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ブログ特集・アージックの3原則について



 T #∬ キリスト中心の教育∬
   #a  学校信仰からの決別
   #b  キリストの権威性の再確認

 U#∬親による指導と教育∬
    #a 主から与えられる希望
    #b 親が模範となる責任

 V #∬国家による操作からの自由∬
      #a “自由”への責任
     #b 米国ホームスクーリング情報への操作
 

∬ キリスト中心の教育∬

a  学校信仰からの決別

 クリスチャンホームスクーリングの祝福は、キリスト中心に展開されるゆえです。ただし、この点について、日本で展開されていく上でいくつかの課題があります。その一つが、「緊急事態回避状態から明確に脱出しなければならない」ということでしょう。つまり、日本でのホームスクーリング展開の特徴の一つは、これまでのところ、学級崩壊・いじめ・自殺などにより学校教育が退廃し、親が学校教育への希望を失うとか、子どもが不登校になった結果、打開策として、ホームスクーリングが指南されてきた傾向にあるといえます。 学校でキリスト信仰が失われないように危険をあらかじめ察知した親御さんが、米国を経由してホームスクーリング情報に到達したというケースがありました。しかし、多くは、崩壊しつつある学校から逃げてきた子どもたちのために、親は家庭を「臨時の避難場所」とすることからはじまります。このとき、親は「本来は学校に行っている時間、しかし特別に家を居場所にしていい」ということになります。子どもの側からいうと、それまで「登校時間」を、臨時に在宅状態が許可されたことになります。

  ただし、家に何もしないでじっとしていることは許されていないので、いつも親の要求・・・場合によっては、親に託された教師からの要求を受け入れなければならなくなります。親からすると、ある日から急に子どもが在宅だけで一日を過ごすことになるので、どのようにうけとめたらいいかわからないのです。そして、なぜ子どもが在宅生活を始めたのかについて親族や学校、それに教会に対しても説明しなければならなくなります。もし、学校サイドの情報だけを鵜呑みにすると、子どもの在宅状態を認められていないのです。それで、子どもに何らかの病気があるか、あるいは登校できないまでにいたる身体的精神的な何かの問題があるとしなければなりません。でも実際には、子どもが学校の側に子どもから拒否されるような“危険遅滞”があって、そこからの逃避しているのだと親が気づくので、さらに積極的に在宅状態を受け入れられるように「ホームスクーリング」を選択することになります。この段階では、親はホームスクーリングと名乗っていても、本音では、子どもの在宅状態をどう受け止めたらいいか戸惑っています。そればかりか、周囲に対して子どもの在宅状態を説明するための手段、もしくは方便としてホームスクーリングと言っているに過ぎないかもしれません。その上、学校や親戚等に、説明できるような病名をつけてもらためにだけに子どもを伴って病院に出向いたなどという例もありえました。

  ですから、「緊急事態の回避」からホームスクーリングに接続された場合、もっと積極的に在宅状態を受け入れる基礎の上にたたなければなりません。そのときこそ、親として、キリスト信仰の質が試されることになるのです。日本の現状では「学校からホームスクーリングが受け入れられる」ということにはなっていないために、、もしくはカルト信仰から脱会するときに似た学校信仰を引きずることになるのです。このようなトラウマから解放されるためには、聖書をベースにして、学校を明確にとらえなおすことが必要になります。聖書は、子どもは家庭をベースに育つということが示されています。「私と、私の家は主に仕える」とヨシュアが言ったことに代表されるように、聖書によれば子どもの養育について家庭に対して示された役割は明確です。キリスト信仰においては、偶像との決別が要求されます。曖昧は許されません。それとほぼ同じように、非キリスト教に基づく教育と聖書の世界観人生観に基づく教育の間において、どっちつかずの中間地帯などというものは存在しないのです。

  たとえば「一週間の数時間をホームスクーリングで」という捉え方には、親御さんが、キリスト中心の教育のなかに学校信仰を紛れ込ませたまま、つまり、家庭とは何かについての再検討をしないまま、形式だけの擬似ホームスクーリングを始めてしまう危険性があります。あたかも、耐震強度を偽造されたビルディングが地震で崩壊するように、学校信仰との内面的確執が隠され、やがてホームスクーリングの価値を見失い、バーンアウト(破綻)してしまうことになるでしょう。それに、子どもの心の傷の癒される必要があります。子どもが不登校からホームスクーリングに移行したような場合、子どもの心は、学校文化(競争主義・点数主義・仲間によるいじめ等)から深い心の傷を受けたままの状態にあります。その場合、まずは、ホームスクーリングを時間割などでしばることなく、「疲れたら休むのは当然」と子どもの状態を受け入れていただきたいのです。キリストは、そのような子どもたちにも「休息」を与えてくださるのではないでしょうか。この場合、ホームスクーリングをはじめた子どもに必要なのは、形だけのスクーリングでも、教科書でも、同年代程度の学力でもありません。主キリストにある休息なのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ 11:28 )とある通りです。
 

