ホームスクーラーをうまくサポートできない状態におかれているために、CHEC(Christian Home-Educators in Colorado)の代表として支援活動を続けているのだそうです。たとえば、オウム真理教が子どもたちに独自な教育を施そうとしたように、ホームスクーリングのことがわからないまま、「聖書の洗脳教育」をされないため、子どもをそんな偏った教育から救済するためになどと、歪(ゆが)んだ“使命”をもってくださるクリスチャンがあらわれないとはいいきれません。
 子どもたちを、このような巧妙な罠から守るのは、他でもない、その子どもの親なのだということを、再確認したいとおもいます。日本でも、ケビンさんのようなホームスクーリング支援活動に絞った働きの分野は必要なのだと思わされています。
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Q ホームスクーリングでの語学教育について、何か良い方法がありますか。

 ご質問ありがとうございます。
 私は、英語習得については、これからの時代の子どもたちにとって、ホームスクーリングで育つとそうでないとにかかわりなく、必須になるだろうと疑いません。そのように認識しているものですが、実際には、英語教育についてたとえば英才教育のような早期教育の手法は採用しませんでした。親の側に、幼い頃のトラウマから「英語拒否」の感覚が染みついて、なかなか英語が好きになれず、“せめて子どもにはそんな思いはさせたくない”として始める英語教育だとしたら、子どもにとってあまり歓迎できないでしょう。英語にせよ中国語や韓国語のような、日本人からすると第二言語の習得能力そのものよりも、背景になる環境が大切なのだと思います。つまり、第一には、ホームスクーリングのなかで、家庭のなかで豊かな会話がかわされているのかどうか、会話の中身を充実させる努力をしているかどうかがポイントになると思ってきました。実際には、なかなか考えていることと実際は違うのですけれど、たとえば、テレビがないのが理想ですけれど、もし、テレビとの上手なつきあいをコンセプトにしているご家族なら、食事の時間はテレビをつけないで、できるだけ会話できるような努力をしていただく余地はあるのではないでしょうか。英国人は、何を食べるかという食事の内容よりも、何を話すかを非常に重要視します。おそらく、英国にルーツがあるのですが米国型のホームスクーリングにおいても、食卓の会話が豊かであることによって、それが、めぐりめぐって子どもの語学能力につながるのだとされているようです。英米型だけがいいとかいうわけではないですけれど、「食事を済ませる」だけの感覚ではない、豊かな会話を“テーブルの飾り”とした食卓の姿が宗教改革者ルターが残した「卓上語録」にもうかがわれ、そうですね、ルターも「家庭における父親の役割の大きさ」を認識していたようです。
 まずは、母国語を豊かにするために、たとえば、意味不明な言葉はできるだけ辞典やインターネットで調べる習慣を身につけることは親子にとって大切なのではないでしょうか。
 第二には、英語そのものを耳に馴染ませる環境が必要です。“てまえみそ”になりますがチア・にっぽんから最近発売されるようになったDVD聖書シリーズは、聖書朗読をネイティブの英語できける教材として大変すぐれています。言語習得が、言語のもつ独特な“音”をききわけることからはじまるのですから、できるだけ早いうちから、いわゆる“お勉強”としてではなく、日常の環境の中に、英語の聖書朗読があるのは、(たとえ、英語の不得手な親であっても)有効なのだと思います。私は、テレビを有効に生かす趣旨で、早見優さんの英語教材やあのセサミストリートをつかいましたが(それなりに、利用価値はあると思いますが)、やはり聖書朗読にまさる語学教材はないでしょう。
 第三には、せっかく受験教育の中に組み込まれた“使えない英語”から解放されたのですから、「ネイティブの英語に耳を慣らす」時期を通るのがベターだと思います。クリスチャンスクール(チャーチスクール)でも、ネイティブの英語教育を重要視した場もふえていて、子どもたちにとては、とてもすぐれた環境になっていると思います。すでに啓明小学校が先にいっていますが、今後は英語とともに中国語や韓国語教育も必須科目に加えられる日が必ず来ると思います。それでも、やはり基本は、すでに述べましたように、家庭環境でいかに“言葉を豊かに使うか”がポイントだと思います。暗唱聖句にくわえて、俳句の作り方を学ぶとか、我が家が話題にしたのは、たとえば「頭の体操シリーズ」など、とんちクイズや、まじめなクイズ集、ジョーク集などは、話題の宝庫なのではないでしょうか。子どもに英語をどう教えるかよりも、先に、親子の会話を豊かにするための素材を考えたり、会話とは決してつまらないものではないことを教えることができればいいと考えました。
 それと別の角度からですが、時代がかわり「英語だけでホームスクーリング」とならないともいえない状況ですが、やはり、様々な異教的要素が入り込んでいるとはいえ、母国語である日本語すばらしさに接する機会は必要だと思います。個人的には俳句はいい教材になるとは思いますが、まだ実践していません。

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Q クリスチャンスクールの運営面について、ホームスクーラーの立場で考えていることが何かありますか。

 ある実在のインターナショナルスクールでは、スクールの運営主体は、教会の役員会とは別の組織になっていて、学校運営委員会(理事会)のなかに牧師夫妻が入り、奥さんが校長、旦那さんが理事長になっていました。組織は別でもスクールには実質的な委員会からのコントロールがあるようです。教会の役員会が人事や会計について、発言できる余地があるかないかということから、メリットもデメリットも想定できるでしょうね。これを、一応、独立型と管理下型としておきましょう。
 独立型についてですが、人事や会計については、教会運営と別組織になっていて、教会に対して、場所代を払うとか、総会への報告義務がある他は、独立採算で運営されることで、クリスチャンスクールとして独自な展開ができる反面、もし役員会のもとにないことから、ミッションスクールのように、基本精神の衰退とか、子ども中心家族中心よりも、運営中心にシフトする余地があるでしょう。今後、独立型のクリスチャンスクールは、必ずこのような局面を必ずむかえ、教会の役員会が把握できない事態が生まれる“リスク”を考慮しなければならないでしょう。それは、役員会側が、スクール担当者やスタッフをどれくらい信頼しているかにもよりますね。もちろん、厳しい言い方ですが、校長や教師がみことばの管理者としてどれくらいの器かにもよります。クリスチャンスクールのリーダーは、実質的に、牧会者、もしくはその働きに準じている器であるべきだと思うからです。
 それでも、クリスチャンスクールの自由度を守ることのメリットをとるかどうかによるでしょうね。このメリットは、教会のたとえば経済的な状況に左右されずに、自由度を守れる反面、デメリットは、独立教会について言えるのと同じように、ミッションマインドにかかわるような問題おこった場面で、役員会の発言がスクール側に浸透しにくくなるという面でしょう。それでも、教師の意見や「やり方」が最大限に生かされるための機関としては、独立型がベターなのではないかと思います。一方で、役員会のメンバーが部外者扱いされることで、クリスチャンスクールマインドが育たなくなるというのも、あえてデメリットかなと思います。管理下型、つまり、役員会の管轄下におかれる場合は、上記のような“冒険”をしないで済む反面、クリスチャンスクールがいつも役員会の「ご機嫌伺い」をしなければならなくなるというデメリットがあります。教科書ひとつとっても、役員会の意向を反映しなければならないとすると、いわゆる「教育の現場主義原則」に反してというか、子どものことをわかっている教師の意見が尊重されなくなるかもしれません。これは、大いにデメリットですね。
 管理下型のメリットもあります。クリスチャンスクールが、信徒の子どもに限った場合だと、これでもいいのではないかと思います。あと、メリットとしては、当事者(たとえば、直接教える立場にある教師など)は、意外と近視眼的だったりする盲点があるので、当事者ではない、第3者の意見に対して風通しをよくできるかもしれませんね。これも、役員会のメンバーが、クリスチャンスクールをあまり理解できない場合は悲惨なことになるでしょう。長老格の牧師や年長の役員が、どのくらいスクール運営への理解を深めておられるかによりますね。主にあって、本当に、クリスチャンスクールの重荷を負う覚悟があるのかどうかです。スクール側からすると、役員会メンバーの管理下にあっても、クリスチャンスクールを育て自分も育てられたいという心があるのか、それとも、文字通り、「部外者の自分勝手な考え」を押しつけられることもいとわずに管理下におかれようとするかどうかにもよります。
 いずれにせよ、役員会が開かれる度ごとに議題になることで、役員会メンバーが祈りや人事運営面の決定でスクールに参加して、この道において、情報通になる、つまり、クリスチャンスクールマインドが養われるようになるのではないかというメリットがあるでしょうね。このような議論は、運営面で、教会会計と別にするか独立採算にするかという議論にも重なります。もちろん、教会学校がすでにあるのですから、それに準じている場合は、何の問題もありません。経理面でも人事面でもこれまでやってきた教会学校を踏襲することになるからです。でも、別組織として立ち上げる場合、経理面での独立を守ることで、教会が“スクール事業”をしているというイメージを払拭する必要があるからというのもありますね。
 教会は事業に手を出すべきではなく、もっぱらミッションに専念べきだという意見は、尊重したいと思います。経済的には、分離型が理想でしょうけど、でも、それさえ、「どのような規模を考えているか」にもよりますね。あと、はじめから、どのスタイルをとるのかはっきりしておかないと、経理面でも人事面でも後から変更するのは、なかなか困難なのではないかと思います。
 いろいろ考えられることを書いてみました。

