2001年9月 スコットランド自由教会(FREE CHURCH OF SCOTLAND)大会決議

セオノミーと信仰告白

始めに
 前会議よりの継続審議。議場から、セオノミー問題の審議が要請されていた。継続審議とは、次の議題である。「大会会議は、特命委員会に次の課題を審議するよう委任する。議案となっているセオノミー神学の宗教と道徳の理解について、とりわけ信仰告白との関連に関して、議会は特務委員会を設置し、委員各位に対して神学的手段を行使して議論できる権限を与える。そして、委員会に対し詳細かつ徹底した研究に基づいた答申書として、次回大会会議まで議場に提出することを求める。」

一般的な説明
 セオノミー神学に顕著な概念のいくつかを述べるために、たとえば、頭をつきあわせて悩まなければならないとか、何時間もそのために費やさなければならないほど、難しくはない。たとえば、ほとんどのセオノミストにとっては、国家は福利厚生の責任を持たない。NationalHealthService問題解決など、なんのことはない。NHSは無用の長物なのだ。大部分のセオノミストによれば、国家は、ホモセクシャル、レイプ、姦淫、背教、偶像礼拝や、両親に手をあげて呪うような行為に対しては、死刑を適応すべきだからである。すでにセオノミーのこの教義は、タブロイド紙などでセンセーショナルな強調をもって、取り上げられてきた。「スコットランドでは、執事は“ 悪い ”子どもを石で打ち殺したいと思っている」という書き出しがある。
 しかし、我々は、もっと冷静になって、これを多様な角度から議論の遡上にのせたいと思う。
 第一に、セオノミーは、アメリカの改革主義陣営に起源をもつ。第一人者ともいえるのは、グレグ・バーンセン。彼はウエストミンスター神学校で学び、コルネリウス・バンティルとジョンマーレーを尊敬した。第二に、セオノミーは、改革主義陣営ばかりでなく、保守的なカトリックからカリスマ運動まで幅広い支持を得た。そのように受け入れられた理由は、その楽観主義にある。セオノミー、あるいは再建主義は、終末論において再臨前千年王国説であるとして知られ、つまり、キリスト再臨の前において、究極的な勝利を信じている。スコットランド長老教会は、かねてより再臨前千年王国説を確信して採用してきたので、セオノミーの観点を受け入れる下地のようなものがあったと認められるだろう。第三に、聖書へのまじめな取り組み。結局、モーセ律法は、上記に対して、死刑を要求しているのだろうか。聖書を誤りない神のことばとしてまじめに信じていない人々にとっては埒外のことだろう。しかし、私たちにとって、関心を払わないでおくわけにはいかな。旧約聖書のそのような箇所を、私たちはどのように理解すべきだろうか。セオノミストからの挑戦に対して、答えなければならない。