b  キリストの権威性の再確認

 本当の教師、本当の教科書

 聖書によれば、キリストの権威が及ばない場所は世のどこにもありません。「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」と書かれています。主権者であるキリストのみ前にあるクリスチャンホームスクーラーは、キリストの主権性を自覚して、どう生きるか(社会性)、どう学ぶか(学問)について、再検討すべきでしょう。たとえば、「学習指導要領」のしばりを受けた教科書をなんの防備もなく子どもに履行させることが、キリストの権威にかなうでしょうか再検討が必要でしょう。(1)クリスチャンの教師は主ただ一人です。「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23:8)とあるからです。ただし、これだけだと危険な面もあります。“教師は一人”とあることに基づいて、ともすれば聖書の心とずれた間違えた平等主義が紛れ込んでしまうからです。つまり、聖書では、キリストの権威にあって、親への尊敬が命じられています。それと同じく、主によってたてられた権威への尊敬がもとめられています。また、先生という呼称について、ただ形式だけ禁止せよという意味でもありません。「キリストの権威を受け入れる」ということは、「キリストを恐れ尊んで、互いに従う」(エペソ書)ことなのです。ですから、たとえば70年代学生運動の中にみられたような「あらゆる権威をぶち壊せ」みたいなのともホームスクーリングは全く関係ないのです。キリストの権威を受け入れるゆえに妻は夫に従うべきであり、夫は妻を愛すべきなのです。
  
 キリストの権威を受け入れるゆえに、親は主にあるスパンクを受け入れなければなりません。しかし同時に、キリストが主権者であるゆえに、子どもに恐怖心や反抗心を植え付けるだけの体罰としてのスパンクは許されていないのです。キリストの権威を受け入れるからこそ、学校の教師を含めた世の権威に対して敬意をあらわすべきです。そして、キリストの権威を受け入れるゆえに、世俗の権力が反キリストになったばあい、時には愛をもって警鐘をならし、時には激しく抵抗しなければなりません。(2)クリスチャンにとって、本当の教科書はただ聖書のみです。宗教改革の精神は、「聖書のみ」を受け入れたところが原点なので、注解書や神学書を含めて、人の言葉を神格化してはならないのです。聖書に対しては、教科書も例外ではありません。本から受ける悪影響を理解していなかったわけではありません。たとえば絵本です。絵本だから安心などと思っているホームスクーラーはいないでしょう。とくに、日本の伝承文学のなかには、相対主義や悲観主義が入り込んでいます。聖書の与える人生観とは違った世界観・人生観が入り込まないように配慮しました。このように、ごく幼少の頃は、絵本についてはかなり注意を払って選びました。しかし、聖書の権威を教え、みことばによって魂が養われたあとで、やがて10代になったとき、原則として「ホームスクーリングには禁書をつくらない」ことにしました。すでに聖書の権威を受け入れていたからです。親も子も非聖書的な立場にある思想や本の存在について知らなければならないでしょう。それに、伝道されるべき人々である異教徒たちが、どんな考え方をもっているか、どんな考えて方にもとづいて生活しているか理解しないまま、日本伝道にまともに取り組めるはずがないとも考えたからです。聖書の権威のもとで、いろいろな教科書の権威も受け入れるべきでしょう。この場合、私たちが最も困ったのは、日本歴史でした。日本史の教科書は、おしなべて天皇による支配を「歴史軸」に据えていて、歴史修正主義者が強調するような「天皇の主権性」を認めさせるようなものになっていて、これは明確にキリストの主権と対立すると考えたのです。
  他の学習についてもいくつかの課題があるとはいえ、キリストの主権性が正しく教育に反映されないことが学校教育の最も深刻な問題です。数学・自然科学・語学・インターネット、日本語(国語)、保健体育のそれぞれの分野について、キリストの主権との関係性を考えてみなければなりません。いえ、本当は、5教科という学習分類すら、再検討しなければならないでしょう。来年のアージック・春の一泊セミナーでは、「関係性の再検討」がテーマですので、この点にも触れる予定です。学校から生み出された文化は、知識と信仰の分離ばかりではなく、教化学習によって、知識が分断されているのです。それで、ホームスクーリングでは、キリストの権威のもとにあって、ばらばらに分断された知識と信仰を結び付け、信仰と生活と知識を融合して再構築できるのです。
 
