クリスチャンからの問いに答えて
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  2002/5/15 更新及び改訂!!
ホームスクーリングについて、クリスチャンの方から随時寄せられたご意見やご質問に対して、このコーナでお答えしたいと思います。
順番は不同です。(印刷には、フレーム表示の解除が必要です)

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#ホームスクーリングの聖書的根拠を教えてください
#エリート教育には熱心なのですね
#ホームスクーリング/ホームスクールを選択していないと信仰に問題がある?         
#就学拒否を強制することは、恵みを制限することになりませんか       
#ホームスクーリングは、一般の教育理論でなく、宣教の課題
#「制度に従え」(第一ペテロ2章13節)
#「つまずき」(第一コリント8章12〜13)
#「隣人愛」(マタイ22:39)
#教科書はどうしていますか?  !
#アンスクーリングからの問いに、キリスト者はどのように答えたら
#キリスト者も「アンスクーリング」できますか?
#親が厳密なカリキュラムを子どもに履行させる場合と、アンスクールングの双方の結果は?
#アンスクーリングをもっと「問題視」すべきNew!!
#「シュターナー教育」はどのように考えますか。  
#「ビートルズ」などの世俗の音楽文化は
#隔離して育てているようで「ヤマギシ」のようですね 
#「いやな事、つらい事を我慢してこそ人間成長する」のでは。 
#教会の教職の立場にあるものが、ホームスクーリングを始めると混乱を!
#日本でのホームスクーリングに、天皇制問題を絡めるのには
#いわゆる「セオノミー神学」とホームスクーリングは 
#近くにチャーチスクールがないので、ホームスクーリングは無理でしょうかNew!!
#チャーチスクールに入れるなら、
#それでは、ホームスクーラーにとって「チャーチスクール」とは
#クリスチャンホームスクーラーにとって「体罰」は
#「ハリー・ポッター」については、どう思いますか。New!!
#ホームスクーラーは、自己中心で安易な道を選択してしまう
#キリスト者としてホームスクーリングを始める際に、参考になる図書

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Q ホームスクーリングの聖書的根拠を教えてください
A 
  ホームスクールとは子どもが家庭をベースにして生活し、成長し、学ぶということであり、その事例は、聖書のなかに該当する箇所があまりに多く、すべてを紹介しきれません。
 たとえば、旧約聖書では、申命記6章6〜7節A「私がきょうあなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっている時も、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい」が最も知られています。それから箴言は、全編がそのままホームスクーラーにとって教科書のようです。信仰の知識に対する優先性は「主を恐れることが知識の始めである」(箴言1章7節)と明解であり、子どもの親への尊敬(4章)も繰り返して命じられています。(もっとも、「鞭をひかえるものは、その子を憎むものである」(箴言13章24節)などは、聖書全体が(箴言全体も)親と子どもの信仰を中心とした信頼関係を前提にしていることを見なければならないのであり、単純に親による体罰肯定論の根拠とされてはならないと思います。)
 新約聖書でも、「父達よ、あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教訓と訓戒によって育てなさい」(エペソ6章4節)とあり、親が権威主義をふりまわすことに対して、警告されています。それでも、「子どものごきげんとり」のようにでなはないことが、「教訓と訓戒」という言葉に示され、子どもに示すべき規範に、親自身が従う生活をしているのかどうかが問われているといえます。
 パウロは律法学者ガマリエル門下の優等生でした。それなのに、自分の過去の華麗な学歴を「ちりあくた」(ピリピ書3章7〜8節)と称しているところに、聖書を基盤にしたチャーチスクールやホームスクーラーの視点がおかれるべきではないでしょうか。
 12才のとき、主イエスは「律法学者」さえ驚かせる質問と知識をもっておられたのであり、(ルカ2章46〜47節)そのキリストを頭(かしら)とする教会もまた、世俗の知恵と知識に対して持つべき立場が、この頃の主イエス様に示されています。
 民の指導者、長老、学者たちは、「ペテロとヨハネの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であることを知って驚いた」(使徒4章13節)のでした。使徒たちの「知識」は、当時においても教育制度の外にあったということです。
 蛇足かもしれませんが一方の「近代学校制度」には聖書的根拠があるのでしょうか。
  たとえばイスラエルが王の統治を求めた頃、預言者サムエルに対して、「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を与えてください」(第一サムエル8章6節)と民は求め、不承不承ながらサムエルは民の要求を受け入ますが、主もこの民の「頑迷さ」を嘆かれつつ、王の存在が民に対して脅威になるかもしれないという条件のもとにサウル王が選ばれたという出来事がありました。つまり、この時、預言者サムエルは、王が「あなたがたの息子をとりあげて、彼らを自分の戦車の馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる」(第一サムエル8:11)といいました。王の俗権が兵役として子どもたちに強制的に行使されるという事例が、強いていえば近代の学校制度の登場の経緯と同じ文脈にあるといえます。ただし、これは戦前戦中の国民皆兵の時代においてのことであって、日本の戦後に再出発した主権在民の精神に基づく教育制度の趣旨からすると、近代の学校制度のために聖書の根拠を捜すのはやはり無理がありそうです。
  
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 教会は、不登校問題には一瞥もしないのに、ホームスクーリングなどエリート教育には熱心なのですね。
 
  ホームスクーリングと同時に、チアにっぽんの働きかけなどにより、最近チャーチクール運動(米国ではクリスチャンスクール)が注目されるようになりました。
 確かに、《不登校周辺の問題》において世俗のフリースクールやホームスクール運動にかかわる非キリスト者の行動などに比べて、キリスト者があまりにも冷ややかなのには今でも心が痛みます。ホームスクーラーの多い教会でさえ例外ではなく、昨今のキリスト教会のこの話題をめぐる「そ知らぬ顔」の対応は、良いサマリヤ人のたとえを引くまでもなく、瀕死の人を横目に道の反対側を通っていった祭司・レビ人と何ら変わるところがありません。不登校を巡っては、民間フリースクールの内部でさえ、キリスト教会への不信は根強いのです。
 一方、米国公民権運動にはそのかなめとしてキング牧師はじめキリスト者が多数関わってきました。ホームスクーリングの指導的立場には、いつも教会とその指導者である牧師や長老がかかわってきました。子弟教育が、教会形成の要(かなめ)であることをよく認識しているからです。不登校問題に、不熱心なのは、これまでの日本のキリスト教会には、実は学校信仰が根強く存在し、信仰の継承に不熱心ではなかったとしても、「子どもが学校教育で、育つ」限りにおいてではなかったでしょうか。かえって「子どもが学校に関心を示さなくなるほど信仰に熱心になることは、親が本心では望んでいないのではないか」と未信者から皮肉られても、きりかえす言葉がないに違いありません。 「不登校児が教会に来ると、学校を拒否しはじめている我が子に良くない影響を与える」と考えているキリスト者も実際にあるのです。教会は、キリストの体と教えられているのに、学校信仰からの解放が最も重要な課題である場所は、他でもなく日本のキリスト教会なのではありませんか。
 
 それに、ホームスクーリングは、宣教の課題でもありますが、同時に隣人愛を示すべき課題であることも忘れてはいけないでしょう。
 「不登校児」をいつでも問題を抱えた子どもとみなす風潮があります。この世俗の風潮(あるいは教育官僚によって、つくられた情報操作)に歩調を揃えて、キリスト教会は、不登校を受け容れてきました。その結果、不登校の結果、心に癒やしを求めて教会に行ったものの、「憐れみの対象」以外とはみなされず、心底傷ついて二度とは教会に行かなくなった子どもは少なくありません。
 ホームスクーリングがキリスト者子弟教育の有効な手段とされるは心から賛成ですが、その一方で子弟教育ということで、外部に対して閉じられた課題とされ、キリスト者が世俗のホームスクーリング運動や不登校にからみつく学校信仰問題に何の興味も関心も示さないのには、同意しかねます。家庭と教育の意味を見直すホームスクーリング運動と同様に、開かれたチャーチスクール運動が盛んになる必要があるのです。確かに、教会の子弟教育が優先課題であるべきです。しかし、このテーマは、原則としては外部に対して閉じられているべきではないと思います。
 課題も少なくないとはいえ、ホームスクーリングが福音宣教の重要な戦略ともなりうるばかりか、不登校問題にも解決の糸口を示唆できると思うからです。
 キリスト者には、学校問題においても、「サマリヤ人の愛」が問われています。
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Q  ホームスクーリングを選択していないクリスチャン家庭は信仰に問題があるのでしょうか。


 ホームスクーリングを絶対視しないでいただきたいのです。
 ホームスクーリングが明確な聖書的確信のもとにおこなわれる時、子どもの成長と信仰にとって最も有効な教育環境となるとは思いますが、その一方で、ホームスクーリングを絶対的な教育手段とみなすことも、それはそれでいかがなものかと思います。
 学校制度を支えてきた勢力の筆頭には、国家以前にキリスト教会がありました。
 子どもたちさえも労働へとかりたてた産業革命の大量生産時代に、英国教会は子どもたちを苦役から解放するために日曜日に教会を解放し、聖書をはじめとして他の学習を教え始めたということが、現在の公教育が育まれる母体の一つとなりました。
 一方で、日本人キリスト者が、学校教育(特に公教育)に熱心な背景には別の歴史的要因がありそうです。
 宣教活動をその設立目的に据えたミッションスクールなどは、一般社会に対しても当初、地の塩としての積極的な働きをしてきたのではないかと思います。一方で、キリスト者は伝統的に教育熱心で学校教育をささえてきた(あるいは、国策に利用されてきた)のであり、いい意味でも悪い意味でも、それが様々な社会問題として露呈しているともいえます。それでも、子どもの教育の環境として、キリスト者家庭が、公教育を含めた学校教育を選択することそれ自体を、信仰に反するとまでは言えません。
 それは、ホームスクーリング運動とは、最初から教育をオルタナティヴ(二者択一)な視点からとらえなおしたところから始まるのであり、子どもを学校などの手法にみられるよな枠にはめる」ようにではなく、親が子どもの必要に応じて、教育手段を主体的に選択しようとするものだからです。ホームスクーラーは、しばしば学校を問題視していますが、だからといって、学校制そのものを否定したり、制度の変更を求める運動でもないのです。
 しかしながら、親が学校の原理的なところに問題があることを十分了解していながら、(たとえば、進化論の唯物主義、人間中心主義、宗教を相対的とみなすこと、集団志向、点数至上主義など)それでも、世間体を重んじて、良心に逆らってまで子どもを学校に行かせるとすれば、やはり重大な信仰上の妥協をしているとみなされるでしょう。あるいは、子どもが犠牲になるという事実を、集団マインドコントロールによって覆われているともいえます。
 教育の主体は家庭であることを認め、あるいは、主イエス様から託されている家庭と教会の役割を自覚して、学校に行かせていても、行かせていなくても、学校教育を絶対視しないところに、キリスト者の出発点があります
 ですから、同じ意味で、ホームスクーリングを絶対視すべきではありません。
 小学はホームスクーラーとして過ごし、中高は在校生などという場合も、大学を目標にして、それ以前はホームスクールで育ったなどというのもありうるでしょうね。同じ家庭の中に、学校があう子どもがいたり、ホームスクーリングのほうがいい子どもがいたりしてもいいのです。
 ホームスクーリングは、間接的に学校の改善を促進させているともいえます。もし。学校が子どもや親の側に「自発的に選択されるシステム」であるなら、その制度の完成度はより高いということにもなるからです。
 (ホームスクーラーからの厳しい批判に耐えて、その上でなおホームスクーラーが自発的にその場を選択するほどに魅力的な学校やチャーチスクールや塾があるでしょうか。)
  それから、特定な終末論をとならないホームスクーラーを軽視(あるいは問題視)し、セクト化に進み他のホームスクーラーと一切交流をもたないという立場にも、チャーチスクールをはじめ特定な組織と関係をもたないホームスクーラーを「未完成である」とみなす立場にも、絶対化(あるいは集団の偶像化)という課題があります。
 モーセは、王子としてエジプトのあらゆる学問を身につけたといわれます。(使徒7章22節)彼は摂理のなかで、イスラエルの指導者になるための訓練を受けたのでした。そのように、世俗の異教的教育環境におかれたとしても、逆境のなかで信仰を失わないどころかますます強くされるということもありえるでしょう。
 けれども、今の学校の現状においては、「学校のおかげで信仰が強くされた」と当然ながらいわれるべきではなく、「学校という名の異教的環境におかれたにもかかわらず、社会常識を身につけ、信仰から脱落することなく、主の恵みのゆえに守られた」と告白されるべきだと思います。

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Q 親として学校からの恩恵を受けていながら、子どもではなく親の意志でホームスクールという就学拒否を強制することは、恵みを制限することになりませんか。
 