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Q 「ユダヤ人にはユダヤ人のように」とあるところとホームスクーリングは矛盾していませんか。

 第一コリント書9:20「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。」という聖句から、ホームスクーラーが、日本人のなかに違和感を持ち込んで、福音宣教に反するのではないかというご意見と受け止めます。
 パウロがコリント書の中で、「ユダヤ人のようになる」と語ったのが、宣教のためだということを理解しなければなりません。この言葉通りに、割礼について、パウロはガラテヤ書では、イエスの福音にとって割礼が必要条件であるかのように主張する割礼派の人々に遠慮したペテロに、「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」と論陣をはりました。ところが、テモテに対しては、周囲のユダヤ人に配慮し、まさに宣教のために、割礼を授けました。(使16;3)
 パウロが首尾一貫していなかったのではなく、福音にとって障碍になると思われることで、重要でないと思われるものや宣教される側にとって「心理的な壁」となるものを絶対のものとみなさなかったということでしょう。このコンテキストをふまえてホームスクーリングのことを考えてみたいのです。
 パウロが宣教状況に応じて割礼を相対化したように、学校は状況に応じて相対化できるオプションに過ぎないのでしょうか。もし、そうではなく、キリストの福音に本質的に影響を与えるほどの場面であるとしたら、同じパウロと同じ信仰をもつと自覚するクリスチャンは、現代においても、闘わなければならないのではないでしょうか。
 子どもたちを学校に送る親御さんがクリスチャンの場合、子どもたちを学校に宣教師として送るような意識をもつといいます。(Chris Klicka The Heart of  Homeschooling BRORDMAN&HOLMAN PUBLISHERS 2002 16p〜)米国の事情と五〇歩百歩なのではないでしょうか。子どもたちは、親から学校に使わされる宣教師のように意気揚々と出向くのですが、実際にはその9割もの子どもたちが確実に信仰を失ってきました。失ったのではない、これから取り戻すのだという信仰は大切でしょう。けれども、最初の目論見は、本当は単なるいいわけに過ぎなかったということが露呈しているに過ぎません。いえ、もちろん学校の中でも戦士としてりっぱに働き、そして献身した事例も存じ上げていますが、死屍累々の中で、それでも徹底的な主の憐れみのなかにあったということを、主に感謝しなければなりません。多数派は、むしろ本当にミッションマインドをもって、子どもを学校にやっているのではないのです。
 極論と思われるかもしれないのを承知の上であえて申し上げますが、たとえば「ユダヤ人にはユダヤ人のように」という言葉を、ソドムの町で言えるでしょうか。彼らも福音を聴くべきです。そのために何でもするから、姦淫を忌むべきこととみなしているクリスチャン、わけてもホームスクーラーは、違和感を与える存在になるでしょう。けれども、ソドムにいたロトに対して主が望んでおられたのは、ソドムにとどまることではなく、即刻そこから離れることでした。(創世記19:17)日本で、これほど違和感を周囲から言われ、迫害されるような場面さえあるのにあえてホームスクーリングをはじめた動機には、このような状況認識の厳しさがあります。もし、子どもたちが、学校のなかで、進化論による世界観と人生観を刷り込まれ、日の丸君が代に象徴される異境的傾向にどっぷりつかっているなら、その時間はあまりに長く、とても家庭やましてや教会学校でフォローできる範囲を越えていて、確実に信仰を失うようになるだろうという状況認識があったのです。 「日本人には日本人のように、あたりまえに子どもを学校に行かせよ」というかけ声には、このような状況認識の甘さがあります。日本人のもつ「平和」が、偶像礼拝によってもたらされているのだとしたら、本質を見抜かないまま、子どもを学校に送るだけで、あなたの子どものの信仰が危機に瀕していることになります。ほどんどの子どもは特別なたまものをもたない限り、洗脳ともいえる反キリスト教教育にさらされ、「援助交際」という名の売買春行為に倫理的な判断ができなくなります。 学校をソドムと比べるのは、次元が違うのでしょうか。いえ、そんな抽象論が空しくなるほど、現実は厳しいものがあるのです。もし、宣教活動をいいわけにして、「日本人になるべきだ」という指令にだけ従うなら、あなたは、日本で確実に「塩気」を失うでしょう。まさに、主の前には何の役にも立たず、ただ捨てられることになります。(マタイ5:13)
 (内村氏はこのように言いました。自分は2つのJを愛する。ひとつはジーザス・クライスト(Jesus Christ)であり、ひとつはジャパン(Japan)日本である。2つのJ イエスと日本 そのどちらをより多く愛するか、自分は知らない。自分はイエス(Jesus)を信ずるが故に、日本人に憎まれ、また余りに日本的であるが故に、欧米宣教師に嫌われる。しかし、私は2つのJ イエスと日本を失うことはできない。(『代表的日本人』)ここににも、聖書信仰と日本的精神のダブルスタンダード、もしくは、日本のキリスト教が塩気を喪失する結果を招くであろういくつかの根のうちの一つがあります。”
 一般にも、学校を絶対化しない新しい日本人がみられるようになりました。(たとえば民主党は、党としてホームスクーリングへの積極的な理解を示そうとしています。)そのような場合には、「日本人には日本人のように」とあるように、クリスチャンは、たとえば日本弁護士連絡会所属の弁護士たちや不登校から学校信仰を脱出した親御さんへのあかしのために、「何でも学校一辺倒の文化から抜け出した日本人」のようにならなければなりません。 
 2002年のCPIカンファレンスの分科会で、ある一人の日本人男性が涙ながらに日本語で訴えていたことが記憶に焼き付いています。
 「もっと早くホームスクーリングのことを知っていたなら、私たちの家族はあんな苦しみの中を通らずに済んだのです。どうして、もっと早く教えてくださらなかったのですか?」