1 セオノミーとは何か。
(1)セオノミーとは、造語であり、ギリシャ語の「神の律法」を骨子として、オートノミー(自己律法)との対比が意識された言葉である。コルネリウス・バン・ティルが「セオノミーとオートノミー以外の選択肢はありえない」と言った言葉よりもより広い意味で使われている。究極的には二つの律法もしくは二つの方法しかないことになる。それゆえに、セオノミーは、神の律法についての特別な視点と同じものとみなすことができる。次のように表現することができるだろう。
  人類すべては、神の法に拘束されている。すべての人が神的法に拘束されるという場合、十戒に要約された道徳律法と同じく、国家としてのイスラエルに与えられた市民的刑罰的律法も含まれているのだ。
(2)複雑な概念である再建主義つまり、セオノミーは、「ドミニオン神学」とか「クリスチャン再建主義」あるいは単純に「再建主義」とかいくつかの別名で呼ばれる。さまざまな呼ばれ方をするというこの一事をもってしても、セオノミーが一枚岩の考え方ではないという事実が浮き彫りにされるだろう。一般的な視座もしくは世界観の一部ともいえる。セオノミーの視座は、いくつかの特徴として列挙できる。セオノミスト著作家であるMダンカンは次のようなリストを紹介している。(1)カルヴィニスティックな救済論(2)契約神学(3)前提主義的弁証学(4)再臨前千年王国説(5)セオノミスチックな倫理
 ジャクソン・リフォームド神学校のロジン・ダンカンは、セオノミーに批判的な立場から、3つの定義を紹介している。(1)前提主義的弁証学(2)再臨前千年王国説(3)セオノミーの倫理を含めた変革的世界観この特徴を示すリストを見た人は、その意見の多くに同意できるのではないだろうか。スコットランド長老教会は、再建主義が現れるはるか以前から、カルヴィニズム・契約神学・再臨前千年王国説を堅持してきた。ただし、セオノミーはこれに含まれていない。ちなみに、バンティルの立場とりわけ自然法を否定する立場を完全に受け入れている者は我々の中におそらくほとんどいないとはいえ、バンティルの前提主義弁証学から多くを得たという学徒は少なくない。
 セオノミストの見解に共通してみられる立場は、リゴン・ダンカンが次のように明瞭にまとめている。「もしカルビン主義が言う意味での自然法のようなものがないのだとしたら、もし究極的には2つの法(神と自己)だけがあるのだとしたら、もし神が旧約聖書の律法が“全ての文化のための社会正義のモデル ”としての事例ならば、もし神の法と平和に特色づけられた黄金の時代の後にキリストの再臨があるのだとするなら、その千年王国が旧約聖書に神が自ら啓示された法(刑事法や罰則法も含む)によって支配されるのだとすれば、もし神がすべての国に求めておられる法形態をその国にもたらすことで、千年王国建設のために努力しなければならないのだとすれば、議論は簡単である。」そのゆえに、セオノミー議論の焦点は、問題性を帯びてくるだろう。つまり、問題の焦点はイスラエルの司法的律法が、依然として拘束性をもつかどうかにある。
(3)再建主義運動の起源は、アブラハムカイパーからドイウエルト及びバンティルに受け継がれるオランダ改革主義神学陣営にある。つまり、生活のあらゆる領域で、キリストの教えが思考され、それに従って生きるべきであり、神のみまえにおいて「どっちつかず」はありえないと強調するという、きわめて健全な教えが根本にあるこということは銘記しておきたい。
  再建主義は、福音主義〜とりわけ米国福音主義の不健康な傾向への一つの対抗としてあらわれた。(1)キリスト教倫理において、旧約聖書の軽視(2)社会問題との取り組みの欠如(3)主観主義的な敬虔主義(4)無律法主義
  再建主義は、政治的経済的には、右派よりの政策を提示している。その分野で有効な役割を果してきた部分があることはあきらかだ。しかし、再建主義はこの分野において、改革主義的立場から可能な唯一のリアクションとはみなしえない。スランシス・シェーファーなど(他の改革主義者たちは)、二者択一的でさらに問題性の少ない方法を示している。セオノミストのなかで、主要な著作家は、R・J・ラッシュドゥニー(カルケドン財団)Gノース(キリスト教経済研究所)、そして、Gバンセン(南カリフォルニア・キリスト教研究所センター)がいる。
 

2 セオノミーは、信仰告白と調和しているか
(1)セオノミーは、何を教えているか。
 セオノミストは律法の統一性を教え、包括的には律法の詳細が守られなければならないとする。ただし、(おそらくは不統一に)彼らがキリストにおいて成就したと述べる祭儀律法は例外とされている。(ただしそれさえ、バンセンは、新しい形式ながら、クリスチャンは血による贖いを捧げる義務のもとにおかれていると議論している)その他のすべての律法は、司法的律法も残される。セオノミストは、伝統的な道徳律法と司法律法の区別を否定するのである。バンセンは次のように書いている。「新約聖書の著者たちは、倫理的な判断を求められる場面で、繰り返し、律法を規範的なものとしてとり扱っている。全聖書、一点一画、すべての言葉において旧約律法は新約聖書において是認されている。それゆえに、旧約聖書の社会的政治的観点が今日においても有効なのはあきらかであり、すべての時代と文化の市民行政にとっても、権威なのである。」(BY THIS STANDARD p19)