  ホームスクーリング運動は、「就学拒否運動」なのではありません
 子どもの教育において、学校制度を絶対化しないで、オルタナティブ(二者択一)な立場をとり、親の側に教育の主導権を戻すなかで提唱されている一つの手段にしかすぎません。教育の多様化を促進しているともいえますので、その意味では、ホームスクーリングをしながら、ある時期には学校に行くということもよくあります。
 ただし、キリスト者ファミリーが、ホームスクーリングを選択する場合は、学校拒否というよりも、子どもに信仰を継承するために最善の場を選択したという判断があります。  
 親が積極的に学校を子どものために選択しなかったという意味で、「拒否」が強調されますが、それ以上に、子どもにとって、最上の場所であるのが家庭であることが認識されているからです。「就学拒否」はその一面にしかすぎません。子どもの幼児教育期にある親は、子どもの判断に待つのではなく、最良の場所を判断する責任を負います。その判断の延長線にホームスクーリングがあるのです。
 それゆえ、ホームスクーリングが恩恵を制限しているとは思いません。
 むしろ、教会学校の低迷に象徴されますが、それに留まらず、教育のすべての分野全般でキリスト者が撤退し、子どもたちの心から恩恵が失われてきたこれまでの歴史を悔い改めなければなりません。ホームスクーリング運動は、キリスト教会に失地を回復するさせる運動であるとも、恩恵を再発見する運動であるともいえます。
 たとえば、消極的には、問題の多い現在の受験教育の空気に触れないというだけでもホームスクーリングには学校時間よりも多くの恩恵があると思いますし、積極的には、より多くの時間を「考える時間」として用いることができ、学ぶ楽しさを味わうことができることから、これも恩恵に数えられるでしょう。
 また、学校のように競争によって信頼関係が損なわれることがないので、同世代においても親密な人間関係が育まれるのです。
 そして、なにより進化論に惑わされずに、子どもたちに聖書の教義をリアリティを確信して教えることができることが、なによりの恵みなのではありませんか。
 今日公立学校はいまや「教育の中立」のたてまえの曖昧さをかなぐりすてて、「天皇を中心とした神の国」論(森元総理大臣/石原現東京都知事/中曾根康弘自民党最高顧問/小泉現総理大臣)の旗振り役であろうとしていることを隠そうともしていないからです。

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Q ホームスクーリングは、一般の教育理論としてでなく、宣教の課題とされるべきではありませんか。
 

 ホームスクーリング運動やチャーチスクール運動は、教会の宣教活動そのものだと思います。 
 前段で述べましたように、近代欧米の学校制度の創始期は、キリスト教会に主導権がありました。ところが、次第に国家主義が台頭し、公教育の主流は国家主導型の軍国主義教育に移行させられます。これが現在の世俗化した公教育のルーツです。
 一方で、カテキズム教育を祖として、キリスト教宣教を建学の旗印に、多くの大学やミッションスクールがつくられたのですが、やがて建学の精神を捨てて、ほとんどが世俗的エリート主義の餌食になっていきました。ミッションスクールについて、戦前は「男子は官学、女子はミッション」ともいわれ、良妻賢母教育を補完するような役割しか与えられてきませんでした。戦後大きな変化があっても、世俗化の波にもまれる一方で、社会常識を補完する役割に甘んじてきたのが実体でしょう。支援母体である教会信条からのリベラル化に拍車がかけられると、国家からの財政支援への依存度の増加とともに、ミッションスクールは自由主義神学によって聖書信仰からの離反の先陣をきってきたばかりでなく、日本では戦前戦後と天皇崇拝の模範者であろうとしたのが、「プロテスタントミッションスクール」のほんとうの姿です。
 「学校では知的体系を、教会(教会学校)では道徳を」という誤った二元論をこともなげに受け容れてきた退廃の歴史が今日の苦戦につながるのです。
 実は、ホームスクーリングに活動の基礎をおかないチャーチスクール運動にも、同様なあやうさがつきまといます。公的支援金を受けるような規模になったチャーチスクールは、つねに「ミッションスクール化」という影を背負います。そして、世俗化の波に飲まれることはないという保障はどこにもありません。

 それゆえに、ホームスクーリングやチャーチ・スクールの復興とは、近代の教会が陥った宣教と教育の二元論についての悔い改めを促すものなのであり、教会の本来の宣教の課題そのものの復興であるといえます。
 ですから、教会はもっぱら宣教と情緒面/道徳面の教育に専念していればいいのであって、子どもの知識の教育は専門家がいる学校へといわれるのは誤りです。
 信仰に生きることを第一とする教会およびクリスチャン・ファミリーは、確信をもって家族に、そして子どもたちにキリストがすべての主であることを示すべきですし、進化論的世界観や世俗的エリート主義などの価値観とは違う、聖書の世界観や人生観を示すべきです。その具体的な選択肢にホームスクーリングが位置づけられます。
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 ホームスクールでは、「制度に従え」(第一ペテロ2章13節)という戒めに逆らうことになりませんか。


  キリスト者は、人の立てた制度を絶対視しません。
 万物は創造主の支配下にあり、それはキリスト教的ではない一般の世俗の権力も例外ではないとみなされますので、創造主への絶対的な服従のゆえに、この世の制度に従うことが命じられているのですが、言い換えればキリスト者が国民としてその国の法律やシステムに従うのは、この信仰を根拠にするゆえなのです。

 ですから、時に国家や人のつくった制度やシステムがあえて創造主に逆らって、独裁や人種差別や思想弾圧を始めたような場合には、ダニエルなどの例にみられるように、権力に抵抗するという行為をもって神に従ってきたというキリスト者の歴史があります。
 子どもを学校に行かせると行かせないとにかかわらず、もし学校それ自体を絶対視するとき、それは偶像礼拝と等しく、カルト信仰に酷似したマインドコントロールが隠されていることをもっとキリスト者は認識しなければなりません。(たとえば、「登校」や「下校」といういい方は、学校を「上位」においているいい方で、権威主義的な演出効果のある用語でしょう。英語では「学校に行く」だけです。 )
 一方で、キリスト者はホームスクーリングを唯一の絶対的教育手段とみなすこともしないのです。 
 子どもたちを、残酷な就労や戦前戦中の国家神道のカルトから解放し、様々な手段によって自由に学ぶことができる場を最大限に確保するという現行憲法の精神に従いたいのですが、その実現のための手段としての学校が巨大化し硬直化し、制度の名のもとに土台となる精神が損なわれて日の丸・君が代の時代錯誤の妄想に翻弄されているのであれば、その制度をあえて利用しないことや、制度そのものの変更を求めていくという立場で、法の精神を生かそうとしているのがホームスクール運動であるとも言えます。
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 ームスクーリングは、地域や世の人に違和感や反感を与えて「つまずき」(第一コリント8章12〜13)となりませんか。

 
 日本で外国の宗教とみなされてきたキリスト教を需要してきた過程にも似て、情報が十分に伝わっていない時代には、一般に警戒感が強かったと思います。ホームスクーラーの数が圧倒的に少なかったことにもよります。しかし、どうか何が本当の「つまずき」になっているのかをお考えいただきたいのです。
 日本のキリスト教会内において、とりわけ教職者には、学校信仰やエリート崇拝が想像以上に絡みついていて強いのです。ある時、不登校問題で心の傷を負った親子がキリスト教会に行ったところ、這々(ほうほう)の体(てい)で帰ってきました。こんな実話があります。
 一時、教会学校と礼拝に通っていた親子でした。
 「学校に行っていない子どもが、教会学校に来て他の子どもに悪影響となっては困る」と教会学校教師から苦言を進呈されたので教会学校はやめた
 しかし、教会の礼拝に行き続けていたところ、
 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も不登校などの罪から解放される」と、牧師が説教。子どもは泣いて帰った
 ついには、学校のあら探しばかりして、改善するための努力をやめた隣人愛のない人と婦人会が噂しているのを知らされるに至り、ついには、教会に通うこと自体が苦痛になったというのです。もし、近所のフリースクールなどに行くことでもあるならこんな話がゴロゴロしています。
 いつも私は悔しく思うのです。
 不登校に関わっている人々が何につまずいて教会に行くのをやめたかを赤裸々に知らされることでしょう。不登校児たちは、教会に出向いて魂に救いを求めたのですが、教会は彼らのために門を閉ざしてきたのです。

 私は、不登校で悩む親子にキリストの救いが示されされたならどんなに幸いであることかと思いつつ、このような現状では不登校問題をかかえる悩める親子に教会に行くなら、救いがあるなどとはとてもいえせん。
 でも、愚かと言われるかもしれませんが、私はいつかホームスクーリングを受け容れることで教会がこのような人々への救いに門を開く日が訪れるという希望をこれからも捨てないつもりです。
 その日とは、もはや「学校に行かないことは罪」と言われない日であり、不登校の子どもを救済するなどというスタンスをとらなくなる日でもあります。 
 あなたの教会の週報でも「〜進学合格おめでとう」とか「〜大学合格おめでとう」とかが掲載されることがありませんか? 
 このような教会に、つまずきを覚えている日本人は、よほど多いのですよ。
 教会がこの世の価値観でしかものごとを判断できないとすれば、それこそが「つまずき」なのではありませんか。

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 学校での隣人たちの労苦を理解し、共に闘うことを放棄して隣人愛(マタイ22:39)を語れるでしょうか。

 長女の小学校入学を前にして、この問いについては真剣に考えたことがあります。地域で学校の問題と取り組みながら、PTA組織などで中心的に活躍しておられるキリスト者は多くおれられましたので。
 その頃、日本基督教団の沢正彦牧師がいわゆる日曜学校訴訟をおこされました。日曜日に授業参観や運動会などで礼拝出席が妨げられるのは、憲法が求める信教の自由に抵触するのではないかとの訴えでした。しかし、東京地裁で敗訴し、原告は上告を断念しましたので、公教育主催の行事において、日曜礼拝出席という宗教上の理由から行事への参加を免除するなどの例外は認められないという学校側勝訴の判例として確定したのでした。
 この時の、キリスト教会はおしなべてあまりにも冷ややかで、応援しなかったなどというものではなく、純粋な信仰と隣人愛に満ちた沢氏の行動を、向こう見ずと言って誹謗中傷する側に回ったのではないかと疑います。
 沢先生は、米国で一時の休息をえるものの、病をえて、東京の自宅で天に召されました。
 今日オウムの問題などを考慮すると、公教育が宗教活動に対して非寛容だったことも納得させられるのですが、沢訴訟の一連の顛末で公教育の性格が明確に見えたと思いました。
 つまり、キリスト者には、公教育のなかで日曜礼拝遵守・創造論の世界観、十戒の倫理観など「宗教者の権利」など発言することは、現段階ではもはや法的には何の根拠も与えられていないとの念がおされたのです。
 残念ながら、キリスト者は、敗訴の事実を不思議なほど了解し、かえって「自分たちの信仰によって平和に登校している他の子どもに日曜礼拝出席などで迷惑を与えないように」などという卑屈な配慮に甘んじているのです。
 公教育の現場では、カルト信仰の「エホバの証人」と同一視されないための努力が、結果としてキリスト者のなかに曖昧な態度を醸成してきたともいえます。
 ただでさえ、森発言に代表されるように戦前戦中の国家神道のカルト勢力がすでに日の丸・君が代法制化を終えている現状においては、たとえ隣人愛に動機づけられたとしても、学校を地域レベルで改善していこうとする努力さえ、空を打つボクシングのようなもののようです。
 「肉を切らせて骨をとる」どころか、子どもたちが人質にとられて骨抜きにされるだけだと思います。「友達が悪ければ、良い習慣がそこなわれる」(新約聖書第一コリント15:23)ともいわれています。

 長くなりますので、すぐれた良書を紹介して末尾とします。
 渡辺信夫著「教会が教会であるために−教会論再考」信教新書 1992 です。その中でも、特に「教育する教会」(p89〜120)は是非ご一読ください。

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Q 教科書はどうしていますか?

