日野バイブルチャーチ礼拝説教
第293号
2007年 3月25日(第4主日)ことばの重さ
ヤコブ書3章1ー12節
ヤコブは、口先だけの信仰がむなしいことを語りました。そして、「ことば」について言及します。つまり、「言うことはいかげんでも、行っていることが良かったらいい」とか、結果がよければ何を言おうと、どんな手段をとうろうとどうでもいいという傾向にたいして歯止めをかけているといえるでしょう。
指導的な立場にあればあるほど、ことばの重みが増し加わります。組織の中では、総理や社長の一言で、全体が変わります。でも、肝腎なことは、主が注目しておられるということです。「教師が受ける厳しいさばき」があるとは、主がそれだけ私たちの語ることに心を傾けてくださっているということなのです。
舌は「からだを制御し」あるいは「からだ全体を汚し」とあります。つまり、私たちの語ることばと、自分の健康や美容の関係に密接な関係があるのです。体の健康を願う人は、健康グッズとかを追いかけるのではなく、どうやって、主を喜ばせることばと賛美を語るのかを追い求めるべきです。
私たちの存在全体も含めて、ことばとその言葉をつかさどる器官も、もともと主を誉めたたえるために賜物として与えられているのです。ことばによって、主の恵みの業がさらに解放されるかもしれません。反対に、ことばの管理を怠ると、自分の体をのろいに閉じ込め、他人も汚すかもしれないのです。
主が私たちの賛美を喜ばれます。差別発言になることばに敏感になり、同じ意味なら、聞いた人が不快にならない言葉を選ぶようにしましょう。人をおとしめるうわさ話を主は喜ばれません。むしろ、人の長所をほめる言葉を喜ばれます。不正確な情報で発言してはなりません。語ったひとことが、時には悔い改めが必要な罪を生み出し、ときには自分と多くの人に祝福を与える賜物ともなるのだと知っておきたいものです。
第294号
2007年 4月1日(第1主日)
午前10時30分〜
メッセージアウトライン ヤコブ3章13−18節
主にある実を結ぶために
ヤコブが言いたかったのは、信仰に比べておこないが大切だということではなく、もともと信仰とはバーチャルな現実ではなく、生活や生き方全体なのだということでした。
「柔和な行いをして示させなさい」と語ります。知恵者と自認するなら、それを生き方で示しなさいというのです。決して言葉を軽視してはなりません。しかし、「宣教は、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われ」(1コリ2:4)「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(1コリ 4:20)ともいわれているのです。主の教えと“言行一致”という儒教の知恵との違いは、これが人を動かすための説得力としてではなく、神の主権とその力、そして模範として受け入れるところから来ているからです。
頭で理解できていても、生活が福音とは別の原理(たとえば敵対心や競争心など)で支配されているならダブルスタンダードに従っていることになります。適材適所の知恵を使い分けるているのではなく、聖書によれば、真理に逆らった偽善者とみなされるのです。ですから、見えない動機とは、とても大切です。もし、ねたみや敵対心を動機としているなら、主にある良い実を結ぶことはできません。復讐心や誰への敵対からはなれて、ただ主を喜ばせるためであれば、キリストの柔和さ温順さを賜物として授けられるでしょう。
ですから、復讐心・敵対心をもって正義と平和が実現するかのように誤解してはなりません。主が私たちにどうされたかを学び、主を見上げてください。ヤコブが示した徳目は、いずれも、主が私たちにすでに示してくださったことです。主に倣って、隣人たちに接しているでしょうか。真心から主に倣うなら、主は御霊の実を結ばせてくださいます。
第296号
2007年 4月22日(第4主日)
【メッセージアウトライン】ヤコブ4:6-12
主は私たちを無制限に恵もうとして、待ち構えておられるのです。ただし、私たちの側に恵みに反するものが存在している場合には、私たちの側からすると恵みが制限されているようにみえます。たとえば、高慢です。自分を神の高見において、他人を見下す態度です。恵みのパイプのなかに傲慢というゴミが詰まっていて、流れが制限されているよなものです。見た目の謙遜さではなく、心のなかで「神への従順」を確立するのです。そのとき、悪魔の支配から開放されるのです。サタンを軽んじてはいけませんが、恐れてはなりません。キリストの名が掲げられるところに、サタンの居場所はないのです。
「神に近づきなさい。」とあります。クリスチャンはいつも主とともにあるはずですが、ヤコブによると、ダブルスタンダードを使い分けるとき、それが恵みを制限してしまうのだというのです。教会で教えをきいていても、その教えに従ってこの世を生きていなければ、周りにクリスチャンがいなくなるとこの世の基準にあわせているのであれば、それが「ふたごころ」と呼ばれることになります。
できるだけ摩擦の少ない楽な道を行っているのではありませんか。カメレオンのように、周りにあわせて作り出された平和や幸福に浸りきっていると、主のみ前に豊かであるべき恵みをこなくしてしまうのです。「見せ掛けの平和や平穏」におかれていたのであれば、必要なのは、苦しみ、悲しみ、号泣、憂いです。(アモス5:21)主は無制限に私たちを恵もうとしておられるのですから、それを妨げる傲慢や、いっさいの悪から解放されるとき、たとえ痛みは伴ったとしても、「主が近づいてくださいます」「主があなたがたがを高くしてくださいます」のだと信じましょう。(第一ペテロ5:5-6)