(2)信仰告白は何を教えているか
 もし、セオノミーが司法律法と道徳律法の区別を拒否することがあきらかならば、旧約聖書の司法的律法が今日でも継続していると主張されるべきである。信仰告白にも明示されるべきなのだが、しかし、そうではない。むしろ、信仰告白はセオノミーと反対の方向を指し示しているのだ。
 ウエストミンスター信仰告白は、(第19章 神の律法について)律法について3つの区別を教えている。道徳、祭儀、そして司法。道徳律法は、十戒であり、(19,2-3)すべては保持される。(19.5)祭儀律法は、「未完成の教会としてのイスラエルの民に、…多くの特別な取り決めを含み、キリストを象徴して、…新約のもとにあっては、廃止されている」(19.3)司法的律法について、信仰告白は「さらに、政治体としての彼らに、神は様々な司法的律法を与えたが、それはこの民族の国家とともに消滅し、今や、それのもつ一般的公正さが要求し得る以上のことは何も義務づけられていない」(19:4)
 セオノミストたちは、その教義が信仰告白と矛盾していないことを示そうと著作活動などでやっきになっているようだが(あるものは非常に長文である)、その仕事は無駄なことだ。
 セオノミストたちは司法的律法は、今だ有効であると言うが、信仰告白では、司法的律法が廃棄された(死んだ、無効になった)と言っているからである。セオノミストは、イスラエルから遠く離れた他の国民は司法的律法を包括的かつ詳細に至るまで適応すべきと主張するが、信仰告白は他の諸国に対しては何も義務づけてはいない。セオノミストは、包括的詳細に律法を適応するが、信仰告白はただ「一般的公正さ」のみを語るに過ぎない。これが対立点であるのは疑う余地がない。
 それにもかかわらず、信仰告白との一致点に拘るセオノミストたちは、(すべてのセオノミストそうではないが、ノースは信仰告白の改訂を求めている)旧約聖書の司法的律法が今でも一般的な要求であるという自説に基づいた改訂を求めている。これは公正な議論なのであろうか。
 公正さを論じることさえ噴飯ものだ。
 もし、信仰告白の起草者たちがセオノミーを聖書が教えていることであると信じていたとしたなら、告白文にはっきりと種々の司法律法が有効であると表したはずではなかろうか。これほど明確な告白本文に対して、改訂を加えたり明確な表現に反対する意味を読み込もうとするのは、正当と呼ばれるにはほど遠い。
それはそれとして、では告白文中の「一般的公正さ」とは何であろうか。シンクレア・ファーグソンは、指摘する。(Theonomy - A Reformed Critique, p.330)
 「一般的公正さ」の意味の起源は、ギリシャローマ世代に歴史を遡るものであり、ウエストミンスター会議の時によくつかわれた専門用語であった。正義の原則を、法制定や改訂に生かすという意味である。法をもっているという認識だけではなく、法令の形式であれ判例法形式であれ公正さと正義において処理されなければならないということである。それゆえに、信仰告白の意味は、全く明解である。律法は効力を失ったが、旧約聖書イスラエルの市民法における一般的な正義の原則は有効なのである。旧約聖書における一般的公正さの例には何があるのであろう。
 ある人が犯していない罪のために裁かれてはならないのであり、罪に対して有罪が宣言されて裁きが要求される場合は、2人または3人の証人がいることが求められるということである。