 教科書が教えられているというだけで、「教育されている」と考えるのは幻想です。
 それは、ホームスクーリングでも例外ではありません。
 前段でも述べましたように、クリスチャンにとって唯一の教科書らしい教科書は「聖書」ですから、聖書以外のものを聖書と同列におくことは、子どもたちにとっても「偶像礼拝」のようなものです。
 それから、教科書を使うメリットは理解できるのですが、教科書を使わないメリットもあるのではないでしょうか。生徒にとって、教科書とは誰かがすでに発見したことを繰り返されるにすぎません。すでに発見されている「真理や原理」を本で読ませられることばかりでなく、暗記させられることは誰にとっても「興醒め」であるということにお気づきいただきたいのです。教科書などの道具はあるにこしたことはありませんが、大切なのは、子どもたちが物事のルーツや原理にどのようにしたら関心を示すのかということでしょう。しかも、その疑問のほとんどは大人が説けたとしても、大人から聴くより自分の意志で他人(親や教師)から学びとるほうがはるかに優れているのです。
 それから、子どもにとって最大の関心は、問題にぶつかった時、親がどのような手だてをとるのかなのです。親が問題点を指摘されてもいつもごまかしたり、他人に責任を転嫁してばかりいると、そのような「問題解決方法」を子どもが学習したことになります。
 問題の解決のために、どのような手段があるか。どのような「仮説」を立てられるのか。解決方法は具体的にどのようなものか。親の態度や様子のすべてを、教材として子どもたちは学習しているのです。親がいつも祈りに溢れて聖書に親しんでいる生活をおくっているなら、子どもはそのように信仰生活の態度を学ぶでしょう。
 親にとってどうあれ、子どもにとって教科書は「疑似体験」です。そこには、疑似体験を「体験」と思わせるようなトリックがあります。シロップ漬けのパイナップルの缶詰の味を「学習」した後で、本物のパイナップルに出会うとむしろ本物のほうが味けなく感じるかもしれません。「英語のようなもの」ではなく、「英語そのもの」の学習が必要なのです。
 いつも「本物」にふれさせることができるとは限りませんし、いつもアウトドアでいられるわけでもありませんが、日常的な食品の知識から始めて、「本物」を志向できるのはホームスクーリングのメリットではないでしょうか。
 それでも、知識は体系的であることが求められることは確かです。
 音楽や数学は特にそのような傾向が強いと思われます。音楽を素養として身につけさせたいとか、数学が将来必要だからというのではなく、子どもたちの音楽への興味や、パズルや「数」や「図形」などへの興味を引き出せるようなら教科書を含めた「教材」に意味があるかもしれません。
 理科や社会科については、唯物史観や民族主義に裏付けられた自由主義歴史観などから完全に解放された「教材」がまだみられません。最近の教科書問題でも脚光を浴びているように、キリスト者の歴史観からみた「日本史教科書」が与えられるのを真剣に願わされています。
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Q アンスクーリングからの問いに、キリスト者はどのように答えたらいいのでしょうか。

 
 アンスクーリングは、米国でのホームスクーラーが苦闘の末に到達した一つの提案です。しかし、同時に一つの提案に過ぎないのであって、必ずしもすべての家庭や子どもたちに有効とはいえないとは思います。ただし、キリスト者は良かれ悪しかれ、「カリキュラム教育」への強い執着を持ちます。そのために、米国では、アンスクーリングを実践しているファミリーにとって、キリスト者は一種の「軋轢」となっています。たとえば、アンスクーリングを提唱するHPもあります。
 米国では、ホームスクーラーに保守的キリスト者が多く、カリキュラム化されたホームスクーリングが実践されています。その点において、キリスト者ではないアンスクーリングの立場から反発されていると報告されています。反発の理由は、ホームスクーリングの内容が子どもの視点ではなく、良かれ悪しかれ親の側に学習目標が確立されていて、親に子どもを従わせる手段としてホームスクーリングが位置づけられ、同時に「どの教科書を選ぶべきか、どのように教科書を扱うべきか」という議論で埋め尽くされているのではないかという指摘があります。
 世俗の学校が宗教的中立のたてまえにした、反信仰的教育をおこなっているとみなされますので、当然ながらキリスト者によるホームスクーリングは宗教教育の色彩がより一層強まるでしょう。
 学校信仰を相対化すると、キリスト者には聖書信仰が残ります。ホームスクーリングにおいては、聖書信仰を守るために学校信仰を相対化しているのだともいえます。
 これは必然的ではありますが、同時にキリスト者のなかに、アンスクーリングの立場からの貴重な意見に耳を傾ける余地をなくさせている原因ともなっているのではないでしょうか。
 歴史的には、ルター以来プロテスタント教会が伝統的に持つ、カテキズム(教理問答書)教育の世俗化が学校教科書の原型の一つに数えられるといわれます。改革・長老主義教会の500年にわたる伝統では、ウエストミンスター小教理問答が学校以前に「教科書」の役割を果たしてきました。ですから教科書への固着は、ここ五百年以上の伝統のうちに生成されたものであり、一朝一夜でいかないのです。
 教理問答書ばかりではなく、聖書への親しみを深め、造り主の業である世界や歴史を辿るための「通過点」あるいは「道案内」が必要であり、それが教科書学習を含めた諸学問に意味を提供しているとも考えられるのです。

 それはそうとして、使徒パウロが、自分の華麗な学歴/遍歴を回想しながら、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ書3章8節 )と言っていることを再考したいのです。
 聖書が唯一の基準であるといっていながら、親の学校信仰や世俗の学歴主義によって生み出された「教科書観」を洗い直すことをせずに、ホームスクーリングの内容を、どの教科書を選ぶか、どんなカリキュラムを組むのかという話題にすり換えてしまう「学校化現象」にキリスト者は陥りがちです。
  ただし、聖書を学ぶということは、そこにすべての学問(教科学習)の基礎がすえられることになるという視点も大切です。つまり、学問とは、もともと国家の教育戦略を母体としているのではなく、聖書をすべての基礎にすえたところを母体にして成り立つのだともいえるのです。 
 「スクーリング(教科学習)」の根拠を聖書おくことは、よりベターな選択という以上に、それこそが本来あるべきスタンスなのだともいえるのです。
 これからホームスクーリングをお考えの場合に、アンスクーリングからの提案は先達たちの「遺産」として是非考慮していただいてはいかがでしょうか。J・ホルトの「なんで学校にやるの?」(一光社刊)は平易にアンスクーリングを紹介した書物といえるでしょう。(詳しくは、本HP「スクーリングとアンスクーリング」をご参照ください。
 「自分たちは、クリスチャンで聖書を持っていて、しかもがっちりカリキュラムを組むタイプだからだからアンスクーリングについては考慮しなくてもいい」などと安心しないでください。
  キリスト者には、偶像礼拝にも等しい学校信仰の影響が色濃くみられるのです。クリスチャンは、ホームスクーリングにおいて、第一に内面から霊的に宗教改革されなければなりません。どの書物を教科書とみなすかとか、参考書(教科書)をどのように使うかということは決して軽視すべきではありませんが、もっと大切な課題が親の心の中にあります。
  
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Qではキリスト者のホームスクーラーも、「アンスクーリング」ができるといえますか?

A 
 聖書を教科書のように教えるのに、アンスクーリングと呼べるのかという質問でもありますね。
 キリスト者にとって教師はイエス・キリストのみ(マタイ福音書23章10節)です。
 「教科書」という呼び方にも抵抗があります。
 確かに「教科書」と呼べる書物は多くありますが、キリスト者にとって、真の意味で教科書の名にふさわしいのは聖書のみである(第二テモテ3章15〜17節)はずだからです。
 それゆえ聖書以外はすべて、参考書でなければなりません。
 それだけに、聖書が世においていつもつまずきの種であるということは、ローマ皇帝ディオクレチアヌスによる迫害を顕著な例として、キリスト教の2000年の歴史のなかで繰り返されてきた事実です。ですから、聖書に基づいた体系的参考書にこの世がつまずくのも当然です。
 
 けれども、聖書以外の他の書物/事物(学校)を相対的に見ることができるという意味で、聖書を信じるキリスト者こそ、アンスクーリングの意味を理解できるのではないかと思います。

 一般的に学校で教科書が使われる場合、すでに発見されていることが教師によって反復されるということを意味します。しかも、このことが子どもの興味をそいでいるということが見過ごしにされています。しかも、進化論を含め、教科書に反論することさえ基本的には認められません。しかも、納得していないことさえ、点数さえよければ高い能力の結果とみなされます。子どもは、方程式や関数式を暗記させられますが、「それを何のために勉強するのか」という最も重大なテーマを問うことはゆるされません。このような錯誤をキリスト者であるホームスクーラーも繰り返すのでしょうか。
 
 しかし、キリスト者には、別の意味で、アンスクーリングとは正反対に、後に近代の学問体系の基礎ともなった「精密な聖書に基づいたカリキュラム」が構築される場合があります。
 米国を含めて特に、カルヴィン主義の伝統にあるときに顕著なのですが、たとえば、オランダの予定説論争によって生み出されたドルト信条にみられるプロテスタント正統主義が、アルミニウスとの論争の過程で近代の理性主義を抱き込んでしまった歴史に似て、家庭のなかでカリキュラム教育を優先させることには、反聖書的な理性主義が潜みこむ場合があると思います。それで、いわゆる幼児期にさえ聖書そのものよりも、精緻に構築されたカリキュラムの履行/修得を優先させるという本末転倒がおこりました。
 
 私は、教理問答教育を軽んじているわけではありません。聖書は誰にとっても、つまみ食いのようにでなく、体系的真理として読まれなければならないと信じているからです。そして、キリスト者にとって学問の多くは、聖書的世界観人生観をベースにした体系的なものでなければならないとさえ思います。
 しかし、ものごとを体系的に把握できる年齢はたとえばおおざっぱで例外がなくもありませんが、早くても10才以下ではないと思います。
 この点については、(他のことは別として)私は「身体の第二次性徴が完成する12代〜15才までは、子どもには教科書や試験そのものを与えない」というシュターナー教育の考え方にも賛成できます。
 聖書がその例外であることは、言うまでもありません。
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Q 親が厳密なカリキュラムを子どもに履行させる場合と、アンスクーリングには、双方にどのような結果の違いがありますか。


 アンスクーリングに魅力を感じながら、一方で教科学習を重視しないことへの不安があるということですね。
 結論からいうと、厳密にカリキュラムを履行させる立場にたいして、アンスクーリングがより劣っているとはいえません。
 けれども、親がアンスクーリングに自信がなくて、カリキュラムに固執した場合に、子どもの側に負の遺産がのこされるかもしれないという意味で差があるかもしれませんね。
 それに、何を「学習結果」と呼ぶのかは親の価値基準によります。
 もし、教科学習能力に視野を狭めるなら、確かにカリキュラムを重視している場合に対して、アンスクーリングの子どもは、たとえば数学の学力などには無頓着になりますので「遅れている」という人が現われるかもしれません。「基礎学力」が不必要とは思いませんが、親が文字に親しむような環境であれば、必ずやがて字を読み字を書くようになります。
 中学程度の数学なら、その気になればではありますが、抽象的な思考ができるようになる10代後半のほうが、10代未満よりも習熟は早いと思います。
 親が普通に読み書きしているのであれば、いわゆる「読み・書き・そろばん」などの基礎学力は、成長するにつれて「差」と呼べるほどではなくなるといえます。四則計算程度の知識で社会生活は十分ですし、パソコンソフトのおかげで、昨今は電卓さえ必要でなくなりました。
 教科学習を限りなく満点に近づけることも、無意味とはいいきれません。でも、親としてはこのような教科学習のために、あえて犠牲にしたくないものがたくさんあります。
 たとえば、子ども時代には、親や教会の交わりによる信仰の継承の他に、本物の食べ物とか、本物の音楽とか、本物の自然とか、本物の文学・映画(演劇)とか、感動したり、美しいものにふれたり、本質的な原理を発見する喜びを味わったりさせてあげたいと思います。
 でも、将来の進路がはっきりしていて、それなりの「公的資格」を目差すというもの一つの道ではないかと思います。職業によって、高等数学や専門言語など必須科目がありますから、その時に「教科学習」の開始時期が来たと考えていただいて、決して遅くないと思います。
 でも、パソコンを含めた各分野の職人をめざすならそれさえも従属的な課題であり、「習うより慣れろ」「好きなことをのばせ」という範囲に落ち着くでしょう。仮に、英語圏の人々と意志疎通したくなれば、自分に強いてでも生きた英語を学ぶようになります。

 お受験戦争に現れるように「子どもに、学歴や地位など、他人に自慢できるような何かを身に付けてほしい」と親が願うことはこの世の人々(異邦人)が求めてやまないでしょう。キリスト者ホームスクーラーのカリキュラム固執にもこのような動機が隠されていなければいいのですが…。
「何が悪い」とおっしゃらないでください。学歴や地位を与えることだけが、親が主から与えられた目標といえるのかどうかと問いたいのです。
 子どもたちが、主イエス様を信じることを恥としないで、教会と社会のなかで公にその信仰を告白できるようになることが最大の目標とされるべきなのではありませんか。
 
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Q むしろクリスチャンとしては、アンスクーリングをもっと「問題視」すべきなのではありませんか。