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Q ホームスクーリングを始める時に、「子どもの意見」を確認したのですか。
 
  
 結論からお伝えすると、ホームスクーリングを始めたときに、“子どもからの同意があること”を絶対条件にはしませんでした。子どもたちには「我が家はホームスクーリング」と宣言し、その意味を説明したことはありますが、最初は、子どもの意志を尊重した結果ではなく、主から与えられた親の責任においてスタートの決断を委ねられていると信じたからです。
 ホームスクーリングを始めた頃、今回のご質問と同じ主旨のご質問をいただきました。おおむね、ホームスクーリングに対して批判的な立場からのもので、「ホームスクーリングは、親のエゴである。子どもが“学校生活を経験できる権利”を奪っている」という反対意見でした。
 しかし、学校に入学する前に子どもに「学校にいくか行かないかを決めなさい。」といって、その判断を子どもに委ねるのは、聖書的ではありません。子どもは、自分で判断できる材料をもっていないので、答えられないのですが、とりあえず「親の意志に添う」ことを言おうとします。つまり、そのような質問を自分に向けている親が、どのような答えを期待しているのかを判断するしかないのです。「学校に行く」という答えを出すのを親が期待しているなら、そのように答えるでしょう。いえ、世間は「学校に行こう」モードで染まっているので、子どもは無意識にそのような影響を受けていることでしょう。
 親の立場からすると、「子どもがそのように言っている」といって、本当は板挟みで決断しかねているのに、その自己矛盾を解決しないまま、子どもの発言の中に弱い自分の逃げ道をつくっているだけなのではないでしょうか。
 ホームスクーリングは、親が主から与えられた責任において決断すべきです。子どもの意志ではなく、主からの期待に親としてどう答えるのかが課題なのです。親が信仰に基づいて、明確な態度をとっているなら、子どもはその立場に従うべきであって、少なくともこの点については、「子どもには、親の意志に従うか従わないかを選ぶ権利がある」という意見は聖書的ではありません。しかし、親の意志でホームスクーリングをスタートしたとしても、ホームスクーリングの現場での親の態度については、聖書が「父親たち、子どもを怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エペソ6:4共同訳)「育てる」は新改訳聖書では「教育」となっていますが、原文のPoinaine は、“教える”という意味より、養育するという意味に近いのでした。つまり、聖書が示しているのは、ヒューマニズムの影響を受けて子どものいいなりになるような子どもが王様のようになるのでも、親の一方的命令にたいして、子どもがただ服従するようなスタンスでもなく、主イエス様が弟子達に対して“教え諭された”という模範に従うべきです。子どもは、天使ではなく、堕落した本性をもって生まれてくるので、子どものいいなりにさせることや、したい放題、わがままにさせることをホームスクーリングと混同してはなりません。「子どもたち。主に喜ばれている者として、両親に従いなさい。」(エペソ6:1)という教えが優先されるべきです。同時に、権威主義的に、子どもを「怒らせる」ほどに、親への一方的従順を命じる立場でもありません。私は子どもへのスパンクを受け入れる立場ですが、「虐待」との区別を明確にしておかなければなりません。
 聖書に従うとき、スパンクに名を借りた「虐待ともいえる教育」から離れなければなりませんが、同時に、子どもの権利に名を借りた「ヒューマニズム」(実はホームスクーリングを芯から腐らせる癌のような考え方)からも離れるべきなのです。

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Q ホームスクーリングは、チャーチスクールを実現するための過程に過ぎません。
A 
 そうでしょうか。むしろ、聖書からすると、チャーチスクールがなくても、ホームスクーリングができるというのが、聖書教育のスタンスでしょう。
 聖書では「聖書的教育とは、チャーチスクールであって、ホームスクーリングは教会がチャーチスクールのシステムが実現するための暫定的処置に過ぎない」とは教えられていません。聖書は一環して、子どもを育てる環境としての家庭が示されているからです。(申命記6:7、詩篇127)
 しかし、確かに一方で子どもを教育できるは、家庭でおこなうホームスクーリングだけだという視点は、聖書的にも間違っています。教会には、子どもの成長について、責任を負うべきでしょう。しかし、聖書は必ずしもチャーチスクールの存在を予想しているのはないのです。もちろん、すでに述べたようにチャーチスクールが主にあって与えられている役割を私は受け入れるのです。たとえば、年長になって、ホームスクーリングだけではまかないきれないスキルがあった場合に、献身したスタッフと、主にある使命を自覚したチャーチスクールへの道は、非常に有効だと思います。
 それは、家族の教育力とは、チャーチスクールなど、外部の組織が補完しなければ完成しないという意味ではありません。たとえば、ホームスクーリングを考えておられるファミリーにとって、近くにチャーチスクールがなければ始められないとか、ホームスクーリングがいつも“チャーチスクール”の広がりを持たなければならないということが必須条件とはいえないのです。
 それでも、ホームスクーリングの増加が、結果として、教会を巻き込んでチャーチスクールにまで発展することもあるでしょう。別の言い方をすると、もし充実したホームスクーリングが実践されるようになったら、聖書の基礎知識は、家庭によって供給されることで、子どもにとっては、教会の礼拝だけで霊的な養いを受けることになり、教会学校は必要なくなるといえます。教会学校とチャーチスクールを同一視できませんが、日曜学校を聖書教育ばかりでなく、一般教養にまで拡充し、週日教会を開放したものがチャーチスクールであると考えるなら、ホームスクーラーが利用できるプログラムを“利用”できるかもしれませんが、チャーチスクールへの加入や参加を必ずしもホームスクーリング始動のための必須条件とする必要はないのです。
 子どもが育つ最善の環境として、家庭に与えられた最優先の賜物なのだということを受け入れるところにホームスクーリングの出発点があるのです。教会が“教会学校”を拡充した結果として、チャーチスクールをもつこととその原点とは区別しなければなりません。
 チャーチスクールが主の手段として用いられることを受け入れますが、同時に、クリスチャンホームに与えられた賜物を再認識することが聖書の出発点であるという認識を弱める必要は全くないのです。
 もちろん、これが根元的なので、ホームスクーリングに至る過程としてチャーチスクールに“入学”“通学”“卒業”のプロセスを通すことさえ、厳しい言い方ですが、子どもが不登校などを経過して、「より、ましな学校」という具合に、学校の代償となることが期待感され、家庭に対して、根元的聖書的なチャレンジを回避させているのではないでしょうか。まわりくどい言い方ですか?
 本当にホームスクーリングが正しいと示されたら、周囲や人を恐れることなく、主を恐れて、回避的な道をチャーチスクールに求めるのではなく、家庭や教育を聖書的にリフォームする主からのチャレンジと向かい合っていただければ幸いです。
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Q チャーチスクールに期待することは何ですか。