(3)1846年宣言決議第12号のインパクト “迫害の原則 ”
 1846年大会会議は、市会議員と公務員に関する問題点と原則についての宣言決議を採択した。「全教会は、国家の義務において、次のことを求める。「国家に対して、教会がもつのと同じ聖書的原則をもつことを求める。教会は、キリストにある真実の宗教および教会に関する国家からの支配に対して闘ってきたのである。我々は、国家が教会に対して不寛容になったり迫害に結びつくような法を制定することに反対する。国家が、教会の信仰告白や教会の取り決めたことを無視することに反対する。為政者が抑圧や迫害に乗り出そうとしたり、良心の自由や個人が判断する権利と矛盾した原則を公言していると公正な判断によって認められた場合、それに対しても反対する。」
 1892年の宣言決議は、この宣言が教会が信仰告白の理解について適切な機能を果たしていることを追認したものだった。1846年宣言決議に示された立場は、スコットランド長老教会が始めから受け入れられてきた立場の一部であった。
 セオノミストは、為政者が旧約律法に従って、偶像崇拝者や不信者や背教者への制裁を強化しなければならないと通常考えるゆえに、我々がスコットランド長老教会のセオノミーに対する対応もおのずと定まるであろう。バンセンは「旧約聖書の時代の為政者が、すべて神の命令として宣言する義務を負っていたように、新約の時代にある為政者も社会モーセ律法の命令のもとにあって、民事法や社会刑罰を実行するにおいても神の命令としてとり扱う義務がある」(p317)「為政者は、道徳的義務のもとにある。それゆえに、モーセ律法に反逆したものに対しては、神が犯罪者の命を求めているところに従って死刑を適応すべきである」(p470)
 バンセンの聖書と信仰告白への理解が、スコットランド長老教会が1846年に決議第12号をもって示した立場に完全に離反していることはあきらかである。バンセンは、信仰告白が、為政者は律法の“最初の板”を破った犯罪者〜つまり、無神論者、つぶやく者、異教礼拝者、分派をおこす者には死刑を与えるべきであると教えていると信じているのである。(p538,539)この考え方は、迫害や抑圧に反対している当長老教会との立場と真っ向から対立するものである。

(4)セオノミーと信仰告白は調和しているか
 セオノミーが、信仰告白を素直に読んだ内容と調和しないことはあきらかである。
ちなみに、スコットランド長老教会が信仰告白を堅持する理由は、為政者による政治力による宗教迫害を排除するという、まさにそのことのゆえなのである。言い換えれば、我々は、為政者による宗教弾圧がおこりうると考えているのである。

3 セオノミーは、聖書と調和するだろうか
 セオノミーが信仰告白と矛盾していることを論じてきたのだが、それでも聖書とは調和していると言えるだろうか。いや、信仰告白さえ誤るかもしれない。スコットランドの信仰を導いてきたジョン・ノックスが、聖書に従って我らの信条を形成した。我らもその基準に立つべきであろう。
(1)セオノミーにとっての黄金のテキストは、マタイ5:17−18である。「律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。むしろ、それらを成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決して廃れることはありません。全部が成就されます。」セオノミストは、この箇所を、すべての律法が“包括的詳細 ”として新約聖書時代にも有効であるという意味に読む。この読み方は、聖書テキストを奇異に解釈したものである。この解釈には二つの区別がある。第一には、律法の意味を、倫理的刑法的事柄として狭くとられていることである。第二に、“ 成就された ”と翻訳される言葉を、“強化と再建 ”と解釈することである。それゆえに、セオノミストは、主イエスが旧約聖書の啓示をお考えになったとき、律法の包括的詳細の強化と再建を教えておられるとする。第一の点にかかわって言うと、主イエスが包括的な意味で、“律法と預言者 ”といわれるとき、それは旧約聖書全体の啓示をお考えになっていたことは明確である。さらに重要なのは、「成就すること」を「強化すること」と翻訳する根拠が薄弱なことである。新約聖書を通じて、満るとか、成就するとか、完成するとかいう意味においては、多様な形態で使われている。動詞形では名詞を伴って107回使われている。バンセンが解釈するように“強化し、再建する”という意味で用いられているとされる箇所は皆無である。