 

∬親による指導と教育∬

a 主から与えられる希望

  ホームスクーリングに懐疑的な方の意見のなかに、「はたして親に、今の学校が教えているような多彩なカリキュラムがこなせるでしょうか」とよく耳にしますね。でも、よく考えてみると、家庭で親が子どもと過ごすのは、当然なことであるのに、たとえば幼稚園からはじまって、学齢期の年齢の子どもが家庭で育つことがとても不自然なように感じられてしまうのはなぜなのでしょうか。
  いったん、「教育」ということばそのもののもともとの意味=原義を考えてみたいのです。education の訳語として与えられた「教育」という言葉には、「教える」そして「育てる」という意味が入っています。しかし、education には、もともと「学習者の内側から、引き出す=educate」という意味があるとはいえ、教えるとか育てるとかいう意味はないのです。もちろん、教育を言葉としてつかわないようにしようとかいうのではなく、学校教育で言われている「教える」も「育てる」も、聖書に基づいた教育の出発点とはやや、ずれているのだという認識が必要です。聖書には、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」と語られているのです。命を支配しておられる方が、出生を支配し、そして成長させてくださるのだといえます。子どものために最も熱心なのは、万軍の主です。それは、親に責任がないという意味ではなく、親には、子どもとどう向き合うかよりも、まず、主が家族や子どもにたいしてどんなご意志をもっておられるかを理解し、そのご意志に従う信仰の態度が求められるでしょう。尊いご計画のうちに、主が子どもを育ててくださるのです。そのご意志に従って、家族に役割が与えられ、教会に役割が与えられています。自分の力のあるなしで、ホームスクーリングを推し量ることは、自分の力に頼って教育をおこなおうとするのと同じように、「自分の悟りに頼る」ことになります。むしろ、「あなたの行くところ、どこにおいても主を認めよ」であり、主がどれだけ子どもたちに期待しておられるかを学びたいのです。「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」(詩篇 8:2 )ともあるではありませんか。そのようにして主に期待を寄せるものが、裏切られたりのろわれたりすることは決してないのだと信じましょう。
  ホームスクーリングにおいては、家庭を学校にかわる居場所とみなすというより、主のご意志にかなうように家庭を再構築するという目標が見えてきます。主が始められた業ですから、主が親にも教えるための豊かな賜物を与えてくださいます。「あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。」(詩篇119:98-100)とあります。親として召された者にたいして、主は子どものために豊かな賜物を用意していてくださるのです。

b 親が模範となる責任

 主は弟子たちと生活をともにされました。主は弟子たちともに飲食され、ともに賛美されました。奇跡のおこなわれる現場、そしてパリサイ人との議論の場に立ち合わせました。共同生活されながら、主の生き方全体を通じて模範を示されました。言うまでもなく、ホームスクーリングこそは、主と弟子たちが過ごされたかたちに最も近いといえるでしょう。ですから、ホームスクーリングにおいて、最初に問われるのは親です。もし、学校の煩わしさから開放されたいというだけの安易な動機からだけなのだとしたら、ホームスクーリングを気軽に始めるべきではありません。親であるあなたの生活全体が直接子どもに影響を与えるからです。親であるあなたが読書に熱心であれば、子どもも読書に抵抗がなくなります。親が読書をしないのに、子どもに「本を読みなさい」とはいえないからです。子どもは親の言葉と同時に生活態度から学びます。親の生活が言っていることと行いが違うのであれば、子どもは親が言葉で教えていることではなく、「場面によっていかに仮面を使い分けるか」を学ぶのです。親が生活のなかでいつも祈りを伴っているのであれば、子どもも祈りを学ぼうと思うでしょう。
 しかし、親が祈りを教えていても、生活のなかであまり祈らなかったり形式的だったりした場合、いえ、本当は「祈りの力」を信じていない醒めた信仰のもちぬしであるなら、子どもは間違いなくそのような信仰の態度を身に付けます。親がいつも平気で差別的発言をしているなら、差別的な発言や考え方への抵抗が子どもになくなります。他人に対して親がいつも軽蔑的な態度をとっているのに、どうして子どもに対して親や目上の人への尊敬や従順を教えることができますか。もちろん、だからといって完璧な親でなければホームスクーリングができないといおうとしているのではありません。ホームスクーラーであろうとなかろうと、クリスチャン生活はまさに、罪との闘いは日常であり、“子どもにいいところなんか見せられない”状態だからです。
  毎日、主に祈り叫び求めることなくして、ホームスクーリングをおこなえないのです。毎日。親として欠けだらけである事実をつきつけられるからです。親として模範を示せるように、徹底的に主の前に謙遜に祈り始めること、それが、ホームスクーリングの入り口だといえるでしょう。私たちには、子どもに対して模範となる“自信”がなかったからです。いえ、自信があったからホームスクーリングをはじめたのではなく、親に対する主のご命令として従ったゆえにホームスクーリングに導かれたのです。ホームスクーリングをはじめてから、それまでより夫婦でさらに熱心に祈ることが多くなりました。やがて、その祈りが他のホームスクーラーのための祈りにかわっていったとしても、まずは、一つ一つの課題を主に申し上げて、祈り求めるとき、主がそのつど解決の糸口を示してくださったのでした。