 
 ホームスクーラーには、「傲慢」という罪が入り込み易いのです。もちろん、人は誰でも傲慢になりやすいのですが、特に、外部から恣意的コントロールを受けないスタイルを探求するホームスクーラーには、集いの場を悪い噂話の巣にしたり、自分の意見や決定を絶対化する危険といつも隣り合わせにあります。いつも、みことばにきかなければなりません。ホームスクーラーには、たとえ、学校への固着が強いクリスチャンからだとしても、主にある忠告やアドバイスであるなら謙遜に聴くような備えがあるでしょうか。
 ホームスクーリングを始めた場合、外から受ける無理解よりも、実はこのような内面的な困難さと闘う時間が非常に長くなるのだと思います。ですから、たとえば、チャーチスクールが、ホームスクーラーのネットワークとして健全に機能できている場合は、ホームスクール側の需要とチャーチスクールが提供している賜物のバランスがとれているといえるでしょう。チャーチスクールには、子どもより親が主にある謙虚さを訓練される機会が提供されるのを期待します。もっとも、日本の場合、別のところでも触れましたように、個性重視より集団主義が強いとか、お役所が出した「不登校観」を丸飲みしているだけとか、霊的感化より経営や場の維持を優先する傾向がホームスクーラーにとって「躓きの石」になります。本当の意味でチャーチスクールとホームスクールが「両輪」として機能するためには、クリアしなければならない課題がたくさんあるでしょう。
 けれども、チャーチ・スクール(アメリカではクリスチャンスクール)に対して、ホームスクーラーとして期待することは決して少なくありません。
 その一つの理由は、ホームスクーリングが非常に優れた賜物に溢れていたとしても、子どもの成長のためにホームスクーリングだけが唯一絶対の方法とされるべきではないからです。それは、子どもによって、様々な個性があり、個性にできるだけ適合したコースが求められるからです。そのコースがひたすら家庭だけの場合もあり、そうではなくチャーチスクールのような集団である場合もあります。親御さんとしては、子どもにとって何が最善であるのかを判断する時期が必ず来ます。幼少の頃は、基本的に親が全面的に引き受けるべきだと考えますが、その一方で、成長段階での多様性を受け入れなければなりません。学習への興味、仕事への興味も違います。ある子どもは宣教師など宣教の第一線で働くことに召されるかもしれませんが、別の子どもは、世俗の仕事に就職しながら宣教活動を背後で支えるかもしれません。
 さらには、かえって、親が教えないほうが有効な場合もありえます。特定なスキルアップにかんしていうと、親子以外ではない「師弟関係」がかえって有効な場合です。いえ、聖書はむしろ、親以外の信徒が子どもの「弟子訓練」にかかわることを肯定していると考えます。ですから、チャーチスクールへの期待は、何よりも弟子訓練であり、聖霊に支配された「師弟関係」です。子どもに対して、チャーチスクールは、霊的な感化となります。もちろんいい意味で、そのことが期待になるのであり、聖書に多数の例がみられるように、信仰の感化を受けて、主を信じることについて、ますます確信を深められるために用いられることでしょう。
 でも、仮に、チャーチスクールの教師の資格があるとしたら、非常に重い霊的な責任があると思うことです。たとえば、青年が志を与えられ、普通の学校に就職するよるは、宣教のためにチャーチスクールの教師になりたいということで試行錯誤しながら教師としての賜物を磨いていくのは麗しい姿ですが、その一方で、チャーチスクールは、本当に霊的な重荷をもって運営されていなければならないでしょう。子どもを育てた経験、(独身者に教師ができないという意味ではありません)、公立学校での教職経験年数とか、いわゆる「教職認定試験をパスしたかどうか」よりも、個人伝道ができるかどうかは重要視したいのです。教会のさまざまな役職について、パウロがどれだけ重い条件を加えたか、御覧いただけるでしょうか。子どもに対して与えられる霊的な感化のほうが、語学力を含めた学習能力を高めるよりはるかに、重い課題だからです。
 その意味で、親が家庭で自分の時間をつくりたいという動機だけで、チャーチスクールに子どもをやるというのはいかがなものでしょうか。
 ただし、これも年齢の経過とともに、親が子離れしなければならないと思う時期があるでしょう。自分の信念が確立して、周囲から受ける影響を判断できる時期には、たとえ大学など異教徒の多い環境にも適応し、かえって良い影響を与えるかもしれないからです。
 ある程度の学齢期(たとえば小学生くらいまで)はホームスクーリングで育て、それから中学生年齢以降は、子どもの個性によってチャーチスクールなどに道が開かれるいうのも一つのコースでしょうね。もちろん、全部ホームスクーリングというのもあるでしょうね。
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Q ホームスクーラーになると、子どもにスパンクをしなければならないのですか。
 
 ご質問の背景には、これまでホームスクーラーではなく、しかし、関心があるのだけれど、スパンクについて積極的になれなくて、ホームスクーリングそれ自体について躊躇していらっしゃるとおみうけします。クリスチャンがホームスクーリングを始めることは、聖書的な視点を回復することになりますが、世俗の教育観には、客観的な基準としての聖書がないために「教育に名を借りた暴力」と「自発性の尊重に名を借りた放任主義」との間で揺れ動きます。たとえばもし親が感情だけに動かされてスパンクしたり、それこそ戦前の“軍事訓練”みないな感覚で、動物を扱うような調教と少しもかわらない態度を示すようなら、親のスパンクは子どもへの虐待になります。世俗の教育観では、この反作用として、反対にスパンクまるごとを完全に排除した意見がおおくきかれると思います。
 しかし、もし、聖書を基準としてホームスクーリングをする立場からするなら、どちらかというと子どもへのスパンクは当然です。いえ、むしろ、ことさらクローズアップすることさえ必要ないのではないかと思われるほど、子どもを主にあって育てることと「スパンク」は密接な関係があります。
 日本にみえた宣教師達が異口同言におっしゃるのは、「日本人はどうして子どもをスパンクしないのですか」ということでした。言い換えれば、米国など西欧諸国には、聖書を基準にした“公共心”の基盤が非常にしっかりしていることや、教育方針が明確で、子どもを育てる場合に、(堅い言葉で恐縮ですが)法概念がしっかりしているので、スパンクされる側の子どもからすると、主が与えたルールに違反することに、罰則が伴うということがよく見えるのです。
 つまり、スパンクする側の親も、ルールに従っているということが子どもにもみえるのです。
 ところが、共通規範がないまま、たとえば親として面目を立てるためだけに、しかも本当は感情のはけ口にしているだけだと見えるのに、ただ親に反抗的な態度だというだけで「スパンク」されるとき、子どもにはルールが見えないので、結局自分も大人になった時、(もしくは自分が親より腕力が強くなった時)弱い側に暴力的に振る舞ってもいいのだということが教えられたことになります。(反抗的な言葉が返ってきただけで、孫を銃殺するという事件が宮城県丸森町で最近おこりましたね。反抗すれば殺すというのは特別な事例でしょうね。けれども、あれは原則としては、聖書を基盤にしていなかった結果の悲劇でした。)
 もし、子どもが生まれる前に、クリスチャンホームスクーリングを始めから実践されているような場合は、夫婦でスパンクの意味や考え方を話し合った上で、ごく日常的に子どものプライドを傷つけない範囲であることを大前提に、とりわけ信仰や礼拝にかかわる態度については、ルール違反ということで、スパンクを心がけるべきだと思います。子どもが礼拝中に騒がしくするなどということはなくなるでしょう。説教がわかってもわからなくても、主を礼拝する態度については、集中して“しつけ”るために礼拝後に、子どもに意味を説明して、何度かスパンクを採用しました。手を軽く叩くとか、おしりを数回ぶつ程度でした。礼拝の態度が徹底して、「主にあって両親に従いなさい」という意味がわかるのだと思ったからです。
 親子の愛情が聖書的な健全さをもっているなら、スパンクは当然です。ただし、たとえば子どもがある程度の年齢にあって、ホームスクーラーになったというだけで、これまでの方針を転換するようにスパンクを始めることは、子どもの心に傷や不信感を与えるのではないでしょうか。
 子どもは見ていますよ!スパンクをするために手をあげている親が、同じルールに従っているのかどうか。主を本当に愛している上でのスパンクなのか。ただ怒りのはけ口を、自分より弱い子どもにむけて晴らしているだけなのかどうか。
 親に「スパンク認定試験」なんかはしないでしょう。けれど、もしそのような試験が聖書に従って存在するなら、相当厳格な内容になるでしょうね。
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Q 努力や忍耐については、学校のほうがすぐれているでしょう。
 
