※最近このテーマについて問い合わせが多かったので、あらためて、トップに掲載します。
 

アージック活動のなかで
スパンク(体罰による懲らしめ)をどのように説明するか


 私は親が子どもにあたえるスパンクに賛成していますが、すでに別ページでも書かせていただいたように、条件なしで受け入れているわけではありません。

 《スパンクをやめるとき》
 第一に、スパンクは、限られた幼年期に、祈りながら慎重におこなわれるべきです。しかし、たとえば10代の後半を過ぎて心身とも大人になっているのに、無条件に懲らしめとしてのスパンクが許容されるべきではないと考えます。
 第二に、もし幼年期だとしても、子どもに自分をわきまえる力が育っているときには、親が「子どもを怒らせてはならない」という戒めを自覚してスパンクを控えるべきです。ですから、子どもが親にたいして反抗的というだけで、無条件に手をあげる態度には賛成できません。
 第三に、親の考え方に虐待を肯定するような非聖書的な教育観が入っている場合には、スパンクはかえって子どもの健全な成長を妨げます。子どもが幼児期のまま成長できない状態に閉じ込められてしまうかもしれません。

《造り主との関係が育つために》
  詩篇23編は、世界中のクリスチャンに愛されている個所でしょう。
 詩篇のなかダビデが描いた羊の姿は、とてもひ弱です。羊はどこからどこまでが安全なのか、どこからが谷底に落ちるか狼の餌食になるかなどの危険と安全の境界線が分かりません。そんなとき、羊飼いは、羊たちを確実に安全な場所に導くために「鞭」を用います。羊を危険から守るためです。羊にとって、羊飼いの使う鞭は羊にとって痛いものでありますが、それによって自分の安全が確実に守られるのです。

 羊飼いの使う鞭は、親が子どもに対してしめす懲らしめとしてのスパンクは、あくまで「子どもの理解力が自分と周囲について未発達なので、それを補って、子どもにとって安全な場所を確保する」ということにあるというのだという考え方を示す一つのヒントにはなるでしょう。 
 羊と違って、子どもは、親の判断にいつまでも依存して行動するのではなく、自分でどこが安全かどこが危険かを判断し、理解するように訓練される必要があります。それが成長することだからです。
 ですから、たとえば羊ならば羊飼いの命令へのひたすらな従順が植え付けられたらそれでいいのであり、羊飼いの指示に従えたらそれで十分でしょう。ところが、人の場合はそうではいけないのです。いつまでも親の指示に待っていてはいけません。クリスチャンの子どもたちの場合は、ただ親の命令に従った体裁をとっていればいいのではなく、造り主なる神との個人的人格的な関係が確立していかなければなりません。ところが、子どもへの体罰が恒常化してしまうと、子どもたちは「造り主との人格的関係ができる」ことが疎外され、親の命令に従うための訓練と信仰の従順のあいだに区別がつかなくなるのです。 
 たとえば、あるとき、親は子どもの「従順さ」を確信します。ところが子どもは主との個人的人格的関係が形成されていかないままにおかれているのに、形だけ親に従順さを示して、神への敬虔な態度さえ演技してしまうのです。これではまぎれもない偽善を生み出します。親は子どもの巧みな演技を見抜くことができないまま、子どもがあるとき成人し、自分で経済力を身に付けた時点で、きっぱりと親との偽善的な関係を清算してしまうのです。当然、信仰などはじめから育っていなかったという恐怖劇を招くでしょう。 
 スパンクが肯定されるのは、親への絶対従順を一方的に植え付けるためではなく、子どもの安全を確保するためばかりでもなく、子どもが自分で考えて判断し、責任をもって行動できるような人格形成にあるのだということがお分かりいただけるでしょうか。
 もし、この目標を見失うのであれば、スパンクはむしろ有害です。

《祝福に到るための道標としての十戒》
  主は私たちにモーセを通じて十戒をお与えくださいました。それは、「〜してはならない」という禁止事項で構成されています。主はイスラエルから考える自由を奪ったり、たとえば「姦淫してはならない」という戒めによって、男女の性的な関係を禁止し、一種の独身制を確立したいと望んでおられたのではなく、むしろ羊飼いが羊のために「この境界線を越えてはいけない」と考えて配慮するように、性的な関係の自由区は、ただ結婚関係に限られるのであり、その境界線を越えなければ、(もちろんそれ自体が偶像になる危険もあわせもつのですが)自由なのだと示されたのです。いえ、結婚関係以外のセックスについては、主イエス様は「情欲をいだいて女を見るものは、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と外面にあらわれてこないで見過ごしにされる内面においてさえ姦淫であるとみなされました。それは、禁止のための禁止ではなく、結婚と夫婦を尊ばれ、出産によって、聖い子孫で地が満たされるためでした。さらには、「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。」(ヘブル13:4)とも語られています。
  米国では、1990年代プロテスタント陣営において、ホームスクーラーを中心にモーセ律法を再評価しようとする運動がみられ、律法を祝福の手段とみるのはよかったとしても、それが聖書が示す福音の光に蔭りを与える傾向を生み出してはいないかとの懸念を招きました。私たちの日本でも、スパンクや懲らしめの名のもとに新種の律法主義が一人歩きして、ホームスクーラーを汚染しないように願います。 
 「子どもがいつも体罰におびえていて、親への反抗心を隠すようにしている」「自分で考えて判断する力が育たない」「奴隷か、もしくは家畜が飼育されるように扱われる」「搾取の道具にするために、自律した市民生活ができないほど未成熟なままにおかれる」などは決して見過ごしにしてはならないあきらかな罪です。

 《福音の与える自由のなかで》
 ご承知のように、戦時中の学校では、体罰が日常茶飯事におこなわれていました。その目的は軍事国家設立にあったのであり、教師の場合は、親の場合とは別に、絶対従順それ自体が目的にされます。子どもはおろか国民全体に「人権」はありませんでした。やや極論にきこえるかもしれないですが、受刑者の収容施設である刑務所も、人権が制限されていますので、同じような環境におかれていることになります。もちろん、ホームスクーリングのなかでも、スパンクや懲らしめの名のもとに再現されるようなことがあってはならないのです。無力な子どもへの虐待を主にある健全なスパンクと混同してはなりません。その上で、聖書に書かれている「子どもを怒らせてはいけない」という戒めを謙遜に受けとめ、子どもが福音の与える自由のなかをのびのびと成長するように、親はスパンクをやめる時を知る賢さを持ちたいのです。 (完)