 そうですね、やはりアンスクーリングの問題点についても述べなければなりませんね。
 アンスクールとは、主にジョン・ホルトによって提唱されてきたホームスクーリングの考え方ですが、アンスクールを丸ごと「非キリスト教的」とみなすのは、賛成しかねます。(「クリスチャンホームスクーリング」の著者であるグレグ・ハリス牧師はその書の中で、ホルトを友人として紹介しています。)
 ハリス師は、ホルトの立場を受け入れ、むしろそれにヒントを得ながら、聖書の教えを再確認しているのです。
 子どもは、「ベッドにあわせて足を切る」ような学校教育の環境ストレスから解放されて、セルフコントロールを許されるだけで、様々な学習能力にいちじるしい結果を見せるのです。「脱学校」の一つの決着点が、アンスクーリングであるともいえます。それゆえ、アンスクーリングとはすべての学校的なるものを、徹底的に排除するのだという誤解が生まれました。当然のことのようですが、ホームスクーリングとは「子どもの足に無理がないベッドを用意する」という考え方です。
 あたりまえのことを述べているにすぎません。
 ゆえに、親が子どもにとって最善と考える環境を判断した上で、意図的にあたえるということで、子どものいいなりになるとか、わがままにさせるというのでもありません。「親が無理をして、子どもにあわせたベッドをつくる」というのでもないのです。
 ところが、アンスクーリングにも、確かに弱点があります。ご質問にある「問題点」をあえて述べるなら、クリスチャン家庭がその基準としている聖書は、本質として教え込まれるべきものであり、子どもの意志に任せた選択的な課題ではないということです。「自由意志」と「信仰」をめぐる歴史的な議論はここでは省略しますが、信仰をもつか否かは、子どもの意志次第であるという立場は、聖書からのものではありません。
 キリスト者はこのように考えます。
 創造者である神は、太陽を気まぐれに昇らせたり、人の心臓を気まぐれに動かしてはおられないのです。そうであれば、罪に汚染されているすべての人は、聖書を気まぐれに読むべきではないのであり、礼拝も「気分に任せられる」べきものでもないと信じるのです。
 子どもは生まれながらに罪を背負っているのであって、その子の親にはキリストの福音を教え込み、継承すべき責任があります。第一に親の意志決定として、幼い頃から聖書に親しませる環境を与えるべきです。(第二テモテ3:15)「信じるか信じないかは子ども本人の意志の問題で、親が自分の確信する信仰をおしつけるべきでない」という意見は、ものわかりが良さそうでスマートな意見にきこえますが、実は近代の反信仰的な理性主義が染み込んでいるのです。
 もし、子どもが「食べなくてもいい」とも「寝なくてもいい」といっても、親は義務として寝食(しんしょく)を与えます。十分な食事や安らかな眠りは、子どもの命にとって必要だからです。
 それと同様に、クリスチャンにとっては、キリスト信仰は自発的であることは求められたとしても、選択的課題ではありません。同じように親によって聖書を読みきかせられることは、子どもの魂にとって、特に幼年期の魂において必要です。ですから、聖書に幼い頃から親しませるためには、子どもの意志に任せるという「アンスクーリング」のスタイルだけではまにあわないのです。
  ここまで言うと、「アンスクールだけでホームスクーリングはできないのか」とか「アンスクーリングだけをホームスクーリングと考えてるファミリーにキリスト教を閉ざすことになるのではないか」などなど、たくさんの派生的課題がありそうですね。
 確かに、クリスチャンになること自体、この国では「狭い道」には違いないでしょう。けれども、クリスチャンとしてホームスクーリングを選ぶというのは、今で述べてきたことのゆえ、さらに「狭き門・狭き道」を選択したことになるのです。本当に安易な気持ちで始められるべきではありません。その上で、アンスクーリングからの提案を理解しているかどうかが問われているのです。
 ただし、このような狭さを追求する論法は、ホームスクーラーのなかに、雨後の竹の子のように、実はいくらでもありました。狭さとは、チャーチスクールに対してであれ、特定の終末論に対してであれ、そしてアンスクーリングに対してであれ、それぞれが互いに尊重できるかぎりにおいて寛容でありたいのですが、どうもそのようにはなっていないようで、相互に批判しあった末に、ネットワークが「気のあったもの同志の身内」で固められ、はては蛸壺(たこつぼ)のように外部に開かれていない状態で固まる傾向があるようです。もし、そうなってしまったら、これはこれで悲惨です。ホームスクーラー同志が情報交換したり、励ましあうとか、祈り合うことすら不可能になってしまうからです。
 それぞれが自分たちが確信したスタイルを尊重できるのが、ホームスクーリングのいいところなのですが、アンスクーリングさえも、それを絶対視する傾向は否めないのです。くれぐれも、アンスクーリングを理解しないクリスチャンは「邪道だ」みたいなことは言わないでください。繰り返しますが、クリスチャンホームスクーラーは、聖書を規範として持つ故に、厳密にはアンスクーリングをしているとはいえないからです。
 けれども、アンスクーリングは、米国のホームスクーラーたちが様々な経過のなかで、到達した智恵であるには違いありません。それを「世の智恵」と一蹴せずに、真摯な提案として、いつも謙虚に受け止めていたいと思っています。
 
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Q「シュターナー教育」はどのように考えますか。また、ピアジェについては?
A 
 日本の学校制度、あるいは教科学習のほとんどが文部省がつくった事実上の規範である学習指導要領に陰に陽に縛られていることに対抗して、さまざまな立場から自由教育の提案がなされました。ドイツの神秘主義的思想家であるシュタイナーの教育論は、私どもがホームスクーリングを始めた当初から注目してきました。
 幼児期から青年期にかけての子どもの成長過程に、提示できる内容が何であるかを熟慮してくと、第二次性徴が現れる時期まで、いわゆる「試験」を科するべきではないとか、芸術的感性に視点をおいた学習の提示の仕方など、シュタイナーの理論は断片的には心を動かされ、著書を通じて学ぶばかりではなく、シュタイナーを教育理論の基礎に据えて、ホームスクーリングを実践している方々との交流をもったことが一時ありました。
 「ありました」と過去形でお伝えするのは、かなり早くから距離を置き始めたからです。
 何故なのかといいますと、たとえば、どこまでシュタイナーの神秘主義的傾向を受け入れるべきか不安材料がありました。ドイツ神秘主義家の思想には「リアリティの認識(聖書的世界観の認識)」を犠牲にしても、子どもの「想像力」に依存し、それをさらに言語化しようとする傾向がみられます。ゆえにホームスクーラーとなって、最初に「子どもの育つ環境として家庭が最善である」ということを受け入れられないのであれば、シュタイナー教育も「修正された教育理論」の一つであり、子どもにとって作為的になることでしょう。もし、ホームスクーリングを聖書教育でとお考えなら、シュタイナー理論は参考にすることは多くあったとしても、聖書教育との共存は難しいのではないでしょうか。詳細は述べませんが、シュターナーのマルコ伝注解などをみますと、彼のキリスト教理解は、異端的といえるほど伝統的な教理からは逸脱していることが認められます。
 ちなみに、シュタイナーのキリスト論を紹介するサイトもあります。
 ここには、近代的聖書批評学による字義的意味の相対化、進化論的時間論の影響、キリスト単性論、独自なアリウス主義的キリスト観、聖書的原罪観の否定がみられます。  
 なお、シュタイナーの神秘主義については、大村晴雄先生(元東大駒場教養及び都立大、西洋中世哲学及びヘーゲル哲学)からの貴重な示唆によります。参考まで。
 

 発達心理学の分野で名高いピアジェについては、今のところ確固たる意見を持ちません。
 ただ、参考としていただく範囲で、達しているところを紹介させていただくに留めます。
 私がこれまで読んできたホームスクーリング関連の書物のなかで、ピアジェが紹介されることは稀でした。(モア博士が、「子どもの15才〜20才間における知能発達とそれ以前にあきらかな違いがある」というピアジェについての研究論文の趣旨をわずかに孫引きしておられた程度。 Homeschool Burnout p66 など)
 ピアジェの認識理論は、いわゆる学校教育の発達保障論の論拠として有名であり、「年齢相応のカリキュラム」を幼児期にも応用すべきだというものでしょう。肯定的側面としては、幼児の認識に独自性を見いだし、大人が「かくあるべし」と思いんだ教育方針および実践を押しつけることに対して、より子どもの実状に沿った「すぐれた教育理論」として知られてきました。しかし、たとえば障碍児(者)教育のサイドからは一環して強力な批判的意見もみられます。
 ピアジェを「子どもの知能の発達段階についての、より精度の高い教育理論である」と見なすかぎり、英才教育型の早期教育を含めて、より精度の高い管理教育(学校教育)のための哲学的前提にはなりえても、ホームスクーリングに応用されることには、やはり距離がおかれるべきなのかもしれません。
 この意味に限るなら、もしホームスクーリングにおいて学校信仰から完全に自由になりたいのなら、ピアジェを根拠にした発達保障理論(あるいは発達心理学)からも、解放されていなければならないのではないかという仮説が成り立ちます。
 今のところ、調べている段階なので、この辺で止めます。

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 それでは、音楽で「ビートルズ」などの世俗の文化はどのように考えますか。また酒など「有害」なものは、どのように説明していますか。

 「ホームスクーラーの子どもたちは、キリスト教的な背景を持たない人々にたいして、しばしば冷淡な態度を示すようである」(Clowny The Church  )といったウエストミスター神学校のクラウニー教授の指摘を思い起こしています。
 学校を問題視しているからといって、学校関係者やこの世の人々に対して、独善的で愛のない態度を養うためにホームスクーリングをおこなっているわけではないということを強調したいと思います。
 世界のすべては創造主のものですから、たとえ異教的な事物や思想信条があっても、それに対して親の権威だけで、高飛車に「禁止」などすべきではないと考えてきました。
 しかし、自覚的な判断を持たない出生から時に幼児期においては、親の判断はほとんど「絶対」です。
 子どもの家庭環境においては、本であれ何であれ親としては、一つ一つを祈って備えさせられました。
 教育を他人に委ねないということは、それなりに「重荷を負わされる」ということを覚悟してください。
 子どもたちに与える書物については、「読んではいけない本」など、特に制限を加えてきませんでしたが、その本についての親子の対話のなかで、問題点や評価できるところなどを自由に語る環境が必要と思います。子どもは、自分が信頼している親が感動して読書しているなら、真っ先にその本に興味を持つのです。