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。  私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(第一ヨハネ5:14-15)
 

∬国家による操作からの自由∬

a “自由”への責任

  あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。  しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。(ガラテヤ4:7-9)
 エジプトにいたイスラエルは、パロの奴隷でした。苦役と引き換えにして、食物が与えられていたとはいえ、まるで家畜のように生かすも殺すもパロの手に委ねられていたのだといえるでしょう。モーセは、エジプトの苦役に苦しむ民の声をきいて、偶像礼拝国家から民を解放することを望まれた神の意志に従って遣わされたのでした。ところが、エジプトから解放された民にとっては、荒れ野での生活は過酷であり、食べるものさえなかったのでした。パロから奴隷のように使役されていた時代には、食料が満ちていました。ところが自由になった矢先に、イスラエル人たちは食糧問題を含めたさまざまな問題がみえてきて、ついに『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった。』(民数記 11:18 )とまでつぶやいて、奴隷だったころの状態を望むまでになったのでした。イスラエルのこのような歴史からは学ぶべき点がいくつかあります。そのひとつは、自由とは創造主と無関係に存在するのではなく、上から与えられる賜物なのであって、「責任」もあるのだということです。エジプトでの労働は、苦役によってイスラエルを弱めるのが目的でした。そして、エジプトから供給された食糧も、イスラエルを効果的に支配するための「アメ」のような役割だったでしょう。イスラエルがエジプト国家から自由が奪われていたというとき、神を礼拝する自由が奪われていたのは当然としても、さらには「思想信条の自由(国家に対して異議申し立てする自由を含む)」「職業選択の自由」「結婚・出産の自由」「居住の自由」が完全に奪われていたとみるべきです。しかし、自由を獲得したイスラエルにとって、自由を得たとはいえ、荒れ野での生活はきわめて過酷でした。ホームスクーリングのことにおきかえてみると、異教国家の支配する学校から解放されたものの、エジプトで見た金の像を荒れ野でつくってみたり、隷属生活で食べた肉を食べたいといったように、出エジプト後のホームスクーラーが、もしかしたら偶像礼拝をしていたときの小さな隷属関係をもとめ、そこに安定の場所を求めてしまってはいないでしょうか。私は、クリスチャンと教会との関係のことを言っているのではありません。ホームスクーラーにとって、教会こそは魂の安住の地であるべきだからです。このテーマはむしろ、「ホームスクーリングの燃え尽き症候群」のなかに数えられるかもしれません。