 もし、セオノミストの解釈がテキストの正当な扱いに失敗しているとするなら、では、正しい解釈は何か。聖書解釈学の根本的な原則の一つは、聖書をもって聖書を解釈するということである。聖書の他の箇所に、主イエスが旧約聖書の成就について語っておられる箇所はないのだろうか調べてみなければならない。そのようにみるとき、福音書は聖書を成就しておられる主イエスの例で満ちているといことを発見する。一つの例はルカ24:44である。「わたしについて、モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」他の興味深い例は、ヨハネ15:25「これは『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」ここでは、律法を引用するとされながら、詩篇69:4が示されており、この例からしても主イエスは、律法を司法的律法(道徳律法についても)よりも広い意味で理解しておられたことが示されているのである。

 それにもかかわらず、主イエスは「命令」とおっしゃる時、私たちが、道徳的司法的と呼ぶ内容を含めておっしゃっているのはあきらかであり、山上の説教と呼ばれる箇所の基調においては、道徳的司法的な意味にかかわって語られている。しかし、これは、セオノミストたちにみうけられるような単純なものではない。我々は、主イエスが旧約聖書の様々な視点を成就されたとはどのような意味なのかをマタイ5:17以外のところからも尋ね求めなければならない。
 主イエスは、彼についてあらかじめ語られた旧約聖書の預言を成就された。(マタイ26:56)主イエスは、その死によって罪の真実の贖いとなられることによって、儀式律法と宮の儀式を成就された。(ヘブル9:23-10:4)彼は、完全な従順によって、彼の民のために道徳律法を成就された。(ロマ5:19)彼は、ユダヤと異邦人の壁の撤廃し、それが霊的に成就したことを見せることにより、l(マルコ7:18-19 使徒10:14-15、28)食べ物の禁止などでイスラエルを諸民族から区別しているとみられた律法を成就したのである。
 この考え方は、多くのセオノミストによって、仰々しく強調される。だが、重大な疑問が残っているだろう。主イエスはどのような意味で、旧約聖書の司法的律法を実現されたのだろうか。キリストは私たちを義と認めるため、我らを聖化するために従われたのであれば、それは道徳律法を実現されたということと同じ意味なのだろうか。同じ意味で、儀式及び食物に関しての律法を成就されたとすれば、それらはもはや効力がないのではないか。これは疑問の核心部分である。セオノミストは、司法律法は道徳律法の一部にしか過ぎないと主張するのである。信仰告白は、司法的律法は、廃棄されたと述べる。どちらが新約聖書の教えなのだろうか。どちらかが正しいのであって、「両方とも正しい」ということはありえない。

(2)新約聖書のいくつかの箇所は、マタイ5章と司法的律法を関係づける。山上の説教の主なるねらいは、倫理的であると認める一方で、強調されている点が、市民的司法的な面に及ばないように避けられている。神の国の主な関心は、市民的司法的なものではなく、律法の霊的倫理的な適応にある。しかし、主イエスは殺人、姦淫、離婚、艱難や迫害についても述べた。
 すべて、市民的な観点を持つ。それにもかかわらず、離婚に関して(マタイ5:31-32)主は律法の市民法的な適応を廃棄された証拠ともなる。(「離婚」p27)ジョン・マーレーは、主はその権威をもって、離婚についてモーセ律法がもっているコードを取り外しておられるのだと示している。「それまでになかった目新しいことがここにみえる。主から事が始まるという摂理のなかで、姦淫への死刑適応は、廃止された。ここに、主が教えられたことによる2つの立場がある。一つは、消極的他方は積極的。主は、モーセ律法にあった姦淫への罰則を廃止され、姦淫を離婚の正当な理由とされた。一方で、姦淫罪への死刑適応が廃止され、離婚がそれにかわることで、罪ない側の夫が、姦淫を犯した側に対する刑事罰則について、寛大な処置を示されているのだといえる。他方では、モーセ戒律の廃止において、我々は道徳的判断と法制化にさらなる厳格さが増し加わっていることを見いだすのである。