 カナダと日本を行き来しているお子さんの家庭教師をしていたことがあります。このお子さんは、日本ではフリースクールに通っていました。その一方で、カナダに滞在している時には公立小学校に行きます。「どうして、カナダでは公立小学校なのですか。」とお母さんに尋ねると、「カナダの公立学校と日本のフリースクールは、よく似ています。」という答が返ってきました。
 ご質問は、ホームスクーリングでは、子どものペースにあわせてしまうので、「ホームスクーラーの子どもはいやなことでも我慢して修得しなければならない活動が不得手になるのではないか」という不安をあらわしているのでしょう。しかし、「子どものペースにあわせる」「子どもにあわせて、多彩なコースをプランニングする」ということと、「わがままにさせる」ということを混同していなければいいのだがなと思います。それから、もしかしたらおっしゃっている言葉の意味そのものが、学校という箱庭の中での「我慢」であり「忍耐」なのではないかということを疑ってみる必要もありますね。
 実はホームスクーラーの子どもの側より、こちらのほうが深刻な問題です。
 たとえば、聖書には自分を義人だと自任し、他の人を見下しているパリサイ派律法主義のユダヤ人のことが紹介されています。かれは、収税人をむこうにみて「神よ、私はほかの人々のようにゆするもの者、不正な者、姦淫するものではなく、ことにこの収税人のようではないことを、感謝します。」(ルカ18:11)と言い放ちました。
 たとえ、どれほど克己心に富み忍耐に優れていたとしても、「律法主義」の枠組みから自由になっていなければ、他人への優越感に【餌】をやって、傲慢な心を増長させてしまう結果になります。せっかくの努力や忍耐がこのような「パリサイ的律法主義」に奉仕することになっていませんか。
 その意味では、学校に行こうが行くまいが、大人だろうが子どもだろうが、クリスチャンにとって課題は同じなのだといえますけれど、とりわけ日本社会の中におかれている現代の学校制度は、パリサイ主義的なるものを増長させてきたのではないかと思います。確かに、学校に通ってきたにもかかわらず、すぐれた働き人が生まれているということを受け入れます。
 でもそれは、“学校というパリサイ派的律法主義に浸りきっていたにもかかわらず”密かに弟子とされていたヨセフやニコデモがいたように、反キリスト的環境におかれても特別な守りを受けたとみるべきです。
 最近の「文部科学省の学力アンケート」が語る本当の(隠れている)メッセージとは、学校では、旧態依然とした点数主義による子ども評価が何の変更もされないまま跋扈(ばっこ)しているということであり、本来自発的であるべき「奉仕活動」すら、すでに点数化による評価の対象とされ、結果として創造主からではなく人に誉めてもらうための手段に堕しめられているということです。
 一般的に、ホームスクーラーは様々な内面的ストレスを受けないない環境であるといわれてきました。これは消極的な言い方の一つに過ぎませんが、それでも環境が変化するだけでも、どれだけ子どもの潜在能力が生かされるようになることでしょうか。
  しばしばホームスクーリングが紹介される本で何度か引用されている例で(いわゆる学校信仰者には聞き捨てならない言葉かもしれませんが)、子どもが「ブロイラー(食肉用鶏)」のように規格品に見立てられた上での「忍耐」とか「努力」にどんな意味があるのかと問いたいのです。クリスチャンなら、そのような判断基準のほうをもっと問題にしなければなりません。
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Q 親だけで子どもが育つことはないでしょう。
 
 質問者が、ホームスクーリングにおける親の役割を誤解なさっていなければいいのですが。
 ホームスクーリングは先ず「親だけで子どもを育てる」のではなく、行政を含めた他人任せにしないで、親に教育の主導権があることを受け入れるのです。むしろ、親が自分の子どもの教育に関して、他人任せにしないのがホームスクーリングマインドだともいえます。聖書がそれを支持しています。
 しかし、やがて、ホームスクーラーにも「子どもの個性を尊重したいが、そのためには親以外のアビリティーに要請しなければならない」という場合、たとえば職人や特殊な修得を要する職業訓練の必要もあるかもしれませんが、この話題はホームスクーリング初歩の一般論としては馴染まないのです。また、子どもと“波長が”あうチャーチスクールが近所にあって、チャーチスールを選択した場合も、クリスチャン同志の交流には重要な意味が与えられているといえます。
 その一方で、ホームスクーラーは、自分の子どもにとって、家庭が最善の教育環境となるように務めますが、一方で親の指導やコントロールのもとに子どもをおくことを最終目標としているのではありません。つまり、家庭を「教育管理の代理人」による疑似学校のようにしようとは考えないのです。
 子どもには学校よりさらに「セルフコントロール」を目標に掲げるようになります。「自分の部屋は自分で片付ける、自分の服は自分でたたむ」という家庭における基本的な「しつけ」の他に、子どもは、自分なりの目標設定、その目標までの道筋の工夫と方法の確立など、自分の学習内容は自分で組み立てて、実行できるようにするという課題と取り組むのです。
 (たとえば、自主プランによる手作り旅行には、すばらしい効果が期待できます。) 
 「かわいい子どもには旅をさせよ」ということわざを文字どおり、「“旅”によってどんな学習効果が期待できるか」ということを分析して紹介したホームスクーリング紹介の本があります。国内旅行による学習効果といえば多岐に渡り、紹介しきれないほどですが、まして外国旅行ともなれば、それこそ理想的な語学研修の機会になります。
 私どもの場合、親の側には、子どもを意のままに操作しようとする思いよりも、子どもが学習内容を含めて、親をはじめ誰にでも依存しないで、早くセルフコントロールできるようにという期待が生まれました。

 「俺は思うんだけどさ。自分の頭で考える。自分の手で働く。これってあたりまえのことだよね」とこれは、何かのCMのなかで矢沢永吉さんが言っていた名セリフでしたね。やや強引かもしれませんが、ホームスクーラーの子どもたちのある種の目標のようなものと共鳴しているのかもしれないと思いました。
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Q 「能力差」はどのように考えていますか。