 ご質問は、音楽についてでしたね。
 幼児期には、それなりの音楽環境が教育的に選択されるべきとは考えてきました。教会音楽のなかでも、私は、JSバッハを信仰と生活の調和を表現した希有の芸術家として尊敬もし、出産前から、「胎教」として、「アンナ・マグダレーナのための音楽手帳」を聴かせていたくらいです。
 ある程度の年齢に達するまで、バッハ以外の音楽を流したことは稀でした。しかし、10才前後のある程度の年齢になれば、ビートルズを含めて、すべのものは見ても、読んでも聞いても、子どもにも味わわせてもいいと考えてきました。同時にそれを鑑賞する素養ができるためには時間が必要とも考えてきました。そこでも、やはり親の責任は非常に大きいと思います。
 長男は、ビートルズから、楽典と和声と鍵盤楽器の基礎を覚え、「曲の誕生した60年代」について学び、現段階としては、ギターのコードをマスターし、最近は英語に興味を持ちはじめたようです。
 ただし、親としては、ビートルズの音楽性の豊かさや、優れた歌詞もなかにはみられるとしても、子どもにとってはうるさいくらいに、その音楽の現世主義、快楽主義、唯物主義的な態度、フェミニズム、聖書やキリスト教的な事物への嘲笑的な態度などについては批評してきました。つまり、親も十分にビートルズから学び、ビートルズを聴き、時には演奏し、歌詞を理解しなければならないと考えています。それなしに子どもはビートルズを克服できないでしょうし、だた「ビートルズは危険だ」だけで済ませるのは、やはり説得力がないと考えたからです。もっとも、このような親の「おっかけ」にも限度があることは勿論のことでしょうけれども。一つの本についても、どの本を選ぶかは子どもに委ねたとしても、その内容について、親子でできるだけ批評しあう環境が生まれるのが理想ですね。確かに、いわゆる「禁止」も有効な時期も場合もあるでしょうけれど、限りがあります。
 さらには、習い事には、基本に忠実たるべき時期があるでしょう。でも、一つの目標は、セルフコントロールです。ホームスクーリングでいつも親の命令的な指示に従わせているだけなら、学校に行かせている環境と何ら変わりません。
 それから、私どもは酒をたしなみませんし、基本的には子どもや他人に飲酒を勧めません。
 確かに禁酒禁煙を重要な倫理コードとして維持しているキリスト教会があります。(なんと禁酒禁煙の誓約を「入会条件」にしている教会さえあります。)この点についてはあえて多言はしません。それぞれが、現在達しているところに留まるべきでしょう。
 しかし、承知の上でなお、あえて本当に蛇足を加えます。
 酒は有害だから禁止、という考え方は原理として誤っており、それは非聖書的でもあります。
(たとえば、PCA[Position Papaers Part5] p51 Bevrege use of alcohol 参照。 ただし、PCAも習慣的飲酒の問題性を、個人の良心の問題=アデアフォラなどと言って、禁酒運動をまるごと軽視したり無視したりしているのでもありません。)
 酒そのものの問題よりも、酒については、麻薬に対するように精神的昇華作用を期待して飲用されるような異教的文化のほうに問題の根がありそうです。子どもに対しては、日本の法律で禁止事項が定められていることを説明して、その背景を説明しました。一方で、アルコール類の食材としての有用性については言うを待ちませんし、渇きを癒やすなど日常の飲用とすることの是非は、聖書に示されている範囲で常識的な理解のしかたを示しました。聖書は確かに、酒にまつわる危険性を語ります。(箴言31章など)そして、飲酒にまさる喜びを語りますが(エペソ5:18)、同時に疑いようもなく祝福の手段ともみなしている上に(イザヤ5:1 ヨハネ2:1〜11)癒やしの効果についても述べているからです。(第一テモテ5:23)
 酒そのものよりも、酒にまつわる交友関係や「楽しみ」をどう考えるかを問題にしたいのです。やがて、子どもたちには、アメリカの「禁酒法制定」を巡る苦難の歴史、それに対してヨーロッパ食文化とぶどう酒との自然なつきあい方などはできるだけきっちり説明したいと考えています。
 なお、煙草については子どもたちには売春や買春と同じように犯罪的で有害的な行為だと教えてきました。
 蛇足にしては、やや饒舌に過ぎましたね。失礼しました!
「『私はあなたがたに、ぶどう酒と強い酒について一言しよう』というなら、そのような者こそ、この民のたわごとを言うものだ」(ミカ2:11)ともありますので…。
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Q 隔離して育てているようで「ヤマギシ」のようですね
A 
 ホームスクーリングと社会性にかかわる質問ですね。
 私はヤマギシ会とホームスクーリングに共通点があるとは思いません。
 理想郷を求めて家族をあげ全財産を「共同体」にささげ社会生活を放棄したようなヤマギシズムは、「隔離」と言われ、そのようないい方もある程度的当たっているといえるでしょう。しかし、「隔離」という点で大いに共通点があるのは、むしろ学校教育です。コンクリートの高い塀(場所によっては鉄格子さえみられる)は、子どもの安全とか、「自由地帯」とかいう建前とはうらはらに、そこが事実上一般社会と「隔離」されている空間があるということを象徴しているのではないでしょうか。
 一方ホームスクーリングは、家で育つという意味の「ホームグロウン」と呼ばれることもあり、おおよその家庭が社会とのバリアを最初からもたないように、むしろ「学校のように子どもを社会から隔離しない」というスタンスを選ぶことのなのです。
 ホームスクーラーたちには、いわゆる「学校の子どもたち」に比べて地域社会とふれあう機会が、非常に多くなります。親とのかかわる時間も、当然多くなりますが、学校で受ける人間関係のストレスがないことと、親との信頼関係が十分に育まれることで、一般の親以外の大人とのコミニケーションについても困難がなくなるのです。
 米国では「学校教育で社会性が喪失しないように、ホームスクーリングを選ぶ」という場合もあるといわれています。(たとえば、R.S&D.N MOORE HOME SCHOOL BURNOUT p63以下を見よ)
  子どもの個性を無視した集団主義や、一斉授業/点数主義による画一化、一方的な進路指導などによる、「学校のヤマギシ化」に見切りをつけたからこそ、ホームスクーリングを選択するのだともいえます。

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Q 「いやな事、つらい事を我慢してこそ人間成長する」のです。ホームスクーリングでは、ひ弱な人間が育ちはしませんか。

 おっしゃるように今の学校は、子どもにとって生活面でも学習面でも、辛く苦しい場所となってしまいました。
 それでも、「我慢」して学校生活を過ごさせることに意味があるとお考えの方も多いと思います。たとえば、この論理をご自分にあてはめてみてください。いやいやながらさせられる苦行のような学習よりも、まさに「好きこそものの上手なれ」であり、好んで始めた学習のほうが趣味であれなんであれ、多少苦しくても成し遂げることでしょうし、いわゆる学習効果があがることは言うまでもないのです。同様に学びのためには、明確な学習目的と、事柄への自由な興味が必要です。ホームスクーラーたちが学習面でもよい成果をあげているといわれることには、この点でストレスがない環境だからであると言われています。
 それでも、「いやなことでも会社のため、組織のなかでるいは主義主張を相対化し、あるいは滅私奉公のような精神で、我慢しなければならない事は社会では山ほどある」とお考えになる方もおられるでしょう。辛い学習時期を我慢したら、報酬として、安定したステータスと「安楽な生活」が約束されているという考え方には、異教的な世俗主義の人生観が隠れています。日本はかつて戦前は帝国軍人養成を使命とし、いわゆる高度成長期では、官僚や企業戦士という「学校エリート」を社会に吐き出してきました。
 脱エリート教育や、脱組織中心主義が徐々に社会に浸透し、政治の世界でも脱派閥などと言われ始めているではありませんか。そのような世俗の風潮によるばかりではなく、キリスト者は人生の目標を弱肉強食による社会的成功におかないで、むしろ「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)の聖霊の実を実らせるという使命を、ホームスクーリングにおいて、とりわけクリスチャンホームスクーラーが実現しているといえるのです。
 強いものが弱いものの上に権力を振るうというのではなく「あなたがたの間で偉くなりたいと思うものは、みなに仕えるものになりなさい」(マタイ20:26)という言葉が実現される社会を目差したとき、自分がのし上がり他人をけ落とすための「我慢」という言葉は不要になり、主と隣人に仕えるために必要な「忍耐」ということばに置き換えられることでしょう。
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Q 子を「無学歴状態」で日本社会に送り出すのには、覚悟が必要でしょう。

 ホームスクーラーをただちに「無学歴」とみなすのは誤っています。
 逆に英才教育をめざしているのではないかと誤解されてきたといわれてきたといわれています。
 すでに、ホームスクーリングにおいては、子どもの考える力が最大限に引き出されるため、ストレスの多い学校文化の悪影響を免れているのだという認識が社会的にも定着し、現在米国ではハーバード大をはじめ多くの大学がホームスクーラーに特別枠を設け、むしろホームスクーラー出身の学生入学を待望してさえしているのです。 
 ウエストミンシター神学校の故コルネリウス・バン・ティル先生(弁証学)は、聖霊によって再生されたキリスト者の認識論と非キリスト者の認識構造を分析し、キリスト者の知性活動は聖霊によって本来の活動を与えられていると説明されました。詳細は割愛しますが、バンティル先生の認識論には、オランダ改革派神学の一般恩恵論からの批判もあるにはあるのですが、私は神学生時代から、どちらかというと恩師の宇田進先生(元日本基督神学校/組織神学、弁証学)を通じ、コルネリウス・バン・ティル先生の考え方に強く影響を受けてきました。
 キリスト者には、内在される聖霊の働きによって、再生していない世俗理性と比較するなら、控えめに言ってもそれよりもはるかに豊かで普遍的な学習活動が約束されているのです。旧約聖書のダニエル書によれば、王の贅沢な食事を信仰のゆえに拒んだ、ダニエルと3人の少年たちに、「神はこの4人の少年に、知識とあらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。」(ダニエル書1:17)といわれています。
 これまで人を学歴で差別する「学歴社会構築」に、キリスト者が大きく肩入れしてきたのではないでしょうか。一方で、「学歴」が実際の「学力」との間にギャップがあることに社会全体が目覚め始めてきました。実際に学歴枠を撤廃する企業も増えてきましたし、最近は大企業や地方自治体のなかですら増えてきました。ホームスクーラーは結果として、学歴そのものを相対的なものとみなしているように見えながら、これまで以上に学校制度や学問体系を支えることになります。
 脱学歴社会到来という面で、日本社会でも、ホームスクーラーであろうとなかろうと、学歴のあるなしに「覚悟」など必要ありません。政界再編といわれ、いわゆる戦前戦中を引き継いだような50年体制が崩壊し、新しいパースペクティヴが徐々に支配してきている今後の日本において、「学歴」を勲章のように鼻にかけたり、学歴のあるなしに信用度を置く価値観だけしか見えていないようでは、よほどハイリスクを負う「覚悟」が必要です。
 「学校で、基礎学力を与えなければ一般社会で困難が多い」という意見にも賛成しかねます。私は正直にいいますと、むしろ学校生活をエンジョイしたほうですから、そのために、今だに英語力が身につかず、話したり聴いたりするのが得意ではありません。私は、東京基督神学校でやっと「考える学問」にふれたと思っていまして、初等中等教育の学校生活ではむしろ「教師の言葉をうのみにさせられて、考えることは許されなかった。質問をすると叱られた」とか、「すでに発見され定められている教科書を一方的に暗記させられたことで、課外活動は別にして、教室では原理原則を発見する喜びについに出会わなかった」という記憶があります。
 それゆえに、ホームスクーラーが基礎学力に疎いといわれるその問題提起のしかたに、むしろ学校サイドの価値基準が練り込まれているのではないでしょうか。
 
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Q 教会の教職の立場にあるものが、ホームスクーリングを始めると混乱を招くことになりませんか。

 A 
  聖書を教える立場にある教職(牧師、伝道師)の立場でホームスクーリングを始めると、教育について多様な立場にある信徒に混乱や反感を巻き起こすことになりはしないかという心配はありえます。
 そして、「信徒ならホームスクーリングが許されるが教職の立場ではしないほうがいい」という意見には、教会に混乱がおこされることへの警戒感、あるいは心配があります。
 日本の教会には、教育関係者が少なくはなく、時には教育界で、影響のある立場で責任を果たしておられる方もおられるでしょう。そんな背景もあってか、ホームスクーリングについて信徒に納得が得られないまま、牧師が一定の立場に引き寄せられるのは、よろしくないと考えておられるかたもおられるようです。
 政治の世界では、責任が増してくるにつれて、「公人」としての立場が重視されて個人的な見解に従って行動することが敬遠されるべき立場もあるでしょう。けれども、牧師と政治家とは違います。政治家は多数決の原理によって最大公約数的な期待を背負って、役割を果たなければなりません。(どろどろしているのが政治として当然だという立場をとろうとしているのではありません。)
 しかしながら、教職者は、多数意見や政治的圧力に従うのではなく、聖書の原則に従うべきです。日本の教会の弱さは、教職者が時の政治権力に遠慮して、日和見主義的立場をとってきたことに大きな原因があると思います。政府から「宮城遙拝を条件に公同礼拝を許可する」といわれたら、それに従って特高警察の監視をおそれて、君が代を斉唱してから、讃美歌をうたったという苦い歴史を忘れてはならないと思います。 かつて、存続のためには、「特攻隊勇戦のための祈祷会」さえひらいたのでした。極論を例にひこうとしているのではなく、教職者は時流に従うのではなく、聖書に従う模範を示すのが仕事であるといいたいのです。
  使徒パウロは「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会のお世話をすることができるでしょうか」(第一テモテ3:5)と言いました。講壇からどんなに優れた説教をしても、もし子どもたちが異教的環境によって信仰から離れるようなことにでもなるなら、福音宣教そのものがどれだけ説得力を失うようになることでしょう。
  同時に、その一方で教職者は、信徒に説明する責任も主から託されていると思います。ホームスクーリングが聖書に従っていると確信しているのなら、信徒にそれを説明すべきでしょう。それでも、様々な過程で納得を得られないという場合があることは承知しています。
 信徒のなかにホームスクーリングへの反対が強くあった場合、より慎重であるべきですし、説明する努力なしに、「反対がなかろうがあろうが、なにがなんでもホームスクーリング」という立場が、必ずしも好ましいとは思いませんし、どんな場合でも賛成できるとはいえません。
 私どもは、ホームスクーリング開始に際し、多くの祈りをささげました。そして、できるだけ丁寧にホームスクーリングの意味を説明するようにしました。
 それでも、当時は全面的に理解されたわけでもなかったのです。
 最終的が決め手となったのは、主が召しておられるという信仰以外にはなかったのです。
 ただ、繰り返しますが、牧師職は政治家でもなく、経営者でもありません。
 もし、ホームスクーリングが聖書から教えられた正しいことであると確信したならば、明確に公の立場で打ち出すのが本来の「牧師の仕事」なのではないでしょうか。かつて宮城遙拝に反対した牧師は、講壇を追われました。今でも代替わりの儀式の大嘗祭の際に、反天皇制の立場を表明した牧師が、どんな憂き目にあったかを想像するのに難くはありません。
 けれども、韓国など殉教者の例を引くまでもなく、妥協した結果「存続」をねらうよりも、原理主義だの「青臭い」だのという日和見主義からの批判に負けて妥協的立場を選択するようなことをしないで、あえて「真理」に殉じたほうが、結果として多くの宣教の実を残すことに繋がると私は確信しています。
 「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)と語られているからです。
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Q ホームスクーリングに、天皇制問題を絡めるのはいかがなものでしょうか。
 A