 この点は、山上の説教すべてにわたる主旨、及び主イエスの教えとその姿勢のすべてにおいて守られている。主は神の律法を道徳的霊的標準において、より高い位置を要求されているが、モーセ律法の罰則的な厳格さを緩和しておられるのである。この立場は、ウエストミンスター起草者たちが、第19章4節の引用としてマタイ5:17、5:38.39を引用するときの理解の仕方であったことは明かである。ゲルハルドス・ボス(Biblical Theology p387)は次のような一般原則を提示した。“神が啓示を通じて律法をお与えになったゆえに律法は効力をもって永久に残される。ただし、神聖政治において、生活おける規律制定に対して一体誰が権威を行使したのかという一つの疑問があるのであり、ここでは単に主イエスのメシアとしての権威がそれにあたるとみなされる”

 姦淫を犯した女への主の取り扱いが例証される。(ヨハネ8:1-11 テキスト本文が疑問視されるが、それにもかかわらず本質的な出来事として記録された)姦淫について無罪であるものだけが死の裁きを与えるべきであるのなら、主イエスだけがそのことが可能な方である。主が裁きを拒まれたという事実は、モーセ律法の罰則規定がもはや効力がないものと判断されたことを意味する。これは、主のその他の態度とも調和している。収税人やサマリヤの女のような罪人とご一緒に過ごされた。(ヨハネ4章)市民的な権威に引き渡されるような示唆は、少しもみられないのである。主は、姦淫の罪をおかしながら、バプテスマのヨハネの説教によって、悔い改めた者を誉めておられる。(マタイ21:31-32)(モーセ律法の縛りの下にあっては、姦淫は大罪であった)

 使徒パウロは、明白に主イエスに従った。第一コリント5章で、近親相姦の罪を犯した教会員に死刑ではなく、むしろ除名を命じている。除名を命令しながら、「悪い人をあなたがたの中から除きなさい」という表現を使っているのである。これは、“あなたがたの中から悪を除きなさい ”(申命記17:7 19:19 21:21)70人ギリシャ語約聖書からの引用である。これは、モーセ律法の文脈においては、性的な罪を含む数々の罪に対しての死刑について語るところである。この箇所は、新約聖書において、キリストの王国においては、司法的罰則が教会訓練、及び除名を伴う戒規に置き換えられていることを明示している。つけくわえるなら、もちろん、第二コリント2:5−11は、教会訓練の究極的目標が、悔い改め、赦しと復興であり、滅ぼすことではないことが示されている。セオノミストは、主イエスとパウロのこれらの態度は、当時の特別な政治的環境のなかで、厳格な態度がとれなかったことによるのだと主張しているのである。もし、神の律法への包括的かつ詳細な服従が破棄されていないなら、異教ローマの支配下で生活していたゆえに、主イエスであれパウロであれそのような義務を免除されていたのかもしれないということになる。確かにすべての民族は、どんな時でもどんな国にあっても神が命じておられることに従うように拘束されているゆえに、もしセオノミストが論ずるようにモーセ律法の市民法が含まれているというなら、主イエスもパウロもローマの行政官にそれに対する義務を要求した筈ではないだろうか。ユダヤ人が自らの判断で死刑を執行することをローマ政府が許さなかった場面があったにもかかわらず、主イエスやパウロが試練を受けた際に、ローマ側にそれをほのめかすことくらいはできたのではないか。
 主イエスもパウロも旧約聖書における司法的律法の適応を求めなかったという事実は、セオノミー神学を埋葬するために用意した棺(ひつぎ)への最後の打ち釘となるだろう。