 子どもがホームスクーリングで育つと、学校のようにいわゆる「切磋琢磨」できる環境にないので、甘やかされて社会的に適応性のない子どもに育つのではないかといわれてきました。
 結論的には、そのような心配は、全くありません。
 共産圏と違い、キリスト教の影響が色濃い自由主義圏では、個人の能力差があることが制度として受け入れられ、そして、個々の目標や課題の必要に応じてふさわしいバラエティに富んだ訓練が必要なことも同時に認められています。
 ゆえに、能力差は自明のことです。それで、とりわけホームスクーリングにおいては、個人個人の能力差や個性のようなものがあらかじめ親の側で考慮されるのです。たとえば、よくいわれるように数十名の教室ではどんなに考慮されたとしても、「能力差への適正な対応」には遠いと思われます。その子どものペースにあった速度や内容を考慮されているので、ホームスクーリングのほうが子どもの能力の引き出しやすいのだといわれてきたのです。言い換えると、40人学級など、教室の人数編成の問題点がいわれてきた背景が、むしろ学校の側が個人に適した能力差への適応に限界のあったことを示しているのではないでしょうか。あまり学校と比較する事が本意ではありませんが、学校教育が幼稚園から高校に至るまで、いつでも「子どもの未熟性」を前提として組み立てられているので、「子どもは学校経験を経たために、かえって幼児性からなかなか抜け出せない」ともいわれるのです。
 
 それから、すでにいろいろなところで語られているところでもありますが、「能力観」の問題があるでしょう。「切磋琢磨」といっても、教師の判断上の都合が優先され、しかも、机上のペーパー試験だけで個人の能力差を判断するのは無理があるということがいまや通念のようになっているのではないでしょうか。とりわけ、かなり前から10才前後の子どもに対しては、試験を与えることがどこまで教育的なのかともいわれてきました。幼少期に試験を科することは、あらゆる意味で、教育に対して逆効果なのではないかと思います。
 幼少期をホームスクーリングで過ごすということは、実際には「切磋琢磨」の名のもとに負荷される心的ストレスを受けなかったり、いわゆる「子ども扱い」されないために、むしろ早くから自分の能力に目覚めて目標が定まるために、文字通りの意味での学習効率がいいのは勿論ですが、親子関係の自然な親密さが保たれながら、「ホームスクーリングでは、幼児期が早く終わる」ともいわれています。それは、ホームスクーリングのほうが充実した子ども期を過ごせる可能性が高いからだと思います。
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Q ホームスクーリングのことを理解されなかったのは、いい方(表現のしかた)が下手だったからなのではありませんか。

 これは、いまや「低俗」ともみえる質問なので、一蹴(いっしゅう)してそのままにするか、あるいは、発言者の名誉のために控えておこうと思っていましたが、ここにきて「ホームスクーラーが周囲から理解されないのは、自分のいい方(表現能力)が悪いからではないか」と自問自答し、悶々として苦況に陥っているホームスクーラーがおられるかもしれないと思うに至りました。(たとえ無理解からだとしても、結果としてホームスクーラーが周囲から責められて、好ましくない罪責観に陥らされるような言葉の暗示に曝されることはあります。)
 ホームスクーラーである親のサイドには、周囲に対してホームスクーリングで子どもを育てることについての説明責任が問われます。けれども、「理解を得られないのは、説明の仕方が悪いからだ」と言われると、つい「自分の説明が足りなかったのではないか」という罪責感をひきうけることになります。
 このような発言がなされる背景には、かつての無理解の状態が解けて、ホームスクーリングそのものへの理解が進んでいるのだということをおさえておきたいのです。謝りべたで、本当は「照れ屋」で、内心には「きまりの悪さ」があるのかもしれません。つまり、ホームスクーリングの本当の真価がわかった後で、過去を悔やみつつこのように言われているのだとすれば、過去に無理解であった自分と率直に向き合えばいいので、率直に悔い改めたらいいのです。ただ、そのような「謝り方」になってしまうのかもしれません。いや、ややもすると謝れなくなるのが日本人のなかにしぶとく残る罪からくるものなのではないでしょうか。
 「最も理解のない人が、最も理解ある人になるかもしれない」ということからすると、質問者の現在の状態は、むしろ改善されている兆しなのであり、それはそれで喜んでいいのだと思います。それでも、理解されない時、自分のいい方の悪さが原因なのではないかと思われるかもしれません。けれども、はっきりさせておきたいことがあります。
 くれぐれも、ホームスクーラーの「表現の悪さ」が理解されないことの根本に横たわっている原因なのではありません。
 D・アイバーソン宣教師は、数年前(チアが誕生する数年前)「ホームスクーリングのようなすばらしいものを、日本でどうして理解されないのでしょう。」とおっしゃっていたことがあります。ですから、表現がいいとか悪いとかいうテクニックの問題ではなく、日本ではホームスクーリングの知識や実践が浅く、不必要に「得体の知れない曲者(くせもの)」だと感じたから理解しようとしなかったからなのでしょうか。
 実際には、それほど単純なものばかりでもありませんでした。
 「ホームスクーリングの真実がわかってしまうと、不登校になったので、だまし騙しやっと学校に行き始めた子どもの心を理解してしまうことになるし、さらには、困難にめげずに熱心に学校に通っている子どもの意志までも挫くことになる。そうなると、教師や学校関係者と関係がまずくなるので、ホームスクーリングのことは(わるいけれども)知らないでおくほうがいい。」と真面目に思っていた人もあるのです。
 このような、鎖国の中にあって、当時海外事情を知るようになった武士とか、あるいはオウム真理教から脱会をすすめられた信者に比べても、その“むこうをはった”ようなりっぱな「マインドコントロール」は、とりわけ不登校問題にからみついた事例においては、この国にそれこそ山ほどあります。最近までは、実にフリースクールでさえも、正確なホームスクーリング情報を流そうとしませんでした。
 1990年代後半から、アメリカのホームスクーリング情報は非常に潤沢であったにもかかわらず、日本で紹介されることはほとんどありませんでした。それは、当時の文部省によって教育情報を操作されていたからなのではないかと疑います。それゆえ、今日反面教師のように北朝鮮の現状がみえるようになって、「今の関係がだめになってしまうより、真実に蓋をしたほうがいい」という精神構造が理解されるようになりました。日本人の中に、このような傾向はあるのです。いやむしろ、北朝鮮の場合、それは自分たちが敵視してきたかつての日本と、同じ行動をしているにすぎません。
 言い換えれば、いかに日本人が操作に弱いのかをみせつけられているのではないでしょうか。しかし、これは、単に「国民性からくる」というだけではありません。何が偶像であるのかというテーマは別のこととして、それは偶像礼拝に引きずられた精神的構造からくるものなのです。
 「偶像礼拝に影響を受けた社会性」が疑いもなく存在しています。
 それは、クリスチャンにとっては断固として闘わなければならないサタンの罠です。
 もし、質問者に、そのような罠から解放されている兆しが見えているようなら幸いです。
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Q 日本で子どもを学校に入れないことは、宣教論上不利な選択になりませんか。
A 
  先日、富士箱根ランドにて、CPI(Church Planting Institute)カンファレンス2002がおこなわれ、私も参加者の一人でした。(470名参加)日本における教会増殖を目標にしたこのカンファレンスにおいて、D・アイバーソン師司会のもとホームスクーリングをテーマにした分科会がおこわなわれました。私の活動のことも紹介していだだく光栄を得たのですが、分科会に参加された50名ほどの宣教師及び日本人教職者たちの中から後で次のような意味の質問がありました。それは、「ホームスクーリングなどで、地域の学校に子どもを入れないことによって、地域の人からの信頼を失って、結果として福音宣教の妨げになりませんか」というものでした。
 つまり、米国人宣教師として日本に来て、あえて子どもを母国語教育ではなく、地域の学校に入れることによって、地域からの信頼を勝ち得ていって、教会形成においてもよい成果をあげた例もあり、その一方でホームスクーリングを選択したいとしても、ジレンマが消えないというご質問でした。つまり、教会成長の立場からすると、子弟教育さえも宣教の手段とされて、主に用いられるでしょう。これはチャーチスクールでも同様に、明確なホームスクーリングマインドをもって、チャーチスクールが祝されていくなら、子どもたちが明確な信仰告白に導かれることになり、結果として、教会の基礎を揺るがないものとし、いわゆる「特別伝道集会」よりも、大きな宣教上の実を結ぶであろうことは予測できるのです。
 同時に、聖書では、すべてのクリスチャンに対して主からの宣教命令が与えられている一方で、子どもへの信仰継承を最優先事項とすべきことが命じられているのです。
(第1テモテ3:4−5)
 つまり、子どものことをあと回しにして、妻子を犠牲にしても宣教を優先することは、滅私奉公や、仕事の偶像化など、世俗の影響を受けた「間違えた献身観」から影響を受けたもので、聖書的「献身」ではありません。間違えた献身観を聖書的であると勘違いしたまま、ただ子どもを学校にやることが宣教上有効であるというだけの判断をもって、しかも、それだけで子どもを学校に委託するようなら、事実上、イスラエルがかつて偶像礼拝の影響を受けて子どもを「モレク」や「バアル」にささげたこととなんら変わることがありません。
 子どもが主の弟子とされ、聖書的信仰が継承されていくために、何が一番ふさわしいかを判断する責任が親にあります。子どもをどのように教育するのかということは、いわゆる宣教上の課題と切り離すことはできないといえますが、宣教の実が結ばれていくというのはあくまで結果とし確信できるにしても、教職者はとりわけ「家庭、とりわけ子どもを治めるためには、いかにあるべきか」という課題に優先して取り組むべきだと思います。そのために有効な手段としてホームスクーリングが提案されています。もちろん、教育方法はそれだけでもありません。  
 このような原則の他に、考慮すべきもう一つの要素は、2000年代の日本の状況は、ホームスクーリングに対して、行政の一部をはじめ各所に無理解が残ってはいるものの、不登校児の増加や、学級崩壊現象などによって、各地で徐々に子どもの在宅状態への柔軟性が生まれているということです。
 それゆえに、子どもの教育問題ですでに破綻しているとみえる日本ではホームスクーリングは有効な宣教の手段であるということにおいても、もっと重要なものとして位置づけられなければなりません。
 私は、今回のCPIカンファレンス参加によって、とりわけ米国人宣教師たちが、ホームスクーリングについて「日本宣教上の戦略の重要な選択肢の一つ」として位置づけるようになる日は、すでにそこまできていると確信しました。
 「ホームスクーラーが、小さく固まって、他と交流をもとうとしなかったり、伝道的でなくなっていく傾向を心配しています。」というD・アーバーソン宣教師の提言も付記しておきます。
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Q ホームスクーリングは、「母親の市民運動」と思います。