  たとえば、学校に子どもをやっていたら、教科書をどう教えるとか親がいちいち悩まなくてもいいのです。学校に子どもを送っていたら、子どもに何か問題があれば学校のせいにしたらいいのです。家に子どもがいない時間は、母親は自分の好きなことができるのです。どうですか?子どもの教育を、他人任せにしないという立場で始められたホームスクーリングにとって、「自由の重み」がかえって煩わしいと感じ、部分的にでも誰かに任せたいとか感じていないですか?子どもに教えることや生活の時間管理について、一つ一つの意味を考えたり、調べたり、誰かに相談したり、ネットワークとの人間関係のことを気にするのがしんどいと感じていませんか。我が家もホームスクーリングでなかったら、どれだけ“楽”だったかと思うことは何度かありました。もちろん、始めた頃は、純粋だったので、そんなことは承知の上・覚悟の上だったでしょう。しかし、日本では、心のなかに隷属から生み出される安心感のうまみを残したまま、安易な動機でホームスクーリングを始める傾向が強いのかもしれませんね。奴隷だった頃には、苦役はあったものの、食料について考える必要はなかった。しかし、自由になったとき、“日ごとの糧”について主に祈り求めなければならなくなったことと同じです。自由には責任が伴います。クリスチャンとしては、「主が与える自由には、主から与えられる責任が伴う」といえるでしょう。さまざまな課題を、家族として真剣に祈り、沢山の課題が見えてきたとしても、決して奴隷状態には戻らないと決心した家族は、これから詳しく述べさせていただく「国家からの操作」について対処できる基礎が固められたのだと言っていいでしょう。
 
b 米国ホームスクーリング情報への操作

 2002年4月、埼玉県志木市は、ホームスクール(在宅教育)制度が開始され、埼玉県志木市市長は、中央教育審議会で「ホームスタディ制度、--アメリカのホームスクール制度と同じであります」(2004年5月31日 中央教育審議会教育制度分科会)と紹介しておられます。今後の日本の教育行政をにらんだ審議会に、埼玉県のケースが「アメリカのホームスクール制度」として紹介されたことになります。これまでも何度か本ホームページでも触れてきました通り、これがアメリカのホームスクール制度と同じではありません。、その理由は、(1)志木市の場合は、オルタナティブ(選択可能な)教育を前提としたものではなく、原則として学校教育以外を認めない不登校対策の一環としてのホームスクーリングであること。(2)これが民間から生まれた草の根運動を受け入れたものではなく、あくまで行政主導であること。(3)教師の定期的家庭訪問を“ホームスクーリング”と言い換えただけに過ぎないこと。家庭の教育力や親子関係が考慮されていない。まだありますが、米国との違いは、主にこの3点にあります。ですから、もし、仮に行政サイドが本気でホームスクーリングを受け入れるとされた場合は、この観点を次のように言い換えられられた場合に道が開かれるかもしれません。(1)学校に行くことは、子どもにとって権利であると同様に、学校に行かせないで在宅状態におくことも、第一の責任者である親に託された権利として、教育の選択肢として認めるものでなければならない。(2)仮に行政からの認可制度が生まれたとしても、「認可条件」は最低限のものでなければならない。親の教育力を最大限に受け入れるためである。(3)学校の教材、カリキュラム、教師の訪問などをホームスクーリングの認可条件にしない。つまり、家庭に学校教育が介入しない。アメリカのHSLDAサイトをご覧頂くと、ホームスクーリングへの行政からの介入は、スクールソシャルワーカからの監視活動などにより、今でも続いていて、事実上「終わりなき闘い」だともいえるのです。その意味では、まだ法的整備がすすんでいない日本は、ホームスクーラーにとっては最ものびのびと自由にできているのだともいえるでしょう。
  
  ホームスクーリング運動は、もともと官主導型に馴染まないのであり、はじめから民間から生まれた草の根運動の性格をもつからです。ですから、本格的な闘いは、「日本でもホームスクーリング認可」という時代がくるときです。いわゆる「志木市スタイル」のホームスクーリングを“良いホームスクーリング”そして、親が子どもに自由に(クリスチャンからすると聖書的な前提にたった教育)教えるホームスクーリングを“悪いホームスクーリング”とされるかもしれません。このような「物知り顔をした仕切り屋」があらわれるのは、なにも行政サイドに限ったことでもないでしょう。私は皮肉を言いたいのではありません。たとえば、アメリカのホームスクーリングは、90%が聖書的プロテスタントという信仰を背景した草の根運動です。ホームスクーリング情報が日本に上陸すると、聖書的な背景に覆いがかけられるなど、バイアスがかかってしまう例がみられるのです。しかし、聖書教育を志しているホームスクーリングこそが米国で最もメジャーな潮流と考えるのが正しいのです。「日本には米国と別の課題がある」は正しいでしょう。しかし、もし、日本には日本の課題がるとしても、まずは、米国で培われたオリジナリティーから多くを学びたいのです。その最も大きな理由は、行政から受ける介入にたいして日本でもホームスクーリングの自由を守るためのモデルがそこにあるからです。
〔参考〕
中央教育審議会教育制度分科会第4回地方教育行政部会会議
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo1/gijiroku/003/04062201.htm