 第一ペテロ2:13−14 この箇所では、人の立てたすべての権威に従うように命じられている。この箇所は、創世記49:10と共に信仰告白の中でも引証聖句の一つとされている。ユダの末裔にあらわれる王権として主イエスがこられるのであり、現存の政治権力は、それに従うことが要求されている。
 この解釈は、エペソ2:11-17においても認められる。キリスト初臨の前には、異邦人がイスラエルの市民権からは除外されていた。(v12)これは、特権と同時にすべての義務を伴う神聖イスラエル国家の一部ではなかったという意味ではない。異邦人を疎外していたのは“十戒と諸規定 ”ではなく、“敵意で仕切られた壁 ”だった。特に、律法がイスラエルと他民族を分けるものであったという視点がここにみられる。これは、国家としての区別が、道徳律にあったことを意味しない。すべての国民は心に律法が刻まれているのである。(ローマ2:14-15)これは、イスラエルが、市民的祭儀的律法によって支配された神聖国家であった事実を意味している。割礼、食べものの戒律、結婚のおきて、儀式律法、司法的律法のどれもが他民族をイスラエルの市民生活において排除していた。かくのごとき律法を、地上におけるキリストは廃棄された。彼はその業を十字架の死にあって実行され、ユダヤ民族と異邦人が和解したのである。“廃棄された”と訳される言葉は、“不能にする、力を除く、もしくは失効”という意味である。

 ガラテヤ5:3「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法全体をおこなう義務があります。」使徒パウロ手紙であるガラテヤ書は、聖書の中でセオノミーに対する完全な論駁書の一つである。もちろん、パウロが儀式律法についてのみ言っているのであり、我々は儀式律法を守ることによるのではなく信仰によって義と認められるという見解は、セオノミストの著作者たちによって否定される。それにもかかわらず、ガラテヤ3:10について述べるとき、コンテキストにおいては、律法全体つまりシナイで与えられた律法全体を意味しているのは明かである。“律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみなのろわれる ”そして、ガラテヤ4:24“このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイから出ており、奴隷となる子を産みます、その名はハガルです。”割礼は、イスラエルにとって神の契約を守らなければならないという入会のための印であり、この契約には明らかに司法的律法が含まれていた。(出エジプト21&22章)割礼がもはや必要がないという事実は、シナイ契約履行義務がないということである。キリストは、我らのためののろいを受けられることによって、律法ののろいから我々を贖われたのだ。(ガラテヤ3:1)興味深いことに、“律法の書 ”(ガラテヤ3:10)という表現は、申命記においては、申命記それ自体をさして用いられているのであり、当然のことながら儀式律法と同じく市民規定も含まれるのである。これが、割礼規定を義務づけた“すべての律法 ”なのであり、キリスト者はそれらのものから自由なのである。
(3)問題点は新約聖書の用語の原則からばかりでなく、旧約聖書のみかたにおいてもセオノミーには問題点がみられる。クリストファー・ライトはこの立場が、旧約聖書に対しても公正さを示しているとはいえないと述べている。彼は「主のみ跡を歩いて」や「旧約聖書の倫理的権威」などの書において、セオノミーの有力な点をいくつか認めつつも、4つの点で強い批判を投げかけている。第一に、セオノミストは、とりわけ古代社会における律法の機能について誤解している。第二に、イスラエルの法制度における最高刑の存在と、制度そのものに反映ている価値体系の重要さの認識を正しくとらえそこなっているのではないかということ。第三に、旧約聖書全体におけるモーセ5書律法の位置を誇張している。第四に、セオノミストにとって、近代の為政者が市民法において旧約律法に従うべきところと従うべきでないところを述べるところは奇妙で恣意的である。

 C・ライトの言う、第四の論点は、少し説明しておきたい。バンセンは、市場経済の支配は、為政者による権威の外におかれるべきだと論じている。だが、ライトは「判断基準とされるモーセ5書は、市場経済に深く関わりをもち、市場システム全体が、たとえば、土地を配分することに関連して、労働者への賃金、貸借関係、貧しい者への分配など、正義を守ったり確立したりするために方向付けるのだ。これに関連して、イスラエルの市民法においては、土地売買が禁止された。(レビ記25:23)それは個人のものではなく、神のものとされたのだ。イスラエルは借地人に過ぎなかった。にもかかわらず、私有財産論は、セオノミスティクな経済学の要(かなめ)の一つなのである。このことは、セオノミーが自由主義経済における保守主義をその政治的バイアスとして持つということを意味している。もし、そうであるとするなら、罪と罰が要求するセオノミーの見解が、厳密な聖書釈義と神学との調和というより、むしろ同一の政治的バイアスをねらっていると信じるに足る根拠とならないだろうか。