 天皇制について明確な立場を持っていなければ、ホームスクーリングができないとはいえないと思います。
 そのように明言されるべき理由の一つは、ホームスクーリング運動がもともと特定の政治的パースペクティヴをもって始められたのではなく、親に教育の主導権を戻そうというものであり、結果としてどうあれ、法律を含めて現行の制度に変革をもたらすことをねらっているわけではないからです。
  将来、ホームスクーリングについての法律が制定されるようになったとしても、法制化には親の教育権を守るという好ましい側面ばかりでなく、欧米の事例からすると行政からホームスクーラーに「口出し」される根拠が提供されるかもしれないという危険な側面を併せ持つのであり、注目していかなければなりません。遅かれ早かれ、法制化されることをにらみながら、ホームスクーラーも政治的課題を背負うことは避けられないでしょう。
 もう一つは、ホームスクーリングそれ自体についてもそうであるように、天皇制の理解についてはさらに情報量(操作されているか、されていないか)の差が大きく、学びが必要とされるからです。
 天皇制と学校教育が密接不可分の関係にあることについては、最近森前首相の「神の国発言」や、日の丸・君が代の法制化などによって、その右翼的体質が露呈していますけれども、問題の根そのものは、天皇の戦犯としての免責を決めた時点から、GHQサイドの政治的な思惑が絡んでいると指摘された頃にすでに存在していました。
 戦後一宗教法人にすぎなくなった靖国神社が、今でも国家に殉じた死者のための慰霊と招魂の役割を果たしている現在の政治システムが続く限り、たとえ象徴天皇制とはいっても、制度そのものが国民を偶像礼拝にいざなう反キリスト的性格をもちます。 
 ただ、情報の不足(もしくは意図的政治的な情報操作)によって学校の本質が長いこと隠されて見えなかっただけに過ぎません。いわゆる不適応児対策や学級崩壊対策を巡っての、学校側の常軌を逸した対応のいくつかをみましても、学校から子どもにもたらされる被害の多くは、オウム真理教などに代表されるようなある種のカルトから受けるマインドコントロールに非常によく似ています。時には殺人や自殺という狂気さえ産む学校文化のカルト的な側面は、そこに深く絡みつく天皇制のカルト的な要素や、日本人の内面深く沈殿している天皇信仰からくるものであるといえます。
 ですから、天皇制についての特定な立場や判断がなければホームスクーリングができないとは思いませんけれど、ホームスクーリングは、学校による「天皇制教育」から子どもたちを守るものであるという認識は、とりわけ聖書教育を考えるキリスト者に必要ではないでしょうか。
 ただ、所属教会の歴史的背景や教職者の自覚の温度差などによって、個々のクリスチャン・ホームスクーラーの天皇観に「幅」があることや、情報量(操作されているか、されていないか)に濃淡があることそれ自体については、寛容でありたいと望まれます。
 最初は学校信仰に捕らわれていたとしても、少し学んでいただくことで、もしかしたらホームスクーリングを積極的に支持していただけるようになるかもしれません。
 これはあまりに楽観的過ぎるかもしれませんが、「天皇制」についても同じではないかと思います。
 ご質問は、広い問題意識として、教育を天皇制問題と切り離して考えたいというご意見と、もっと狭くは、天皇について明確な立場を持たないか、あるいは政治的保守の立場であってもホームスクーリング実践はできるのではないかというご意見でもありますね。ホームスクーラーの思想的背景は多様です。しかし、
日本で子どもの教育について真剣に考えようとするとき、たとえホームスクーラーであろうがなかろうが、天皇制問題は回避したくてもできません。
 
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Q いわゆる「セオノミー神学」とホームスクーリングの関係はどのようにお考えですか。
 
 結論からいうと、私は、セオノミストがホームスクーリングに熱心であることや、その分野で多くの実績をあげていることを認めつつも、この運動がその論拠としている終末論、及び「新しい律法主義」が自分の信仰ではないと確信するに至りました。
 米国ウエストミンスター神学校のコルネリウス・バン・ティル教授(弁証学)の影響下、その認識論を継承し敷衍し、さらに実践してきた運動が「Reconstructionism(再建主義)」あるいは「Theonomy (セオノミー)」と呼ばれて、80年代米国では一種のムーブメントのようになりました。ヒューマニズム/進化論/フェミニズムなど世俗的異教勢力に対抗して、聖書と聖書の世界観の復興をとなえたという意味で、米国の保守的なキリスト者ファンダメンタリストのなかで、しかし、とりわけホームスクーリング運動においては、強力な指導的立場にあったといえます。(たとえば、 米国ホームスクーリング運動発展期におけるRushdoony やG・Northなどの貢献は非常に大きいと認められます。)
 米国のホームスクーラーに対して、影響力は認められるものの、米国のホームスクーラーすべてがセオノミストであるというわけではありません。
 私は、伝統的な改革主義諸教会やジョン・マーレーやバンティルにもみられる無千年王国説
a-millennialism)に留まるように導かれていて、「再臨前千年王国説(Postmillennialism)を確信するに至りませんでした。信仰による勝利主義は本当にすばらしく魅力豊かではあったにもかかわらず、再建主義者(R・スミス師など)との数年にわたる対話の結果、この立場をとることに導かれませんでした。「いつとか(χρονουS=時間)、どんなとき(καιρουS=時期) とかいうことは、あなたがたは知らなくても良いのです」(使徒1:7)という聖句があります。これは、終末論を神学的研究対象から外すという意味ではなく、「再臨の時間」や「終末的状況」について語るには、神学的により謙虚でなければならないという意味であるとの信仰理解に留められています。
 また、米国におけるホームスクーリング運動史には再建主義運動の影響が色濃く認められるとはいえ、両者は明確に区別されるべきなのではないでしょうか。
 それでも、ホームスクーリング運動には、子どもの教育についてのメッソドが「革命的に」提示されているとはいわれています。(「Homeschool Revolution」という表現はクラウニー教授の言葉 Clowney「The church」P208)それゆえ、この立場に傾聴すべき論点は決して少なくありません。
 

お詫びと訂正
 ………………………………………………………………………………
 最近、再建主義運動が「カルト」であるような印象を与える表現は問題ではないかとのご指摘をいただきました。1990年にウエストミンスター神学校教授会有志により、批判書が書かれたものの、PCA(アメリカ長老教会)は、再建主義運動に対して特別な排斥的立場をとっておらず、仮に所属する教職者が再建主義を明確に公表していたとしても、そのまま受け入れるという立場にたちます。
 それゆえ当ウェッブマスターは再建主義の立場に立ちませんが、再建主義がそのままカルト(異端)であるかのような誤解を読者に与える表現があったと判断し、その部分を削除いたしました。
 関係者各位にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
 
 この立場を神学的に批判した書としては、Theonomy A reformed critique Barker&Godfrey zondervan1990  があります。これに対してセオノミー側から、ノースや、バンセンなどからただちに反論書が出されるなど、ネット討論や公開討論など含め、各地で非常にホットな神学論争が継続中です。また、2001年9月スコットランド自由教会・大会会議(原文) (→日本語訳は、「セオノミーと信仰告白 Theonomy And The Confession Of Faith」という決議採択をもって、セオノミーの教えは、信仰告白と矛盾し聖書教理とも相いれない(the General Assembly declare that the teachings commonly known as Theonomy or Reconstructionism contradict the Confession of Faith and are inconsiste with Biblical doctrine)と判断しました。FCSに対しては、ただちに「カルケドン」などセオノミストサイドから反論が出されました。)ウェッブマスターといたしましては、現在、両者について事実経緯を含め、調査しているところです。もちろん、このような神学論争とホームスクーリング運動そのものとは全く別です。
(吉井春人)
 
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Q 近くにチャーチスクールがないので、ホームスクーリングは無理でしょうか。

  最近、米国人で将来日本の宣教師になることををめざす若いご夫妻とお目にかかる機会を得ました。
  旦那さんはホームスクール出身ではありませんでしたが、奥様が完全にホームスクーリングで育ったとのことです。(現在は「ジュリアード音楽院」での学びを終えて、音楽関係の奉仕者の道を目差しておられます)そこで、ホームスクーラーであった時、米国にはチャーチスクールがあったかと尋ねると、「日本で言われているようなチャーチスクールのようなものはなかったけれど、父がリーダーになって、近くのホームスクーラーと学習プログラムやキャンプなどの野外活動を共同で企画実行し、自分も参加するということはありました」ということでした。米国では、教会や教派によって多様であるものの、教会が教育的なプログラムをもっていることは、むしろ当然のこととして受け止められています。つまり、教育内容に聖書学習ばかりでなく一般教養を入れるかどうかという課題とは別に、教会教育は「ゆりかごから墓場まで」の課題であるという視野が認められます。言い換えれば、ホームスクーリングを支える働きは、出始めとしてはホームスクーラーが互いにネットワークを構築することから育っているといえます。つまり、米国ではホームスクーリング運動が「チャーチスクール」とあえて結びつけられなければならないという環境はありません。
  一方で、日本では(歴史的経緯については省略しますが)キリスト教会は国家の教育政策から解放されているとはいえません。アイロニーのようにきこえるいい方ですが「国家の教育政策に反しない限りの信仰教育が許されている」もしくは、それゆえに「世俗の価値基準にできるだけ反しない限りにおいての信仰」に変質しているのではないでしょうか。そのような敗北の道は、たとえば自然環境保護の課題に目覚めたような人々であっても、「学校観」においては、かえって官僚主義的であったり、いわゆるヤスクニ問題に深くかかわって本来ならば国家の教育戦略に対して明確に抗すべき人々に、かえって学校信仰は根深くみられるということとも密接不可分な関係にあるのです。
  その意味で、日本国の教育戦略は徹底していて、ある意味では共産圏国家よりも成功しています。たとえば、「不登校観」ひとつとりあげても、1993年答申において文部省さえ「登校拒否=不良行動」という図式を完全に放棄しているにもかわらず、キリスト教会は旧態依然とした考え方からなかなか出られないのです。
 そんな中で、「不登校は主からの恵み」(稲葉師)といえるチャーチスクール運動はそのようななかで、黎明のようです。キリスト教会が、本来キリストにあって与えられている教育の賜物を再発見すべきことを示しているからです。
  結論としては、チャーチスクールなしにホームスクーリングが始動できないということはありません。
  でも、チャーチスクールが、ホームスクーリングの祝福を心から理解して運営されているようなら、ホームスクーラーにとって重要な支えの一つになることは間違いありません。日本のように社会環境が整備されていない場合、ホームスクーラーによって支えられるチャーチスクーならば、ホームスクーラーのコミニティのような機能を果たした場合、その真価がいかんなく発揮されることでしょう。いわゆる不登校の子どものためのフリースクールでは満たされない賜物がそこにあるからです。
  その一方で、チャーチスクールが塾産業と同じ価値観なのか、あるいはそのような立場から自由なのか、オルタナティブな立場なのか、あるいは文部官僚のサイドの「不登校観」一辺倒なのかどうかということはホームスクーラーにとっても、重要な関心事なのではないかと思います。
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Q 子どもを充実したチャーチスクールに入れるなら、
  そちらの方が、ホームスクーリングより優れている場合はありませんか。  
   