 日本では、父親は子どもの教育から全面的に手をひいていて、母親に教育の全責任を委ねてしまう傾向があったことは否めません。なぜそのようになってしまったのかという課題はひとまずおいておきまして、ホームスクーリングについても母親に情報が入り、父親は説得される側にまわらざるを得ないのが、これまでの現状でした。いいかえれば、父親の側に歪んだ現実主義が入り込んでいるために、「学校に行かないと、日本の社会ではやっていけない」という信念のようなものが塗り込められており、会社勤めなどある程度の年期を重ねていればいるほど、学歴信仰がいまだに、抜けきれず不登校問題でさえ旧態依然とした「再登校主義」に堕ちてしまうようです。不登校問題と歩調をあわせるように、ホームスクーリングについても母親の決断が大きいようです。それは、日本ばかりでなく、万国共通です。「母親の子どもへの愛は、海よりも広し」と格言のようにさえいわれ、父親いつでも一般論として抽象的に考えてしまうのに対して、母親の子どもへの態度は、もっと具体的個別的であり、とりわけ子どもの命にかかわるような事態には、すぐに対応できる立場にあるといえます。ホームスクーリングが優れていることについての理解が早く、しかも母親のほうが切実であるのは、まさに現状です。
 私は、チアコンベンションの講師のひとりでいらした、ジュリー・ホーンさんに「日本では、教育とは母親の仕事のように考えられ、ホームスクーリング運動も例外ではないと思われているのですが、アメリカではどんな事情ですか」という質問をしました。ジュリーさんは「ホームスクーリング運動は、母親の運動でも父親の運動でもなく、家族の運動です。」とお答えになっておられました。ホームスクーリングとは、クリスチャンにとっては、家族を聖書的視点から立て直す運動であり、適切な言葉ではありませんが一般に「父親の復権」という言葉に近く、キリスト者として、さらにおしすすめていえば、「聖書に示された父親と母親の役割を再検討させられる運動である」ともいえます。家庭より、会社組織を優先してきたことが欧米人にとって奇妙に見えたことはよく言われます。
 日本社会全体が「家庭」に重要性を与えてきませんでした。この点が、ホームスクーリングの先輩国である米国と大きく異なるところです。戦前は、銃後の支えとして、戦後は経済効率を高めるための一機関として「役割を割り振られるまま」にされてきたからです。
 その一方で、フェミニズムの波及効果として、女性の社会参加がおしすすめられるなか、非婚とか、婚外出産、家庭からの自律が推進されてきました。少子化現象対策でさえ、女性が家庭で果たす役割をみなおすよりも、「たとえ結婚して子どもができたとしても、子どもが社会活動の妨げにならないように」ということで、託児施設の時間帯や職員の質をどうするのかという議論だけが席巻していることにも憂いを感じます。女性が社会の中で蓄えてきたキャリアについて、「たかが、《結婚して子どもができたくらい》で、大切な資質を無駄にしてしまうのはもったいない」などで済まされてしまいます。
 けれども本当にできれば声を大きくして言いたいのは次のことです。
 子どもにとって、どんな時期にあっても、母親との時間が果たす役割はきわめて大きいのです。ホームスクーリングで子どもとむきあう時間は、どんな金品にもとって変わることができない極めて大きな時間です。どうか、この時期の子どもを他人に任せないでください。確かに、親による虐待行為は問題ですが、その議論に目を奪われて、大切な強調点を見過ごしにしないでください。
 どんなキャリアを犠牲にしてでも、子どもとの時間を確保すべきです。そのために父親の理解と参加がいかに大切なことでしょうか。
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Q ホームスクーリング運動は、
  保守的男女観の復興を目差しているのでしょうか。
 