(4)セオノミスト著作家の福音と律法への態度が、プロテスタント正統主義に従って、律法の行いによらず、神の恩恵にある信仰による救いを強調することに腐心しているように伺われるとはいえ、この学徒の立場は、バランスを欠いた律法への強調点をもつゆえに、恵みの福音の確かさを損なう傾向をもつ。彼らはキリストの初臨がもたらされた根本的な変革がどれほどの重大事だったかを受け止めるのに失敗している。セオノミストは、新約聖書が律法と恩恵の間においている対比を過小評価しているのである。
 ヨハネ1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」ローマ6:14「罪はあなたがたを支配することはないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」ローマ7:6「しかし、今私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって、仕えているのです。」ローマ13:10「愛は隣人に害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」第二コリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える資格を下さいました、文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」ガラテヤ3:25「しかし、信仰があらわれた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
 セオノミーには、すべての試金石に、キリストの愛の福音ではなく旧約律法を据えるという「新しい律法主義」に誘う大きな危険性がみられる。

4 我々はセオノミーにどのように応答すべきか
 セオノミーが信仰告白にも相いれず、信仰告白が根拠としている聖書教理にも相いれないというすでに述べてきた。それでは、スコットランド長老教会として、セオノミーにどのように答えるべきだろうか。セオノミー運動が、リフォームド陣営のみならず、カリスマ運動にも影響を及ぼしはじめ、その勢力が大きくなる気配をみせているということは、重大な事である。いろいろな意味で、我らの改革神学や、スコットランンド長老教会の伝統である再臨前千年王国説や、我々の前提主義的な弁証学への傾向は、昨今のセオノミー趨勢に対して、一役(ひとやく)かってきた。かくして、教会内の各方面に、すでにセオノミーに共感する傾向があり、もしもしこの見解を黙認するようなことでもあるなら、委員会報告書からしても、今後悲惨な影響がおこりうるし、その兆候をすでにみせはじめている。もちろん、もし、セオノミーが聖書と調和し、福音の本質的な部分と調和するなら、委員会報告書の問題提起は、二次的重要さをもつことになるだろう。そうであれば、かつて十字架への離反に対して立ち向かったあの宗教裁判の真似事(まねごと)のようなものを用意すべき事例ではない。我々は、無駄な裁定を下す必要もない。しかしながら、近年我々は、長老教会の名誉が傷つけられる数々の試練の時を過ごすのを余儀なくされてきた。今般の長期にわたるセオノミー神学と論争によって、我々は信仰の生命線が絶たれ、そして生き残れないかもしれない。
 それゆえに、我々はあらゆる点で断固たる立場を要請したい。
 大会会議は、一般的にセオノミーもしくは、再建主義と呼ばれている教義は、信仰告白と矛盾しており、聖書教理とも相いれないと宣言する。大会会議は、この決議を地域諸教会に知らせつつ、大会会議の議決がねらうところが徹底されることを願う。この目的のために、委員会は報告書を添付した議定書を、関係する救済委員会と、すべての中会会議及び、キルク会議に推薦するものである。

 聖書資料の詳細な研究を伴う、旧約聖書律法に対しての別のアプローチが、これまで述べてきた議論において欠けていることは明かである。メレディス・クラインや、クリストファー・ライトなどは、すでにそのようなアプローチから専門的研究に取り組んでいる。そのような動きに助けられて、次回大会会議においては、さらに積極的な観点からセオノミーについての報告が可能かもしれない。
(訳 吉井春人)