  前の質問とも関連しているようですね。
  チャーチスクールにどんなにすばらしい働き人がいたとしても、聖書によれば子どもの信仰継承について示している第一の責任は、親に対して与えられています。親以外のどんなものにも、その役割を委ねてはいません。(申命記6章7−9節)その一方で、教会には、「聖徒をととのえる」(エペソ4:12)という役割が与えられています。宣教命令には「すべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:20)ともありますので、「親」と「教会」は子どもの教育においては、対等の関係にあるといえるのでしょうか。聖書には、親ばかりではなく、教会にも教育の賜物を与えていると読めます。けれども、「両者は対等に創造主である神から分担を任せられている」というものでもありません。
 聖書によれば、第一に親です。その子どもの親に対して与えられている賜物と責任は大きいのです。(自然出産による以外の、たとえば養子縁組による親子関係を含めて)ある人の親になるというのは、非常に重要な主からの召命の一つです。ホームスクーリングとは、親に対する主からの召命の自覚と再確認なのです。
 チャーチスクールの働き人が、主に信頼して、子どもたちの自主性や個性を尊重してくれるような環境つくりを実現しているようなら、ホームスクーラーがもっと積極的にかかわることができるかもしれません。
 しかし、親のサイドにチャーチスクールへの依存度が高くなればなるほど、ホームスクーリング本来の召命がないがしろにされるかもしれないという自覚が必要です。
 チャーチスクールには、いわゆる民間のフリースクールにみられるように、集団性の中にこそ、子どもを育てる必要条件があるという偏った意見がみられることがあります。その意見の背景には、親御さんのなかにどこかで、「理想の学校像」をチャーチスクールで実現しようとする動機が隠れているのかもしれません。 ホームスクーリングだけで、子どもを育てることを、何かに足りないようにみなす傾向や、チャーチスクールのほうが「グレード」が高いかのような意見には、聖書が教えていない「集団依存の教育」が隠れているのです。同世代依存や、集団性依存は、聖書からではなく、とりわけ近代の学校が軍隊にその雛形をもとめているところに原因があるのでしょう。かつて兵士達は、規律(法則性・定理)を素早く理解し、上官の命令に対して絶対に従順であることを求められ、機械のように連携して動けることが求められていました。私は、軍隊=悪という単純化を推奨したいと思っているのではありません。ただ、親は同世代依存ばかりでなく、集団性依存からも解放されないままだと、子どもに良かれと思っても、親が想像している以上に子どもにとって苛酷な環境を与えている場合があるといいたいのです。そうなってしまうと、チャーチスクールは、いわゆる学校と同じ「いじめ」や「拒否」などを生み出してしまいます。 
 ですから、米国の多くのホームスクーラーにみられるように、全くチャーチスクールなしでも、ホームスクーリングだけで子どもが育つのです。
 一方で、ホームスクーリングに対して開かれていて、親だけでは受け皿になりえない分野やスキルにたいして答えることのできるような幸いなチャーチスクールに入れておられる方もおられます。子どもによっては、集団のほうが居心地がいい場合もあるからです。それでも、くどいようですが「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」(第一コリント15章33節)という視点はいつも必要です。
 当然、ホームスクーリングをしながら、チャーチスクールに入れることを、非難するのも見当はずれでしょう。それぞれの家庭の事情と、祈りに基づく判断によるのだからです。 
 家庭ごとに、それぞれあっていいのです。
 けれども、どんなにチャーチスクールが優れていても、ホームスクーリングには、親と子どもの関係において、夫婦関係において、子ども本人の能力において、本当にすばらしい賜物が与えられていると思います。そのことを発見されないまま、「チャーチスクールのほうが優れている」というだけでは、やはりもったいないでしょうね。
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Q それでは、ホームスクーラーにとって「チャーチスクール」はどのような意味があるのでしょう。 

 私は、主にある召命を確信して、チャースクールにかかわっておられる方々がいらっしゃることを疑いません。すべてのチャーチスクールを知っているわけではありませんが、チャーチスクールを主が用いておられ、チャーチスクールには、すばらしい賜物に溢れているということを、ホームスクーラーはもっと知らなければならないでしょう。
 また、とりわけ日本において「狭き道」であるホームスクーリングを選択した日本人ホームスクーラーにとって、チャーチスクールが果たす役割は大きいのです。
 その意味は、私なりに次の点にあると思います。第一には、教会学校の問題を打破できることです。これまで時間の面でも内容の面でも教会学校という限られた枠組では子どもたちの一般教養と信仰という面での視野が欠損していて、信仰を継承していくうえですでに限界がみえていたことに対し、チャーチスクールにおいては、唯物論や進化論ではなく、創造科学の世界観と人生観にもとづく一般教養を提示できるという強みがあります。第二には、これまで教会が「憐れみの視野」でしか受け止められなかった分野である「不登校の子どもへの責任」を、教会として本腰を入れて果たす可能性があるのです。当然、学校を巡って困難にあるご家庭に対しての、救いの光とも、伝道の機会ともなるでしょう。
 第三には、ホームスクーリングが全面的に受け入れられていない環境におかれている場合、直接ホームスクーリングを始めるより、チャーチスクールに入れることのほうが、社会一般や親戚などから受け入れられやすいことがあります。そして、それとは別にホームスクーラーにとっては、親の能力やスキルの及ばない範囲を補う働きを果たすかもしれないということがあります。
 それでも、すでに別のところでも紹介させていただいたように、ホームスクーラーとしても忘れたくない課題がいくつかあります。念のためにまとめてみたいと思います。
 第一には、ホームスクーリングマインドという視点です。ホームスクーリング運動は、親に与えられいる教育の主導権を再確認するということと、家庭観や結婚観を聖書的に再検討するものです。子どもの教育は、その親に主導権があるのだという確信が曖昧なままにおかれることで、チャーチスクールはホームスクーリングよりも学習指導要領に代表されるように、官民両サイドにおける世俗の教育観に曝されやすいのです。とりわけ、規模の拡大や、経営戦略はチャーチスクールには重要課題となるのは必至であり、やがて功利主義や形式主義が跋扈(ばっこ)して、信仰継承を駆逐(くちく)する恐れが大きいのです。その課題を乗り越えることができる鍵は、経営形態にもよります。つまり、神学教育と教会との関係と同じで、世俗との分離を徹底できるかどうかは、教会の側でどれだけ祈りと使命をもってかかわっているか。チャーチスクールの働き人が、単に公的資格をもっているかいないかではなく、本当の教養人であり、しかも信仰の人であるかどうかとも密接不可分の関係にあるでしょう。校長は、必ずしも牧師である必要はないでしょう。けれども、伝道者かあるいはそれに同等なスピリットが求められると思います。
 チャーチスクールの母体となる教会がその「教会観」において、幼児洗礼をめぐる議論にも代表されるように、教会のなかで子どもをどのように受け入れているのかは、隠れていながら、しかしそれは重要な課題であることは言うを待ちません。
 第二には、たとえばホームスクーラーの側からすると、(もちろん個々のファミリー課題でもありますが)自分たちの都合で時には部分的に利用できるような「柔軟性」をチャーチスクールサイドが備えているかどうかは、とても重要なのです。ホームスクーラーの必要に耳を傾けたカリキュラムになっているのか、どんな教材が使われているのかは重要な関心事の一つです。
 これから、クリスチャンホームスクーラーは確実に増加することでしょうから、ホームスクーラーからのチャーチスクールにむけた期待度は、増える一方ではあっても、決して減ることはないと思います。
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Q クリスチャンホームスクーラーにとって「体罰」はどのように考えたらいいでしょうか。

 私は、主に知的ハンディをもった子ども中心の「塾」で6年ほどスタッフをしていました。
 そこでも、「体罰」のことがしばしば話題になったことがあり、親の側に思いこみや子どもへの歪んだ期待感が先行していて、「体罰」にも反映することが多いということから体罰無用論が主流になっていたと思います。言葉で叱ることは容認されたにしても、体罰を肯定する議論に至ったことはありませんでした。またフリースクールなどでも、おりしも「戸塚ヨットスクール事件」などの影響もあり、たとえ親の権限をもってしても、教育に「体罰」が許されるべきではないという意見が主流を占めていました。学校の中でも、すでに教師による「体罰」は、法律において罰せられる対象とされているのです。学校における教育の考え方には、教育と暴力を区別する考え方は原理としてはありません。軍隊教育の影響もあって、教育とは、暴力的でなければ意味がないという考えが根深かったので、法的処置をもって体罰という名の暴力が禁止されなければならなかったのでしょう。まさに、日本においては、軍隊育成システム以外にも、教育そのものが「暴力」と区別できない思想的環境にあったことは見過ごしにできないのです。そして、近代日本の教育環境からは、「体罰」という名の暴力は法的処置まで及んで、閉め出されるに至りました。
 一方で、私は複数の米国人宣教師から、「日本人はあまりに、子どもを甘やかしすぎているのではありませんか。親が子どもをスパンクするのは当然です。スパンクすることを控えることは、子どもを憎むことになりませんか」という意見をききました。当然のこと、聖書は箴言に代表されるように親による体罰はむしろ肯定的に読めます。よほど近代的聖書解釈の方法論を導入しないかぎり、聖書では、親の「体罰」が、カテゴリとして禁止されているとは読めないのです。
 さらには、エペソ書(6:4)に「父親たち、子どもを怒らせてはいけません。主がしつけ諭(さと)されるように、育てなさい」とあるの「体罰禁止」と読むことにも無理があります。この箇所からは体罰についての肯定論も否定論も出てこないのです。子どもの怒りは、理不尽な体罰によるばかりでなく、親に「無視される」ことによることもありえるでしょう。
  私の家の場合をそのままお伝えするのが近道でしょう。
  我が家では、とりわけ子どもが幼少の頃、「スパンク」を控えたことはありません。
  それを聖書的と信じたからです。
  ただ、実際には、叱り方一つとっても、非常に難しいと思いましたね。祈りつつ、嘆きつつ涙を伴ってスパンクしたというのが本音です。
  ですから、親の立場で示す「スパンク」と、たとえば、掟破りへの見せしめのような意味を含む「体罰」とには厳密には意味の違いがあると思います。
  私たちのスパンクには大原則がありました。感情からではなく、子どもたちが、結果として「親を怖がる」のではなく主とそのの御名に恐れを抱くように願ったものに限られました。子どもの個性もありますから、スパンクの数が少なくて、回数を覚えているような子もいれば、覚えていないほど回数が多い子もいたのです。それもせいぜい3歳までで、言葉がわかるような年齢になってからは、親が聖書の原則をわからせるための手段として(例外もあったにせよ)スパンクという手段をやめました。
  言葉が通じなければ「親は手を出す」という事例から子ども一体何を学ぶのでしょうか。
  子どもは意志疎通に失敗したら「暴力に訴えてもいい」という手段を学ぶことになります。そうなったら、スパンクは失敗です。子どもが暴力に味をしめているようにみられたら、スパンクという手段は、すでにサタンの手に渡っていることに気づくべきなのです。
  夫婦が何らかの理由で霊的に不一致な場合は、スパンクに必ず感情的要素が入り込みます。子どもを単なる怒りのはけ口にするような場合がみうけられるなら、やはり問題でしょう。
 頭を殴るとか、頬に平手打ちを食わせることは、子どものプライドを傷つけること(怒らせる)ことになりますので禁止しました。たたく場所は、唯一「おしり」と決まっていました。スパンクが有効なのは、せいぜい3歳くらいまでで、言葉でわきまえられる様な年齢になった段階では、子が悔い改めて主に立ち返るにはどうすればいのかが中心であり、親が手を振り上げることにはすでに意味がなくなっていると思われました。
 スパンクが上手にできないのは、親が未熟であるからだと思います。子どもが罪から解放されて、子どもが生涯主の祝福のうちに幸福であることを願うなかで、夫婦の一致と祈りとが与えられるならスパンクはむしろ主の手段となるでしょう。ところが、暴力と教育が混同された教育観においては、いわゆる「幼児虐待」にまで及ぶのは必至です。
 主は、私たちのために「鞭」を控えられません。 (ヘブル12章)
 それが愛のゆえの「鞭」であるゆえでした。親の託されている「スパンク」にもそのような愛の質が要求されているとすれば、軽々に用いることは許されません。
  しかしだからといって、もしスパンクそのものをカテゴリーとして否定しているとすれば、否定する側に暴力を教育と混同するのと同じ、反信仰的な「人間中心主義」に場を開けているとしなければなりません。いいかえれば、スパンクを絶対的に否定する立場は、体罰肯定論と同じく、聖書からではなく、聖書以外の世俗主義や親の過去の経験(学校文化のトラウマ・学校拒否など)に影響されているといえるのです。