  ホームスクーリング運動がもたらす一つの実として、子どもの教育のことばかりでなく、結果として「家庭の意味」を聖書的にみなおすということがあります。つまり、ホームスクーリングといっても、クリスチャンにとってはなおさらのこと、親子関係ばかりでなく、聖書的家庭観の再構築が促進されることになります。
 これまで、学校文化が家庭のすみずみまで浸透し、子どもを巡ってのあらゆるものが「学校化」してきたために、「学校は食卓から団欒を奪い、夫婦の価値観までにも病巣のように浸潤してきた」といういい方で、ほぼ間違いはないでしょう。
 私は、聖書的家庭観及び夫婦観に侵入してきた病巣の一つに、フェミニズムの影響があると思っています。いわゆる「完全な男女同権社会」の実現をめざしたフェミニズムの市民運動は、米国社会だけではなく、世界各地で近代的であることの旗印のともいわれてきました。たとえば、キリスト教社会において、熱心なフェミニストは、保守的な聖書観を真っ先に攻撃の遡上に乗せてきました。その視点から聖書を読むと、すべては前近代的なモチーフを着せられた「真理ならざるもの」ということになります。たとえば、神の名からして、男性でした。キリストが男性である事、使徒が男子に限られていること、わけてもパウロ神学は、攻撃されてきたのでした。(第1テモテ書など)女性の社会的人権の回復というきわめて健全なスタンスをもってはじまったフェミニズムは、聖書解釈の壁につきあたるやいなや、いわゆるリベラルな聖書解釈学と全面的に歩調をあわせることになりました。とりわけ、パウロ神学は、時代的制約に侵された病んだ社会を反映しているのであり、教育と人権が復興した現代においては、もはや「古文書」以外の意味はないのだ…と。
 パウロ文書を現代的人権論のまえに相対化してしまうこのような解釈学は、書簡文書を福音書より「価値が低い」とみなす傾向とも連動し、つまりは、一旦解釈上文字どおりの意味にたいして「時代的制約」というフィルターをかけてから取捨選択するという「病気」をもちこんでしまうと、キリスト論を含めて伝統的聖書解釈に留まるための歯止めは全くなくなるのです。
 初期の健全な歴史的意味とは別に、自由主義神学へのきわめて危険な糸口となりうるという意味で、私が達している立場は「フェミニズムは反キリスト的である」という立場です。
(MaryPride[The Way Home]他参照)
 男性たる夫が家庭のリーダーシップをとることへの反抗とか、ネットワークであれなんであれ男性がリーダーシップをとることへの反抗という表面的なことにとどまらず、フェミニズム神学の根は、聖書解釈やキリスト信仰そのものへの攻撃性を含んでいます。
 「フェミニスト神学にどう向き合っているか。それは、信仰がリベラル化しいているかどうかの指針として注目すべきである」といういい方は、単純すぎるかもしれませんが、外れてはいません。私は、その神学的課題と、ホームスクーリングは関係がないとは思いません。聖書は、明確に夫には妻を「愛しなさい」と命じていますが、同時に明確に妻には「従いなさい」と命じているからです。(第一テモテ2:11、コロサイ3:18など)
 一方で、日本文化が、妻の夫への隷属を命じてきたというその「保守性」と、妻に「従いなさい」と命じている聖書の文字どおりの意味とを混同してはいけないでしょう。両者は似て非なるものです。ですから、ご質問の保守的夫婦観の復興には単純に繋がるとはいえず、むしろ妻に対しては、聖書に示された夫の立場へのへ配慮と、その意見への理解と尊重することにあっての「服従」が命じられているといえます。これが、いわゆる封建的な「絶対的服従」と峻別されているのは、服従が、盲従ではなく、夫が「神のものとされる」ため(第一ペテロ3:1)という点にあるということを見のがしてはなりません。
 誤解されないことを願うのみですが、ホームスクーリングへの聖書基準を確信しつつも、(私の経験からしても)夫に対しては、妻の家事労働への労りや家事への直接参加を一層促すことになります。そして、妻に対しても、ホームスクーリングを始める前以上に、社会問題・政治問題やネットワークのことについて積極的に考え、場合によっては直接参加することにより、ただ夫の命令に従っていればいいとか、ただ家事に専念していればいいという状態に留められることは決してありません。
 だからこそ、一層、流されずにいつも聖書に聴き従う態度がなければと思います。
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Q 教育とは、「すり込み」であり、強制であると思います。

 「鞭を控えるものは、子どもを憎むものである」(箴言)が、教育が強制的でなければならないことを示す箇所とされますが、単純に聖書解釈としていえることに絞ると、箴言全体の脈略が学校などの収容施設ではなく、親子の関係を前提としているということを踏まえても、親子の間だに「鞭(スパンク)」が手段として与えらえられていることは疑いようがありません。親が主にあって愛をもってその子どもに与えるスパンクは、むしろ義務なのではないかとさえ私は思います。けれども、問題は、親子の関係に介在する「鞭」が、そのまま教育施設などでも適応されていいのかという課題です。親代わりという意味で、親も了解の上なら「鞭」を使うのは許されるのでしょうか。
 親の側に、「自分たちができないことを、他人にやってもらうのだ」とか「親だけでは教育ができない」という考え方があって、いわば教師に全権委任するように「鞭」の使用も認めるという立場がありえるとしても、私はこの考え方に全面的には賛成できません。それは、主が許しておられるのは親の子どもに対する関係において、必要なら「鞭」も介在するとしても、教師であれ誰であれむしろ教育を「他人任せに」してしまう言い逃れにしてはなならないと思うからです。勿論、「子どもの最善が、親以外の教師の手に委ねることにある」ともいえる場合は全くないとはいえません。けれども、親が鞭を与えることができないので、教師がそれを代行するということができるのだろうかという点では、私はかなり否定的です。
  親以外に「鞭」が使えるのは、ただ創造者である神のみです。(ヘブル12:1〜11)

 それ故、どんな教育施設も、親に主から与えられた責任にとってかわるべき存在になってはならないと思うのです。聖書の原則が存在しない世俗においては、何でもありといってしまえばそれまでですが、親が教育的という名のもとに「暴力」がなされていて、親による虐待から子どもを守るなどといわれています。一方で、教育機関がどんなに「暴力的」であっても親の委任が強く、死亡(殺人)事件があってはじめて報道された後に話題になるくらいです。そのような、他人任せを問題にしたいのです。本当に大切な時期にある子どもに、スパンクを控えてしまい、その「遅れ」を取り戻すべく「施設に入れて、死亡させてしまった」という事例にこの国はことかきません。 
 聖書において示されている限りにおいていえば、教育のための収容施設が何であれ、親にかわって「鞭」をもてるとはいえないと思います。集団生活の規則はありえるでしょう。罰則もありえるでしょう。けれども、どんな施設も「親代わり」はできないのです。英国のホームスクーリングネットワークである、「エディユケーション・アザワイズ」のテーマは、「学校は強制ではない School is not compulsory」というものです。私はこのモットーが、いわゆる「親の鞭」に対して否定的という意味ではなく、学校の中にいつでも生まれる、個性を無視したいっぱひとからげの評価や、命令への完璧な服従のみを教育目標にされる集団主義への抵抗の精神を読みとります。
 「教育とは、もともと暴力的である」とか「強制なくして教育なし」「幼児期は、未熟な動物期にあるのであって、動物には調教が必要なように、権威への服従を刷り込まなければならない」「人は、人として生まれるのではない、教育という威圧によって人になるのである。」という意見を、某ヨットスクールとか、「プロ教師の会」などから出される著作群に見て、やはり進化論的な人間観が横たわっているのかなと思いました。
 主にあって子どもを育てるということは、そのような教育観とは峻別されなければなりません。
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