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Q 「ハリー・ポッター」については、どう思いますか。
 
  人気を呼んでいるようですね。売れた本という意味では、全世界で1500万部以上が販売されたという「ソフィーの世界」もとっくに凌駕したようです。
  まだ読んでいないので、細かなコメントはできないと思っていましたが、著者も「悪魔礼拝者」で、ハリー・ポッターが「悪魔礼拝」に誘うような内容ということから、子どもたちに読ませないようにという議論がありますので、内容についてはともかく、その議論そのものについては、歯切れが悪くなることは承知の上で述べたいことがあります。
  ホームスクーリングそれ自体のコンテキストからはやや外れますので、参考程度にもなりますかどうか…。この議論については、2つの面があるでしょう。
  第一には、聖書から「悪魔」という存在とその性質や悪魔が用いる方法をどのように学ぶかということがあります。悪魔が存在するかしないかについては、その存在には疑う余地がありません。人を罪に誘惑する存在であり(創世記3章)創造者である神に逆らって天使と対立し(ユダ1:9)、主の許容される範囲で、人に災いと信仰への離反を与え(ヨブ記)、時には「天使に変装」します。次のように書かれています。
  「驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは自分たちに応じた最後を遂げる
でしょう」(コリント信徒への手紙第二 11章14〜15)
 悪魔のやり方は、巧妙であり、いかにも「サタン的なもの」(かりに「ハリー・ポッター」がそうだとしても)いかにもサタン的な事象から身を守るのは、易しいとはいえませんが、それでもどちらかというと判別しやすいでしょう。心から悪魔を礼拝するような人々は、それなりの終末をむかえます。
  しかし、悪魔の最も危険な部分とはパウロも語るように「変装」を駆使することです。
 私が最近最も悪魔的だと思うのは、教会内部に侵入しているリベラリズムの影響です。聖書の記事(データー)を歴史的事象(ファクト)と区別したり、聖書の世界が時代的制約を帯びていることを拡大解釈し、聖書の文字通りの意味を相対的とみなす一見スマートな論法を濫用することよって、誘惑者は、「人権」とか「科学的」という「義の衣」で変装します。この論法の追従者を聖書以外の基準に従わせることで、反キリストに定められている地獄の炎に誘(いざな)うのです。
 日本の天皇制についても同様です。ワールドカップでは、皇太子陪席のもと、開会の儀礼として「あなたの御代が、岩に苔がはえるほどに続きますように」と歌われましたね。天皇の在位は実体のない象徴にすぎないなどさまざまな言い逃れがあったにせよ、すでに国旗・国歌法が機能している国において、この行為は偶像礼拝そのものなのではありませんか。
 つまり、たとえばあなたの身辺から完全に「ハリー・ポッター」なるものを閉め出して、子どもに読ませず、見せなかったとしても、日本の風土が深く「天皇カルト宗教」に覆われていることを見過ごしたら、完全に悪魔の手のうちに入ったことになります。
 悪魔の周到さや、戦略を甘くみないでいただきたいのです。
 子どものために〜を「与えない」ことで回避できるほど、悪魔の巧妙なやりかたは、人に分かり易くないのです。「分離」や「みため」だけで、悪魔の攻撃から回避できると思わないでください。
 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろものの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)とも言われています。
 「形」だけの対応に慣れてしまうと、偽の安心感によって、主からくる信仰の確かさがわからなくなるのではないでしょうか。 
 その一方で、文学作品ということでは、聖書教理と完全に調和できる文学作品のほうがむしろ少ないくらいです。たとえば、あのCSルイスでさえ、「煉獄」の存在を確信しています。エンデには、シュタイナーをはじめ神秘主義の影響が濃厚です。私は、彼らの反聖書的信条を説明しつつも、子どもたちにCSルイスやMエンデの作品を「読ませたくない」とは思いませんでした。(ルイスやエンデの作品には、豊かな感受性と柔軟性や、想像力があります。)
 日本の文学作品は仏教的な世界観による相対主義の影響によって、ほとんどニヒリスティックです。具体例は述べませんが、読んだ人が厭世的な気分にならないのがむしろ不思議なくらいです。近代の作家の文学作品は、「罪の展示会」といえるほど、キリスト教の影響下にない人生がどんなものであるのかを教えてくれています。私は、幼年期にふさわしいかどうかなど時期に課題はあったにしても、むしろキリスト者としてなら、文学であれ何であれ異教徒の作品を積極的に読まなければならないと考えてきました。それによって、「信仰から出ていないことはみな罪である」(ローマ書)ということが知らされるでしょう。その一方で、信仰をもっていない異教徒がどんな考え方やものの感じ方をするのかを知ることで、同胞である隣人を愛し、宣教へのさらなる動機づけがなされると思うからです。その考え方は使徒パウロのアレオパゴスでの説教にもうかがわれます。(使徒17章)
 
 第二には、やはり「信仰の弱さ」ということが最大限に考慮されなければなりません。自由が与えられていたとしても、「読むこと」「触れること」だけで、隣人のつまずきになる場合もあるのです。確かにそのような場合、信仰の弱い人々への配慮は聖書に命じられています。(ローマ書10章23〜33節)
 ですから、その意味でたとえば「ハリー・ポッター」を子どもに与えないという意見を受け入れたいのです。反対に、ある教派の人々のように、信仰の弱い人々の意見をさばくような態度は受け入れられません。
 もし、「ハリー・ポッター」を読むことで、そこに書かれている悪魔礼拝や呪文に悪影響を及ぼす力があると感じ、自分の子どもにもそれを与えないとすれば、それは悪いことしているのではないからです。
 「食べたり飲んだりしたら、それだけで汚れる」と本当に信じている人がいる場合は、その人の意見をさばくべきはなく、その人の目の前でわざとらしく飲み食いするのも、また別の罪であるに違いありません。
 けれども、律法主義的な禁止行為だけに満足させて純真な心を欺くのも悪魔の方法だと知るべきです。
 一つの禁止事項では足りないから、もっとたくさんの禁止事項をつくろうと言いたいのではありません。みことばによって、本当にイエス様のすばらしさがわかることは、他方で「悪霊の狡猾さ」を見分けるセルフコントロールとも連動していると言いたいのです。
 教育に熱心なあるクリスチャンホームがありました。禁酒禁煙は勿論のこと、“悪影響のあるファミコン”もテレビもカードゲームもいっさい禁止でした。実は子どもは、10代になって、友人の家で、親に秘密にあびるほどファミコンに浸っていました。彼は、やがて、成人して自分が自由になる時間を得たとみるや、ただちに無防備に悪趣味なテレビの世界に入り込みました。
 ついには、親の意図を裏切って、信仰から離反する道に突進したのです。
 そのような悲しい事例は、非常に多いのです。
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Q ホームスクーラーは、自己中心で安易な道を選択してしまうという誘惑がありませんか。

 どのような場合に「自己中心で安易な道を選択している」と呼ばれるかによるでしょう。たとえば、教会がホームスクーリングに無関心であるばかりか、ホームスクーリングに対して無理解な態度。場合によっては敵意さえあからさまにするメンバーがいる場合が考えれられます。
 この事例は、ホームスクーリングがすでに社会的権利を得ているとみえる米国教会においてすら、みられるようです。(スーザン・ハント&ペギー・ハチソン「教会における女性のリダーシップ」p152)
 ホームスクーラーへの排斥的な態度は、今のところ残念ながら公然とした日常茶飯事であるともいえます。このような場合、ホームスクーラーにとっては、信仰の忍耐が試される試練の時なのではないでしょうか。教会員の態度がホームスクーラーに対して頑な場合、当事者は学校での「いじめ」を受けた子どもが登校を拒否するのにも似て、教会生活を休んだり、場合によっては他教会に移転したくなる場合があります。被害意識がどの程度かにもよりますが、場合によっては、たとえ教会であっても、その場を離れて待避する必要があることは否めません。キリスト教会に、いつでも愛と慰めが満ちているとは限らなくて、とりわけ不登校やホームスクーリングなど、子どもが学校に行っていないという家庭が理解できなくて、よそよそしくなるとか、「やっかみ」や「敵意」さえ感じてしまう事例もありえます。
 そのような場合、主に取り扱われなければらないのは、むしろ無理解な側です。ご指摘の問題点は、ホームスクーラーがそのような確執の場そのものを嫌って、教会生活すら安易に休んでしまうような場合、それは安易なのではないかというものですね。
 ホームスクーラーが、本当にみことばを中心に養われているならば、他の教会員が理解してくれるか理解してくれないかにかかわりなく、一層礼拝でみことばそのものに一層熱心とされるべきです。そのことなしに、私たちは「教会生活を自分の都合にあわせてしまう」誘惑にかられるでしょう。礼拝の出席率がいいかわるいかということを言っているのではありません。自己中心に基づいた礼拝生活に慣れてしまうことで、理不尽な環境から身を守っていて正当なように見えながら、実は「みことばへの不従順」が潜んでいるのを見のがしてはなりません。牧師がホームスクーリングに対して無理解の場合は、とりわけ信徒にとって試練は荷重されます。しかし、私たちは牧師に理解されているかいないかではなく、みことばへの従順を主から問われているのです。ホームスクーリングの立場を理解できない牧師は、主から特に取り扱っていただくべきです。しかし、牧師を含めて教会の環境が「無理解」な環境で、主が先にホームスクーリングを示された、いや、あえて主は少数のものに召しを与えて、群れの中に遣わしてくださっているのかもしれません。
 主が示されたの場を逃げるというのは、そのような安易な選択に誘う人間中心主義的教会観に問題のルーツがあるのかもしれないという一方で、あの預言者ヨナのように、多くの人にホームスクーリングの恵みをわかっていただく道を閉ざすことになるのではありませんか。
 やがて、一時はホームスクーリングに反対の立場でも、主が時をお与えくださるなら、そのれらの人々こそ最も良き理解者とされるかもしれません。
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Q キリスト者としてホームスクーリングを始める際に、参考になる図書がありますか。


 旧い著作ですが、掲載します。
 是非、読んでみてください。

◎CHRIS J KLICKA  THE RIGHT CHOICE - HOME SCHOOLING  NPA 1992
著者は、HSLDA(ホームスクール法律擁護協会)のエグゼクティブ弁護士。
法律的制度的な面の権利を守るという面で、聖書弁証学的な立場からホームスクーリングの必然性を述べておれます。「ホームスクーリング便利帳」としての要素も加味されています。1992年当時の情報で限られていますが、ホームスクーラに門戸を開いている大学の情報や、全米各州のネットワーク情報の多さには圧倒されます。

◎RAYMONND & DOROTHY MOORE HOME SCHOOL BURNOUT
                                 WOLGEMUTH&HYATT PUB.INC. 1988
米国ホームスクーリングの歴史を遡る時、非常に重要な位置にある方です。本書はモア氏の背景であるセブンスデーアドベンチストの立場からではなく、一般向けに書かれ、ホームスクールの実践で困難に陥った具体例に対して、丁寧に答えるという形式がとられています。かゆいところに手がとどくようで、実際的指針が示されて力づけられました。しかし、最近のアンスクーリングの立場からは、やや「学習」に達成目標が置かれすぎではないかとの批判もきかれます。しかし、裏をかえせば、当時の米国でさえ「カリキュラム」や「教科書」さらチ折を経験したホームスクーラーがいかに多いかということを雄弁に物語っているのでしょう。もう一つの著書である「Home Grown Kids」は、ホームスクーリングという言葉が家庭を学校化するような印象が強いという立場で、むしろアンスクーリングの優れた面を紹介しているといえます。
 
◎MARY PRIDE THE BIG BOOK OF HOMESCHOOLING V1〜4  CB 1990
しばしば、日本は米国を10年あと追いしていると言われますが、今日本でホームスクーリングを始めようとしておられる方にとって、現実に役に立つ提案がここに「山ほど」書かれています。PRIDE氏はかつて、熱心なフェミニスト活動家であった過去をふまえたTHE WAY HOMEの著者(こちらも、米国のフェミニズム運動に対して、聖書的な女性観と家庭観を紹介したすばらしい作品)。
 

◎GREGG HARISS THE CHRISTIAN HOME SCHOOL WOLGEMUTH&HYATT PUB.INC. 1988
これからホームスクーリングを始めようとしておられるクリスチャンファミリーで、ホームスクールの聖書的背景を学びたい方にはお勧めです。
 

◎J GRESHAM MACHEN EDUCATION CHRISTIANITY AND THE STATE
                                  THE TRINITY FOUNDATION 1987
著者は、プリンストン大学から分離した頃のウエストミンスター神学校初代新約学教授。私は学生時代、この方の書かれたギリシヤ語文法書と格闘しました。「国家と教育」に発言した歯に衣(きぬ)着せない提言が語られます。徹底的に聖書的であり、同時に徹底的に国家に媚びていません。日本で保守的福音的立場に立つといわれる神学者に、このような発言が希有なのは何故でしょうか?

フランシス・A・シェーファー 
 稲垣久和訳「それではいかに生きるべきか」いのちのことば社 1979 New!!
 60年代にも、主にキリスト教的環境に育ちながら、現代文明/思潮に翻弄されキリスト教に背を向けるビートルズエイジと呼ばれる多くの青年層がいました。シェーファーは、そのような「挫折クリスリャン」にむけて、スイスにLa'abri(避難場所という意味)という山荘をつくりました。そこで、現代文化の歪みの意味を哲学的な視点から解くほぐし、「聖書的キリスト教」を掲げてきたのです。
 嵐のなかの「灯台」のような働きをしてきた米国人神学者でした。
 迷い多き20代神学生であった私も、スイスに行ったことはありませんが、この方の示す光に導かれ、はじめてほんとうのキリスト教、いや、キリストそのものに出会ったといえます。
 全集は、THE COMPLETE WORKS OF FRANCIS SCHAEFFER VOL1〜5 CROSSWAYBOOKS 1988
本書はそのVOL5に HOW SHOULD WE THEN LIVE?  として収録されています。稲垣師の訳は丁寧であり、挿し絵や写真は、本分とのかかわりで掲載されていることは非常にありがたいと思います。
 読者は「それではいかに生きるべきか」という問いに対する有力な答えの一つが、ホームスクーリング実践であると確信されることでしょう。特に、「操作と新しいエリート」の章は教育官僚が圧倒的に支配している現代日本の教育界を分析するために参考になりました。各編が、全てビデオ化されていて、併用されるとさらに分かり易いと思います。
 
 

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